小说下载尽在http://www.bookben.cn - 手机访问 m.bookben.cn---书本网【冷泉泓薇】整理 附:【本作品来自互联网,本人不做任何负责】内容版权归作者所有! 平家物語卷第一 祇園精舎 祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。娑羅雙樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の周伊、唐の禄山、是等は皆舊主先皇の政にもしたがはず、樂みをきはめ、諫をおもひいれず、天下のみだれむ事をさとらずして、民間の愁る所をしらざりしかば、久からずして亡じし者ども也。近く本朝をうかがふに、承平の將門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、此等はおごれる心もたけき事も皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは六波羅の入道、前太政大臣平朝臣清盛公と申し人のありさま、傳へうけたまはるこそ心も詞も及ばれね。 其先祖を尋ぬれば、桓武天皇第五の皇子、一品式部卿葛原親王九代の後胤讃岐守正盛が孫、刑部卿忠盛朝臣の嫡男なり。彼親王の御子、高親王無官無位にして、うせ給ひぬ。其御子高望の王の時始めて平の姓を給て、上總介になり給しより、忽に王氏を出て人臣につらなる。其子鎭守府將軍義茂後には國香とあらたむ。國香より正盛に至る迄、六代は諸國の受領たりし かども、殿上の仙籍をばいまだゆるされず。 -------------------------------------------------------------------------------- 殿上闇討 しかるを忠盛備前守たりし時、鳥羽院の御願得長壽院を造進して三十三間の御堂をたて、一千一體の御佛をすゑ奉る。供養は天承元年三月十三日なり。勸賞には闕國を給ふべき由仰下されける。境節但馬國のあきたりけるを給にけり。上皇御感のあまりに内の昇殿をゆるさる。忠盛三十六にて始て昇殿す。雲の上人是を嫉み、同き年の十一月廿三日、五節豐明の節會の夜、忠盛を闇討にせむとぞ擬せられける。忠盛是を傳へ聞て、「われ右筆の身にあらず、武勇の家に生れて、今不慮の恥にあはむ事、家の爲、身の爲、こゝろうかるべし。せむずるところ、身を全して君に仕といふ本文あり。」とて、兼て用意をいたす。參内のはじめより大なる鞘卷を用意して束帶のしたにしどけなげにさし、火のほのくらき方にむかて、やはら、此刀をぬき出し、鬢にひきあてられけるが、氷などの樣にぞみえける。諸人目をすましけり。其上忠盛の郎等もとは一門たりし木工助平貞光が孫しんの三郎太夫家房が子、左兵衞尉家貞といふ者ありけり。薄青の狩衣の下に萠黄威の腹卷をき、弦袋つけたる太刀脇はさんで、殿上の小庭に畏てぞ候ける。貫首以下あやしみをなし、「うつぼ柱よりうち、鈴の綱のへんに布衣の者の候ふはなにものぞ。狼藉なり。罷出よ。」と、六位をもていはせければ、家貞申けるは「相傳の主、備前守殿今夜闇討にせられ給べき由承候あひだ、其ならむ樣を見むと て、かくて候。えこそ罷出まじけれ。」とて畏て候ければ、是等をよしなしとやおもはれけん、其夜の闇討なかりけり。 忠盛御前のめしにまはれければ、人々拍子をかへて「伊勢平氏はすがめなりけり。」とぞはやされける。此人々はかけまくもかたじけなく柏原天皇の御末とは申ながら、中比は都の住居もうと/\しく、地下にのみ振舞なて伊勢國に住國ふかかりしかば、其國の器に事よせて、伊勢平氏とぞ申ける。其うへ忠盛目のすがまれたりければ、加樣にはやされけり。いかにすべき樣もなくして、御遊もいまだをはらざるに、竊に罷出らるとて、よこたへさされたりける刀をば紫宸殿の御後にして、かたへの殿上人のみられける所にて、主殿司をめしてあづけ置てぞ出られける。家貞待うけたてまつて、「さていかゞ候つる。」と申ければ、かくともいはまほしう思はれけれども、いひつるものならば、殿上までもやがてきりのぼらんずる者にてある間、「別の事もなし。」とぞ答られける。 五節には、「白薄樣、こぜむじの紙、卷上の筆、鞆繪ゑがいたる筆の軸」なんどさま%\面白き事をのみこそうたひまはるるに、中比太宰權帥季仲卿といふ人ありけり。あまりに色のくろかりければ、見る人黒帥とぞ申ける。其人いまだ藏人頭なりし時、五節にまはれければ、それも拍子をかへて、「あなくろ/\、くろき頭かな。いかなる人のうるしぬりけむ。」とぞはやされける。又花山院前太政大臣忠雅公、いまだ十歳と申し時、父中納言忠宗卿におくれたてまつて孤にておはしけるを、故中御門藤中納言家成卿いまだ播磨守たりし時、 聟に執て、聲花にもてなされければ、それも五節に「播磨米はとくさか、むくの葉か、人のきらをみがくは。」とぞはやされける。上古には加樣にありしかども事いでこず。末代いかゞあらんずらむ、おぼつかなしとぞ人申ける。 案のごとく五節はてにしかば、殿上人一同に申されけるは、「夫雄劍を帶して公宴に列し、兵仗を給て、宮中を出入するはみな格式の禮をまもる綸命よしある先規なり。しかるを忠盛朝臣或は相傳の郎從と號して布衣の兵を殿上の小庭にめしおき、或は腰の刀を横へさいて節繪の座につらなる。兩條希代いまだきかざる狼藉なり。事既に重疊せり。罪科尤ものがれがたし。早く御札をけづて闕官停任せらるべき由」おの/\訴へ申されければ、上皇大に驚きおぼしめし、忠盛をめして御尋あり。陳じ申けるは、「まづ郎從小庭に祗候の由、全く覺悟つかまつらず。但し、近日人々あひたくまるゝ旨子細ある歟の間、年來の家人、事をつたへきくかによて其恥をたすけむが爲に、忠盛にしられずして竊に參候の條力及ざる次第なり。若し猶其咎あるべくば、彼身をめし進ずべき歟。次に刀の事、主殿司に預け置をはぬ。是をめし出され刀の實否について咎の左右あるべき歟。」と申。しかるべしとて、其刀をめし出して叡覽あれば、上は鞘卷のくろくぬりたりけるが、中は木刀に銀薄をぞおしたりける。「當座の恥辱をのがれん爲に刀を帶する由あらはすといへども、後日の訴訟を存知して、木刀を帶しける用意のほどこそ神妙なれ。弓箭に携らむ者のはかりごとは尤かうこそあらまほしけれ。兼ては又郎從小庭に祗候の條且は武士の郎等のならひなり。忠盛が咎にあらず。」とて却て叡 感にあづかしうへは敢て罪科の沙汰もなかりけり。 -------------------------------------------------------------------------------- 鱸 其子どもは諸衞の佐になり、昇殿せしに殿上のまじはりを人きらふに及ばず。 其比、忠盛、備前國より都へのぼりたりけるに、鳥羽院「明石浦はいかに。」と御尋ありければ、 あり明の月もあかしのうら風に、浪ばかりこそよると見えしか。 と申たりければ、御感ありけり。この歌は金葉集にぞ入られける。 忠盛又仙洞に最愛の女房をもてかよはれけるが、ある時、其女房のつぼねに、つまに月出したる扇をわすれて出られたりければ、かたへの女房たち「是はいづくよりの月影ぞや。出どころおぼつかなし。」などわらひあはれければ、彼女房、 雲井よりたゞもりきたる月なれば、おぼろげにてはいはじとぞ思ふ。 とよみたりければ、いとゞあさからずぞおもはれける。薩摩守忠度の母、是なり。にるを友とかやの風情に忠盛もすいたりければ、かの女房も優なりけり。かくて忠盛刑部卿になて、仁平三年正月十五日歳五十八にてうせにき。清盛嫡男たるによてその迹をつぐ。 保元々年七月に宇治の左府代をみだり給し時、安藝守とて御方にて勳功ありしかば、播磨守にうつて同三年太宰大貳になる。次に平治元年十二月、信頼卿が謀反の時、御方にて賊徒を うちたひらげ、勳功一にあらず、恩賞是おもかるべしとて、次の年正三位に敍せられ、うちつゞき、宰相、衞府督、檢非違使別當、中納言、大納言に歴あがて、剰へ丞相の位にいたり、左右を歴ずして内大臣より太政大臣從一位にあがる。大將にあらね共、兵仗をたまはて隨身をめし具す。牛車輦車の宣旨を蒙て、のりながら宮中を出入す。偏に執政の臣のごとし。「太政大臣は一人に師範として四海に儀刑せり。國を治め、道を論じ、陰陽をやはらげをさむ。其人にあらずば即ち闕けよ。」といへり。されば則闕の官とも名付たり。其人ならではけがすべき官ならねども、一天四海を掌の内ににぎられしうへは子細に及ばず。 平家かやうに繁昌せられけるも熊野權現の御利生とぞきこえし。其故は、古へ清盛公、いまだ安藝守たりし時、伊勢の海より船にて熊野へまゐられけるに、大きなる鱸の船にをどり入たりけるを、先達申けるは、「是は權現の御利生なり。いそぎまゐるべし。」と申ければ、清盛のたまひけるは、「昔、周の武王の船にこそ白魚は躍入たりけるなれ。是吉事なり。」とて、さばかり十戒をたもちて、精進潔齋の道なれども、調味して家の子、侍ともにくはせられけり。其故にや吉事のみうちつゞいて太政大臣まできはめ給へり。子孫の官途も龍の雲に上るよりは猶すみやかなり。九代の先蹤をこえ給ふこそ目出けれ。 -------------------------------------------------------------------------------- 禿髮 角て清盛公、仁安三年十一月十一日歳五十一にて病にをかされ、存命の爲に忽に出家入道す。 法名は淨海とこそなのられけれ。其しるしにや、宿病たちどころにいえて、天命を全す。人のしたがひつく事吹風の草木をなびかすがごとし。世のあまねく仰げる事ふる雨の國土をうるほすに同じ。 六波羅殿の御一家の君達といひてしかば、花族も英雄も面をむかへ肩をならぶる人なし。されば入道相國のこしうと、平大納言時忠卿ののたまひけるは「此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし。」とぞのたまひける。かゝりしかば、いかなる人も相構へて其ゆかりにむすぼほれんとぞしける。衣文のかきやう烏帽子のため樣よりはじめて何事も六波羅樣といひてければ、一天四海の人皆是をまなぶ。 又いかなる賢王聖主の御政も攝政關白の御成敗も世にあまされたるいたづら者などの、人のきかぬ處にてなにとなうそしり傾け申事は常の習なれども、此禪門世ざかりの程は聊いるかせにも申者なし。其故は入道相國のはかりごとに十四五六の童部を三百人そろへて、髮をかぶろにきりまはし、あかき直垂をきせて、めしつかはれけるが、京中にみち/\て、往反しけり。自ら平家の事あしざまに申者あれば、一人きゝ出さぬほどこそありけれ、餘黨に觸廻して、其家に亂入し資材雜具を追捕し、其奴を搦とて、六波羅へゐてまゐる。されば目に見、心に知るといへども、詞にあらはれて申者なし。六波羅殿の禿と云ひてしかば、道をすぐる馬車もよぎてぞ、通りける。禁門を出入すといへども姓名を尋らるゝに及ばず、京師の長吏これが為に目を側むとみえたり。 -------------------------------------------------------------------------------- 吾身榮花 吾身の榮花を極るのみならず、一門共に繁昌して、嫡子重盛、内大臣の左大將、次男宗盛、中納言の右大將、三男知盛、三位中將、嫡孫維盛、四位少將、すべて一門の公卿十六人、殿上人三十餘人、諸國の受領、衞府、諸司、都合六十餘人なり。世にはまた人なくぞ見えられける。 昔奈良の御門の御時、神龜五年、朝家に中衞の大將をはじめおかれ、大同四年に中衞を近衞と改られしよりこのかた、兄弟左右に相並事僅に三四箇度なり。文徳天皇の御時は左に良房右大臣左大將、右に良相、大納言の右大將、是は閑院の左大臣冬嗣の御子なり。朱雀院の御宇には左に實頼、小野宮殿、右に師輔、九條殿、貞信公の御子なり。御冷泉院の御時は、左に教通、大二條殿、右に頼宗、堀河殿、御堂の關白の御子なり。二條院の御宇には左に基房、松殿、右に兼實、月輪殿、法性寺殿の御子なり。是皆攝 祿の臣の御子息、凡人にとりては其例なし。殿上の交をだにきらはれし人の子孫にて禁色雜袍をゆり、綾羅錦繍を身にまとひ、大臣大將になて、兄弟、左右に相並事、末代とはいひながら不思議なりし事どもなり。 其外御娘八人おはしき。皆とり/\に幸給へり。一人は櫻町の中納言重教卿の北の方にておはすべかりしが、八歳の時約束ばかりにて平治の亂以後ひきちがへられ、花山院の左大臣殿の御臺盤所にならせ給て君達あまたましましけり。 抑この重教卿を櫻町の中納言と申ける事はすぐれて心數奇給へる人にて、つねは吉野山をこひ、町に櫻をうゑならべ、其内に屋を立て、すみたまひしかば、來る年の春ごとに、みる人櫻町とぞ申ける。櫻はさいて七箇日にちるを、名殘を惜み天照御神に祈申されければ、三七日迄名殘ありけり。君も賢王にてましませば神も神徳を輝かし、花も心ありければ、二十日の齡をたもちけり。 一人は后にたゝせ給ふ。王子御誕生ありて皇太子に立ち、位につかせ給しかば、院號かうぶらせ給ひて、建禮門院とぞ申ける。入道相國の御娘なるうへ、天下の國母にてましましければとかう申におよばず。一人は六條の攝政殿の北政所にならせ給ふ。高倉院御在位の時御母代とて准三后の宣旨をかうぶり、白河殿とておもき人にてましましけり。一人は普賢寺殿の北の政所にならせ給ふ。一人は冷泉大納言隆房卿の北方。一人は七條修理大夫信隆卿に相具し給へり。又安藝國嚴島の内侍が腹に一人おはせしは、後白河の法皇へまゐらせたまひて女御のやうにてぞましましける。其外九條院の雜仕常葉が腹に一人。これは花山院殿に上臈女房にて廊の御方とぞ申ける。 日本秋津島は纔に六十六箇國、平家知行の國三十餘箇國、既に半國にこえたり。其外莊園田畠いくらといふ數をしらず。綺羅充滿して、堂上花の如し。軒騎群集して門前市をなす。楊州の金、荊州の珠、呉郡の綾、蜀江の錦、七珍萬寶一として闕たる事なし。歌堂舞閣の基、魚龍爵馬の翫物、恐らくは帝闕も仙洞も是にはすぎじとぞ見えし。 -------------------------------------------------------------------------------- 祇王 入道相國、一天四海をたなごゝろのうちににぎりたまひし間、世のそしりをもはばからず、人の嘲りをもかへり見ず、不思議の事をのみし給へり。たとへば其比都に聞えたる白拍子の上手、祇王祇女とて兄弟あり、とぢといふ白拍子が娘なり。姉の祇王を入道相國最愛せられければ、是によて妹の祇女をも世の人もてなす事なのめならず。母とぢにもよき屋つくてとらせ、毎月百石百貫をおくられければ、家内富貴してたのしい事なのめならず。 抑我朝に白拍子のはじまりける事は、昔鳥羽院の御宇に島の千歳和歌の前とてこれら二人がまひいだしたりけるなり。始めは水干に立烏帽子、白鞘卷をさいて、舞ひければ、男舞とぞ申ける。然るを中比より烏帽子、刀をのけられ、水干ばかりをもちゐたり、さてこそ白拍子とは名付けれ。 京中の白拍子ども祇王が幸の目出度きやうをきいてうらやむ者もあり、そねむ者もありけり。羨む者共は「あなめでたの祇王御前が幸や。おなじあそび女とならば、誰もみなあの樣でこそありたけれ。いかさま是は祇といふ文字を名についてかくはめでたきやらん。いざ我等もついて見む。」とて或は祇一と付き、祇二と付き、或は祗福祗徳などいふ者も有けり。そねむ者どもは「なん條名により、文字にはよるべき。幸はたゞ前世の生れつきにてこそあんなれ。」とてつかぬ者もおほかりけり。 かくて三年と申に又都にきこえたる白拍子の上手一人出來たり。加賀國のものなり。名をば佛とぞ申ける。年十六とぞきこえし。「昔よりおほくの白拍子ありしかども、かかる舞は、いまだ見ず。」とて京中の上下もてなす事なのめならず。佛御前申けるは「我天下に聞えたれども、當時さしもめでたうさかえさせ給ふ平家太政の入道殿へめされぬ事こそ本意なけれ。あそびもののならひ、なにかはくるしかるべき。推參して見む。」とて、ある時西八條へぞまゐりたる。人まゐて「當時都にきこえ候佛御前こそまゐて候へ。」と申しければ、入道「なんでうさやうのあそびものは人の召に隨てこそ參れ。左右なう推參する樣やある。祇王があらん處へは神ともいへ、佛ともいへ、かなふまじきぞ。とう/\罷出よ。」とぞの給ひける。佛御前はすげなういはれたてまつて、已にいでんとしけるを、祇王、入道殿に申けるは「あそび者の推參は常の習でこそ候へ。其上、年もいまだをさなう候ふなるが、たま/\思たてまゐりて候を、すげなう仰られてかへさせ給はん事こそ不便なれ。いかばかりはづかしうかたはらいたくも候ふらむ。わがたてし道なれば、人の上ともおぼえず。たとひ舞を御覽じ、歌をきこしめさずとも、御對面ばかりさぶらうてかへさせ給ひたらば、ありがたき御情でこそ候はんずれ。たゞ理をまげて、めしかへして御對面さぶらへ。」と申ければ、入道、「いで/\、我御前があまりにいふ事なれば、見參してかへさむ。」とてつかひを立てぞめされける。佛御前はすげなういはれたてまつて車に乘て既にいでんとしけるが、めされて歸參りたり。入道出あひ對面して「今日の見參はあるまじかりつるを、祇王が何と思ふやらん、餘りに申しすゝむる 間、か樣に見參しつ。見參する程にてはいかで聲をもきかであるべきぞ。今樣一つうたへかし。」とのたまへば、佛御前「承りさぶらふ。」とて今樣一つぞ歌うたる。 君をはじめて見るをりは、千代も歴ぬべし姫小松、 御前の池なる龜岡に、鶴こそ群れ居て遊ぶめれ。 とおし返し/\三返歌すましたりければ、見聞の人々みな耳目をおどろかす。入道もおもしろげに思ひ給ひて、「我御前は今樣は上手でありけるよ。此定では舞も定めてよかるらん。一番見ばや。鼓打めせ。」とてめされけり。うたせて一番舞たりけり。 佛御前は髮姿よりはじめてみめ形うつくしく聲よく節も上手でありければ、なじかは舞もそんずべき。心も及ばず舞すましたりければ、入道相國舞にめで給ひて佛に心をうつされけり。佛御前「こはされば何事さぶらふぞや。もとよりわらはは、推參の者にていだされまゐらせさぶらひしを、祇王御前の申状によてこそ召返されても候に、加樣にめしおかれなば、祇王御前の思ひ給はん心のうちはづかしうさぶらふ。はや/\暇をたうで出させおはしませ。」と申ければ、入道、「すべて其儀あるまじ。但祇王があるをはゞかるか。其儀ならば祇王をこそいださめ。」と宣ひける。佛御前「それ又いかでかさる御事候べき。諸共にめしおかれんだに心うう候べきに、まして祇王御前を出させ給ひて、わらは一人めしおかれなば、祇王御前の心のうちはづかしう候ふべし。おのづから後までわすれぬ御事ならば、めされて又は參るとも、今日は暇を給らむ。」とぞ申ける。入道「なんでう其儀あるべき。祇王とう/\罷出で よ。」と御使かさねて三度までこそ立てられけれ。祇王もとよりおもひ設けたる道なれども、さすがに昨日今日とは思よらず。いそぎ出べき由頻にのたまふ間、はき拭ひ、塵ひろはせ、見苦しき物共とりしたためて出づべきにこそ定まりけれ。一樹の陰に宿り合ひ、同じ流をむすぶだに別はかなしき習ぞかし。まして此三年が間住なれし處なれば、名殘もをしう悲しくて、かひなき涙ぞこぼれける。さてもあるべき事ならねば、祇王すでに、今はかうとて、出けるが、なからん跡の忘れ形見にもとや思ひけむ、障子になく/\一首の歌をぞかきつけける。 萠出るも枯るゝも同じ野邊の草、何れか秋にあはではつべき。 さて車に乘て宿所に歸り、障子の内に倒れ臥し、唯泣くより外の事ぞき。母や妹是をみて「如何にやいかに。」ととひけれども、とかうの返事にも及ばず。具したる女に尋ねてぞさる事ありともしりてける。さる程に毎月に送られつる百石百貫をも今はとゞめられて、佛御前がゆかりの者共ぞ、始めて、樂み榮えける。京中の上下、「祇王こそ入道殿よりいとま給はて出でたんなれ。いざ見參して遊ばむ。」とて、或は文をつかはす人もあり、或は使を立つる者もあり。祇王さればとて今更人に對面してあそびたはぶるべきにもあらねば、文を取入るゝ事もなく、まして使にあひしらふ迄もなかりけり。是につけても悲しくていとゞ涙にのみぞしづみける。 かくて今年も暮れぬ。あくる春の比、入道相國、祇王が許へ使者を立てて、「いかに其後何事 かある。佛御前があまりにつれ/\げに見ゆるに、まゐて今樣をもうたひ、舞などをも舞て佛なぐさめよ。」とぞ宣ひける。祇王とかうの御返事にも及ばず。入道「など祇王は返事はせぬぞ。參るまじいか。參るまじくば、其樣を申せ。淨海もはからふ旨あり。」とぞ宣ひける。母とぢ是を聞くにかなしくて、 [1]いかなるべしともおぼえす、なく/\教訓しけるは、「いかに祇王御前、ともかくも御返事を申せかし、さやうにしかられ參らせんよりは。」といへば、祇王「參らんとおもふ道ならばこそやがて參るとも申さめ。參らざらんもの故に何と御返事を申すべしともおぼえず。此度めさんに參らずばはからふ旨ありと仰せらるゝは、都の外へ出さるゝか、さらずば命を召さるゝか、是二つによも過ぎじ。縱都を出さるゝとも、歎くべきにあらず。たとひ命を召さるゝとも、惜かるべき又わが身かは。一度憂きものに思はれ參らせて二度面をむかふべきにもあらず。」とて、なほ御返事をも申さゞりけるを、母とぢ重ねて教訓しけるは、「天が下に住ん程はともかうも入道殿の仰をば背くまじき事にてあるぞ。男女の縁宿世今にはじめぬ事ぞかし。千年萬年と契れども、軈て離るゝ中もあり。白地とは思へどもながらへ果る事もあり。世に定なきものは男女の習なり。それに我御前は此三年まで思はれまゐらせたれば、ありがたき御情でこそあれ。めさんに參らねばとて命をうしなはるゝまではよもあらじ。唯都の外へぞ出されんずらん。縱ひ都を出さるとも、我御前たちは年若ければ、如何ならん岩木のはざまにても過さん事安かるべし。年老い衰へたる母都の外へぞ出されんずらん。習はぬ旅の住居こそかねて思ふも悲しけれ。唯我を都の内にて住果させよ。 其ぞ今生後生の孝養と思はむずる。」といへば、祇王うしと思し道なれども、親の命を背かじと、なく/\又出立ける心の中こそ無慚なれ。一人參らむはあまりにものうしとて妹の祇女をも相具しけり。其外白拍子二人、惣じて四人一車に乘て、西八條へぞ參たる。さき/\召されたる處へはいれられずして、遙に下りたる處に座敷しつらうて置かれたり。祇王「こは、されば、何事ぞや。我身に過つ事は無けれども、すてられたてまつるだにあるに、座敷をさへ下げらるゝ事の心うさよ。いかにせむ。」と思ふに、知らせじと押ふる袖のひまよりも餘りて涙ぞこぼれける。佛御前是を見て、あまりにあはれに思ければ、「あれはいかに、日頃召されぬ所にても候はばこそ。是へ召され候へかし。さらずばわらはに暇を給べ。出でて見參せん。」と申ければ、入道「すべて其儀あるまじ。」と宣ふ間、力及ばで出でざりけり。其後入道は祇王が心の内をも知たまはず、「いかに其後何事かある。さては佛御前があまりにつれ/\げに見ゆるに、今樣一つ歌へかし。」とのたまへば、祇王參る程では、ともかうも入道殿の仰をば背くまじと思ひければ、落つる涙をおさへて、今樣一つぞ歌うたる。 佛も昔は凡夫なり、我等も遂には佛なり、 何も佛性具せる身を、隔つるのみこそ悲しけれ。 と泣く/\二返歌うたりければ、其座にいくらも並居たまへる平家一門の公卿、殿上人、諸大夫、侍に至るまで皆感涙をぞ流されける。入道も面白げにおもひ給ひて「時にとては神妙に申したり。さては舞も見たけれども、今日は紛るゝ事いできたり。此後は召さずとも、常に參 て今樣をも歌ひ、舞などを舞て佛なぐさめよ。」とぞ宣ひける。祇王とかくの返事にも及ばず、涙を押へて出でにけり。 「親の命を背かじとつらき道におもむいて、二度、うき目を見つる事の心うさよ。かくて此世にあるならば、又憂き目をも見むずらん。今は只身を投げんとおもふなり。」といへば妹の祇女も「姉身を投げば、われもともに身を投ん。」といふ。母とぢ、是をきくに悲しくていかなるべしともおぼえず。泣々又教訓しけるは「誠に我御前の恨むるもことわりなり。さやうの事あるべしとも知らずして教訓して參らせつる事の心うさよ。但我御前身を [2]投げは、妹もともに身を投げんといふ。二人の娘共に後れなん後、年老衰へたる母命いきてもなにゝかはせむなれば、我もともに身を投げむとおもふなり。いまだ死期も來らぬ親に身を投げさせん事五逆罪にやあらんずらむ。此世は假の宿なり。慚ても慚ても何ならず。唯長き世の闇こそ心うけれ。今生でこそあらめ。後生でだに惡道へ趣かんずる事の悲しさよ。」とさめざめとかき口説ければ、祇王なみだをおさへて「げにもさやうにさぶらはゞ五逆罪疑なし。さらば自害は思ひ止まり候ひぬ。かくて都にあるならば、又うき目をも見むずらん。今は都の外へ出でん。」とて祇王二十一にて尼になり、嵯峨野の奧なる山里に柴の庵をひきむすび念佛してこそ居たりけれ。妹の祇女も「姉身を投げば、我も共に身を投げんとこそ契りしか、まして世を厭はむに誰かは劣るべき。」とて十九にて樣をかへ、姉と一所に籠居て後世を願ふぞあはれなる。母とぢ是をみて若き娘どもだに樣を替る世中に年老い衰へたる母白髮をつけても何にかはせ むとて四十五にて髮を剃り、二人の娘諸共に一向專修に念佛して、ひとへに後世をぞ願ひける。 かくて春過ぎ夏闌ぬ、秋の初風吹きぬれば、星合の空をながめつゝ、天のと渡る梶の葉に思ふ事かく比なれや。夕日の影の西の山の端に隱るゝを見ても、日の入給ふ所は西方淨土にてあんなり。いつか我等も彼處に生れて物を思はですぐさんずらんと、かゝるにつけても過ぎにし方の憂き事ども思ひ續けて、たゞ盡せぬ物は涙なり。黄昏時も過ぎぬれば竹の編戸を閉じ塞ぎ、燈かすかにかきたてて、親子三人念佛して居たる處に、竹の編戸を、ほと/\と打ちたゝく者出できたり。その時尼ども膽をけし「あはれ、是はいひかひなき我等が念佛してゐたるを妨げんとて、魔縁のきたるにてぞあるらん。晝だにも人の問ひ來ぬ山里の柴の庵の内なれば、夜深て誰かは尋ぬべき。僅の竹の編戸なれば、あけずとも推破んこと安かるべし。なか/\たゞあけていれんと思ふなり。それに情をかけずして、命を失ふものならば、年比頼たてまつる彌陀の本願を強く信じて、ひまなく名號を唱へ奉るべし。聲を尋ねて迎へ給ふなる聖衆の來迎にてましませば、などか引接なかるべき。相構へて念佛怠り給ふな。」と、互に心をいましめて、竹の編戸をあけたれば、魔縁にてはなかりけり、佛御前ぞ出できたる。祇王「あれはいかに。佛御前と見奉るは夢かや、うつゝか。」といひければ、佛御前涙をおさへて、「か樣の事申せば、事あたらしう候へども、申さずば、又思ひ知らぬ身ともなりぬべければ、始よりして申すなり。もとよりわらは推參の者にて、出され參らせ候ひしを、 祇王御前の申状によてこそ、召し返されても候ふに、女のかひなきこと、我身を心に任せずして、おしとゞめられまゐらせし事心うゝさぶらひしが、いつぞや又めされまゐらせていまやううたひ給ひしにも思しられてこそさぶらへ。いつか我身の上ならんと思へば、嬉しとは更におもはず。障子にまた、『いづれか秋にあはではつべき。』と書置給ひし筆の跡、げにもと思ひさぶらひしぞや。その後は在所をいづくとも知りまゐらせざりつるに、かやうにさまを替て、一處にと承はて後は、あまりに羨しくて常は暇を申しかども、入道殿さらに御用ゐましまさず。つく%\物を案ずるに、娑婆の榮花は夢の夢、樂み榮えて何かせん。人身は受け難く、佛教には遇ひ難し。此度泥梨に沈みては、多生昿劫をば隔つとも、浮み上らんこと難し。年の若きを憑むべきにあらず。老少不定のさかひ、出づる息の入るをも待つべからず。かげろふ稻妻よりも猶はかなし。一旦の樂に誇りて、後生を知らざらんことの悲しさに、今朝まぎれ出でゝ、かくなりてこそ參りたれ。」とて、かつぎたる衣を打ちのけたるを見れば、尼になてぞ出できたる。「かやうに樣をかへて參りたれば、日比の科をば許し給へ。許さんと仰せられば、諸共に念佛して、一蓮の身とならん。それに猶心行かずば、是よりいづちへも迷ひ行き、如何ならん苔の席、松が根にも倒れ臥し、命のあらんかぎり念佛して、往生の素懷を遂げんとおもふなり。」とさめざめとかきくどきければ、祇王涙をおさへて、「誠にわごぜの是ほどに思ひ給ひけるとは。夢にだに知らず、憂き世の中のさがなれば、身の憂とこそおもふべきに、ともすれば、わごぜの事のみうらめしくて往生の素懷を遂ん事かなふべしともおぼ えず、今生も後生も、なまじひに仕損じたるこゝちにてありつるに、かやうにさまをかへておはしたれば、日比の咎は露塵ほども殘らず、今は往生疑ひなし。此度素懷を遂げんこそ何よりも又嬉しけれ。我等が尼になりしをこそ世にためしなきことのやうに、人もいひ我身にも又思ひしか。それは世を恨み身を恨みて成しかば、樣を替るも理なり。今 わこぜの出家にくらぶれば事の數にもあらざりけり。わごぜは恨もなし歎もなし。今年は纔に十七にこそなる人の、かやうに穢土を厭ひ、淨土を願はんと、深く思ひいれ給ふこそ、まことの大道心とはおぼえたれ。嬉しかりける善知識かな。いざ諸共に願はん。」とて、四人一所に籠り居て、朝夕佛前に花香を供へ、餘念なく願ひければ、遲速こそありけれ、四人の尼共皆往生の素懷を遂けるとぞ聞えし。されば、後白河の法皇の、長講堂の過去帳にも、祇王、祇女、佛、とぢ等が尊靈と四人一所に入れられけり。あはれなりし事どもなり。 [1] Nihon Koten Bungaku Taikei (Tokyo: Iwanami Shoten, 1957, vol. 32; hereafter cited as NKBT) reads いかなるべしともおぼえず。. [2] NKBT reads なげば. [3] NKBT reads わごぜ. -------------------------------------------------------------------------------- 二代后 昔より今に至るまで、源平兩氏朝家に召しつかはれて、王化に隨はず、自朝權を輕んずる者には、互に誡を加しかば、代の亂れもなかりしに、保元に爲義きられ、平治に義朝誅せられて後は、末々の源氏ども、或は流され、或は失はれ、今は平家の一類のみ繁昌して、頭をさし出す者なし。如何ならん末の代までも、何事かあらむとぞ見えし。されども鳥羽院、御晏駕の後は、兵革打ち續き、死罪、流刑、闕官、停任、常に行はれて、海内も靜かならず。 世間も末落居せず。就中に永暦應保の比よりして、院の近習者をば、内より御誡あり、内の近習者をば、院より誡めらるゝ間、上下おそれをのゝいて、安い心もなし。只深淵にのぞんで薄氷をふむに同じ、主上上皇、父子の御間には何事の御隔かあるべきなれども、思の外の事どもありけり。是も世澆季に及んで、人梟惡を先とする故なり。主上院の仰を常に申かへさせおはしましける中にも、人耳目を驚し、世以て大きに傾け申すことありけり。 故近衞院の后、太皇太后宮と申しは大炊御門右大臣公能公の御娘なり。先帝に後れ奉らせ給ひて後は、九重の外、近衞川原の御所にぞ移り住ませ給ひける。前の后の宮にて、幽なる御在樣にて渡らせ給ひしが、永歴のころほひは、御年二十二三にもやならせたまひけん、御盛りも少し過させおはしますほどなり。されども、天下第一の美人の聞えまし/\ければ、主上色にのみ染める御心にて、竊に高力士に詔して、外宮に引き求めしむるに及んで、この大宮へ御艶書あり。大宮敢て聞食しもいれず。されば、ひたすらはやほに現はれて、后御入内あるべきよし、右大臣家に宣旨を下さる。此事天下に於て、異なる勝事なれば、公卿僉議あり、各意見をいふ。「先づ異朝の先蹤をとぶらふに、震旦の則天皇后は、唐の太宗の后、高宗皇帝の繼母なり。太宗崩御の後、高宗の后に立ち給へることあり。それは異朝の先規たる上、別段の事なり。然れども我朝には、神武天皇より以降、人皇七十餘代に及まで、いまだ二代の后に立たせ給へる例を聞かず。」と、諸卿一同に申されけり。上皇も然るべからざるよし、こしらへ申させ給へば、主上仰なりけるは、「天子に父母なし、我十善の戒功によて、萬乘の寶 位をたもつ、是程のこと、などか叡慮に任せざるべき。」とて、やがて御入内の日、宣下せられける上は、力及ばせ給はず。 大宮かくと聞しめされけるより、御涙に沈ませおはします。先帝に後させ參らせにし久壽の秋のはじめ、同じ野原の露と消え、家をも出、世をも遁れたりせば、かゝる憂き耳をば聞かざらましとぞ、御歎ありける。父の大臣、こしらへ申させ給ひけるは、「世に從はざるを以て、狂人とすと見えたり。既に詔命を下さる。仔細を申すにところなし。只速に參らせ給ふべきなり。もし皇子御誕生ありて、君も國母といはれ、愚老も外祖と仰がるべき瑞相にてもや候ふらむ。是偏に愚老をたすけさせおはします御孝行の御至なるべし。」と、申させ給へども、御返事もなかりけり。大宮その比、なにとなき御手習の次に、 うきふしにしづみもやらで河竹の、世にためしなき名をやながさん。 世にはいかにして漏れけるやらん、哀にやさしきためしにぞ人々申しあへりける。 既に御入内の日になりしかば、父の大臣供奉の上達部、出車の儀式など、心ことにだしたて參らせ給ひけり。大宮ものうき御出立なれば、とみにもたてまつらず。遙に夜も深け、小夜も半になて後、御車に抜け乘せられ給ひけり。御入内の後は、麗景殿にぞまし/\ける。ひたすら、朝政をすゝめ申させ給ふ御在樣なり。彼紫宸殿の皇居には、賢聖の障子を立てられたり。伊尹、第伍倫、虞世南、太公望、 ろく里先生、李勣、司馬、手長、足長、馬形の障子、鬼の間、李將軍が姿をさながら寫せる障子もあり。尾張守小野道風が、七囘賢聖の障子と書 けるも、理とぞ見えし。かの清凉殿の畫圖の御障子には、昔金岡が書きたりし遠山の在明の月もありとかや。故院の未幼主にてましましけるそのかみ、何となき御手まさぐりの次に、かきくもらかさせ給ひしが、ありしながらに少しもたがはぬを御覽じて、先帝の昔もや御戀しくおぼし召されけん。 思ひきや憂き身ながらにめぐり來て、おなじ雲井の月を見むとは。 その間の御なからへ、いひしらず哀にやさしかりし御事なり。 さる程に、永萬元年の春の比より、主上御不豫の御事と聞えさせ給ひしが、夏の初になりしかば、事の外に重らせ給ふ。是によて、大藏の大輔伊吉兼盛が娘の腹に、今上の一の宮の二歳にならせ給ふがまし/\けるを、太子にたてまゐらせ給ふべしと聞えし程に、同六月二十五日、俄に親王の宣旨下されて、やがてその夜受禪ありしかば、天下何となうあわてたるさま也。その時の有職の人々申しあはれけるは、本朝に、童帝の例を尋ぬれば、清和天皇九歳にして、文徳天皇の御禪を受けさせ給ふ。それは彼周公旦の成王に代り、南面にして、一日萬機の政を治め給ひしに准へて、外祖忠仁公、幼主を扶持し給へり。是ぞ攝政のはじめなる。鳥羽院五歳、近衞院三歳にて踐祚あり。かれをこそいつしかなりと申しに、是は二歳にならせ給ふ。先例なし。物さわがしともおろかなり。 -------------------------------------------------------------------------------- 額打論 さる程に、同七月廿七日、上皇竟に崩御なりぬ。御歳二十三。蕾める花の散れるが如し。玉の簾、錦の帳のうち、皆御涙に咽ばせ給ふ。やがて、その夜、香隆寺の艮、蓮臺野の奧、船岡山にをさめ奉る。御葬送の時、延暦寺、興福寺の大衆、額打論といふ事しいだして、互に狼藉に及ぶ。一天の君崩御なて後、御墓所へわたし奉る時の作法は、南北二京の大衆悉く供奉して、御墓所の廻に、わが寺々の額をうつことあり。先づ聖武天皇の御願、爭ふべき寺なければ、東大寺の額をうつ。次に淡海公の御願とて、興福寺の額をうつ。北京には、興福寺に向へて延暦寺の額をうつ。次に天武天皇の御願、教待和尚、智證大師の草創とて、園城寺の額をうつ。然るを山門の大衆、いかがおもひけん、先例を背て、東大寺の次ぎ、興福寺のうへに、延暦寺の額を打つ間、南都の大衆、とやせましかやうせましと僉議するところに、興福寺の西金堂の衆、觀音房、勢至房とて聞えたる大惡僧二人ありけり。觀音房は黒絲威の腹卷に、白柄の長刀くきみじかに取り、勢至房は、萠黄威の腹卷に、黒漆の大太刀もて、二人つと走出で、延暦寺の額をきて落し、散々に打わり、「うれしや水、なるは瀧の水、日はてるとも、絶えずとうたへ。」とはやしつゝ、南都の衆徒の中へぞ入りにける。 -------------------------------------------------------------------------------- 清水寺炎上 山門の大衆、狼藉をいたさば、手向へすべき處に、心深うねらふ方もやありけん。一詞も出さず。御門かくれさせ給ひては、心なき草木までも、愁へたる色にてこそあるべきに、この 騒動のあさましさに、高きも賤きも、肝魂を失て四方へ皆退散す。同二十九日の午の刻ばかり、山門の大衆おびたゞしう下洛すと聞えしかば、武士、 檢非違使、西坂本に馳向て、防ぎけれども、事ともせずおしやぶて亂入す。何者の申出したりけるやらむ、一院、山門の大衆に仰せて、平家を追討せらるべしと聞えし程に、軍兵内裏に參じて、四方の陣頭を警固す。平氏の一類、皆六波羅へ馳集る。一院も、急ぎ六波羅へ御幸なる。清盛公其比、いまだ大納言にておはしけるが、大に恐れさわがれけり。小松殿「何によてか、唯今さる事あるべき。」と、しづめられけれども、上下ののしりさわぐことおびたゞし。山門の大衆、六波羅へは寄せずして、すずろなる清水寺におしよせて、佛閣僧房一宇も殘さず燒はらふ。是はさんぬる御葬送の夜の會稽の耻を雪めんがためとぞ聞えし。清水寺は、興福寺の末寺たるによてなり。清水寺燒けたりける朝、何者の態にや在けん、「觀音火坑變成池はいかに」と札に書て、大門の前にたてたりければ、次の日、又「歴劫不思議力不及」と、返しの札をぞ打たりける。 衆徒返り上りければ、一院六波羅より還御なる。重盛卿ばかりぞ、御ともには參られける。父の卿は參られず。猶用心のためかとぞ聞えし。重盛卿、御送よりかへられたりければ、父の大納言の給ひけるは、「一院の御幸こそ大きに恐れおぼゆれ。かねても思しめしより、仰せらるゝ旨のあればこそかうは聞ゆらめ、それにも打解給ふまじ。」とのたまへば、重盛卿申されけるは、「此事ゆめ/\御けしきにも、御詞にも出させ給ふべからず、人に心附けがほに、 中々惡しき御事なり。それにつけても叡慮に背き給はで、人のために御なさけを施させましまさば、神明三寶加護あるべし。さらんにとては、御身の恐れ候ふまじ。」とて、立たれければ「重盛卿は、ゆゝしく大樣なるものかな。」とぞ父の卿ものたまひける。 一院還御の後、御前にうとからぬ近習者達あまた候はれけるに、「さても不思議の事を申し出したるものかな。露もおぼし召よらぬものを。」と仰ければ、院中の切者に西光法師といふ者あり。境節御前近う候ひけるが、「天に口なし、人を以ていはせよと申す。平家以外に過分に候間、天の御計らひにや。」とぞ申しける。人々「この事よしなし。壁に耳あり、おそろしおそろし。」とぞ申あはれける。 -------------------------------------------------------------------------------- 東宮立 さる程に、その年は諒闇なりければ、御禊大甞會も行はれず。同十二月二十四日、建春門院その比はいまだ東の御方と申しける御腹に、一院の宮まし/\けるが、親王の宣旨下され給ふ。 明くれば、改元ありて仁安と號す。同年の十月八日、去年親王の宣旨蒙らせ給し皇子、東三條にて春宮に立たせ給ふ。春宮は御伯父六歳、主上は御甥三歳、何れも昭穆に相叶はず。但し寛和二年、一條院七歳にて御即位。三條院十一歳にて東宮に立せ給ふ。先例なきにしもあらず。主上は二歳にて御禪を受けさせ給ひ、纔に五歳と申二月十九日、東宮踐祚ありしかば、 位をすべらせ給て、新院とぞ申ける。いまだ御元服もなくして、太上天皇の尊號あり。漢家本朝是やはじめならむ。 仁安三年三月二十日、新帝大極殿にして御即位あり。此君の位につかせ給ぬるは、いよ/\平家の榮花とぞ見えし。御母儀建春門院と申すは、平家の一門にてましますうへ、とりわき入道相國の北の方、二位殿の御妹なり。又平大納言時忠卿と申も、女院の御兄なれば、内の御外戚なり。内外につけたる執權の臣とぞ見えし。叙位除目と申すも、偏にこの時忠卿のまゝなり。楊貴妃が幸ひし時、楊國忠が盛えし如し。世のおぼえ、時のきら、めでたかりき。入道相國天下の大小事をのたまひあはせられければ、時の人平關白とぞ申しける。 -------------------------------------------------------------------------------- 殿下乘合 さる程に、嘉應元年七月十六日、一院御出家あり。御出家の後も、萬機の政をきこめしされし間、院内わく方なし。院中にちかくめしつかはるゝ公卿殿上人、上下の北面に至るまで、官位俸禄、皆身に餘るばかりなり。されども人の心の習なれば、猶飽きたらで、「あはれその人の亡びたらば、その國はあきなむ、その人失せたらば、その官にはなりなん。」など、疎からぬどちは、寄り合ひ寄り合ひさゝやきあへり。法皇も内々仰なりけるは、「昔より代々の朝敵を平ぐるもの多しといへども、いまだ加樣の事なし。貞盛、秀郷が、將門を討ち、頼義が貞任、宗任を亡し、義家が武平、家平を攻めたりしも、勸賞行はれしこと、受領には過ぎざり き。清盛がかく心のまゝにふるまふこそ然るべからね。これも世末になりて、王法の盡きぬる故なり。」と仰なりけれども、次でなければ御いましめもなし。平家も又別して、朝家を恨み奉ることもなかりしほどに、世の亂れそめける根本は、去じ嘉應二年十月十六日に、小松殿の次男新三位中將資盛卿、その時はいまだ越前守とて十三になられけるが、雪ははだれに降たりけり。枯野の景色まことに面白かりければ、わかき侍ども三十騎ばかりめし具して、蓮臺野や、紫野、右近馬場に打出でて、鷹どもあまたすゑさせ、鶉、雲雀をおたて/\、終日にかり暮し、薄暮に及んで六波羅へこそ歸られけれ。その時の御攝祿は、松殿にてましましけるが、中御門東洞院の御所より御參内ありけり。郁芳門より入御あるべきにて、東洞院を南へ、大炊御門を西へ御出なる。資盛朝臣、大炊御門猪熊にて、殿下の御出に鼻突に參りあふ。御供の人々「何者ぞ、狼藉なり。御出なるに、乘物より下り候へ/\。」と、云てけれども、餘に誇り勇み、世を世ともせざりける上、めし具したる侍ども、皆二十より内の若物共なり、禮義骨法辨へたる者一人もなし。殿下の御出ともいはず、一切下馬の禮義にも及ばず、驅け破て通らむとする間、暗さはくらし、つや/\入道の孫とも知らず。又少々は知たれども、空しらずして、資盛朝臣を始として、侍共皆馬より取て引落し、頗る耻辱に及びけり。資盛朝臣、はふ/\六波羅へおはして、祖父の相國禪門に、此由訴へ申されければ、入道大きに怒て、「縱ひ殿下なりとも、淨海があたりをば憚り給ふべきに、少者に左右なく、耻辱を與へられけるこそ遺恨の次第なれ。かゝる事よりして、人にはあざむかるゝぞ。 此事思ひ知らせ奉らでは、えこそあるまじけれ。殿下を恨奉らばや。」とのたまへば、重盛卿申されけるは「是は少しも苦しう候まじ。頼政、光基など申源氏共にあざむかれて候はんには、誠に一門の耻辱でも候ふべし。重盛が子どもとて候はんずるものの、殿下の御出に參りあひて、乘物より下候はぬこそ尾籠に候へ。」とて、その時事にあうたる侍共めしよせ、「自今以後も、汝等よく/\心得べし、誤て、殿下へ無禮の由を申さばやとこそ思へ。」とて歸られけり。 その後、入道相國小松殿には仰られもあはせず、片田舎の侍どものこはらかにて、入道殿の仰より外は、又恐しき事なしと思ふ者ども、難波妹尾を始として、都合六十餘人召し寄せ、「來二十一日、主上御元服の御定めの爲に殿下御出あるべかんなり。いづくにても待かけ奉り、前驅御隨身共が髻きて、資盛が耻雪げ。」とぞのたまひける。殿下、是をば夢にもしろしめさず、主上、明年御元服、御加冠、拜官の御定のために、御直盧に暫く御座あるべきにて、常の御出よりも引き繕はせ給ひ、今度は待賢門より入御あるべきにて、中御門を西へ御出なる。猪熊堀川の邊に、六波羅の兵ども、直冑三百餘騎待ち受け奉り、殿下を中に取りこめ參らせて、前後より一度に、鬨をどとぞつくりける。前驅御隨身共が今日を晴としやうぞいたるを、あそこに追かけ、こゝに追つめ、馬よりとて引落し、散々に陵礫して、一々に髻をきる。隨身十人が中、右の府生武基が髻もきられにけり。その中に、藤藏人大夫隆教が髻をきるとて、「是は汝が髻と思ふべからず、主の髻と思ふべし。」と、言ひ含めてきてけり。其後 に御車の内へも、弓の筈つき入れなどして、簾かなぐり落し、御牛の鞦、 胸懸切りはなち散々にし散して、悦のときをつくり、六波羅へこそ參りけれ。入道「神妙なり。」とぞのたまひける。御車副には、因幡のさい使、鳥羽の國久丸といふをのこ、下臈なれども、なさけある者にて、泣々御車つかまつて、中御門の御所へ還御なし奉る。束帶の御袖にて、御涙をおさへつゝ、還御の儀式あさましさ、申すもなか/\おろかなり。大織冠、淡海公の御事は、擧げて申すに及ばず、忠仁公、昭宣公より以降、攝政關白の、かゝる御目にあはせ給ふ事、未だ承り及ばず。是こそ平家の惡行の始なれ。 小松殿こそ大に噪がれけれ。行向ひたる侍共、皆勘當せらる。「たとひ入道如何なる不思議を下知し給とも、など重盛に夢をば見せざりけるぞ。凡は資盛奇怪なり、旃檀は二葉よりかうばしとこそ見えたれ。已に十二三歳にならむずる者が、今は禮義を存知してこそ振舞ふべきに、かやうに尾籠を現じて、入道の惡名を立つ、不孝のいたり、汝一人にありけり。」とて、暫く伊勢の國に追ひ下さる。さればこの大將をば、君も臣も御感ありけるとぞ聞えし。 -------------------------------------------------------------------------------- 鹿谷 是によて主上御元服の御定め、その日は延させ給ぬ。同廿五日、院の殿上にてぞ、御元服の定めはありける。攝政殿さても渡らせ給ふべきならねば、同十二月九日、兼宣旨をかうぶり、十四日太政大臣にあがらせ給ふ。やがて同十七日慶申しありしかども、世の中はにが/\し うぞ見えし。 さる程に今歳も暮ぬ。明れば嘉應三年正月五日、主上御元服あり。同十三日朝覲の行幸ありけり。法皇、女院、待ち受け參らせさせ給て、初冠の御粧いかばかりらうたく思しめされけん。入道相國の御娘、女御に參らせ給ひけり。御歳十五歳。法皇御猶子の儀なり。 其比妙音院の太政のおほいとの、其時は未内大臣の左大將にてましましけるが、大將を辭し申させ給ふことありけり。時に徳大寺の大納言實定卿、その仁に當り給ふ由聞ゆ。又花山院の中納言兼雅卿も所望あり。その外、故中御門の藤中納言家成卿の三男、新大納言成親卿もひらに申されけり。院の御氣色よかりければ、樣樣の祈をぞ始められける。先づ八幡に百人の僧を籠て、眞讀の大般若を七日讀ませられける最中に、甲良の大明神の御前なる橘の木に、男山の方より山鳩三つ飛來て、食ひ合ひてぞ死にける。鳩は八幡大菩薩の第一の仕者なり。宮寺にかゝる不思議なしとて、時の 檢校匡清法印奏聞す。神祗官にして御占あり。天下の噪ぎと占申。「但し君の愼みにあらず、臣下のつゝしみ。」とぞ申ける。新大納言是に恐れをも致されず、晝は人目の滋ければ、夜な/\歩行にて、中御門烏丸の宿所より、賀茂の上の社へ七夜續けて參られけり。七夜に滿ずる夜、宿所に下向して、苦しさに、うちふし、ちと目睡給へる夢に、賀茂の上の社へ參りたると思しくて、御寶殿の御戸推開き、ゆゝしくけだかげなる御聲にて 櫻花賀茂の川かぜうらむなよ、散るをばえこそとゞめざりけれ。 新大納言猶恐れをも致されず、賀茂の上の社に、ある聖を籠て、御寶殿の御後なる杉の洞に壇を立てて、拏吉尼の法を百日行はせられけるほどに、彼の大杉に雷落ちかゝり、雷火おびただしく燃え上て、宮中已に危く見えけるを、宮人ども多く走り集て、これを打消つ。かの外法行ひける聖を、追出せんとしければ、「我當社に百日參籠の大願あり、今日は七十五日になる。全く出まじ。」とてはたらかず。此の由を社家より内裏へ奏聞しければ「唯法に任せて追出せよ。」と宣旨を下さる。その時神人白杖を以て、彼聖がうなじをしらけ、一條の大路より南へ追ひ出してけり。神は非禮をうけ給はずと申すに、この大納言、非分の大將を祈り申されければにや、かゝる不思議も出で來にけり。 其比の叙位除目と申は、院内の御はからひにもあらず、攝政關白の御成敗にも及ばず、唯一向平家のまゝにてありしかば、徳大寺、花山院もなり給はず、入道相國の嫡男小松殿、右大將にておはしけるが、左に移りて、次男宗盛、中納言におはせしが、數輩の上臈を超越して、右に加はられけるこそ、申すばかりもなかりしか。中にも徳大寺殿は、一の大納言にて華族、英雄、才覺雄長、家嫡にてまし/\けるが、越えられ給けるこそ遺恨なれ。定めて御出家などやあらむずらむと、人々内々は申あへりしかども、暫く世のならむ樣を見んとて、大納言を辭し申て、籠居とぞ聞えし。 新大納言成親卿宣ひけるは、「徳大寺、花山院に越えられたらむは、いかゞせん。平家の次男に越えらるゝこそ安からね。是も萬づ思ふさまなるがいたす所也。いかにもして平家を亡し 本望を遂げむ。」とのたまひけるこそ怖しけれ。父の卿は中納言までこそ至られしか。その末子にて、位正二位、官大納言にあがり、大國あまた給はて、子息所從朝恩に誇れり。何の不足に、かゝる心つかれけん。是偏に天魔の所爲とぞ見えし。平治にも、越後中將とて、信頼卿に同心の間、既に誅せらるべかりしを、小松殿やう/\に申て、首をつぎ給へり。然るにその恩を忘れて、外人もなき所に兵具をとゝのへ、軍兵を語らひおき、其營みの外は他事なし。 東山の麓鹿の谷といふ所は、後は三井寺に續いて、ゆゝしき城郭にてぞありける。俊寛僧都の山庄あり。かれに常は寄りあひ/\、平家滅さむずる謀をぞ囘しける。或時法皇も御幸なる。故少納言入道信西が子息、淨憲法印御供仕る。その夜の酒宴に、此由を淨憲法印に仰あはせられければ、「あなあさましや、人あまた承候ぬ。唯今漏きこえて、天下の大事に及び候ひなんず。」と大に噪ぎ申ければ、新大納言氣色かはりて、さと立たれけるが、御前に候ける瓶子を、狩衣の袖にかけて引きたふされたりけるを、法皇「あれはいかに。」と仰せければ大納言立かへて、「平氏たふれ候ひぬ。」と申されける。法皇ゑつぼに入らせおはしまして、「物ども參て猿樂つかまつれ。」と仰ければ、平判官康頼參りて、「あゝ餘にへいじの多う候に、もて醉て候。」と申す。俊寛僧都「さてそれをいかゞ仕らむずる。」と申されければ、西光法師「頸を取るにはしかじ。」とて、瓶子の首を取てぞ入にける。淨憲法印餘りのあさましさに、つや/\物も申されず。返す/\も恐しかりしことどもなり。與力の輩誰々ぞ。近江中將入道蓮淨俗名成正、法勝寺の執行俊寛僧都、山城守基兼、式部大輔雅綱、平判官康頼、宗判官信房、 新平判官資行、攝津國源氏多田藏人行綱を始として北面の輩多く與力したりけり。 -------------------------------------------------------------------------------- 鵜川軍 此法勝寺の執行と申すは、京極の源大納言雅俊の卿の孫、木寺の法印寛雅には子なりけり。祖父大納言させる弓箭を取る家にはあらねども、あまりに腹あしき人にて、三條坊門京極の宿所の前をば、人をもやすく通さず、つねは中門にたゝずみ、齒をくひしばり、怒てぞおはしける。かゝる人の孫なればにや、この俊寛も僧なれども、心も猛くおごれる人にて、よしなき謀反にも與しけるにこそ。新大納言成親卿は、多田の藏人行綱を呼て、「御邊をば、一方の大將に憑むなり。此事しおほせつるものならば、國をも庄をも所望によるべし。先づ弓袋の料に。」とて、白布五十端送られたり。 安元三年三月五日、妙音院殿、太政大臣に轉じ給へるかはりに、大納言定房卿を越えて、小松殿、内大臣になり給ふ。大臣の大將めでたかりき。やがて大饗行はる。尊者には、大炊御門左大臣經宗公とぞ聞えし。一のかみこそ先途なれども、父宇治の惡左府の御例憚あり。 北面は上古にはなかりけり。白河院の御時、始め置かれてより以降、衞府ども數多候けり。爲俊、盛重、童より千手丸、、今犬丸とて、是等は左右なき切者にてぞありける。鳥羽院の御時も、季教、季頼父子、共に朝家に召仕はれ傳奏する折もありなど聞えしかども、皆身の程をばふるまうてこそありしに、此時の北面の輩は、以外に過分にて、公卿殿上人をも物とも せず、禮儀禮節もなし。下北面より上北面にあがり、上北面より殿上の交を許さるゝ者もあり。かくのみ行はるゝ間、おごれる心どもも出きて、よしなき謀反にも與しけるにこそ。中にも故少納言入道信西が許に召使ける師光成景といふものあり。師光は阿波の國の在廰、成景は京の者、熟根賤しき下臈なり。健兒童、もしは恪勤者などにて被召仕けるが、賢々しかりしによりて、師光は左衞門尉、成景は右衞門尉とて、二人一度に靱負尉になりぬ。信西が事にあひし時、二人ともに出家して、左衞門入道西光、右衞門入道西敬とて、此等は出家の後も、院の御倉預にてぞ在ける。 かの西光が子に、師高といふ者あり。是も切者にて、檢非違使五位尉に歴上て、安元元年十二月廿九日、追儺の除目に加賀守にぞなされける。國務を行ふ間、非法非禮を張行し、神社佛寺、權門勢家の庄領を沒倒し、散々の事共にてぞありける。假令せう公が跡を隔つといふとも、穩便の政を行ふべかりしに、かく心のまゝにふるまひし程に、同二年夏の比、國司師高が弟、近藤判官師經、加賀の目代に補せらる。目代下著のはじめ、國府の邊に鵜川といふ山寺あり。寺僧どもが境節湯をわかいて浴びけるを、亂入しておひあげ、我身あび、雜人共おろし、馬洗はせなどしけり。寺僧怒をなして、「昔より此處は國方の者入部することなし。速に先例に任せて、入部の押妨をとゞめよ。」とぞ申ける。「先先の目代は、不覺でこそいやしまれたれ。當目代はその儀あるまじ。唯法に任せよ。」といふ程こそありけれ、寺僧どもは、國方の者を追出せむとす。國方の者共は次を以て、亂入せんとす。うちあひ張合ひしけ る程に、目代師經が秘藏しける馬の足をぞ打折りける。その後は互に弓箭兵仗をたいして、射合ひ截合ひ數刻戰ふ。目代かなはじとや思ひけむ、夜に入て引退く。其後當國の在廳ども催し集め、其勢一千餘騎鵜川に押寄せて、坊舎一宇も殘さず燒拂ふ。鵜川といふは、白山の末寺なり。この事訴へんとて進む老僧誰々ぞ。智釋、學明、寶臺房、正智、學音、土佐阿闍梨ぞ進みける。白山三社、八院の大衆、悉く起りあひ、都合その勢二千餘人、同七月九日の暮方に、目代師經が館近うこそ押寄せたれ。今日は日暮れぬ。明日の軍と定めて、その日はよせでゆらへたり。露ふき結ぶ秋風は、射向の袖を飜し、雲井を照す稻妻は冑の星を耀す。目代かなはじとや思ひけん、夜逃にして京へのぼる。明くる卯刻に押寄て、閧をどとつくる。城の中には音もせず。人を入れて見せければ、皆落て候と申す。大衆力及ばで引退く。然らば山門へ訴へんとて、白山中宮の神輿をかざり奉り、比叡山へふりあげ奉る。同八月十二日の午刻許、白山の神輿、既に比叡山東坂本につかせ給ふと云程こそありけれ。北國の方より雷おびたゞしく鳴て、都をさして鳴りのぼる。白雪くだりて地を埋み、山上洛中おしなべて、常葉の山の梢まで皆白妙になりけり。 -------------------------------------------------------------------------------- 願立 神輿をば、客人の宮へ入れ奉る。客人と申は、白山妙理權現にておはします。申せば父子の御中なり。先沙汰の成否は知らず、生前の御悦、只この事にあり。浦島が子の七世の孫に遭へり しにも過ぎ、胎内の者の靈山の父を見しにも超えたり。三千の衆徒踵をつぎ、七社の神人袖を列ね、時々刻々の法施、祈念、言語道斷の事ども也。 山門の大衆、國司加賀の守師高を流罪に處せられ、目代近藤判官師經を禁獄せらるべき由奏聞す。御裁斷遲かりければ、さも可然公卿殿上人は、「あはれとく御裁許あるべきものを、昔より山門の訴訟は他に異なり、大藏卿爲房、太宰の權帥季仲は、さしも朝家の重臣たりしかども、山門の訴訟によて、流罪せられにき。況や師高などは、事の數にやはあるべきに、子細にや及ぶべき。」と申あはれけれども、「大臣は祿を重んじて諫めず、小臣は罪に恐れて申さず。」といふ事なれば、各口を閉ぢたまへり。「賀茂川の水、雙六の賽、山法師、これぞ我心にかなはぬもの。」と白河院も仰なりけるとかや。鳥羽院の御時、越前の平泉寺を、山門へつけられけるには、當山を御歸依淺からざるによて、「非を以て理とす。」とこそ、宣下せられて、院宣をば下されけれ。江帥匡房卿の申されし樣に、「神輿を陣頭へ振奉て、訴申さんには、君はいかゞ御計ひ候ふべき。」と申されければ、「げにも山門の訴訟はもだしがたし。」とぞ仰せける。 去じ嘉保二年三月二日、美濃守源義綱朝臣、當國新立の庄を倒す間、山の久住者圓應を殺害す。是によて日吉の社司、延暦寺の寺官、都合三十餘人、申文をささげて陣頭へ參じけるを後二條關白殿、大和源氏中務權少輔頼春に仰せてふせがせらる。頼春が郎等矢を放つ。矢庭に射殺さるゝ者八人、疵を被むる者十餘人、社司諸司四方へちりぬ。山門の上綱等、仔細を奏聞のために下洛すと聞えしかば、武士、檢非違使、西坂本に馳向て、皆おかへす。 山門には、御裁斷遲々の間、七社の神輿を根本中堂に振上げ奉り、その御前にて、眞讀の大般若を七日讀で、關白殿を呪咀し奉る。結願の導師には、仲胤法印、その比はいまだ仲胤供奉と申しが、高座に上り、かね打ならし、表白の詞にいはく、「我等なたねの二葉よりおふし立て給ふ神達、後二條の關白殿に、鏑矢一つ放ち當て給へ、大八王子權現。」と高らかにぞ祈誓したりける。やがてその夜不思議の事あり。八王子の御殿より、鏑矢の聲いでて、王城をさしてなん行くとぞ、人の夢には見たりける。そのあした、關白殿の御所の御格子をあげけるに、只今山よりとてきたるやうに、露にぬれたる樒、一枝たたりけるこそ怖しけれ。やがて山王の御咎めとて、後二條の關白殿、重き御病をうけさせ給ひしかば、母上、大殿の北の政所大に歎かせ給つゝ、御樣をやつし、賤しき下臈のまねをして、日吉の社に御參籠あて、七日七夜が間祈申させ給けり。あらはれての御祈には、百番の芝田樂、百番の一物、競馬、流鏑馬、相撲各百番、百座の仁王講、百座の藥師講、一 ちやく手半の藥師百體、等身の藥師一體並に釋迦、阿彌陀の像、各造立供養せられけり。又御心中に、三つの御立願あり。御心のうちの事なれば、人いかで知り奉るべき。それに不思議なりし事は、七日に滿ずる夜、八王子の御社にいくらもありける參人どもの中に、陸奧より遙々と上りたりける童神子、夜半ばかりに俄にたえ入けり。遙にかき出して祈りければ、程なくいき出て、やがて立て舞ひかなづ。人奇特の思をなして是を見る。半時ばかり舞て後、山王おりさせ給て、やう/\の御託宣こそ恐しけれ。「衆生等確に承れ。大殿の北の政所、今日七日我が御前に籠らせ給たり。御立願三つあり。一つには今度殿下の壽命 を助けてたべ、さも候はゞ、下殿に候ふ諸のかたはうどに交て、一千日が間、朝夕宮仕申さんとなり。大殿の北の政所にて、世を世とも思し召さで、すごさせ給ふ御心に、子を思ふ道にまよひぬれば、いぶせきことも忘れて、あさましげなるかたはうどに交はて、一千日が間、朝夕宮仕申さむと仰せらるゝこそ、誠に哀に思しめせ。二つには、大宮の波止土濃より八王子の御社まで、囘廊作て參らせむとなり。三千人の大衆、降にも照にも、社參の時いたはしうおぼゆるに、囘廊作られたらば、いかにめでたからん。三つには今度の殿下の壽命を助させ給はゞ、八王子の御社にて、法花問答講毎日退轉なく行べしとなり。何れもおろかならねども、かみ二つはさなくともありなむ。毎日法花問答講は、誠にあらまほしうこそ思召せ。但今度の訴訟は、むげに安かりぬべき事にてありつるを、御裁許なくして、神人宮仕射殺され、疵を被り、泣く泣く參て訴申す事の餘に心憂て、如何ならむ世までも忘るべしともおほえず。その上かれらに當る處の矢は、しかしながら和光垂跡の御膚に立たるなり。誠か虚言か是を見よ。」とて、肩ぬいだるを見れば、左の脇の下、大なるかはらけの口ばかりうげのいてぞ見えたりける。「是が餘に心憂ければ、如何に申とも、始終のことは叶ふまじ。法花問答講一定あるべくば、三年が命を延べて奉らむ。それを不足に思し召さば、力及ばず。」とて山王あがらせ給ひけり。母上は御立願の事、人にも語らせ給はねば誰漏しつらむと、少しも疑ふ方もましまさず。御心の内の事どもを、ありのまゝに御託宣ありければ、心肝にそうて、ことに貴くおぼしめし、泣々申させ給けるは「縱ひ一日片時にて候ふとも、ありがたうこそ候ふべきに、まして三年 が命を延べて給らむ事しかるべう候ふ。」とて、泣々御下向あり。急ぎ都へ入せ給て、殿下の御領紀伊國に、田中庄といふ所を、八王子の御社へ永代寄進せらる。それよりして法花問答講、今の世に至るまで毎日退轉なしとぞ承る。 かゝりし程に、後二條關白殿、御病かろませ給て、もとの如くにならせ給ふ。上下喜びあはれし程に、三年の過ぐるは夢なれや、永長二年になりにけり。六月二十一日、又後二條の關白殿、御髮の際に惡しき御瘡出きさせ給て、打ち臥させ給ひしが、同二十七日、御年三十八にて終にかくれさせ給ぬ。御心の猛さ、理の強さ、さしもゆゝしき人にてましましけれ共、まめやかに事の急になりしかば、御命を惜ませ給ひける也。誠に惜しかるべし。四十にだにも滿たせ給はで、大殿に先立まゐらせ給こそ悲しけれ。必ずしも父を先立つべしといふことはなけれども、生死のおきてに順ふならひ、萬徳圓滿の世尊、十地究竟の大士達も、力及び給はぬ事どもなり、慈悲具足の山王、利物の方便にてましませば、御咎めなかるべしとも覺えず。 -------------------------------------------------------------------------------- 御輿振 さる程に山門の大衆、國司加賀守師高を流罪に處せられ、目代近藤判官師經を禁獄せらるべき由、奏聞度々に及ぶといへども、御裁許なかりければ、日吉の祭禮を打ち留めて、安元三年四月十三日辰の一點に、十禪師、客人、八王子三社の神輿かざり奉りて、陣頭へ振奉る。下松、きれ堤、賀茂の川原、糺、梅たゞ、柳原、東北院の邊に、しら大衆、神人、宮仕、専當みち/\ て、幾らといふ數を知らず、神輿は一條を西へいらせ給ふ。御神寶天にかゞやいて、日月地に落給かと驚かる。是によて、源平兩家の大將軍、四方の陣頭を固めて、大衆防ぐべきよし仰下さる。平家には、小松の内大臣の左大將重盛公、其勢三千餘騎にて、大宮面の陽明、待賢、郁芳、三つの門をかため給ふ。弟宗盛、知盛、重衡、伯父頼盛、教盛、經盛などは、西南の陣を固められけり。源氏には、大内守護の源三位頼政卿、渡邊の省授をむねとして、その勢僅に三百餘騎、北の門、縫殿の陣を固め給ふ。處は廣し、勢は少し、まばらにこそ見えたりけれ。 大衆無勢たるによて、北の門、縫殿の陣より、神輿を入れ奉らんとす。頼政卿さる人にて、馬よりおり冑をぬいで、神輿を拜し奉る。兵ども皆かくの如し。衆徒の中へ使者を立てゝ、申送る旨あり。その使は、渡邊の長七唱と云者なり。唱その日は、きちんの直垂に、小櫻を黄にかへいたる鎧著て、赤銅作の太刀を帶き、白羽の箭負ひ、滋籐の弓脇にはさみ、冑をばぬぎ高紐に掛け、神輿の御前に畏て申けるは、「衆徒の御中へ源三位殿の申せと候。今度山門の御訴訟、理運の條勿論に候。御成敗遲々こそよそにても遺恨に覺え候へ。さては神輿入れ奉らむこと仔細に及び候はず。但頼政無勢に候ふ。その上明けて入れ奉る陣より入せ給て候はば、山門の大衆は目たりがほしけりなど、京童の申候はむこと、後日の難にや候はんずらむ。神輿を入れ奉らば、宣旨を背くに似たり。又防ぎ奉らば年來醫王、山王に首を傾け奉て候ふ身が、今日より後、弓箭の道に分れ候ひなむず。彼と云ひ、此といひ、旁難治のやうに候。東の陣は、小松殿大勢で固められて候。其陣より入らせ給ふべうもや候ふらむ。」と、いひ送たりければ、 唱がかくいふに防がれて、神人、宮仕暫くゆらへたり。 若大衆共は、「何でうその義あるべき、只此陣より神輿を入れ奉れ。」といふ族多かりけれども、老僧のなかに、三塔一の僉議者と聞えし、攝津の堅者豪雲進み出て申けるは、「尤もさいはれたり。神輿を先立て參らせて、訴訟をいたさば、大勢の中をうち破てこそ、後代の聞えもあらむずれ。就中にこの頼政の卿は、六孫王より以降、源氏嫡々の正統、弓矢を取て未だ其不覺を聞かず。凡武藝にも限らず、歌道にも勝れたり。近衞院御在位の時、當座の御會ありしに、『深山花』といふ題を出されたりけるに、人々讀煩ひしに、此頼政卿、 深山木のその梢とも見えざりし、櫻ははなにあらはれにけり。 といふ名歌仕て、御感に預る程のやさしき男に、時に臨んで、いかがなさけなう耻辱をば與ふべき。此神輿かき返し奉れや。」と僉議しければ、數千人の大衆、先陣より後陣まで、皆尤々とぞ同じける。さて神輿を先立てまゐらせて、東の陣頭待賢門より入れ奉らむとしければ、狼藉忽に出來て、武士ども散々に射奉る。十禪師の御輿にも、矢どもあまた射立たり。神人宮仕射殺され、衆徒多く疵を被る。をめき叫ぶ聲梵天までも聞え、堅牢地神も驚くらんとぞ覺えける。大衆神輿をば、陣頭に振り棄て奉り、泣く/\本山へ歸り上る。 -------------------------------------------------------------------------------- 内裏炎上 藏人の左少辨兼光に仰せて、殿上にて、俄に公卿僉議あり。保安四年七月に、神輿入洛の時は座主に仰せて、赤山の社へ入れ奉る。又保延四年四月に、神輿入洛の時 は、祇園の別當に仰せて、祇園の社へ入れ奉る。今度は保延の例たるべしとて、祇園の別當權大僧都澄兼に仰て、秉燭に及で、祇園の社へ入奉る。神輿に立つ所の箭をば、神人してこれを拔かせらる。山門の大衆、日吉の神輿を陣頭へ振奉ること、永久より以降、治承までは六箇度なり。毎度に武士を召てこそ防がれけれども神輿射奉ること、是始とぞ奉る。「靈神怒をなせば、災害岐に滿つといへり。怖し怖し。」とぞ人々申合はれける。 同十四日夜半ばかり、山門の大衆、又下洛すと聞えしかば、夜中に主上腰輿に召して、院の御所法住寺殿へ行幸なる。中宮は御車に奉て、行啓あり。小松の大臣、直衣に箭負て供奉せらる。嫡子權亮少將維盛、束帶に平胡録負て參られけり。關白殿を始め奉て、太政大臣以下の公卿、殿上人、我も/\と馳せ參る。凡京中の貴賤、禁中の上下、噪ぎのゝしること夥し。山門には神輿に箭立ち、神人宮仕射殺され、衆徒多く疵を被りしかば、大宮、二宮以下、講堂、中堂、すべて諸堂一宇も殘さず皆燒拂て、山野にまじはるべきよし、三千一同に僉議しけり。是によて大衆の申す所、御はからひあるべしと聞えしかば、山門の上綱等、子細を衆徒に觸れむとて、登山したりけるを、大衆おこて西坂本より皆おかへす。 平大納言時忠卿、その時はいまだ左衞門督にておはしけるが、上卿に立つ。大講堂の庭に三塔會合して、上卿を取てひはらんとす。「しや冠打ち落せ、その身を搦めて、湖に沈めよ。」などぞ僉議しける。既にかうと見えけるに、時忠卿、「暫くしづまられ候へ。衆徒の御中へ申すべきこ と有り。」とて、懷より小硯疊紙を取出し、一筆書いて大衆の中へ遣す。是を披いて見れば、「衆徒の濫惡を致すは魔縁の所行なり。明王の制止を加ふるは、善逝の加護なり。」とこそ書かれたれ。是を見て、ひはるに及ばず、皆尤々と同じて、谷々へおり、坊々へぞ入にける。一紙一句をもて、三塔三千の憤をやすめ、公私の耻を逃れ給へる時忠卿こそゆゝしけれ。人々も山門の大衆は、發向のかまびすしきばかりかと思たれば、理も存知したりけりとぞ、感ぜられける。 同廿日、花山院權中納言忠親卿を上卿にて、國司加賀守師高つひに闕官せられて、尾張の井戸田へ流されけり。目代近藤判官師經禁獄せらる。又去る十三日神輿射奉し武士六人獄定せらる。左衞門尉藤原正純、右衞門尉正季、左衞門尉大江家兼、右衞門尉同家國、左兵衞尉清原康家、右兵衞尉同康友、是等は皆小松殿の侍なり。 同四月二十八日亥刻ばかりに、樋口富小路より火出來て、辰巳の風烈しう吹きければ、京中多く燒にけり。大なる車輪の如くなるほむらが、三町五町を隔てゝ、戌亥の方へすぢかへに、飛び越え/\燒け行けば、怖しなどもおろかなり。或は具平親王の千種殿、或は北野の天神の紅梅殿、橘逸勢のはひ松殿、鬼殿、高松殿、鴨居殿、東三條、冬嗣の大臣の閑院殿、昭宣公の堀川殿、これを始めて、昔今の名所三十餘箇所、公卿の家だにも、十六箇所まで燒にけり。その外殿上人、諸大夫の家々は注すに及ばず。はては大内に吹きつけて、朱雀門より始めて、應天門、會昌門、大極殿、豐樂院、諸司、八省、朝所、一時がうちに灰燼の地とぞなりにける。家々の日記、代々の文書、七珍萬寶さながら塵灰となりぬ。その間の費如何ばかりぞ。人の燒 け死ぬること數百人、牛馬の類は數を知らず。これ徒事にあらず、山王の御咎とて、比叡山より大なる猿共が、二三千おりくだり、手に手に松火をともいて、京中を燒くとぞ、人の夢には見えたりける。大極殿は清和天皇の御宇、貞觀十八年に始めて燒けたりければ、同十九年正月三日、陽成院の御即位は、豐樂院にてぞありける。元慶元年四月九日事始ありて同二年十月八日にぞ造り出されたりける。後冷泉院の御宇、天喜五年二月二十六日、又やけにけり。治歴四年八月十四日事始ありしかども、造りいだされずして、後冷泉院崩御なりぬ。後三條院の御宇、延久四年四月十五日造り出して、文人詩を作り奉り、伶人樂を奏して遷幸なし奉る。今は世末になて、國の力も皆衰たれば、その後はつひに造られず。 -------------------------------------------------------------------------------- 平家物語卷第二 座主流 治承元年五月五日、天台座主明雲大僧正、公請を停止せらるゝ上、藏人を御使にて如意輪の御本尊を召返て、御持僧を改易せらる。既使廳の使を附て、今度神輿内裏へ振奉る衆徒の張本をめされける。加賀國に座主の御坊領あり。國司師高是を停廢の間、その宿意に依て、大衆を語らひ訴訟をいたさる。既に朝家の御大事に及ぶ由、西光法師父子が讒奏によて、法皇大に逆鱗ありけり。殊に重科に行はるべしと聞ゆ。明雲は法皇の御氣色惡かりければ、印鎰をかへし奉て、座主を辭し申さる。同十一日鳥羽院七の宮、覺快法親王、天台座主にならせ給ふ。これは青蓮院の大僧正行玄の御弟子也。同じき十二日先座主所職を停めらるゝうへ、檢非違使二人を附て、井に蓋をし、火に水をかけ、水火のせめに及ぶ。是に依て、大衆猶參洛すべき由聞えしかば、京中又噪ぎあへり。 同十八日太政大臣以下の公卿十三人參内して、陣の座につき、先の座主罪科の事議定あり。八條中納言長方卿、其時はいまだ左大辨宰相にて、末座に候はれけるが、申されけるは、「法家の勘状に任せて、死罪一等を減じて、遠流せらるべしと見えて候へ共、前座主明雲大僧正は、顯 密兼學して、淨行持律の上、大乘妙經を公家に授奉り、菩薩淨戒を法皇に持せ奉る。御經の師、御戒の師、重科に行はれん事は、冥の照覽測り難し。還俗遠流を宥らるべきか。」と、憚る處もなう申されければ、當座の公卿皆長方の議に同ずと申あはれけれ共、法皇の御憤深かりしかば、猶遠流に定らる。太政入道も此事申さんとて、院參せられたりけれ共、法皇御風の氣とて、御前へも召され給はねば、本意なげにて退出せらる。僧を罪する習とて、度縁をめし返し、還俗せさせ奉り、大納言大輔、藤井松枝と俗名をぞ附られける。此明雲と申は、村上天皇第七の皇子、具平親王より六代の御末、久我大納言顯通卿の御子也。誠に無雙の碩徳、天下第一の高僧にて坐たれば、君も臣も尊み給ひて、天王寺、六勝寺の別當をもかけ給へり。されども陰陽頭安倍泰親が申けるは、「さばかりの智者の明雲と名乘給ふこそ心得ね。うへに月日の光を竝て、下に雲有。」とぞ難じける。仁安元年二月廿日、天台の座主にならせ給ふ。同三月十五日御拜堂あり。中堂の寶藏を開かれけるに、種々の重寶共の中に、方一尺の箱有り。白い布で包まれたり、一生不犯の座主、彼箱を開けて見給ふに、黄紙に書る文一卷有り。傳教大師、未來の座主の名字を兼てしるし置れたり。我が名の有所迄は見て、それより奧をば見ず、元の如く卷返して置るゝ習也。されば此僧正も、さこそ坐けめ。貴き人なれども、先世の宿業をば免れ給はず。哀なりし事ども也。 同二十一日配所伊豆國と定らる。人々樣々に申あはれけれ共、西光法師父子が讒奏に依て、加樣に行はれけり。軈て今日都の内をおひ出さるべしとて、追立の官人、白河の御坊に向てお ひ奉る。僧正なく/\御坊を出て、粟田口の邊、一切經の別所へ入らせ給ふ。山門には、詮ずる所、我等が敵は、西光父子に過たる者なしとて、彼等親子が名字を書いて、根本中堂に坐ます十二神將のうち、金毘羅大將の左の御足の下に蹈せ奉り、「十二神將、七千夜叉、時刻をめぐらさず西光父子が命をめし取り給へや。」と、喚き叫で咒咀しけるこそ聞も怖しけれ。 同廿三日一切經の別所より配所へ赴き給けり。さばかりの法務の大僧正程の人を、追立の欝使が先にけたてさせ、今日を限りに都を出て、關の東へ趣かれけん心の中推量られて哀也。大津の打出の濱にもなりしかば、文殊樓の軒端の白々として見えけるを、二目共見給はず、袖を顏に推當て、涙に咽び給ひけり。山門に宿老碩徳多といへども、澄憲法印、其時はいまだ僧都にて坐けるが、餘に名殘を惜み奉り、粟津まで送り參せ、さてもあるべきならねば、それより暇申てかへられけるに、僧正志の切なる事を感じて、年來御心中に祕せられたりし、一心三觀の血脈相承をさづけらる。此法は釋尊の附屬、波羅奈國の馬鳴比丘、南天竺の龍樹菩薩より、次第に相傳し來れるを、今日の情に授けらる。さすが我朝は粟散邊地の境、濁世末代といひながら、澄憲是を附屬して、法衣の袂を絞りつゝ、都へ歸のぼられける心の中こそ尊けれ。山門には大衆起て僉議す。「抑義眞和尚より以降、天台座主始まて、五十五代に至るまで、未流罪の例を聞かず。倩事の心を案ずるに、延暦の比ほひ、皇帝は帝都を立て、大師は當山に攀上て、四明の教法を此所に弘め給しより以降、五障の女人跡絶て、三千の淨侶居を占たり。嶺には一乘讀誦年經て、麓には七社の靈驗日新なり。彼月氏の靈山は、王城の東北大聖 の幽窟也。此日域の叡岳も、帝都の鬼門に峙て、護國の靈地なり。代々の賢王智臣、此所に壇場を占む。末代ならんからに、いかんが當山に瑕をばつくべき。心うし。」とて、喚き叫といふ程こそ有けれ、滿山の大衆、皆東坂本へ降下る。 -------------------------------------------------------------------------------- 一行阿闍梨之沙汰 「抑我等粟津へ行向て、貫首をうばひとゞめ奉るべし。但追立の欝使領送使有なれば、事故なう執得奉らん事有難し。山王大師の御力の外は憑方なし。「誠に別の仔細なく、取え奉るべくは、爰にて先瑞相を見せしめ給へ。」と老僧共肝膽を碎て祈念しけり。 爰に無動寺の法師乘圓律師が童、鶴丸とて生年十八歳になるが、心身を苦しめ、五體に汗を流いて、俄に狂ひ出たり。「我十憚師乘居させ給へり。末代といふ共、爭か我山の貫首をば、他國へは遷さるべき。生々世々に心憂し。さらむに取ては、我此麓に跡をとゞめても、何にかはせん。」とて、左右の袖を顏に押あてゝ、涙をはら/\と流す。大衆これをあやしみて、「誠に十禪師權現の御託宣にてあらば、我等驗を參らせん、少しもたがへず元の主に返し給へ。」とて、老僧共四五百人、手手に持たる數珠どもを、十禪師の大床の上へぞ投上たる。此物狂、走りまはて、拾ひ集め、少も違ず、一々に皆元の主にぞ賦ける。大衆神明の靈験新なる事の尊さに、皆掌を合て、隨喜の感涙をぞ催ける。「其儀ならば行向て奪留奉れ。」といふ程こそありけれ、雲霞の如くに發向す。或は志賀唐崎の濱路に歩みつゞける大衆も有り。或は山田矢ばせの湖上に舟 押出す衆徒も有り。是を見て、さしも緊しげなりつる追立の欝使領送使、四方へ皆逃去りぬ。 大衆國分寺へ參向ふ。前座主大に驚いて、「勅勘の者は、月日の光にだにも當らずとこそ申せ。如何に況や、急ぎ都のうちを逐出さるべしと、院宣宣旨のなりたるに、しばしもやすらふべからず。衆徒とう/\歸り上り給へ。」とて、端近うゐ出て宣けるは、「三台槐門の家をいでて、四明幽溪の窓に入しより以降、廣く圓宗の教法を學して、顯密兩宗を學き。只吾山の興隆をのみ思へり。又國家を祈奉る事おろそかならず。衆徒を育む志も深かりき。兩所山王定て照覽し給ふらん。我身に誤つ事なし。無實の罪に依て、遠流の重科を蒙れば、世をも人をも神をも佛をも恨み奉る事なし。是まで訪ひ來給ふ衆徒の芳志こそ、報じ盡しがたけれ。」とて香染の御衣の袖絞も敢させ給はねば、大衆も皆涙をぞ流しける。御輿さしよせて、「とうとうめさるべう候。」と申ければ、「昔こそ三千の衆徒の貫首たりしが、今はかゝる流人の身と成て、如何がやごとなき修學者、智慧深き大衆達には舁捧られては上るべき。縱のぼるべきなり共、鞋などいふ物をしばりはき、同樣に歩續いてこそ上らめ。」とてのり給はず。 爰に西塔の住侶、戒淨坊の阿闇梨祐慶といふ惡僧あり。長七尺計有けるが、黒革縅の鎧の、大荒目に金まぜたるを、草摺ながに著成て、冑をば脱ぎ法師原に持せつゝ、白柄の大長刀杖につき、「あけられ候へ。」とて、大衆の中を押分々々先座主のおはしける所へつと參りたり。大の眼を見瞋し、暫にらまへ奉り、「その御心でこそ、かゝる御目にも逢せ給へ。とう/\召 るべう候。」と申ければ、怖さに急ぎのり給ふ。大衆取得奉る嬉さに、賤き法師原にはあらで、止事なき修學者ども、舁捧奉り喚き叫んで上けるに、人はかはれ共祐慶はかはらず、前輿舁て、長刀の柄も輿の轅も、碎けよと取まゝに、さしも嶮しき東坂平地を行が如く也。大講堂の庭に輿舁居て、僉議しけるは、「抑我等粟津に行向て、貫首をば奪とゞめ奉りぬ。すでに勅勘を蒙りて、流罪せられ給ふ人をとりとゞめ奉て、貫首に用申さん事、如何有べからん。」と僉議す。戒淨坊阿闇梨、又先の如くに進み出て僉議しけるは、「夫當山は日本無雙の靈地、鎭護國家の道場、山王の御威光盛にして、佛法王法牛角也。されば衆徒の意趣に至るまで、雙なく、賤き法師原までも、世以て輕しめず。況や智慧高貴にして、三千の貫首たり。今は徳行おもうして一山の和尚たり。罪なくして罪を蒙る。是山上洛中の憤り、興福園城の嘲に非ずや。此時顯密の主を失て、數輩の學侶、螢雪の勤怠らむ事心うかるべし。詮ずる所、祐慶張本に稱せられ、禁獄流罪もせられ、首を刎られん事、今生の面目冥土の思出なるべし。」とて、雙眼より涙をはら/\と流す、大衆尤々とぞ同じける。其よりしてこそ、祐慶をばいかめ房とはいはれけれ。其弟子に慧慶律師をば、時の人小いかめ房とぞ申ける。 大衆先座主をば、東塔の南谷、妙光坊へ入奉る。時の横災は、權化の人ものがれ給はざるやらん。昔大唐の一行阿闍梨は、玄宗皇帝の御持僧にて坐けるが、玄宗の后楊貴妃に名をたち給へり。昔も今も、大國も小國も、人の口のさがなさは、跡形なき事なりしかども、その疑に依て、果羅國へ流されさせ給ふ。件の國へは三つ道有り。輪池道とて、御幸道、幽地道と て、雜人の通ふ道、暗穴道とて、重科の者を遣す道なり。されば彼一行阿闇梨は大犯の人なればとて、暗穴道へぞ遣しける。七日七夜が間、月日の光をみずして行道なり。冥々として人もなく、行歩に前途迷ひ、森森として山深し。唯 [1] 澗谷に鳥の一聲計にて、苔のぬれ衣ほしあへず、無實の罪に依て、遠流の重科を蒙むる事を、天道憐み給ひて、九曜の形を現じつゝ、一行阿闍梨を守り給ふ。時に一行右の指を噬切て、左の袂に九曜の形を寫されけり。和漢兩朝に眞言の本尊たる九曜の曼陀羅是也。 [1] The kanji in our copy-text is New Nelson 3330. -------------------------------------------------------------------------------- 西光被斬 大衆先座主を取とゞむる由、法皇聞召て、いとゞやすからずぞおぼしめされける。西光法師申けるは、「山門の大衆、亂がはしき訴仕る事、今にはじめずと申ながら、今度は以の外に覺候。これ程の狼藉いまだ承り及候はず。能々御誡め候へ。」とぞ申ける。身のたゞ今滅びんずるをもかへりみず、山王大師の神慮にもかゝはらず、か樣に申て宸襟を惱し奉る。讒臣は國を亂ると云へり。實なる哉、「叢蘭茂からんとすれども、秋の風是を敗り、王者明ならんとすれば、讒臣是を暗す。」とも、か樣の事をや申べき。此事新大納言成親卿以下近習の人々に仰合せられ、山責らるべしと聞えしかば、山門の大衆さのみ王地に孕れて、詔命をそむくべきにあらずとて、内々院宣に隨奉る衆徒もありなど聞えしかば、前座主明雲大僧正は妙光坊に坐けるが、大衆二心有ときいて、「終に如何なる目にか逢はむずらん。」と、心細げにぞ宣ける。さ れども流罪の沙汰はなかりけり。 新大納言成親卿は、山門の騒動に依て、私の宿意をばしばらくおさへられけり。そも内議支度は樣々なりしかども、義勢計にては、此謀反叶ふべうも見えざりしかば、さしも憑れたりける多田藏人行綱、無益なりと思ふ心附にけり。弓袋の料に、送られたりける布共をば、直垂帷に裁縫せて、家子郎等共に著せつゝ、目うちしばたゝいて居たりけるが、倩平家の繁昌する有樣をみるに、當時輙く傾けがたし。由なき事に與してけり。若此事もれぬる物ならば、行綱まづ失はれなんず。他人の口より漏れぬ先に廻忠して、命生うと思ふ心ぞ附にける。 同五月二十九日の小夜深方に、多田藏人行綱、入道相國の西八條の亭に參て、「行綱こそ申べき事候間參て候へ。」と、いはせければ、入道「常にも參らぬ者が參じたるは何事ぞ。あれきけ。」とて、主馬判官盛國を出されたり。「人傳には申まじき事也。」といふ間、さらばとて、入道自中門の廊へ出られたり。「夜は遙に更ぬらん、唯今如何に、何事ぞや。」とのたまへば、「晝は人目の繁う候間、夜に紛れ參て候。此程に院中の人々の兵具を調へ、軍兵を召され候をば、何とか聞召されて候。」「其は山攻めらるべしとこそきけ。」といと事もなげにぞのたまひける。行綱近うより、 小聲に成て申けるは、「其儀にては候はず、一向御一家の御上とこそ承り候へ。」「さて其をば法皇も知召されたるか。」「仔細にや及び候。成親卿の軍兵催され候も、院宣とてこそ召され候へ。俊寛がと振舞て、康頼がかう申て、西光がと申て。」など云ふ事共、始よりありの儘には指過ていひ散し、暇申てとて出にけり。入道大に驚き大聲をもて、 侍共よびのゝしり給ふ事聞もおびたゞし。行綱なまじひなる事申出して證人にや引れんずらんとおそろしさに、大野に火を放たる心地して、人も追はぬに執袴して、急ぎ門外へぞにげ出ける。入道、先づ貞能を召て、「當家傾うとする謀反の輩、京中に滿々たんなり。一門の人々にも觸申、侍共催せ。」と宣へば、馳廻て催す。右大將宗盛卿、三位中將知盛、頭中將重衡、左馬頭行盛以下の人々、甲冑を鎧ひ、弓箭を帶し馳集る。其外軍兵雲霞の如くに馳つどふ。其夜の中に西八條には、兵ども六七千騎も有らんとこそ見えたりけれ。明れば六月一日なり。未暗かりけるに、入道、檢非違使安倍資成をめして、「きと院の御所へ參れ。信成を招いて申さんずる樣はよな、近習の人々、此一門を亡して天下を亂らんとする企あり。一々に召取て、尋沙汰仕るべし。夫をば君も知召るまじう候と申せ。」とこそ宣けれ。資成急ぎ馳參り、大膳大夫信成喚出いて、此由申に、色を失ふ。御前へ參て、此よし奏聞しければ、法皇、「あは此等が内々計りし事の、泄にけるよ。」と思召にあさまし。さるにても、「こは何事ぞ。」とばかり仰られて、分明の御返事もなかりけり。資成急ぎ馳歸て、入道相國に此由申せば、「さればこそ。行綱は、實をいひけり。此事行綱知らせずば、淨海安穩にあるべしや。」とて、飛騨守景家、筑後守貞能に仰て、謀反の輩、搦捕べき由下知せらる。仍二百餘騎、三百餘騎、あそここゝに押寄々々搦捕る。 太政入道先雜色をもて、中御門烏丸の新大納言成親卿の許へ、「申合すべき事あり。きと立寄給へ。」とのたまひつかはされたりければ、大納言我身の上とは、露しらず、「あはれ是は法皇の 山攻らるべきよし、御結構有を、申とゞめられんずるにこそ。御いきどほり深げ也。如何にもかなふまじきものを。」とて、ないきよげなる布衣たをやかに著なし、鮮なる車に乘り、侍三四人召具して、雜色牛飼に至るまで、常よりも引繕れたり。そも最後とは後にこそおもひ知れけれ。西八條近う成て見給へば、四五町に軍兵滿々たり。あな夥し。こは何事やらんと、胸打騒ぎ、車より下り、門の内に差入て見給へば、内にも、兵共隙はざまも無ぞ滿々たる。中門の口に怖げなる武士共、數多待受て、大納言の左右の手を取て引張り、「縛べう候らん。」と申、入道相國簾中より見出して、「有べうもなし。」とのたまへば、武士共前後左右に立圍み、縁の上に引のぼせて、一間なる處に押籠てけり。大納言夢の心地して、つや/\物もおぼえ給はず。供なりつる侍共、押隔られて、散々に成ぬ。雜色牛飼色を失ひ、牛車を捨て逃去ぬ。 さる程に、近江中將入道蓮淨、法勝寺執行俊寛僧都、山城守基兼、式部大輔正綱、平判官康頼、宗判官信房、新平判官資行も、捕れて出來たり。 西光法師此事聞て、我身の上とや思ひけん、鞭を擧院の御所法住寺殿へ馳參る。平家の侍共、道にて馳向ひ、「西八條へ召るゝぞ。きと參れ。」と言ければ、「奏すべき事有て、法住寺殿へ參る。軈てこそ參らめ。」と云ければ、「惡い入道哉。何事をか奏すべかんなる。さないはせそ。」とて、馬より取て引落し、中に縛て、西八條へさげて參る。日の始より根元與力の者なりければ、殊によう縛て、坪の内にぞ引居たる。入道相國大床に立て、「入道傾うとする奴が なれる姿よ。しやつ爰へ引寄よ。」とて、縁のきはに引寄させ、物はきながら、しや頬をむずむずとぞふまれける。「本より己らが樣なる下臈の果を君の召仕はせ給ひて、なさるまじき官職をなし給び、父子ともに過分の振舞をすると見しに合せて、過たぬ天台座主流罪に申行ひ、天下の大事引出いて、剩へ此一門ほろぼすべき謀反に與してける奴なり。有のまゝに申せ。」とこそのたまひけれ。西光元より勝れたる大剛の者なりければ、ちとも色も變ぜず、惡びれたる景氣もなし。居直り、あざ笑て申けるは、「さもさうず、入道殿こそ過分の事をばのたまへ。他人の前はしらず、西光が聞ん處に左樣の事をば、えこそのたまふまじけれ。院中に召仕るる身なれば、執事の別當成親卿の院宣とてもよほされし事に與せずとは申べき樣なし。それは與したり。但し耳に留まる事をも宣ふ物かな。御邊は故刑部卿忠盛の子で坐しか共、十四五までは出仕もし給はず、故中御門藤中納言家成卿の邊に立入り給ひしをば、京童部は高平太とこそ言しか。保延の頃、大將軍承り海賊の張本三十餘人、搦進ぜられたりし賞に四品して、四位の兵衞佐と申ししをだに、過分とこそ時の人々は申合れしか。殿上の交をだに嫌はれし人の子孫にて太政大臣迄なりあがたるや過分なるらむ。侍品の者の、受領檢非違使に成る事、先例傍例なきに非ず。なじかは過分なるべき。」と、憚る所なう申ければ、入道餘にいかて、物も宣はず。斬し有て「しやつが頸左右なう切な。よく/\戒めよ。」とぞ宣ける。松浦太郎重俊承て、足手を挾み樣々に痛問ふ。本より爭がひ申さぬ上、糺問は緊かりけり。殘なうこそ申けれ。白状四五枚に記され、やがて、しやつが口をさけとて、口を裂れ、五條朱 雀にて、きられにけり。嫡子前加賀守師高、尾張の井戸田へ流されたりけるを、同國の住人小胡麻の郡司維季に仰て討れぬ。次男近藤判官師經禁獄せられけるを、獄より引出され、六條河原にて誅せらる。其弟左衞門尉師平、郎等三人、同く首を刎られけり。是等は云甲斐なき者の秀て、いろふまじき事に綺ひ、あやまたぬ天台座主流罪に申行ひ、果報や盡にけん、山王大師の神罰冥罰を立處に蒙て、斯る目に逢へりけり。 -------------------------------------------------------------------------------- 小教訓 新大納言は一間なる所に押籠られ、汗水に成りつゝ、あはれ是は日比の有まし事の洩聞えけるにこそ。誰漏しつらん。定て北面の者共が中にこそ有らむなど、思はじ事なう案じ續けて坐けるに、後の方より足音の高らかにしければ、すは唯今我命を失はむとて、武士共が參るにこそと待給に、入道自ら板敷高らかに踏鳴し、大納言の坐ける後の障子を、さとあけられたり。素絹の衣の、短らかなるに、白き大口ふみくゝみ、聖柄の刀押くつろげてさす儘に、以の外に怒れる氣色にて、大納言を暫睨まへ、「抑御邊は平治にも已に誅せらるべかりしを、内府が身にかへて申宥、頸を繼たてましは如何に。何の遺恨を以て、此一門ほろぼすべき由御結構は候けるやらん。恩を知を人とはいふぞ、恩を知ぬをば畜生とこそいへ。されども當家の運命盡ざるに依て、迎へたてまつたり。日比の御結構の次第、直に承らん。」とぞ宣ける。大納言「全くさること候はず。人の讒言にてぞ候らむ。能々御尋候へ。」と申されければ、入 道言せも果ず。「人やある、人やある。」と召れければ、貞能參りたり。「西光めが白状參せよ。」と仰られければ、持て參りたり。是を取て二三返押返々々讀きかせ、「あなにくや、此上は何と陳ずべき。」とて、大納言の顏にさと投懸け、障子をちやうとたててぞ出られける。入道猶腹を居兼て、「經遠、兼康」と召せば、瀬尾太郎、難波次郎、參りたり。「あの男取て、庭へ引落せ。」と宣へば、是等は左右なうもし奉らず、「小松殿の御氣色いかゞ候はんずらん。」と申ければ、入道相國大にいかて、「よし/\、己らは内府が命をば重して、入道が仰をば輕うじけるごさんなれ。その上は力及ばず。」と宣へば、此事あしかりなんとや思けん、二人の者共立上て、大納言を庭へ引落し奉る。其時入道心地よげにて、「取て伏せて、喚かせよ。」とぞ宣ける。二人の者ども、大納言の左右の耳に口をあて、「如何樣にも御聲の出べう候。」と私語いて引伏奉れば、二聲三聲ぞ喚れける。其體、冥途にて娑婆世界の罪人を、或は業の秤にかけ、或は淨頗梨鏡に引向て、罪の輕重に任せつつ、阿防羅刹が呵責すらんも、是には過じとぞ見えし。蕭樊囚れ囚て韓彭俎醢たり。晁錯戮をうけて周儀罪せらる。たとへば、蕭何、樊、韓信、彭越、是等は皆高祖の忠臣なりしか共、小人の讒に依て、過敗の恥をうくとも、か樣の事をや申べき。 新大納言は我身のかくなるにつけても、子息丹波の少將成經以下、をさなき人々如何なる目にか遭らむと、おもひやるにもおぼつかなし。さばかり熱き六月に裝束だにもくつろげず、熱さもたへがたければ、 胸せき上る心地して、汗も涙も爭ひてぞ流れける。「さり共小松殿は、 思召はなたじ者を。」とのたまへ共、誰して申べしと覺給はず。 小松大臣は、其後遙に程歴て、嫡子權亮少將車のしりにのせつゝ、衞府四五人、隨身二三人召具して、兵一人も召具せられず、殊に大樣げで坐したり。入道を始奉て、人々皆思はずげにぞ見給ひける。車より下給ふ處に、貞能つと參て、「など是程の御大事に、軍兵をば一人も召具せられ候はぬぞ。」と申せば、「大事とは天下の大事をこそいへ、か樣の私事を大事と云樣やある。」とのたまへば、兵仗を帶したりける者共もそゞろいてぞ見えける。そも大納言をば何くに置かれたるやらんと、此彼の障子引明け/\見給へば、ある障子の上に蜘手結たる所あり。爰やらんとて開られたれば、大納言坐けり。涙に咽びうつぶして、目も見合せ給はず。「如何にや。」と宣へば、その時見附奉り、うれしげに思はれたる氣色、地獄にて罪人共が、地藏菩薩を見奉るらんもかくやと覺えて哀なり。「何事にて候やらん、かゝる目にあひ候。さて渡らせ給へば、さり共とこそ憑まゐらせて候へ。平治にも已に誅せらるべきにて候しが、御恩を以て頸をつがれ參せ、正二位の大納言に上て、歳已に四十に餘り候。御恩こそ生々世々にも報じ盡しがたう候へ。今度も同じくは、かひなき命を助けさせ坐ませ。命だに生て候はゞ、出家入道して、高野粉川に閉籠り、後世菩提の勤を營み候はん。」とぞ被申ければ、「さ候共、御命失ひ奉るまではよも候はじ。縱さは候共、重盛かうて候へば、御命にもかはり奉るべし。」とて出られけり。父の禪門の御前に坐て、「あの成親卿失れん事、よく/\御計候べし。先祖修理大夫顯季、白河院に召仕はれてより以降、家に其例なき正二位の大納言に上 て、當時君無雙の御いとほしみ也。軈て頸を刎られん事、いかがさぶらふべからん。都の外へ出されたらんに、事たり候なん。北野天神は時平大臣の讒奏にて、憂名を四海の浪に流し、西宮の大臣は、多田滿仲が讒言にて、恨を山陽の雲によす。各無實なりしか共、流罪せられ給ひにき。是皆延喜の聖代、安和の御門の御僻事とぞ申傳へたる。上古猶かくの如し。況や末代に於てをや。既に召置れぬる上は、急ぎ失はれず共、何の苦みか候べき。『刑の疑しきをば輕んぜよ。功の疑しきをば重んぜよ。』とこそ見えて候へ。事新しく候へども、重盛彼大納言が妹に相具して候。維盛又聟なり。か樣に親しく成て候へば、申とや思召され候らん。其儀では候はず。世の爲君の爲、家の爲の事を以て申候。一年故少納言入道信西が執權の時に相當て、我朝には嵯峨皇帝の御時、右兵衞督藤原仲成を誅られてより以來、保元までは、君二十五代の間、行はれざりし死罪を始て執行ひ、宇治の惡左府の死骸を掘おこいて、實檢せられたりし事などは餘なる御政とこそ覺え候しか。されば古の人々も、『死罪を行へば、海内に謀反の輩絶ずと。』こそ申傳て候へ。此詞に附て、中二年有て平治に又世亂れて、信西が埋れたりしを掘出し、首を刎て大路を渡され候にき。保元に申行ひし事、幾程もなく、身の上にむかはりにきと思へば、怖しうこそ候しか。是はさせる朝敵にもあらず。旁恐あるべし。御榮花殘る所なければ、思召す事在まじけれ共、子々孫々迄も繁昌こそあらまほしう候へ。父祖の善惡は、必子孫に及ぶと見えて候。積善家必餘慶あり積惡門には必餘殃とどまるとこそ承れ。如何樣にも、今夜首を刎られん事は、然べう候はず。」と申されければ、 入道相國げにもとや思はれけん、死罪は思とゞまりぬ。 其後大臣中門に出て、侍共に宣けるは、「仰なればとて、大納言左右なう失ふ事有るべからず。入道腹のたちのまゝに、物噪き事し給ては、後に必悔しみ給ふべし。僻事してわれ恨な。」と宣へば、兵共、皆舌を振て恐慄く。「さても經遠、兼康が、けさ大納言に情なう當りける事、返返も奇怪也。重盛が還聞ん所をばなどかは憚らざるべき。片田舎の者はかゝるぞとよ。」と宣へば、難波も瀬尾も、共に恐入たりけり。大臣はか樣に宣て、小松殿へぞ歸られける。さる程に大納言のともなりつる侍ども、中御門烏丸の宿所へ走り歸て、此由申せば、北方以下の女房達、聲も惜まず泣叫ぶ。「既に武士の向ひ候。少將殿を始參らせて、君達も捕れさせ給ふべしとこそ聞え候へ。急ぎ何方へも忍ばせ給へ。」と申ければ、「今は是程の身に成て、殘り留る身とても、安穩にて何かはせん。唯同じ一夜の露とも消ん事こそ本意なれ。さても今朝を限と知らざりける悲しさよ。」とて、臥まろびてぞ泣かれける。已に武士共の近附よし聞えしかば、かくて又恥がましくうたてき目を見んもさすがなればとて、十に成給ふ女子、八歳の男子、車に取乘せ、何くを指共なくやり出す。さても有べきならねば、大宮を上りに、北山の邊雲林院へぞ坐ける。其邊なる僧坊に下置奉て、送の者ども、身の捨がたさに、暇申て歸りけり。今は幼き人々計殘居て、又事問ふ人もなくして御座けむ北方の心の中、推量られて哀なり。暮行影を見給ふにつけては、大納言の露の命、此夕を限也と、思ひやるにも消ぬべし。女房侍多かりけれ共、物をだに取したゝめず、門をだに推もたてず。馬どもは厩 に竝たちたれ共、草飼ふ者一人もなし。夜明れば馬車門に立なみ、賓客座に列て、遊戯れ舞躍り、世を世とも思ひ給はず、近き傍の人は、物をだに高く言はず、怖畏てこそ昨日までも有しに、夜の間に變る有樣、盛者必衰の理は目の前にこそ顯れけれ。樂盡て哀來ると書れたる江相公の筆の跡、今こそ思しられけれ。 -------------------------------------------------------------------------------- 少將乞請 丹波少將成經は、其夜しも院の御所法住寺殿に上臥して、未出られざりけるに、大納言の侍共、急ぎ御所へ馳參て、少將殿を呼出し奉り、此由申に、「などや宰相の許より今まで告知せざるらん。」と、宣も果ねば、宰相殿よりとて使あり。此宰相と申は、入道相國の弟也、宿所は六波羅の惣門の内なれば門脇の宰相とぞ申ける。丹波少將には舅なり。「何事にて候やらん、入道相國のきと西八條へ具し奉れと候と申せ。」といはせられたりければ、少將此事心得て、近習の女房達呼出し奉り、「夜邊何となう世の物騒う候しを、例の山法師の下るかと餘所に思て候へば、早成經が身の上にて候ひけり。大納言よさり斬らるべう候なれば、成經も同罪にてこそ候はんずらめ。今一度御所へ參て、君をも見まゐらせたう候へ共、既にかゝる身に罷成て候へば、憚存候。」とぞ申されける。女房達御前へ參り、此由奏せられければ、法皇大に驚かせ給て、さればこそ今朝の入道相國が使に早御心得あり。「あは此等が内々謀し事の漏にけるよ。」と思召すにあさまし。「さるにても是へ。」と御氣色有ければ、參られたり。法皇も御 涙を流させ給ひて、仰下さるゝ旨もなし。少將も涙に咽で申あぐる旨もなし。良有てさてもあるべきならねば少將袖を顏に押當てゝ、泣々罷出られけり。法皇は後を遙に御覽じ送らせ給ひて、末代こそ心憂けれ、是かぎりで又御覽ぜぬ事もやあらんずらんとて、御涙を流させ給ぞ忝き。院中の人々、少將の袖をひかへ、袂にすがて名殘ををしみ、涙を流さぬはなかりけり。 舅の宰相の許へ出られたれば、北方は近う産すべき人にて御座けるが、今朝より此歎を打添て、已に命も消入る心地ぞせられける。少將御所を罷出つるより、流るゝ涙つきせぬに、北方の有樣を見給ひてはいとゞ爲方なげにぞ見えられける。少將乳母に六條と云女房あり。「御乳に参り始候らひて、君をちの中より抱上参て、月日の重なるに隨ひて、我身の年の行をば歎ずして、君の成人しう成せ給ふ事をのみうれしう思ひ奉り、白地とは思へども、既に二十一年、片時も離れ参らせず。院内へ参らせ給ひて、遲う出させ給ふだにも、覺束なう思ひ参らするに、如何なる御目にか遭せ給はんずらん。」と泣く。少將、「痛な歎そ。宰相さて坐れば、命許はさり共乞請給はんずらん。」と、慰たまへども、人目もしらず、泣悶えけり。 西八條殿より、使しきなみに有ければ、宰相「行むかうてこそ、ともかうも成め。」とて出給へば少將も宰相の車の後に乘てぞ出られける。保元平治より以來、平家の人々、樂榮えのみ有て、愁歎はなかりしに、此宰相計こそ、由なき聟ゆゑに、かゝる歎をばせられけれ。西八條近うなて、車を停め、先案内を申入られければ、太政入道「丹波少將をば此内へは入らるべから ず。」と宣ふ間、其邊近き侍の家におろし置つゝ、宰相計ぞ門の内へは入給ふ。少將をば、いつしか兵共打圍んで守護し奉る。憑れつる宰相殿には離れ給ひぬ。少將の心の中、さこそは便無りけめ。宰相中門に居給ひたれば、入道對面もし給はず。源大夫判官季貞をもて申入られけるは、「由なき者に親うなて、返々悔しう候へども、甲斐も候はず。相具せさせて候者の、此程惱む事の候なるが、今朝より此歎を打そへては既に命も絶なんず。何かはくるしう候べき。少將をば暫く教盛に預させおはしませ。教盛かうて候へば、なじかは僻事せさせ候べき。」と申されければ、季貞参て此由申す。「あはれ例の宰相が、物に心得ぬ。」とて、頓に返事もし給はず。良有て入道宣けるは、「新大納言成親、此一門を滅して天下を亂むとする企あり。此少將は既に彼大納言が嫡子也。疎うもあれ、親うもあれ、えこそ申宥むまじけれ。若此謀反とげましかば、御邊とてもおだしうや御座べきと申せ。」とこそのたまひけれ。季貞歸参て、此由宰相殿に申ければ、誠に本意なげにて、重て申されけるは、「保元平治より以降、度々の合戰にも、御命に代り参らせんとこそ存候へ。此後もあらき風をば、先防ぎ参らせ候はんずるに、縱教盛こそ年老て候とも、若き子供數多候へば、一方の御固にはなどか成で候べき。それに成經暫預らうと申を、御容れ無きは、教盛を一向二心ある者と思召にこそ。是程後めたう思はれ参らせては、世に有ても何にかはし候べき。今は只身の暇を賜て、出家入道し、片山里に籠て、一筋に後世菩提の勤を營み候はん。由なき憂世の交なり。世にあればこそ望もあれ、望の叶はねばこそ恨もあれ。しかじ憂世を厭ひ、眞の道に入なんには。」とぞ宣 ける。季貞参て、「宰相殿は早思召切て候ぞ。ともかうも能樣に御計ひ候へ。」と申ければ、入道、大に驚いて、「さればとて出家入道まではあまりにけしからず。其儀ならば、少將をば暫御邊に預奉ると云べし。」とこそ宣けれ。季貞歸まゐて、宰相殿に此由申せば、「あはれ人の子をば持まじかりける物かな。我子の縁に結れざらむには、是程心をば碎じ物を。」とて出られけり。 少將待受奉て、「さていかゞ候つる、」と申されければ、「入道餘に腹をたてて、教盛には終に對面もし給はず。叶ふまじき由頻に宣ひつれ共、出家入道まで申たればにやらん、暫く宿所に置奉れとの給ひつれども、始終よかるべしとも覺えず。」少將、「さ候へばこそ成經も御恩をもて、暫の命も延候はんずるにこそ。其につき候ては、大納言が事をばいかゞ聞召され候ぞ。」「其迄は思も寄ず。」と宣へば、其時涙をはら/\と流いて、「誠に御恩を以てしばしの命もいき候はんずる事は然るべう候へども、命の惜う候も、父を今一度見ばやと思ふ爲也。大納言が斬れ候はんに於ては、成經とても、かひなき命を生て何にかはし候べき。唯一所でいかにもなる樣に、申てたばせ給ふべうや候らん。」と申されければ、宰相世にも苦げにて、「いさとよ、御邊の事をこそとかう申つれ。其までは思も寄ねども、大納言殿の御事をば、今朝内の大臣の樣々に申されければ、其も暫は心安い樣にこそ承はれ。」と宣へば、少將、泣々手を合てぞ悦れける。「子ならざらむ者は、誰か唯今我身の上をさしおいて、是程までは悦べき。實の契は親子の中にぞ有ける。子をば人の持べかりける物哉。」とやがて思ぞ返されける。さて今朝 の如くに同車して歸られけり。宿所には女房達、死だる人の生かへりたる心地して、差つどひて皆悦び泣どもせられけり。 -------------------------------------------------------------------------------- 教訓状 太政入道は、か樣に人々數多縛め置ても、猶心行ずや思はれけん。既に赤地の錦の直垂に、黒絲縅の腹卷の、白金物打たる胸板せめて、先年安藝守たりし時、神拜の次に、靈夢を蒙て、嚴島の大明神より現に賜はられたりける銀の蛭卷したる小長刀、常の枕を放ず立られたりしを脇挾み、中門の廊へぞ出られける。其氣色大方ゆゝしうぞ見えし。貞能を召す。 [2]筑後守貞能は木蘭地の直垂に緋縅の鎧著て、御前に畏て候。やゝあて入道宣けるは、「貞能、此事如何思ふ。保元に平右馬助を始として、一門半過て、新院の御方へ参にき。一宮の御事は、故刑部卿殿の養君にて坐いしかば、旁々見放ち参らせ難かしども、故院の御遺誡に任て、御方にて先を懸たりき。是一の奉公也。次に平治元年十二月、信頼義朝が院内を取奉り、大内にたて籠り天下黒闇と成しに、入道身を捨て、凶徒を追落し、經宗惟方を召縛しに至まで、既に君の御爲に命を失んとする事度度に及ぶ。たとひ人何と申す共、七代までは此一門をば爭でか捨させ給べき。其に成親と云ふ無用の徒者、西光と云下賤の不當人めが申す事に附かせ給て、此一門を滅すべき由、法皇の御結構こそ遺恨の次第なれ。此後も讒奏する者あらば、當家追討の院宣下されつと覺るぞ。朝敵となて後は、いかに悔ゆとも益あるまじ。世を靜めん程、 法皇を鳥羽の北殿へ移奉るか、然らずは、是へまれ、御幸をなし参らせんと思ふは如何に。其儀ならば、北面の輩、箭をも一つ射んずらん。侍共にその用意せよと觸べし。大方は入道院方の奉公思切たり。馬に鞍おかせよ。きせながとり出せ。」とぞ宣ける。 主馬判官盛國、急ぎ小松殿へ馳參て、「世は既にかう候。」と申ければ、大臣聞も敢ず。「あは早成親卿が首を刎られたるな。」と宣へば、「さは候はねども、入道殿御著背長召され候。侍共も皆打立て法住寺殿へ寄んと出たち候。法皇をば鳥羽殿へ押籠参らせうと候が、内々は鎭西の方へ流し参らせうと被擬候。」と申せば、大臣、爭かさる事在べきと思へ共、今朝の禪門の氣色、さる物狂しき事もあるらむとて、車を飛して、西八條へぞおはしたる。 門前にて車よりおり、門の内へ指入て見給へば、入道腹卷を著給ふ上は一門の卿相雲客數十人、各色々の直垂に、思々の鎧著て、中門の廊に二行に著座せられたり。其外諸國の受領衞府諸司などは、縁に居溢れ、庭にもひしと竝居たり。旗竿共引そばめ/\、馬の腹帶を固め、甲の緒を縮め、唯今皆打立んずる氣色共なるに、小松殿烏帽子直衣に、大文の指貫のそば取て、さやめき入給へば、事の外にぞ見えられける。 入道ふし目に成て、あはれ例の内府が、世をへうする樣に振舞、大に諫ばやとこそ思はれけめども、さすが子ながらも、内には五戒を保て慈悲を先とし、外には五常を亂らず、禮儀を正しうし給ふ人なれば、あの姿に腹卷を著て向はむ事、面はゆう辱しうや思はれけん、障子を少し引立て、素絹の衣を腹卷の上に、周章著に著給たりけるが、胸板の金物の少しはづれ て見えけるを藏さうと、頻に衣の胸を引ちがへ引ちがへぞし給ひける。大臣は舎弟宗盛卿の座上につき給ふ。入道も宣ひ出さず、大臣も申しいださるゝ事もなし。 良有て入道のたまひけるは、「成親卿が謀反は事の數にもあらず。一向法皇の御結構にて在けるぞや。世をしづめん程、法皇を鳥羽の北殿へ遷奉るか、然らずば、是へまれ、御幸を成まゐらせんと思ふは如何に。」と宣へば、大臣聞も敢ず、はら/\とぞ泣れける。入道、「如何に/\。」とあきれ給ふ。大臣涙を抑て申されけるは、「此仰承候に、御運は早末に成ぬと覺候。人の運命の傾んとては、必惡事を思立候也。又御有樣、更現共覺候はず。さすが我朝は邊地粟散の境と申ながら、天照大神の御子孫、國の主として、天兒屋根命の末、朝の政を司どり給ひしより以降、太政大臣の官に至る人の、甲冑をよろふ事禮儀を背にあらずや。就中に御出家の御身なり。夫三世の諸佛解脱幢相の法衣を脱捨て、忽に甲冑を鎧ひ、弓箭を帶しましまさむ事、内には既に破戒無慙の罪を招くのみならず、外には又仁義禮智信の法にも背き候なんず。旁々恐ある申事にて候へども、心の底に旨趣を殘すべきに非ず。先世に四恩あり。天地の恩、國王の恩、父母の恩、衆生の恩是也。其中に最重きは朝恩也。普天の下王地に非ずと云ふ事なし。さればかの頴川の水に耳を洗ひ、首陽山に蕨を折し賢人も、勅命背き難き禮儀をば存知すとこそ承はれ。何に況、先祖にも未聞ざし太政大臣を極めさせ給ふ。所謂重盛が無才愚闇の身をもて、蓮府槐門の位に至る。加之國郡半過て一門の所領と成、田園悉く一家の進止たり。是希代の朝恩に非ずや。今是等の莫大の御恩を思召忘れて、猥しく法皇 を傾け参らせ給はん事、天照大神、正八幡宮の神慮にも背き候ひなんず。日本は是神國也。神は非禮を受給はず。然れば君の思召立ところ、道理半無に非ず。中にも此一門は、代々の朝敵を平げて、四海の逆浪を靜る事は無雙の忠なれ共、其賞に誇る事は傍若無人共申つべし。聖徳太子十七箇條の御憲法に『人皆心有り、必各執あり、彼を是し我を非し、我を是し彼を非す。是非の理誰か能く定べき。相共に賢愚なり。環の如くして端なし。爰を以て縱人怒ると云とも、かへて我咎を懼れよ。』とこそ見えて候へ。然れ共御運盡ざるに依て、御謀反已に露ぬ。其上仰合せらるゝ成親卿を召置れぬる上は、縱君如何なる不思議を思召し立せ給ふとも、何の恐か候べき。所當の罪科行れん上は、退いて事の由を陳じ申させ給て、君の御爲には彌奉公の忠勤を盡し、民の爲には益撫育の哀憐を致させ給はば、神明の加護に預り佛陀の冥慮に背べからず。神明佛陀感應あらば、君も思召なほす事などか候はざるべき。君と臣とを比るに親疎別く方なし。道理と僻事を竝べんに、爭か道理に附ざるべき。 [2] Nihon Koten Bungaku Taikei (Tokyo: Iwanami Shoten, 1957, vol. 32; hereafter cited as NKBT) reads 筑後守貞能、木蘭地の直垂に. -------------------------------------------------------------------------------- 烽火之沙汰 是は君の御理にて候へば、叶はざらむまでも院御所法住寺殿を守護し参らせ候べし。其故は重盛叙爵より今大臣の大將に至迄、併ら君の御恩ならずと云ふ事なし。其恩の重き事を思へば、千顆萬顆の玉にも越え、其恩の深き色を案ずれば、一入再入の紅にも過たらん。然れば院中に参り籠り候べし。其儀にて候はば、重盛が身に代り、命に代らんと契りたる侍共、少 少候らん。是等を召具して、院の御所法住寺殿を守護しまゐらせ候はば、さすが以の外の御大事でこそ候はんずらめ。悲哉、君の御爲に奉公の忠を致んとすれば、迷盧八萬の頂より猶高き父の恩忽に忘れんとす。痛哉、不孝の罪を遁れんとすれば、君の御爲に已に不忠の逆臣と成ぬべし。進退惟谷れり。是非いかにも辨へ難し。申請る所詮は、唯重盛が頸を召され候へ。院中をも守護し参らすべからず。院参の御供をも仕るべからず。かの蕭何は大功かたへに越たるに依て、官大相國に至り、劔を帶し沓を履ながら殿上に昇る事を許されしか共、叡慮に背く事あれば、高祖重う警て、深う罪せられにき。か樣の先蹤を思ふにも、富貴と云ひ、榮花と云ひ、朝恩と云ひ、重職と云ひ、旁極させ給ぬれば、御運の盡ん事難かるべきに非ず。何迄か命生て、亂れん世をも見候べき。唯末代に生を受けて、かゝる憂目に逢候重盛が果報の程こそ拙う候へ。只今侍一人に仰附て、御坪の内に引出されて、重盛が首の刎られん事は、易い程の事でこそ候へ。是おの/\聞給へ。」とて直衣の袖も絞る許に涙を流し、かき口説かれければ、一門の人々、心あるも心なきも皆袖をぞ濕れける。 太政入道も、頼切たる内府はか樣に宣ふ。力もなげにて、「いや/\是迄は思も寄さうず。惡黨共が申す事につかせ給ひて、僻事などや出こむずらんと思ふ計でこそ候へ。」とのたまへば、大臣、「縱如何なる僻事出來候とも、君をば何とかし参らせ給ふべき。」とて、つい立て中門に出で侍共に仰られけるは、「唯今重盛が申しつる事をば、汝等承ずや。今朝より是に候う てか樣の事共申靜むと存じつれ共、餘にひた噪に見えつる間、歸りたりつる也。院参の御供に於ては、重盛が頸の召されむを見て仕れ。さらば人参れ。」とて、小松殿へぞ歸られける。主馬判官盛國を召て、「重盛こそ天下の大事を別して聞出したれ。我を我と思はん者共は、皆物具して馳参れと披露せよ。」と宣へば、此由披露す。「朧げにては噪がせ給はぬ人の、かゝる披露の有は別の仔細のあるにこそ。」と、皆物具して我も/\と馳参る。淀、羽束師、宇治、岡屋、日野、勸修寺、醍醐、小栗栖、梅津、桂、大原、靜原、芹生の里に溢居たる兵共或は鎧著て、未甲を著ぬもあり、或は矢負て未弓を持たぬもあり。片鐙蹈や蹈まずにて、周章噪いで馳参る。小松殿に噪ぐ事ありと聞えしかば、西八條に數千騎ありける兵共、入道にかうとも申も入ず、さざめき連て、皆小松殿へぞ馳たりける。少しも弓箭に携る程の者は一人も殘ず。其時入道大に驚き、貞能を召て、「内府は何と思ひて、是等をば呼とるやらん。是で言つる樣に、入道が許へ討手などや向んずらん。」と宣へば、貞能涙をはら/\と流いて「人も人にこそ依せ給ひ候へ。爭かさる御事候べき。これにて申させ給ひつる事共も、皆御後悔ぞ候らん。」と申ければ、入道、内府に中違うては、惡かりなんとや思はれけん。法皇仰参らせん事も、はや思とゞまり、腹卷脱おき、素絹の衣に袈裟打掛て、最心にも起らぬ念誦してこそ坐しけれ。 小松殿には、盛國承て著到附けり。馳参たる勢共、一萬餘騎とぞ註いたる。著到披見の後、大臣中門に出て侍共に宣けるは、日比の契約を違へずして参たるこそ神妙なれ。異國にさる ためし有り。周の幽王、褒 じと云最愛の后をもち給へり。天下第一の美人なり。され共幽王の御心にかなはざりける事は、褒 じ笑をふくまずとて、惣て此后笑ふ事をし給はず。異國の習には、天下に兵革起る時、所々に火を擧げ、大鼓を撃て、兵を召す謀有り。是を烽火と名付たり。或時天下に兵亂起て、烽火を揚たりければ、后是を見給ひて、『あな不思議、火もあれ程多かりけるな。』とて、其時始て笑給へり。此后一度笑ば百の媚有りけり。幽王嬉き事にして、其事となう、常に烽火を擧給ふ。諸候來に寇なし。寇なければ即ち去ぬ。加樣にする事度々に及べば、参る者も無りけり。或時隣國より凶賊起て、幽王の都を攻けるに、烽火をあぐれ共、例の后の火に慣て、兵も参らず。其時都傾て、幽王終に亡にき。さてこの后は野干と成て走失けるぞ怖き。か樣の事在なれば、自今以後も、是より召んには、みなかくの如くに参るべし。重盛不思議の事を聞出して召つるなり。され共此事聞直しつ、僻事にてありけり。疾う/\歸れ。」とて、皆歸されけり。實にはさせる事をも聞出されざりけれ共父を諫め被申つる詞に順ひ、我身に勢の著か、著ぬかの程をも知り、又父子軍をせんとにはあらねども、角して入道相國の謀反の志も和げ給ふとの謀也。「君雖不君、不可臣以下臣、父雖不父不可子以不子。君の爲には忠有て、父の爲には孝あれ。」と文宣王の宣けるに不違。君の此由聞召て、「今に始ぬ事なれ共、内府が心の中こそ愧しけれ。あたをば恩を以て報ぜられたり。」とぞ仰ける。「果報こそ目出たうて、大臣の大將にこそ至らめ。容儀帶佩人に勝れ、才智才學さへ世に超たるべしやは。」とぞ時の人々感じ合れける。「國に諫る臣あれ ば、其國心安く、家に諫る子あれば、其家必たゞし。」と云へり。上古にも末代にも有がたかりし大臣なり。 -------------------------------------------------------------------------------- 新大納言被流 同六月二日、新大納言成親卿をば、公卿の座へ出し奉て、御物参せたりけれども、胸せき塞て、御箸をだにもたてられず。御車を寄て、とう/\と申せば、大納言心ならず乘り給ふ。軍兵共前後左右に打圍みたり。我方の者は一人もなし。「今一度小松殿に見え奉らばや。」とのたまへども、其も叶はず。「縱重科を蒙て遠國へ行く者も、人一人身に順へぬ者やある。」と車の内にてかき口説かれければ、守護の武士共も皆鎧の袖をぞぬらしける。西の朱雀を南へ行ば、大内山も今は餘所にぞ見給ける。年來見馴奉りし雜色牛飼に至るまで、涙を流し袖を絞らぬはなかりけり。増て都に殘りとゞまり給ふ北方少き人々の心の中、推量れて哀也。鳥羽殿を過給ふにも、此御所へ御幸なりしには、一度も御供には外れざりし物をとて、我山庄洲濱殿とてありしをも、餘所に見てこそ通られけれ。南の門へ出て、舟遲とぞ急がせける。「こは何地へやらん、同う失はるべくば、都近き此邊にてもあれかし。」と宣けるぞ責ての事なる。 近う副たる武士を、「誰そ」と問給へば、難波次郎經遠と申す。「若此邊に我方樣の者やある。舟に乘ぬ先に言置べき事あり。尋て参せよ。」と宣ひければ、其邊をはしりまはて尋けれども、 我こそ大納言殿の御方と云者一人もなし。「我世なりし時は、隨ひついたりし者共、一二千人も有つらん。今は餘所にてだにも此有樣を見送る者の無りける悲さよ。」と泣れければ、猛き武士共もみな袖をぞぬらしける。身にそふ物とてはたゞつきせぬ涙計也。熊野詣、天王寺詣などには、二瓦の三棟に造たる舟に乘り、次の船二三十艘漕つゞけてこそ有しに、今は怪かるかきすゑ屋形舟に、大幕引せ、見もなれぬ兵共に具せられて、今日を限に都を出て、浪路遙に赴れけん心の中、推量られて哀なり。其日は攝津國大物の浦に著給ふ。 新大納言、既に死罪に行はるべかりし人の、流罪に宥られける事は、小松殿のやう/\に申されけるに依てなり。此人いまだ中納言にておはしける時、美濃國を知行し給ひしに嘉應元年の冬、目代右衞門尉正友が許へ山門の領平野庄の神人が葛を賣てきたりけるに、目代酒に飮醉て葛に墨をぞ付たりける。神人惡口に及ぶ間、さないはせそとて散々に陵礫す。さる程に神人共數百人、目代が許へ亂入す。目代法に任せて防ぎければ、神人等十餘人打殺さる。是によて同年の十一月三日、山門の大衆おびたゞしう蜂起して、國司成親卿を流罪に處せられ、目代右衞門尉正友を禁獄せらるべき由奏聞す。既に成親卿備中國へ流さるべきにて西の七條迄出されたりしを、君いかゞ思召されけん、中五日在て召返さる。山門の大衆おびただしう呪咀すと聞えしか共、同二年正月五日、右衞門督を兼して、檢非違使の別當に成給ふ。其時、資方、兼雅卿越えられ給へり。資方卿はふるい人おとなにておはしき。兼雅卿は榮華の人也。家嫡にて越えられ給けるこそ遺恨なれ。是は三條殿造進の賞也。同三年四月十三日、正 二位に叙せらる。其時は中御門中納言宗家卿越えられ給へり。安元元年十月二十七日、前中納言より權大納言に上り給ふ。人嘲て、「山門の大衆にはのろはるべかりけるものを。」と申ける。されども、今は其故にや、かゝる憂目に逢給へり。凡は神明の罰も人の呪咀も、疾もあり、遲きもあり、不同なる事也。 同三日、大物の浦へ、京より御使有とて犇きけり。新大納言「其にて失へとにや。」と聞給へば、さはなくして、備前の兒島へ流すべしとの御使なり。小松殿より御文有り。「如何にもして、都近き片山里にも置奉らばやと、さしも申つれども叶はぬ事こそ、世に有かひも候はね。さりながらも御命ばかりは申請て候。」とて、難波が許へも、「構てよく/\宮仕へ御心に違な。」と仰られ遣し、旅の粧細々と沙汰し送られたり。新大納言はさしも忝う思召されける君にも離れ参せ、つかの間もさりがたう思はれける北方少き人々にも別はてゝ、「こは何地へとて行やらん。再び故郷に歸て、妻子を相見んことも有がたし。一年山門の訴訟によて、流れしをば君惜ませ給ひて、西の七條より召還されぬ。是はされば君の御誡にもあらず。こは如何にしつる事ぞや。」と、天に仰ぎ地に俯て、泣悲めどもかひぞなき。明ぬれば舟おし出いて下り給ふに、道すがらも只涙に咽んで、ながらふべしとはおぼえねど、さすが露の命は消やらず。跡の白浪隔つれば、都は次第に遠ざかり、日數やう/\重なれば、遠國は近附けり。備前の兒島に漕よせて、民の家のあさましげなる柴の庵に置奉る。島のならひ、後は山、前は海、磯の松風、波の音、いづれも哀は盡せず。 -------------------------------------------------------------------------------- 阿古屋松 大納言一人にもかぎらず、警を蒙る輩多かりけり。近江中將入道蓮淨佐渡國、山城守基兼伯耆國、式部大輔正綱播磨國、宗判官信房阿波國、新平判官資行は美作國とぞ聞えし。 其比入道相國、福原の別業に御座けるが、同廿日、攝津左衞門盛澄を使者として、門脇の宰相の許へ、「存ずる旨あり。丹波少將急ぎ是へたべ。」と宣ひ遣はされたりければ、宰相、「さらば、たゞ有し時ともかくも成たりせばいかがせむ。今更物を思はせんこそ悲しけれ。」とて、福原へ下給べき由宣へば、少將泣々出立給ひけり。女房達は、叶ざらん物故に、猶も唯宰相の申されよかしとぞ歎かれける。宰相、「存る程の事は申つ。世を捨るより外は、今は何事をか申べき。されども縱何くの浦に坐すとも、我命の有ん限は、訪奉るべし。」とぞ宣ける。少將は今年三つに成給ふをさなき人を持給へり。日ごろはわかき人にて君達などの事もさしも濃にも坐ざりしか共、今はの時になりしかば、さすが心にやかゝられけん。「此少き者を今一度見ばや。」とこそ宣ひけれ。乳母抱て参りたり。少將膝上に置、髮かき撫で、涙をはら/\と流て、「哀汝七歳に成ば、男に成して君へ参せんとこそ思つれ。され共今は云かひなし。もし命生て、生たちたらば、法師に成り、我後の世弔へよ。」と宣へば、いまだ幼き心に、何事をか聞わき給ふべきなれども、打點頭給へば、少將を始奉て母上乳母の女房、其座に竝居たる人々、心有も心無も、皆袖をぞ濡しける。福原の御使、やがて今夜鳥羽まで出させ給ふべき 由申ければ、「幾程も延ざらん者故に、今宵許は、都の内にて明さばや。」と宣へ共、頻に申せば、其夜鳥羽へぞ出られける。宰相餘にうらめしさに、今度は乘も具し給はず。 同廿二日福原へ下著給ひたりければ、太政入道瀬尾太郎兼康に仰て、備中國へぞ流されける。兼康は宰相の還聞給はん所を恐れて、道すがらも樣々に痛り慰め奉る。され共、少將少も慰み給ふ事もなし。夜晝只佛の御名をのみ唱て父の事をぞ嘆かれける。新大納言は、備前の兒島に御座けるを、預の武士難波次郎經遠是は猶舟津近うて惡かりなんとて、地へ渡奉り、備前備中兩國の境、庭瀬の郷有木の別所と云ふ山寺に置奉る。備中の瀬尾と、備前の有木の別所の間は、僅五十町に足ぬ所なれば、丹波少將其方の風もさすが懷うや思はれけむ、或時兼康を召て、「是より大納言殿の御渡有なる備中の有木の別所へは、如何程の道ぞ。」と問給へば、直に知せ奉ては、惡かりなんと思ひけむ、「片道十二三で候。」と申。其時少將涙をはらはらと流いて、「日本は昔三十三箇國にて有けるを、中比六十六箇國には分られたんなり。さ云ふ備前備中備後も、本は一國にて有ける也。又東に聞ゆる出羽陸奧兩國も、昔は六十六郡が一國にてありけるを、其時十二郡を割分て、出羽の國とは立られたり。されば實方中將、奧州へ流されたりける時、此國の名所阿古耶の松と云所を見ばやとて、國中を尋ありきけるが、尋かねて歸りける道に、老翁の一人行逢たりければ『やゝ御邊はふるい人とこそ見奉れ、當國の名所に阿古屋の松と云ふ所やしりたる。』と問に、『全く當國の内には候はず、出羽の國にや候らん。』と申ければ、『さては御邊も知ざりけり。世末に成て、 國の名所をも早皆呼失ひけるにこそ。』とて、空しく過んとしければ、老翁中將の袖を控へて、『あはれ君は、 みちのくの阿古耶の松に木隱て、出べき月の出もやらぬか。 と云ふ歌の心を以て、當國の名所阿古耶の松とは仰られ候か。其は兩國が一國なりし時詠侍る歌なり。十二郡を割分て後は、出羽國にや候らん。』と申ければ、さらばとて、實方中將も出羽國に越てこそ阿古耶の松をば見たりけれ。筑紫の太宰府より都へ、腹赤の使の上るこそ、かた路十五日とは定たれ。既に十二三日と云は、是より殆鎭西へ下向ごさんなれ。遠しと云とも、備前備中の間、兩三日にはよもすぎじ。近きを遠う申は、大納言殿の御渡有なる所を成經に知せじとてこそ申らめ。」とて、其後は戀しけれ共問ひ給はず。 -------------------------------------------------------------------------------- 大納言死去 さる程に法勝寺の執行俊寛僧都、平判官康頼、この少將相具して薩摩潟鬼界が島へぞ流されける。彼島は、都を出て遙々と波路を凌で行く處なり。おぼろげにては船もかよはず。島には人稀なり。自ら人はあれども、此土の人にも似ず。色黒うして牛の如し。身には頻に毛生つゝ、言詞をも聞知らず。男は烏帽子もせず、女は髮もさげざりけり。衣裳なければ人にも似ず。食する物も無ければ、唯殺生をのみ先とす。賤が山田をかへさねば、米穀の類もなく、薗の桑をとらざれば、絹帛の類も無りけり。島のなかには高き山有り。鎭に火燃ゆ。硫 黄と云ふ物充滿てり。かるが故に硫黄が島とも名附たり。雷常に鳴上り、鳴下り、麓には雨しげし。一日片時、人の命堪て有るべき樣もなし。 さる程に新大納言は少しくつろぐ事もやと思はれけるに、子息丹波少將成經も、はや鬼界が島へ流され給ぬときいて、今はさのみつれなく何事をか期すべきとて、出家の志の候よし、便に付て小松殿へ申されければ、此由法皇に窺ひ申て、御免ありけり。やがて出家し給ひぬ。榮花の袂を引かへて、浮世を餘所の墨染の袖にぞ窶れ給ふ。 大納言の北方は、都の北山雲林院の邊にしのびてぞ御座ける。さらぬだに、住馴ぬ處は物うきに、いとゞしのばれければ、過行く月日も明し兼ね暮し煩ふ樣なりけり。女房侍多かりけれども、或は世を恐れ、或は人目をつゝむ程に、問訪ふ者一人もなし。され共其中に、源左衞門尉信俊と云ふ侍一人、情殊に深かりければ、常に訪奉る。或時北方信俊を召て、「まことや是には備前の兒島にと聞えしが、此程聞ば有木の別所とかやに御座なり。如何にもして今一度はかなき筆の跡をも奉り、御音信をも聞ばや。」とこそ宣ひけれ。信俊涙を押へ申けるは、「幼少より、御憐を蒙て、片時も離れ参せ候はず。御下の時も、何共して御供仕らうと申候しが、六波羅より容されねば力及候はず。召され候し御聲も耳に留り、諫められ參らせし御詞も肝に銘じて片時も忘れ參らせ候はず。縱此身は如何なる目にも遇候へ。疾々御文賜はて參り候はん。」とぞ申ける。北方斜ならず悦で、やがて書てぞたうだりける。少人々も面々に御文有り。信俊此を賜はて、遙々と備前國有木の別所へ尋下る。先預の武士難波次郎經遠 に案内を云ければ、志の程を感じて、やがて見參に入たりけり。大納言入道殿は、唯今も都の事をのみ宣出し、歎沈で御座ける所に、「京より信俊が參て候。」と申入たりければ、「夢かや。」とて聞もあへず、起なほり、「是へ/\。」と召されければ、信俊參て見奉るに、先御住ひの心憂さもさる事にて、墨染の御袂を見奉るにぞ、信俊目もくれ心も消て覺えける。北方の仰蒙し次第、細々と申て、御文とりいだいて奉る。是を開けて見給へば、水莖の跡は、涙にかき暮て、そことは見ね共、「少き人々の餘に戀悲み給ふ有樣、我身も盡ぬ思に堪忍べうもなし。」と書かれたれば、日來の戀しさは、事の數ならずとぞ悲み給ふ。かくて四五日過ければ、信俊「是に候て、御最後の御有樣見參せん。」と申ければ、預の武士難波次郎經遠、叶まじき由頻に申せば、力及ばで、「さらば上れ。」とこそ宣けれ。「我は近う失はれんずらむ。此世になき者と聞ば、相構て我後世とぶらへ。」とぞ宣ける。御返事かいてたうだりければ、信俊是を賜て、「又こそ參候はめ。」とて暇申て出ければ、「汝が又來ん度を待つくべしとも覺えぬぞ。あまりにしたはしくおぼゆるに、暫暫。」と宣ひて、度々呼ぞ返されける。さても有べきならねば、信俊涙を抑つゝ、都へ歸のぼりけり。北方に文參らせたりければ、是を開て御覽ずるに、早出家し給たると覺敷て、御髮の一房文の奧に有けるを、二目とも見給はず。形見こそ中々今はあたなれとて、臥まろびてぞ泣かれける。少き人々も、聲々に泣き悲み給けり。 さる程に大納言入道殿をば同八月十九日、備前備中兩國の境、庭瀬の郷、吉備の中山といふ處にて終に失ひ奉る。其最期の有樣やう/\に聞えけり。酒に毒を入てすゝめたりけれども 叶はざりければ、岸の二丈許有ける下にひしを植て、上より突落し奉れば、ひしに貫かて失給ぬ。無下にうたてき事共也本少うぞ覺えける。大納言の北方は此世に無き人と聞給ひて、如何にもして今一度かはらぬ姿を見もし見えんとてこそ、今日迄樣をも變ざりつれ。今は何にかはせんとて、菩提院と云寺に御座し、樣を變へ、かたの如くの佛事を營み後世をぞ弔らひ給ひける。この北方と申は、山城守敦方の娘也。勝たる美人にて、後白河法皇の御最愛ならびなき御思人にて御座けるを、成親卿ありがたき寵愛の人にて、賜はられたりけるとぞ聞えし。をさなき人人も花を手折り、閼伽の水を掬んで、父の後世を弔ひ給ふぞ哀なる。さる程に時移り事去て、世の替行有樣は只天人の五衰に異ならず。 -------------------------------------------------------------------------------- 徳大寺殿之沙汰 爰に徳大寺の大納言實定卿は、平家の次男宗盛卿に大將を越られて、暫籠居し給へり。出家せんと宣へば、諸大夫侍共、いかがせんと歎合り。其中に藤藏人重兼と云ふ諸大夫あり。諸事に心得たる人にて、或月の夜、實定卿南面の御格子上させ、只獨月に嘯て御座ける處に、慰さめまゐらせんとや思ひけん、藤藏人參りたり。「誰そ。」「重兼候。」「如何になに事ぞ。」と宣へば、「今夜は特に月さえて萬心のすみ候まゝに、參て候。」とぞ申ける。大納言、「神妙に參たり。餘りに何とやらん心細うて徒然なるに。」とぞ仰られける。其後何と無い事共申て慰め奉る。大納言宣けるは、「倩此世の中の有樣を見るに、平家の世は彌盛なり。入道相國の嫡子、 次男、左右の大將にてあり。やがて三男知盛、嫡孫維盛もあるぞかし。彼も是も次第にならば、他家の人々、大將をいつ當附べしともおぼえず。されば終の事なり。出家せん。」とぞ宣ける。重兼涙をはら/\と流いて申けるは、「君の御出家候なば、御内の上下皆惑者に成候ひなんず。重兼、珍い事をこそ案出して候へ。譬ば安藝の嚴島をば、平家斜ならず崇敬はれ候に、何かは苦しう候べき、彼宮へ御參あり、御祈誓候へかし。七日計御參籠候はゞ、彼社には内侍とて、優なる舞姫共おほく候。珍しう思參せて、持成參せ候はんずらん。何事の御祈誓に御參籠候やらんと申候はば、有の儘に仰候へ。さて御上の時御名殘惜みまゐらせ候はんずらん。むねとの内侍共召具して都迄御上候へ。都へ上なば、西八條へぞ參候はんずらん。『徳大寺殿は何事の御祈誓に嚴島へは參らせ給ひたりけるやらん。』と尋られ候はゞ内侍共有の儘に申候はむずらん。入道相國はことに物めでし給ふ人にて、我崇め給ふ御神へ參て、祈申されけるこそ嬉しけれとて、好き樣なる計ひもあんぬと覺え候。」と申ければ徳大寺殿、「是こそ思ひも寄ざりつれ。ありがたき策かな。軈て參む。」とて、俄に精進始めつゝ、嚴島へぞ參られける。 誠に彼宮には内侍とて優なる女共多かりけり。七日參籠せられけるに、夜晝著副奉りもてなす事限りなし。七日七夜の間に舞樂も三度までありけり。琵琶、琴ひき、神樂、舞歌ひなど遊ければ、實定卿も面白き事におぼしめし、神明法樂の爲に今樣、朗詠歌ひ、風俗、催馬樂などありがたき郢曲どもありけり。内侍共「當社へは、平家の公達こそ御參候ふに、この 御まゐりこそ珍しう候へ。何事の御祈誓、御參籠さぶらふやらん。」と申ければ、「大將を人に越えられたる間、其祈の爲也。」とぞ被仰ける。さて七日參籠畢て、大明神に暇申て都へ上らせ給ふに、名殘を惜み奉り、むねとの若き内侍十餘人、船押立て一日路を送り奉る。暇申けれども、さりとては餘に名殘の惜きに、今一日路、今二日路と仰られて都までこそ具せられけれ。徳大寺の邸へ入させ給ひて、樣々にもてなし、樣々の御引出物共たうでかへされけり。 内侍共これまで上る程では、我等が主の太政入道殿へいかで參らであるべきとて、西八條へぞ參じたる。入道相國急ぎ出合給ひて、「如何に内侍共は何事の列參ぞ。」「徳大寺殿の御參候うて七日こもらせ給ひて御上り候を一日路送り參せて候へば、さりとては餘りに、名殘の惜きに、今一日路二日路と仰られて、是まで召具せられて候ふ。」「徳大寺は何事の祈誓に、嚴島までは參られたりけるやらん。」との給へば、「大將の御祈の爲とこそ仰られ候ひしか。」其時入道打うなづいて、「あないとほし、王城にさしも尊き靈佛靈社の幾も御座を指置て、我が崇め奉る御神へ參て祈申されけるこそありがたけれ。是程志切ならむ上は。」とて、嫡子小松殿内大臣の左大將にてましましけるを辭せさせ奉り、次男宗盛大納言の右大將にて御座けるを超させて、徳大寺を左大將にぞ成されける。あはれ目出度かりける策かな。新大納言も、か樣に賢き計らひをばし給はで、由なき謀反おこいて、我身も滅び、子息所從に至るまで、かゝる憂目を見せ給ふこそうたてかりけれ。 -------------------------------------------------------------------------------- 堂衆合戰 さる程に、法皇は三井寺の公顯僧正を御師範として、眞言の祕法を傳受せさせましけるが、大日經、金剛頂經、蘇悉地經、此三部の祕法を受させ給ひて、九月四日、三井寺にて御灌頂有るべしとぞ聞えける。山門の大衆憤申、「昔より御灌頂御受戒、皆當山にして遂させまします事先規也。就中に山王の化導は、受戒灌頂の爲なり。然るを今三井寺にて遂させましまさば、寺を一向燒拂ふべし。」とぞ申ける。是無益なりとて、御加行を結願しておぼしめし留らせ給ひぬ。さりながらも猶本意なればとて、三井寺の公顯僧正を召具して、天王寺へ御幸なて、御智光院を建て、龜井の水を五瓶の智水として、佛法最初の靈地にてぞ、傳法灌頂は遂させましましける。 山門の騒動を靜られんが爲に、三井寺にて御灌頂は無りしか共、山上には堂衆學生、不快の事出來て、合戰度々に及ぶ。毎度に學侶打落されて山門の滅亡、朝家の御大事とぞ見えし。堂衆と申は、學生の所從なりける童部が法師に成たるや、若は中間法師原にてありけるが、金剛壽院の座主、覺尋權僧正治山の時より、三塔に結番して、夏衆と號して、佛に花進せし者共也。近年行人とて、大衆をも事共せざりしが、かく度々の軍に打勝ぬ。堂衆等師主の命を背いて、合戰を企つ、速に誅罰せらるべき由、大衆公家に奏聞し、武家へ觸訴ふ。これに依て太政入道院宣を承り、紀伊國の住人、湯淺權守宗重以下、畿内の兵二千餘騎、大衆に指 添て、堂衆を攻らる。堂衆日來は東陽坊にありしが、近江の國三箇の庄に下向して、數多の勢を率し、又登山して、早尾坂に城をして立籠る。 同九月廿日、辰の一點に大衆三千人、官軍二千餘騎、都合其勢五千餘人、早尾坂に押よせたり。今度はさり共と思ひけるに、大衆は官軍を先立てんとし、官軍は又大衆を先立てんと爭ふ程に心心にて、はか%\しうも戰はず。城の内より石弓弛懸たりければ、大衆官軍數を盡て討れにけり。堂衆に語ふ惡黨と云は、諸國の竊盗、強盗、山賊、海賊等也。欲心熾盛にして、死生不知の奴原なれば、我一人と思切て戰ふ程に、今度も又學生軍に負にけり。 -------------------------------------------------------------------------------- 山門滅亡 其後は山門彌荒はてゝ、十二禪衆の外は、止住の僧侶も稀なり、谷々の講演磨滅して、堂堂の行法も退轉す。修學の窓を閉ぢ、坐禪の床を空うせり。四教五時の春の花も香はず、三諦即是の秋の月も曇れり。三百餘歳の法燈を挑る人もなく、六時不斷の香の煙も、絶やしぬらん。堂舎高く聳えて、三重の構を青漢の内に挿み、棟梁遙に秀て、四面の椽を白霧の間に懸たりき。され共今は供佛を嶺の嵐に任せ、金容を紅瀝に濡す。夜の月燈を挑て檐の隙より漏り、曉の露珠を垂れて蓮座の粧を添とかや。夫末代の俗に至ては、三國の佛法も次第に衰微せり。遠く天竺に佛跡を弔へば、昔佛の法を説給ひし竹林精舎、給孤獨園も此比は狐狼野干の栖と成て、礎のみや殘るらん。白鷺池には水絶て、草のみ深くしげれり。退梵下乘 の卒都婆も苔のみむして傾きぬ。震旦にも天台山、五臺山、白馬寺、玉泉寺も、今は住侶なく樣々に荒果て、大小乘の法門も、箱の底にや朽ぬらん。我朝にも南都七大寺荒果て、八宗九宗も跡絶え、愛宕高雄も昔は堂塔軒を竝たりしか共、一夜の中に荒にしかば、天狗の栖と成り果てぬ。さればにや、さしも止事無りつる天台の佛法も、治承の今に及で、亡果ぬるにやと、心有る人歎悲まずと云事なし。離山しける僧の坊の柱に、歌をぞ一首書いたりける。 祈りこし我立杣のひきかへて、人なき嶺となりや果なん。 是は傳教大師、當山草創の昔、阿耨多羅三藐三菩提の佛たちに、祈申されける事を、思ひ出て詠たりけるにや。いと優うぞ聞えし。八日は藥師の日なれども、南無と唱る聲もせず。卯月は垂跡の月なれ共幣帛を捧る人もなし。朱の玉垣神さびて、しめ繩のみや殘るらん。 -------------------------------------------------------------------------------- 善光寺炎上 其比善光寺炎上の由其聞あり。彼如來と申は昔天竺舎衞國に、五種の惡病起て、人多く滅しに月蓋長者が致請に依て、龍宮城より閻浮檀金を得て、釋尊、目連、長者心を一にして、鑄現し給へる一 ちやく手半の彌陀の三尊、閻浮提第一の靈像なり。佛滅度の後、天竺に留らせ給ふ事、五百餘歳、佛法東漸の理にて、百濟國に移らせ給ひて、一千歳の後、百濟の帝齊明王、我朝の帝欽明天皇の御宇に及で、彼國より此國へ移らせ給ひて、攝津國難波の浦にして、星霜を送らせ給ひけり。常は金色の光を放たせましましければ、是に依て年號を、金光と號す。 同三年三月上旬に信濃國の住人、麻績の本太善光と云者都へ上りたりけるに、彼如來に逢奉りたりけるに、軈ていざなひ參せて、晝は善光、如來を負奉り、夜は善光、如來に負はれ奉て、信濃國へ下り、水内郡に安置し奉しよりこのかた、星霜既に五百八十餘歳、炎上の例は是始とぞ承る。「王法盡んとては、佛法先亡ず。」といへり。さればにや、さしも止事なかりつる靈山の多く滅失ぬるは、王法の末に成ぬる先表やらんとぞ申ける。 -------------------------------------------------------------------------------- 康頼祝言 さる程に鬼界が島の流人共、露の命草葉の末に懸て、惜むべきとには有ね共、丹波少將の舅平宰相教盛の領、肥前國鹿瀬の庄より、衣食を常に送られければ、其にてぞ俊寛僧都も康頼も命を生て過しける。康頼は、流されける時、周防の室つみにて出家してけり。法名は性照とこそ附たりけれ。出家は本よりの望なりければ、 つひにかくそむきはてける世の中を、とくすてざりし事ぞくやしき。 丹波少將、康頼入道は、本より熊野信心の人なれば、如何にもして此島の内に熊野三所權現を勸請し奉て歸洛の事を祈申さばやと云に、僧都は天性不信第一の人にて是を用ゐず。二人は同じ心に、若熊野に似たる所やあると、島の内を尋廻るに、或は林塘の妙なる有り、紅錦繍の粧品々に、或は雲嶺の恠あり、碧羅綾の色一つに非ず。山の景色樹の木立に至る迄、外よりも猶勝れたり。南を望めば、海漫々として、雲の波煙の浪深く、北を顧れば、 又山岳の峨々たるより、百尺の瀧水漲落たり。瀧の音殊に凄じく、松風神さびたる栖、飛瀧權現の御座す那智の御山にもさも似たりけり。さてこそ、やがてそこをば那智の御山とは名附けれ。此嶺は本宮、彼は新宮、是はそんぢやう其王子、彼王子など、王子々々の名を申て、康頼入道先達にて、丹波少將相具しつゝ、日ごとに熊野詣の眞似をして、歸洛の事をぞ祈ける。「南無權現金剛童子、願は憐を垂させ御座して、故郷へかへし入させ給へ、妻子共をも今一度見せ給へ。」とぞ祈ける。日數積りて、裁更べき淨衣も無ければ、麻の衣を身に纏ひ、澤邊の水をこりにかいては、岩田川の清き流と思やり、高所に上ては、發心門とぞ觀じける。參る度毎には康頼入道、祝言を申に、御幣紙も無ければ、花を手折て捧つつ、 維當れる歳次、治承元年丁酉、月のならび十月二月、日の數三百五十餘箇日、吉日良辰を擇で、掛卷も忝なく、日本第一大靈驗、熊野三所權現、飛瀧大薩 たの教令、宇豆の廣前にして、信心の大施主、羽林藤原成經、並に沙彌性照、一心清淨の誠を致し三業相應の志を抽て、謹で以て敬白す。夫證誠大菩薩は、濟度苦海の教主、三身圓滿の覺王なり。或は東方淨瑠璃醫王の主、衆病悉除の如來なり。或は南方補陀落能化の主、入重玄門の大士、若王子は娑婆世界の本主、施無畏者の大士。頂上の佛面を現じて、衆生の所願をみて給へり。これによて上一人より下萬民に至るまで、或は現世安穩のため、或は後生善所のために朝には淨水を掬で、煩惱の垢を濯ぎ、夕には深山に向て寶號を唱ふるに、感應怠ることなし。峨々たる峯の高をば、神徳の高きにたとへ、嶮々たる谷の深をば、弘誓の深きに 准へて、雲を分て上り、露を凌でくだる。爰に利益の地をたのまずんば、いかんが歩を險難の道に運ばん。權現の徳を仰かずんば、何ぞ必ずしも幽遠の境にましまさむ。仍て證誠大權現、飛瀧大薩 た、青蓮慈悲の眸を相並べ、小鹿の御耳を振り立てゝ、我等が無二の丹誠を知見して、一々の懇志を納受し給へ。然れば則ち、結早玉の兩所權現、各機に隨て、有縁の衆生を導き、無縁の群類を救はんがために、七寶莊嚴の栖を捨てゝ、八萬四千の光を和げ、六道三有の塵に同じ給へり。かるがゆゑに定業亦能轉、求長壽得長壽の禮拜、袖を連ね、幣帛禮奠を捧ぐること隙なし。忍辱の衣を重ね、覺道の花を捧げて、神殿の床を動し、信心の水をすまして、利生の池を湛へたり。神明納受し給はゞ、所願何ぞ成就せざらん。仰ぎ願はくは、十二所權現、利生の翼を並て、遙に苦海の空にかけり、左遷の愁を息めて、歸洛の本懷を遂げしめ給へ。再拜 とぞ康頼祝言をば申ける。 -------------------------------------------------------------------------------- 卒都婆流 丹波少將、康頼入道、常は三所權現の御前に參て、通夜する折も有けり。或時二人通夜して、夜もすがら今樣をぞ歌ひける。曉方に康頼入道、ちと目睡たる夢に、沖より白い帆掛たる小舟を一艘漕寄て、舟の中より紅の袴きたる女房、二三十人あがり、皷を打ち聲を調て、 萬の佛の願よりも、千手の誓ぞたのもしき、 枯れたる草木も忽に、花さき實なるとこそきけ。 と三辺歌澄して、掻けす樣にぞ失にける。夢覺て後、奇異の思をなし、康頼入道申けるは、「是は龍神の化現と覺えたり。三所權現のうちに、西の御前と申は、本地千手觀音にておはします。龍神は則千手の廿八部衆の其一なれば、もて御納受こそ頼敷けれ。」又或夜二人通夜して同じう目睡たりける夢に、沖より吹くる風の、二人が袂に木の葉を二つ吹懸たりけるを、何となう取て見ければ、御熊野の南木の葉にてぞ有ける。かの二の南木の葉に一首の歌を蟲くひにこそしたりけれ。 ちはやぶる神にいのりの繁ければ、などか都へ歸らざるべき。 康頼入道、故郷の戀しきまゝに、せめてのはかりごとに、千本の卒都婆を作り、 あ字の梵字、年號月日、假名、實名、二首の歌をぞ書たりける。 薩摩潟沖の小島に我ありと、親には告よ八重の汐風。 思ひやれしばしと思ふ旅だにも、猶ふるさとはこひしき物を。 是を浦に持て出て、「南無歸命頂禮、梵天帝釋、四大天王、けんろう地神、王城の鎭守諸大明神、殊には熊野權現、嚴島大明神、せめては一本なり共、都へ傳てたべ。」とて、沖つ白波の、よせては歸る度毎に、卒都婆を海にぞ浮べける。卒都婆を造出すに隨て、海に入れければ、日數の積れば、卒都婆の數もつもりけり。その思ふ心や便の風とも成たりけむ。又神明佛陀もや送らせ給ひけむ。千本の卒都婆のなかに、一本、安藝國嚴島の大明神の御前の渚に打あ げたり。 こゝに康頼入道がゆかりありける僧、然るべき便もあらば、如何にもして彼島へ渡て、其行へを聞むとて、西國修行に出たりけるが、先嚴島へぞ參りたりける。爰に宮人とおぼしくて、狩衣裝束なる俗、一人出來たり。此僧何となき物語しけるに、「夫和光同塵の利生、樣々なりと申せども、如何なりける因縁を以て、此御神は海漫の鱗に縁をば結ばせ給ふらん。」と問奉る。宮人答けるは、「是はよな、娑竭羅龍王の第三の姫宮、胎藏界の垂跡也。」此島へ御影向有し始より濟度利生の今に至るまで、甚深奇特の事共をぞ語ける。さればにや、八社の御殿甍を竝べ、社はわたつみの邊なれば、汐の滿乾に月ぞすむ。汐滿くれば、大鳥居緋の玉垣瑠璃の如し。汐引ぬれば夏の夜なれど、御前の白洲に霜ぞおく。いよ/\尊く覺て、法施參せて居たりけるに、漸々日暮月指いでて、汐の滿けるが、そこはかとなき、藻くづ共のゆられける中に、卒都婆の形の見えけるを、何となう取て見ければ、沖の小島に我ありと、書流せる言葉也。文字をば彫入刻附たりければ、波にも洗はれず、あざあざとしてぞ見えける。「あな、不思議。」とて、是を笈のかたにさし、都へ上り、康頼が老婆の尼公妻子共が、一條の北、紫野と云處に忍つゝ住けるに、見せたりければ、「さらば此卒都婆が唐の方へもゆられ行かで、なにしに是迄傳ひ來て、今更物を思はすらん。」とぞ悲みける。遙の叡聞に及で、法皇之を御覽じて、「あな無慚や、さればいまだこの者共は命の生て有にこそ。」と、御涙を流させ給ふぞ忝き。小松の大臣の許へ送らせ給ひたりければ、是を父の入道相國に見せ奉り給ふ。柿本人 丸は、島がくれ行舟を思ひ、山邊赤人は、蘆邊の田鶴をながめ給ふ。住吉明神は、かたそぎの思をなし、三輪明神は、杉立る門をさす。昔素盞嗚尊、三十一字の和歌を始めおき給しより以來、諸の神明佛陀も、彼詠吟を以て、百千萬端の思を述給ふ。入道も岩木ならねば、さすが哀げにぞ宣ひける。 -------------------------------------------------------------------------------- 蘇武 入道相國の憐み給ふ上は、京中の上下、老たるも若きも、鬼界が島の流人の歌とて、口ずさまぬは無りけり。さても千本迄造り出せる卒都婆なれば、さこそは小さうも有けめ。薩摩潟より遙々と、都まで傳はりけるこそ不思議なれ。餘に思ふ事はかく驗有にや。 古漢王胡國を攻られけるに、始は李少卿を大將軍にて、三十萬騎むけられたりけるが、漢王の軍弱く、胡國の戰強して、官軍皆討ち滅さる。剩へ大將軍李少卿、胡王のために生擒らる。次に蘇武を大將軍にて、五十萬騎を向けらる。猶漢の軍弱く夷の戰強して官軍皆滅にけり。兵六千餘人生擒らる。其中に大將軍蘇武を始として、宗との兵六百三十餘人、勝出し一々に片足を切て、追放つ。即死する者もあり、程へて死ぬる者もあり。其中にされ共蘇武は死ざりけり。片足なき身となて、山に上ては木の實を拾ひ、春は澤の根芹をつみ、秋は田面の落穗を拾ひなどして露の命を過しけり。田にいくらもありける鴈ども、蘇武に見馴て恐ざりければ、是等は皆我故郷へ通ふ者ぞかしと懷しさに、思ふ事を一筆書て、「相構て是漢王 に上れ。」と云含め、鴈の翅に結つけてぞ放ける。かひ%\しくも田面の鴈、秋は必ずこしぢより都へ通ふものなるに、漢の昭帝上林苑に御遊ありしに、夕されの空うす曇り、なにとなう物哀なりけるをりふし、一行の鴈飛渡る。其中より鴈一つ飛さがて、己が翅に結附たる玉章をくひ切てぞ落しける。官人これを取て、御門に上る。披て叡覽あれば、「昔は巖窟の洞に籠られて、三春の愁歎を送り、今は昿田の畝に捨られて、胡狄の一足となれり。縱骸は胡の地に散すと云とも、魂は二度君邊に仕へん。」とぞ書たりける。其よりしてぞ文をば鴈書ともいひ、鴈札とも名付たる。「あな無慚や蘇武が譽の跡なりけり。未胡國にあるにこそ。」とて、今度は李廣と云將軍に仰て、百萬騎を差遣す。今度は漢の戰強くして、胡國の軍破れにけり。御方戰勝ぬと聞えしかば、蘇武は昿野の中より這出て、「是こそ古の蘇武よ。」と名乘る。十九年の星霜を送て、片足は切れながら、輿に舁れて、故郷へぞ歸りける。蘇武十六の歳より胡國へ向けられけるに、御門より賜りたりける旗をば何としてかかくしたりけん、身を放たず持たりけり。今取出して御門の見參に入たりければ、君も臣も感嘆斜ならず。君の爲大功雙無りしかば、大國數多賜り、其上典屬國と云司を下されけるとぞ聞えし。 李少卿は、胡國に留て、終に歸らず。如何にもして漢朝へ歸らんとのみ歎けども、胡王許さねば叶はず。漢王是をば知り給はず、君の爲に不忠の者なりとて、はかなくなれる二親の骸を掘起いて打せらる。其外六親を皆罪せらる。李少卿此由を傳聞いて、恨深うぞ成にける。さりながら猶故郷を戀つゝ、君に不忠なき樣を一卷の書に作て參らせたりければ、「さては 不愍の事ごさんなれ。」とて、父母が骸を掘いだいて打せられたる事をぞ、悔しみ給ひける。漢家の蘇武は、書を鴈の翅に附て舊里へ送り、本朝の康頼は、浪の便に歌を故郷に傳ふ。彼は一筆のすさみ、是は二首の歌、彼は上代、是は末代、胡國、鬼界が島、境を隔て、世々は替れども、風情は同じ風情。ありがたかりし事ども也。 -------------------------------------------------------------------------------- 平家物語卷第三 赦文 治承二年正月一日、院御所には拜禮行はれて、四日の日朝覲の行幸在けり。何事も例にかはりたる事は無れ共、去年の夏新大納言成親卿以下、近習の人々多く失れし事、法皇御憤未止ず、世の政も懶く思召されて、御心よからぬ事にてぞ在ける。太政入道も、多田藏人行綱が告知せて後は、君をも御後めたき事に思ひ奉て、上には事なき樣なれ共、下には用心して、苦笑てのみぞ在ける。 同正月七日彗星東方に出づ。蚩尤氣とも申す。又赤氣共申す。十八日光を増す。 去程に入道相國の御女建禮門院、其比は未中宮と聞えさせ給しが、御惱とて、雲の上、天が下の歎にてぞ在ける。諸寺に御讀經始り、諸社へ官幣使を立らる、醫家藥を盡し、陰陽術を窮め、大法秘法一つとして殘る所なう修せられけり。され共、御惱たゞにも渡せ給はず、御懷姙とぞ聞えし。主上今年十八、中宮は二十二に成せ給ふ。然共、未皇子も姫宮も出來させ給はず。若皇子にてわたらせ給はば、如何に目出度からんと、平家の人々は唯今皇子御誕生の有樣に、勇悦びあはれけり。他家の人々も、「平氏の御繁昌折を得たり、皇子御誕生疑なし。」 とぞ申あはれける。御懷姙定らせ給しかば、有驗の高僧貴僧に仰せて、大法秘法を修し、星宿佛菩薩につけて、皇子御誕生と祈誓せらる。六月一日、中宮御著帶有けり。仁和寺の御室守覺法親王、御參内有て、孔雀經の法をもて、御加持あり。天台の座主覺快法親王、同う參せ給て、變成男子の法を修せられけり。 かゝりし程に、中宮は月の重るに隨て、御身を苦うせさせ給ふ。一度笑ば百の媚有けん漢の李夫人、昭陽殿の病の床もかくやと覺え、唐の楊貴妃、梨花一枝春の雨を帶び、芙蓉の風にしをれ、女郎花の露重げなるよりも猶痛しき御樣なり。かゝる御惱の折節に合せて、こはき御物怪共、取入奉る。よりまし明王の縛に掛て、靈顯れたり。殊には讃岐院の御靈、宇治惡左府の憶念、新大納言成親の死靈、西光法師が惡靈、鬼界島の流人共の生靈などぞ申ける。是によて太政入道生靈も死靈も、宥らるべしとて、其比やがて讃岐院御追號有て、崇徳天皇と號す。宇治惡左府、贈官贈位行はれて、太政大臣正一位を贈らる。勅使は少内記惟基とぞ聞えし。件の墓所は、大和國添上の郡、河上の村、般若野の五三昧也。保元の秋掘起して捨られし後は死骸道の邊の土となて、年々に只春の草のみ茂れり。今勅使尋來て、宣命を讀けるに、亡魂いかに嬉とおぼしけん。怨靈はかく怖ろしき事也。されば早良の廢太子をば崇道天皇と號し、井上内親王をば、皇后の職位に復す。是皆怨靈を宥められし策也。冷泉院の御物狂う坐し、花山の法皇十善萬乘の定位をすべらせ給しは、基方民部卿が靈とかや。三條院の御目も御覽ぜられざりしは、寛算供奉が靈也。 門脇宰相か樣の事共傳聞いて、小松殿に申されけるは、「中宮御産の御祈樣々に候也。何と申候とも非常の赦に過たる事有るべし共覺え候はず。中にも鬼界島の流人共召還されたらん程の功徳善根、爭か候べき。」と申されければ、小松殿父の禪門の御前に坐て、「あの丹波少將が事を宰相の強ちに歎申候が不便に候。中宮御惱の御事、承及ぶ如くんば、殊更成親卿が死靈などと聞え候。大納言が死靈を宥んと思召んにつけても、生て候少將をこそ召還され候はめ。人の念ひを休させ給はば、思召す事も叶ひ、人の願を叶へさせ給はば、御願も既成就して中宮やがて、皇子御誕生有て、家門の榮花彌盛に候べし。」など被申ければ、入道相國、日來にも似ず事の外に和いで、「さて俊寛と康頼法師が事は、如何に。」「其も同う召こそ還され候はめ。若一人も留られむは、中中罪業たるべう候。」と申されたりければ、「康頼法師が事はさる事なれ共、俊寛は隨分入道が口入を以て、人と成たる者ぞかし。其に所しもこそ多けれ、我山莊鹿谷に城廓を構へて、事にふれて、奇怪の振舞共が有けんなれば、俊寛をば思もよらず。」とぞ宣ける。小松殿歸て叔父の宰相殿呼奉り、「少將は既に赦免候はんずるぞ。御心安う思召され候へ。」とのたまへば、宰相手を合てぞ悦ばれける。「下し時もなどか申請ざらんと思ひたり氣にて、教盛を見候度毎には涙を流し候しが、不便に候。」と申されければ、小松殿、「誠にさこそは思召され候らめ。子は誰とても悲ければ、能々申候はん。」とて入給ぬ。 去程に鬼界が島の流人共召還るべく定められて、入道相國許文下されけり。御使既に都をたつ。宰相餘の嬉さに、御使に私の使をそへてぞ下されける。「夜を晝にして急ぎ下れ。」とありし か共、心に任ぬ海路なれば、浪風を凌いで行程に、都をば七月下旬に出たれ共、長月廿日比にぞ、鬼界が島には著にける。 -------------------------------------------------------------------------------- 足摺 御使は丹左衞門尉基康と云者なり。船より上て「是に都より流され給し丹波少將殿平判官入道殿やおはする。」と、聲々にぞ尋ける。二人の人々は、例の熊野詣して無りけり。俊寛僧都一人殘りけるが、是を聞き、「餘に思へば夢やらん、又天魔波旬の我心を誑さんとて言やらん、現共覺ぬ物かな。」とて、周章ふためき走ともなく、倒るともなく、急ぎ御使の前に走り向ひ、「何ごとぞ、是こそ京より流されたる俊寛よ。」と名乘給へば、雜色が頸に懸させたる文袋より、入道相國の許文取出いて奉る。披いて見れば、「重科免遠流、早可成歸洛思。依中宮御産御祈被行非常赦。然間鬼界島流人少將成經、康頼法師赦免。」と計書かれて、俊寛と云文字はなし。禮紙にぞ有らんとて、禮紙を見るにも見えず。奧より端へ讀み、端より奧へ讀けれ共、二人と計書かれて、三人とはかゝれず。 さる程に少將や判官入道も出來たり、少將の取てよむにも、康頼入道が讀けるにも、二人と計かかれて、三人とはかゝれざりけり。夢にこそかゝる事は有れ、夢かと思ひなさんとすれば現也、現かと思へば又夢の如し。其上二人の人々の許へは、都より言づけ文共、幾らも有けれ共、俊寛僧都の許へは、事問文一つもなし。さればわがゆかりの物どもは都のうちにあと をとゞめず成りにけりとおもひやるにもしのびがたし。「抑我等三人は罪もおなじ罪、配所も一つ所也。如何なれば赦免の時、二人は召還されて、一人爰に殘るべき。平家の思忘かや、執筆の誤か。こは如何にしつる事共ぞや。」と、天に仰ぎ地に臥して、泣悲め共かひぞなき。少將の袂にすがて、「俊寛がかく成といふも、御邊の父、故大納言殿、由なき謀反故也。されば餘所の事とおぼすべからず。赦れ無れば、都迄こそ叶はずとも、此船にのせて、九國の地へ著けて給べ。各の是に坐つる程こそ、春は燕、秋は田面の雁の音信る樣に、自ら故郷の事をも傳聞つれ。今より後、何としてかは聞べき。」とて悶え焦れ給ひけり。少將、「誠にさこそは思召され候らめ。我等が召還るゝ嬉さは、去事なれ共、御有樣を見置奉るに、行べき空も覺えず。打乘奉ても上たう候が、都の御使も叶ふまじき由申す上、赦れも無に、三人ながら島を出たりなど聞えば、中々惡う候なん。成經先罷上て、人々にも申合せ、入道相國の氣色をも窺て、迎に人を奉らん。其間は此日比坐しつる樣に思成て待給へ。何としても命は大切の事なれば、今度こそ漏させ給ふ共、終にはなどか赦免なうて候べき。」と、慰め給へども、人目も知らず泣悶えけり。既に舟出すべしとて、ひしめきあへば、僧都乘ては下つ、下ては乘つあらまし事をぞし給ひける。少將の形見には夜の衾、康頼入道が形見には、一部の法華經をぞ留ける。纜解て押出せば、僧都綱に取附き、腰に成り、脇に成り、長の立つまでは引かれて出で、長も及ばす成ければ、船に取附き「さて如何に各、俊寛をば終に捨果給ふか。是程とこそ思はざりつれ。日來の情も今は何ならず。只理を枉て乘せ給へ。責ては、九國の地 迄。」と口説かれけれ共、都の御使「如何にも叶ひ候まじ。」とて、取附給へる手を引のけて、船は終に漕出す。僧都せん方なさに、渚に上り倒伏し、少き者の乳母や母などを慕ふ樣に、足摺をして、「是乘て行け、具して行け。」と、喚叫べ共、漕行船の習にて、跡は白浪ばかりなり。未遠からぬ舟なれども、涙にくれて見えざりければ、僧都高き所に走あがり、澳の方をぞ招ける。彼松浦小夜姫が、唐舟を慕つゝ、領巾ふりけんも、是には過じとぞ見えし。船も漕隱れ、日も暮れ共、怪の臥處へも歸らず、浪に足打洗せ、露に萎て、其夜は其にてぞ明されける。さり共少將は情深き人なれば、能き樣に申す事も在んずらんと憑をかけ、其瀬に身をも投ざりける心の程こそはかなけれ。昔壯里息里が、海巖山へ放たれけん悲も、今こそ思ひ知られけれ。 -------------------------------------------------------------------------------- 御産 去程に此人々は、鬼界が島を出て、平宰相の領肥前國鹿瀬庄に著給ふ。宰相京より人を下して、「年の内は浪風も烈しう、道の間も覺束なう候に、それにて能々身いたはて、春に成て上り給へ。」とありければ、少將鹿瀬庄にて、年を暮す。 さる程に同年十一月十二日の寅の刻より、中宮御産の氣坐すとて、京中六波羅ひしめきあへり。御産所は六波羅池殿にて有けるに法皇も御幸なる。關白殿を始め奉て、太政大臣以下の公卿殿上人、すべて世に人と數へられ、官加階に望をかけ、所帶所職を帶する程の人の、一人 も漏るは無りけり。先例も、女御、后、御産の時に臨んで大赦行はるゝ事あり。大治二年九月十一日、待賢門院御産の時、大赦有りき。其例とて今度も、重科の輩多く許されける中に、俊寛僧都一人、赦免無りけるこそうたてけれ。 御産平安に在ならば、八幡、平野、大原野などへ、行啓なるべしと御立願有けり。仙源法印、是を敬白す。神社は太神宮を始奉て、二十餘箇所、佛寺は東大寺、興福寺、已下十六箇所に御誦經あり。御誦經の御使は、宮の侍の中に、有官の輩是を勤む。平紋の狩衣に帶劔したる者共が、色々の御誦經物、御劍御衣を持續いて、東の臺より南庭を渡て、西の中門に出づ。目出たかりし見物なり。 小松大臣は例の善惡に噪がぬ人にて坐ければ、其後遙に程歴て、嫡子權亮少將以下公達の車共遣續させ、色々の御衣四十領、銀劔七つ、廣蓋に置せ、御馬十二匹引せて參り給。寛弘に上東門院御産の時、御堂殿御馬を參せられし其例とぞ聞えし。此大臣は中宮の御兄にて坐ける上、父子の御契なれば、御馬參せ給ふも理なり。五條の大納言國綱卿、御馬二匹進ぜらる。志の至か、徳の餘かとぞ人申ける。猶伊勢より始て、安藝の嚴島に至まで、七十餘箇所へ神馬を立らる。内裏にも寮の御馬に四手附て、數十匹引立たり。仁和寺御室は、孔雀經の法、天台座主覺快法親王は、七佛藥師の法、寺の長吏圓慶法親王は、金剛童子の法、其外五大虚空藏、六觀音、一字金輪、五壇の法、六字加輪、八字文殊、普賢延命に至るまで、殘所なう修せられけり。護摩の煙御所中にみち、鈴の音雲を響し、修法の聲身の毛堅て、如何なる 御物のけなり共、面をむかふべしとも見えざりけり。猶佛所の法印に仰て、御身等身の藥師竝に五大尊の像を作り始らる。 かゝりしか共、中宮は隙なく頻らせ給ふばかりにて、御産も頓に成遣ず。入道相國、二位殿、胸に手を置て、こはいかにせんとぞあきれ給ふ。人の物申しけれども、唯ともかくも好樣にとぞ宣ける。さり共「軍の陣ならば、是程淨海は臆せじ物を。」とぞ後には仰られける。御驗者は、房覺性運兩僧正、春堯法印、豪禪、實專兩僧都、各僧伽の句どもあげ、本寺本山の三寶、年來所持の本尊達、責ふせ々々々もまれけり。誠にさこそはと覺えて尊かりける中に法皇は、折しも新熊野へ御幸なるべきにて、御精進の次なりける間、錦帳近く御座有て、千手經を打上遊されけるにこそ、今一際事替て、さしも躍狂ふ御よりまし共が縛も、暫打靜けれ。法皇仰なりけるは、「如何なる御物氣なり共、此老法師がかくて候はんには、爭か近附奉るべき。就中に今現るる所の怨靈共は、皆我朝恩によて、人と成し者共ぞかし。縱報謝の心をこそ存ぜず共、豈障碍を成すべきや。速に罷退き候へ。」とて女人生産し難からん時に臨で、邪魔遮障し、苦忍難からんにも、心を致して大悲呪を稱誦せば、鬼神退散して、安樂に生ぜんと遊いて、皆水精の御數珠を推揉せ給へば、御産平安のみならず、皇子にてこそ坐けれ。 頭中將重衡卿、其時は未中宮亮にておはしけるが、御簾の内よりつと出て、御産平安、皇子御誕生候ぞや。」と、高らかに申されければ、法皇を始參せて、關白殿以下の大臣、公卿、殿 上人、各の助修、數輩の御驗者、陰陽頭、典藥頭、惣て堂上堂下、一同にあと悦あへる聲は、門外までどよみて、暫は靜りやらざりけり。入道餘りの嬉さに、聲をあげてぞ泣ける。悦泣とは是を云べきにや。小松殿、中宮の御方に參せ給て、金錢九十九文、皇子の御枕に置き、「天を以て父とし、地を以て母と定め給へ。御命は方士東方朔が齡を保ち、御心には天照大神入替らせ給へ。」とて、桑の弓蓬の矢を以て、天地四方を射させらる。 -------------------------------------------------------------------------------- 公卿揃 御乳には前右大將宗盛卿の北方と定められたりしが、去七月に難産をして失給しかば、御乳母平大納言時忠卿の北方、御乳に參せ給ひけり。後には帥典侍とぞ申ける。法皇軈て還御の御車を、門前に立られたり。入道相國嬉さの餘りに、砂金千兩、富士の綿二千兩、法皇へ進上せらる。然るべからずとぞ人人内々 ささやきあはれける。 今度の御産に笑止數多あり。先法皇の御驗者、次に后御産の時御殿の棟より甑を轉かす事あり。皇子御誕生には南へ落し、皇女誕生には北へ落すを、是は北へ落したりければ、こは如何にと噪がれて取上て落なほしたりけれ共、惡き御事に人人申あへり。をかしかりしは入道相國のあきれ樣、目出たかりしは小松大臣の振舞、本意なかりしは前右大將宗盛卿の、最愛の北方に後れ奉て、大納言大將兩職を辭して籠居せられし事、兄弟共に出仕あらば、如何に目出たからん。次に七人の陰陽師を召されて、千度の御祓仕るに、其中に、掃部頭時晴と云ふ 老者有り。所從なども乏少なりけり。餘に人多く參つどひて、たかんなをこみ、稻麻竹葦の如し。「役人ぞ、あけられよ。」とて、押分々々參る程に、右の沓を踏拔れて、そこにて些立休ふが、冠をさへ突落されぬ。さばかりの砌に、束帶正しき老者が、髻放てねり出たりければ、若き殿上人こらへずして、一度にどと笑ひあへり。陰陽師など云は、返陪とて足をもあだにふまずとこそ承れ。其に懸る不思議の有けるを、其時は何共覺えざりしか共、後こそ思合する事共も多かりけれ。御産によて、六波羅へ參らせ給ふ人々、關白松殿、太政大臣妙音院、左大臣大炊御門、右大臣月輪殿、内大臣小松殿、左大將實定、源大納言定房、三條大納言實房、五條大納言國綱、藤大納言實國、按察使資方、中御門中納言宗家、花山院中納言兼雅、源中納言雅頼、權中納言實綱、藤中納言資長、池中納言頼盛、左衞門督時忠、別當忠親、左宰相中將實家、右宰相中將實宗、新宰相中將通親、平宰相教盛、六角宰相家通、堀川宰相頼定、左大辨宰相長方、右大辨三位俊經、左兵衞督重教、右兵衞督光能、皇太后宮大夫朝方、左京大夫長教、太宰大貳親宣、新三位實清、以上三十三人、右大辨の外は直衣なり。不參の人々には、花山院前太政大臣忠雅公、大宮大納言隆季卿、已下十餘人、後日に布衣著して、入道相國の西八條の邸へ向はれけるとぞ聞えし。 -------------------------------------------------------------------------------- 大塔建立 御修法の結願には、勸賞共行はる。仁和寺の御室は東寺修造せらるべし。並に後七日の御修 法、大元の法、灌頂興行せらるべき由仰下さる。御弟子覺誓僧都、法印に擧せらる。座主の宮は、二品竝に牛車の宣旨を申させ給ふ。仁和寺の御室さゝへ申させ給ふによて、法眼圓良、法印に成さる。其外の勸賞共毛擧に遑あらずとぞ聞えし。中宮は日數經にければ、六波羅より内裏へ參せ給ひけり。此御娘、后に立せ給しかば、入道相國夫婦共に、「哀れ、如何にもして皇子御誕生あれかし。位に即奉て、外祖父、外祖母と仰れん。」と願ける。我が崇奉る安藝の嚴島に申さんとて、月詣を始て、祈り申されければ、中宮やがて、御懷姙有て、思ひのごとく皇子にて坐けるこそ目出度けれ。 抑平家安藝の嚴島を信じ始られける事は如何にと云に、鳥羽院の御宇に清盛公未安藝守たりし時、安藝國を以て、高野の大塔を修理せよとて、渡邊遠藤六郎頼方を雜掌に附られ、六年に修理畢ぬ。修理畢て後、清盛高野へ上り、大塔拜み、奧院へ參られたりければ、何くより來る共なき老僧の、眉には霜を垂れ、額に浪を疊み、鹿杖の兩股なるにすがて、出來給へり。稍久しう御物語せさせ給ふ。「昔より今にいたる迄此れは密宗をひかへて退轉なし。天下に又も候はす。大塔既に修理終候たり。さては、安藝の嚴島、越前の氣比の宮は、兩界の垂跡で候が、氣比の宮は榮たれ共、嚴島はなきが如くに荒果て候。此次に、奏聞して修理せさせ給へ。さだにも候はば、官加階は肩を竝ぶる人、有まじきぞ。」とて立れけり。此老僧の居給へる所に異香薫じたり。人を附て見せ給へば、三町許は見給て其後は掻消すやうに失せ給ぬ。是唯人には非ず。すなはち大師にて坐けりと、彌々尊く思召し、娑婆世界の思出にとて、高 野の金堂に曼陀羅を書かれけるが、西曼陀羅をば、常明法印といふ繪師に書せらる。東曼陀羅をば、清盛書んとて、自筆にかゝれけるが、何とかおもはれけん、八葉の中尊の寶冠をば我首の血を出いて、書かれけるとぞ聞えし。 さて都へ上り、院參して、此由奏聞せられければ、君もなのめならず御感有り。猶任を延られて、嚴島を修理せらる。鳥居を立替へ、社々を造りかへ、百八十間の廻廊をぞ造られける。修理畢て、清盛嚴島へ參り、通夜せられたりける夢に、御寶殿の内より、鬟結たる天童の出て、「是は大明神の御使なり。汝此劔を以て一天四海をしづめ、朝家の御まもりたるべし。」とて、銀の蛭卷したる小長刀を賜ると云夢を見て、覺て後見給へば。現に枕上にぞ立たりける。大明神御託宣有て、「汝知れりや忘れりや、或聖を以て言せし事は。但惡行有らば、子孫迄は叶ふまじきぞ。」とて、大明神あがらせ給ぬ。目出度かりし御事なり。 -------------------------------------------------------------------------------- 頼豪 白河院御在位の御時、京極大殿の御娘の后に立せ給て、賢子の中宮とて、御最愛有けり。主上此御腹に、皇子御誕生あらまほしう思召、其比、有驗の僧と聞えし三井寺の頼豪阿闍梨を召て、「汝此后の腹に、皇子御誕生祈り申せ、御願成就せば、勸賞はこふによるべし。」とぞ仰ける。「安う候」とて三井寺に歸り、百日肝膽を摧て祈申されければ、中宮軈て百日の内に御懷姙有て、承保元年十二月十六日。御産平安、皇子御誕生有けり。君なのめならず御感有て 三井寺の頼豪阿闍梨を召て、「汝が所望の事は如何に。」と仰下されければ、三井寺に戒壇建立の事を奏す。主上「是こそ存の外の所望なれ。一階僧正などをも申べきかとこそ思召つれ。凡は皇子御誕生有て、皇祚を繼しめん事も、海内無爲を思ふ爲なり。今汝が所望達せば、山門憤て、世上も靜なるべからず。兩門合戰して、天台の佛法亡なんず」とて、御許されも無りけり。 頼豪口惜い事なりとて、三井寺に歸て、干死にせんとす。主上大に驚かせ給て、江帥匡房卿其比は未美作守と聞えしを召て、「汝は頼豪と師檀の契有なり。行いて拵て見よ。」と仰ければ、美作守綸言を蒙て、頼豪阿闍梨が宿坊に行向ひ、勅定の趣を仰含んとするに、以の外にふすぼたる持佛堂に立籠て、怖氣なる聲して、「天子には戯の言なし、綸言汗の如しとこそ承れ。是程の所望叶はざらんに於ては、我祈出したる皇子なれば、取奉て魔道へこそ行んずらめ。」とて、遂に對面も爲ざりけり。美作守歸り參て、此由を奏聞す。頼豪は軈て干死に死けり。君如何せんずると叡慮を驚させおはします。皇子やがて御惱附せ給て、樣々の御祈共有しかども、叶ふべし共見えさせ給はず。白髮なりける老僧の、錫杖を以て、皇子の御枕に彳み、人々の夢にも見え、幻にも立けり。怖なども愚也。 去程に承暦元年八月六日、皇子御年四歳にて遂に隱させ給ぬ。敦文の親王是也。主上斜ならず御歎有けり。山門に又西京の座主、良信大僧正、其比は圓融坊の僧都とて有驗僧と聞えしを内裏へ召て、「こは如何せんずる。」と仰ければ、「何も、吾山の力にてこそか樣の御願は成就 する事で候へ。九條右丞相、慈慧大僧正に契申させ給しに依てこそ、冷泉院の皇子御誕生は候しか。安い程の御事候。」とて、比叡山に歸り上り、山王大師に、百日肝膽を摧て祈申ければ、中宮軈て百日の内に御懷姙有て、承暦三年七月九日、御産平安、皇子御誕生有けり。堀川の天皇是なり。怨靈は昔もかく怖しかりし事也。今度さしも目出度き御産に、非常の大赦行はれたりといへ共、俊寛僧都一人、赦免無りけるこそうたてけれ。 同十二月八日。皇子東宮に立せ給ふ。傅には、小松内大臣、大夫には池中納言頼盛卿とぞ聞えし。 -------------------------------------------------------------------------------- 少將都歸 明れば治承三年正月下旬に丹波少將成經、肥前國鹿瀬庄を立て、都へと急がれけれ共餘寒猶烈しく、海上も痛く荒ければ、浦傅島傅して、きさらぎ十日比にぞ、備前の兒島に著給ふ。其より父大納言殿の住給ける處を尋いりて見給ふに、竹の柱、舊たる障子なんどに書置れたる筆のすさびを見給て、「人の形見には手跡に過たる物ぞなき。書置給はすば、爭か是を見るべき。」とて、康頼入道と二人、讀では泣き、泣いては讀む。「安元三年七月廿日出家、同廿六日、信俊下向。」とも書かれたり。さてこそ源左衞門尉信俊が參りたりけるも知れけれ。そばなる壁には、「三尊來迎便有り、九品往生疑なし。」とも書かれたり。此形見を見給てこそ、「さすが欣求淨土の望も御座けり。」と、限なき歎の中にも、聊頼しげには宣けれ。 其墓を尋て見給へば、松の一村ある中に、甲斐々々しう壇を築たる事もなし。土の少し高き所に少將袖掻合せ、生たる人に申樣に、泣々申されけるは、「遠き御守と成せ御座して候事をば、島にて幽に傳へ承しか共、心に任せぬ憂世なれば、急ぎ參る事も候はず。成經彼島へ流れて露の命の消やらずして、二年を送て、召還さるる嬉さは、さる事にて候へ共、此世に渡せ給ふを見參て候はばこそ、命の長きかひもあらめ。是までは急がれつれ共、今日より後は、急ぐべし共覺えずと、掻口説てぞ泣かれける。誠に存生の時ならば、大納言入道殿こそ、如何に共宣ふべきに、生を隔たる習程、恨めしかりける物はなし。苔の下には誰か答ふべき。唯嵐に騒ぐ松の響計也。 其後はよもすがら康頼入道と二人、墓の廻を行道して念佛申し、明ぬれば新う壇築き、釘貫せさせ、前に假屋作り、七日七夜、念佛申し經書て結願には大なる卒塔婆を立て、「過去聖靈出離生死、證大菩提」と書て、年號月日の下に、「孝子成經」と書かれたれば、賤山賤の心無も、子に過たる寶はなしとて、涙を流し、袖を絞ぬは無りけり。年去年來れ共、忘難きは撫育の昔の恩。夢の如く幻の如し。盡難きは戀慕の今の涙なり。三世十方の佛陀の聖衆も憐み給ひ、亡魂尊靈も、如何に嬉しと覺しけん。「今暫候て、念佛の功をも積べう候へ共、都に待つ人共も心元なう候らん。又こそ參候は。」とて、亡者に暇申つゝ、泣々そこをぞ立れける。草陰にても名殘惜うや思はれけん。 三月十六日少將殿鳥羽へあかうぞ著給ふ。故大納言殿の山庄、洲濱殿とて鳥羽に在り。住荒 して年經にければ、築地は有共覆もなく、門は有共扉もなし。庭に立入り見給へば、人跡絶て苔深し。池の邊を見まはせば、秋の山の春風に、白浪頻に折懸て紫鴛白鴎逍遙す。興ぜし人の戀さに、盡ぬ物は涙也。家はあれ共、欄門破れ、蔀遣戸も絶てなし。「爰には大納言殿のとこそ坐しか、此妻戸をばかうこそ出入給しか、あの木をば、自らこそ植給しか。」など言ひて、言の葉に附て、父の事を戀しげにこそ宣ひけれ。彌生中の六日なれば、花は未名殘あり。楊梅桃李の梢こそ、折知顏に色々なれ。昔の主はなけれ共、春を忘れぬ花なれや。少將花の下に立寄て、 桃李不言春幾暮、煙霞無跡昔誰栖。 故郷の花の言ふ世なりせば、如何に昔の事を問まし。 此古き詩歌を口ずさみ給へば、康頼入道も折節哀に覺えて、墨染の袖をぞ濕しける。暮る程とは待れけれ共、餘に名殘惜くて、夜更る迄こそ坐けれ。更行まゝに、荒たる宿の習とて、古き軒の板間よりもる月影ぞ隈もなき。鷄籠の山明なんとすれ共、家路は更に急がれず。さてしも有べき事ならねば、迎に乘物ども遣て、待らんも心なしとて、泣々洲濱殿を出つゝ、都へ歸り入給けん人々の心の中共、さこそは哀にも嬉しうも有けめ。康頼入道が迎にも乘物有けれ共其には乘らで、「今更名殘の惜に。」とて、少將の車の尻に乘て、七條河原までは行く。其より行別れけるに、猶行もやらざりけり。花の下の半日の客、月の前の一夜の友、旅人が一村雨の過行に、一樹の陰に立よて、別るゝ名殘も惜きぞかし。況や是は憂かりし島の栖、 船の中、浪の上、一業所感の身なれば、前世の芳縁も不淺や思ひしられけん。 少將は舅平宰相の宿所へ立入給ふ。少將の母上は、靈山に坐けるが、昨日より宰相の宿所に坐て待れけり。少將の立入給ふ姿を一目見て、「命あれば」と計ぞのたまひける。引被てぞ臥給ふ。宰相の内の女房侍共さしつどひて、皆悦び泣共しけり。増て少將の北の方、乳母の六條が心の中、さこそは嬉しかりけめ。六條は盡せぬ物思ひに黒かりし髮も皆白く成り、北の方、さしも花やかにうつくしう坐しか共、いつしか痩衰へて、其人とも見え給はず。少將の流され給し時、三歳にて別給し稚き人、長う成て髮結ふ程也。又其傍に三つ計なる少き人の坐けるを、少將「あれは如何に。」と宣へば、六條「是こそ」とばかり申て、袖を顏におし當て、涙を流しけるにこそ、「さては下りし時、心苦げなる有樣を見置しが、事故なく育けるよ。」と思出ても悲かりけり。少將は本の如く院に召仕はれて、宰相中將にあがり給ふ。 康頼入道は、東山雙林寺に、我山庄の有ければ、其に落著て、先思續けけり。 故郷の軒の板間に苔むして、思し程は洩ぬ月かな。 軈てそこに籠居して、憂かりし昔を髮思續け、寶物集と云ふ物語を書けけるとぞ聞えし。 -------------------------------------------------------------------------------- 有王 去程に鬼界島へ三人流されたりし流人二人は召還され都へ上りぬ。俊寛僧都一人、憂かりし島の島守と成にけるこそうたてけれ。僧都の、少うより不便にして召仕はれける童あり。名 をば有王とぞ申ける。鬼界島の流人、今日既に京都へ入と聞えしかば、鳥羽まで行向うて見けれ共、我主は見え給はず。「如何に」と問へば、「其は猶罪深しとて、島に殘され給ぬ。」と聞て、心憂なども愚也。常は六波羅邊にたゝずみありいて聞けれども、赦免有るべし共聞出ず。僧都の御娘の忍びて坐ける所へ參て、「此せにも洩させ給て、御上りも候はず。如何にもして彼島へ渡て、御行へを尋參らせんとこそ思立て候へ。御文賜はらん。」と申ければ、泣々書て賜だりけり。暇を請共、よも赦さじとて、父にも母にも知せず。唐船の纜は、卯月五月にも解なれば、夏衣立を遲くや思けん。三月の末に都を出て、多くの波路を凌つゝ、薩摩潟へぞ下りける。薩摩より彼島へ渡る船津にて、人怪み、著たる物を剥取などしけれ共、少しも後悔せず、姫御前の御文計ぞ人に見せじとて、髻結の中に隱したり。さて商人船に乘て件の島へ渡て見に、都にて幽に傳聞しは、事の數にもあらず。田もなし。畑もなし。村もなし。里もなし。自ら人は有共、言ふ詞も聞知らず。若しか樣の者共の中に我が主の行末知たる者や在んと、「物申さう」と言ば、「何事」と答ふ。「是に都より流され給し法勝寺執行御房と申す人の、御行末や知たる。」と問に、法勝寺とも執行とも、知たらばこそ返事もせめ。唯頭を掉て「知ず」と言ふ。其中に或者が心得て、「いさとよ、左樣の人は三人是に有しが、二人は召還されて都へ上りぬ。今一人は殘されて、あそこ此に惑ひ歩けども、行方も知らず。」とぞ言ひける。山の方の覺束なさに、遙に分入り、嶺に攀、谷に下れ共、白雲跡を埋んで、往來の道もさだかならず、晴嵐夢を破て其面影も見ざりけり。山にては終に尋も逢はず、海の邊に著て尋るに、沙頭に印を 刻む鴎、澳の白洲に集く濱千鳥の外は、跡問ふ者も無りけり。 或朝磯の方より、蜻蛉などの樣に痩衰たる者一人よろぼひ出來り。本は法師にて有けりと覺て、髮は虚樣へ生あがり、萬の藻屑取附て、荊を戴たるが如し。節見れて皮ゆたひ、身に著たる物は絹、布の分も見えず。片手には荒海布を拾ひ持ち、片手には網人に魚を貰て持ち、歩む樣にはしけれ共、はかも行かず、よろ/\として出來たり。「都にて多くの乞丐人見しか共、かゝる者をば未見ず、『諸阿修羅等故在大海邊』とて、修羅の三惡四趣は深山大海の邊に有と、佛の説置給ひたれば、知らず、我餓鬼道に尋來るか。」と思ふほどに、彼も此も次第に歩近づく「若か樣の者も、我主の御行末知たる事や在ん。」と、「物申さう。」と言ば「何事」と答ふ。「是に都より流され給し法勝寺の執行御房と申す人の御行末や知たる。」と問に、童は見忘たれ共、僧都は何か忘べきなれば、「是こそ其よ。」と云も敢ず、手に持る物を投捨て、沙の上に倒伏す。さてこそ我主の行末も知てけれ。軈て消入給ふを、膝の上に掻乘奉り「有王が參て候。多くの浪路を凌て、是迄尋參りたる甲斐もなく、いかに軈て憂目をば見せさせ給ふぞ。」と、泣々申ければ、良在て、少し人心地出來、扶起されて「誠に汝が是まで尋來たる志の程こそ神妙なれ。明ても暮ても、都の事のみ思ひ居たれば、戀き者共が面影は、夢に見る折も有り、幻に立つ時も有り。身も痛く疲弱て後は、夢も現も思分かず。されば汝が來れるも唯夢とのみこそ覺れ。若この事夢ならば、覺ての後は如何せん。」有王、「現にて候也。此有樣にて、今まで御命の延させ給て候こそ。不思議には覺候へ。」と申せば、「さればこそ。去年 少將や判官入道に棄られて後の便無さ、心の中をば只推量るべし。その瀬に身をも投げんとせしを、由なき少將の、『今一度都の音信をも待かし。』など、慰置しを、愚に若やと頼つゝ、存へんとはせしかども、此島には人の食物絶て無き所なれば、身に力の有し程は、山に上て硫黄と云ふ物をとり、九國より通ふ商人にあひ、物に換などせしかども、日に副て弱行ば、今は其態もせず。か樣に日の長閑なる時は、磯に出て網人釣人に手を摺り、膝を屈て、魚を貰ひ、汐干の時は貝を拾ひ、荒海布を取り、磯の苔に露の命を懸てこそ、今日までも存たれ。さらでは憂世を渡よすがをば、如何にしつらんとか思らん。」僧都、「是にて何事をも言ばやとは思共、いざ我家へ。」と宣へば、此御有樣にても、家を持給へる不思議さよ。」と思て行程に、松の一村ある中に、より竹を柱とし、蘆を結て、桁梁に渡し、上にも下にも松の葉をひしと取懸たれば、風雨たまるべうも無し。昔は法勝寺の寺務職にて、八十餘箇所の庄務を司りしかば、棟門平門の内に、四五百人の所從眷屬に圍繞せられてこそ坐せしか。目のあたりかゝる憂目を見給けるこそ不思議なれ。業にさま/\あり。順現、順生、順後業と云へり。僧都一期の間、身に用る所、皆大伽藍の寺物佛物にあらずと云ふ事なし。去れば彼信施無慚の罪に依て、今生にはや感ぜられけりとぞ見えたりける。 -------------------------------------------------------------------------------- 僧都死去 僧都現にて有けりと思定て、「抑去年少將や判官入道が迎にも、是等が文と云ふ事もなし。今 汝が便にも、音信の無きはかう共謂ざりけるか。」有王涙に咽び俯して、暫は物も申さず。良有て起上り、涙を抑へて申けるは、「君の西八條へ出させ給しかば、やがて追捕の官人參て、御内の人々搦取り、御謀反の次第を尋て、失果て候ぬ。北方は少き人を隱しかねまゐらせ給ひて、鞍馬の奧に忍ばせ給て候しに、此童計こそ時々參て宮仕つかまつり候しが、何も御歎の愚なる事は候はざりしかども、稚き人は、餘に戀參させ給て、參り候度毎に、『有王よ、鬼界が島とかやへ我具して參れ。』とむづからせ給候しが、過候し二月に、もがさと申す事に失させ給ぬ。北方は其歎と申し是の御事と申し、一方ならぬ御思に沈ませ給ひ、日に添へて弱らせ給候しが、同三月二日の日遂にはかなく成せ給ぬ。今は姫御前ばかり、奈良の姨御前の御許に御渡り候。是に御文賜はて候。」とて取出いて奉る。開て見給へば、有王が申にたがはず書れたり。奧には、「などや三人流されたる人の、二人は召還されて候に、今迄御上り候はぬぞ。哀高きも卑きも、女の身ばかり心うかりける物はなし。男の身にて候はば、渡せ給ふ島へも、などか尋ね參らで候ふべき。此有王御伴にて、急ぎ上せ給へ。」とぞ書かれたる。「是見よ、有王。此子が文の書樣のはかなさよ。己を伴にて、急ぎ上れと書たるこそ恨しけれ。心に任せたる俊寛が身ならば、何とてか三年の春秋をば送るべき。今年は十二に成とこそ思に、是程はかなくては、人にも見え、宮仕をもして、身をも扶くべきか。」とて泣れけるにこそ、人の親の心は闇にあらね共、子を思ふ道に迷ふ程も知れけれ。「此島へ流されて後は、暦も無れば月日の換り行をも知らず、唯自ら花の散り、葉の落るを見て、春秋を辨へ、蝉の聲麥秋 を送れば夏と思ひ、雪の積を冬と知る。白月黒月の變行を見ては、三十日を辨へ、指を折て數れば、今年は六に成と思つる稚き者も早先立けるごさんなれ。西八條へ出し時、此子が我も行うと慕しを、軈て歸うずるぞと拵へ置しが、今の樣に覺るぞや。其を限と思はましかば、今暫もなどか見ざらん。親と成り、子と成り、夫婦の縁を結も、皆此世一に限ぬ契ぞかし。などさらば、其等が左樣に先立けるを、今迄夢幻にも知せざりけるぞ。人目も愧ず如何にもして、命生うと思しも、是等を今一度見ばやと思ふ爲也。姫が事計こそ心苦けれ共、其も生身なれば、歎ながらも過んずらん。さのみ存て、己に憂目を見せんも我身ながらも強顏かるべし。」とて、自らの食事を止め、偏に彌陀の名號を唱へて、臨終正念をぞ祈られける。有王渡て廿三日と云に、其庵の内にて遂に終り給ぬ。歳三十七とぞ聞えし。有王空き姿に取附き、天に仰ぎ地に俯し、泣悲め共かひぞなき。心の行程泣あきて、「軈て後世の御供仕るべう候へども、此世には姫御前ばかりこそ御渡候へ。後世弔ひまゐらすべき人も候はず。暫存て、弔ひ參せ候はんとて、臥戸を改めず、庵を切懸け、松の枯枝、蘆の枯葉を取掩ひ、藻鹽の煙と成し奉り、荼毘事終にければ、白骨を拾ひ、頸に懸け、又商人船の便に、九國の地へぞ著にける。 僧都の御女の座ける處に參て、有し樣初より細々と語申す。「中々文を御覽じてこそ、いとゞ御思は勝せ給て候ひしか。硯も紙も候はねば、御返事にも及ばず。思召され候し御心の中、さながら空て止候にき。今は生々世々を送り、他生曠劫を隔つ共、爭か御聲をも聞き、御姿 をも見參せ給べき。」と申ければ、伏轉び聲も惜ず泣かれけり。軈て十二の歳尼になり、奈良の法華寺に行澄て、父母の後世を弔ひ給ぞ哀なる。有王は俊寛僧都の遺骨を頸にかけ、高野へ登り、奧の院に納つゝ、蓮華谷にて法師になり、諸國七道修行して、主の後世をぞ弔ける。か樣に人の思歎の積ぬる平家の末こそ怖しけれ。 -------------------------------------------------------------------------------- つぢかぜ 同五月十二日午刻ばかり、京中には辻風おびたゞしう吹て、人屋多く顛倒す。風は中御門京極より起て、未申の方へ吹て行に、棟門平門を吹拔きて、四五町十町吹もて行き、桁長押柱などは虚空に散在す。檜皮、葺板の類、冬の木の葉の風に亂るが如し。おひたゞしう鳴どよむ音は、彼地獄の業風なり共、是には過じとぞ見えし。唯舎屋の破損する耳ならず、命を失ふ人も多し。牛馬の類數を盡して打殺さる。是たゝ事に非ず。御占有るべしとて、神祇官にして御占有り。「今百日の中に、祿を重ずる大臣の愼、別しては天下の大事、幵に佛法王法共に傾きて、兵革相續すべし。」とぞ、神祇官陰陽寮ともに占ひ申ける。 -------------------------------------------------------------------------------- 醫師問答 小松大臣、か樣の事共を聞給て、萬心細うや思はれけん。其比熊野參詣の事有けり。本宮證誠殿の御前にて、終夜敬白せられけるは、「親父入道相國の體を見るに、惡逆無道にして、 動すれば君を惱し奉る。重盛長子として、頻に諫をいたすと云へども、身不肖の間、彼以て服膺せず。其振舞を見るに一期の榮華猶危し。枝葉連續して、親を現し名を揚ん事難し。此時に當て、重盛苟うも思へり。憖に列して、世に浮沈せん事、敢て良臣孝子の法に非ず。しかじ、名を遁れ身を退て、今生の名望を投捨て、來世の菩提を求んには。但凡夫薄地、是非に惑るが故に、猶志を恣にせず。南無權現金剛童子、願くは子孫榮絶えずして、仕て朝廷に交はるべくば、入道の惡心を和て、天下の安全を得しめ給へ。榮耀又一期を限て、後昆耻に及ぶべくば、重盛が運命をつゞめて、來世の苦輪を助け給へ。兩箇の求願、偏に冥助を仰ぐ。」と、肝膽を摧て祈念せられけるに、燈籠の火の樣なる物の、大臣の御身より出て、はと消るが如くして失にけり。人數多見奉りけれども、恐れて是を申さず。 又下向の時、岩田河を渡られけるに、嫡子權亮少將維盛已下の公達、淨衣の下に薄色の衣を著て、夏の事なれば、何となう河の水に戯れ給ふ程に、淨衣のぬれて衣に移たるが、偏に色の如くに見ければ、筑後守貞能是を見咎て、「何と候やらん、あの御淨衣の世に忌はしきやうに見させ座し候。召替らるべうや候らん。」と申されければ、大臣「我所願既に成就しにけり。其淨衣敢て改むべからず。」とて、別して岩田河より、熊野へ悦の奉幣をぞ立られける。人怪しと思ひけれ共、其心を得ず。然に此公達、程なく、誠の色を著給けるこそ不思議なれ。 下向の後幾くの日數を經ずして、病附給ふ。權現既に御納受あるにこそとて、療治もしたまはず。祈祷をも致されず。其比宋朝より勝たる名醫渡て、本朝にやすらふ事あり。境節入道 相國、福原の別業に座けるが、越中守盛俊を使で、小松殿へ仰られけるは、「所勞彌大事なる由、其聞え有り。兼ては又宋朝より勝たる名醫渡れり。境節悦とす。是を召請じて醫療を加しめ給へ。」と、宣遣はされたりければ、小松殿扶起され、盛俊を御前へ召て「先醫療の事、畏て承候ぬと申べし。但汝も承れ。延喜の御門は、さばかの賢王にて渡せまし/\けれ共、異國の相人を都の内へ入させ給たりけるをば、末代迄も賢王の御誤、本朝の耻とこそ見えたれ。況や重盛程の凡人が、異國の醫師を王城へ入ん事、國の耻に非ずや。漢高祖は、三尺の劔を提て天下を治しかども、淮南の黥布を討し時、流矢に當て疵を蒙る。后呂太后、良醫を迎て見せしむるに、醫の曰く『此疵治しつべし。但五十斤の金を與へば治せん。』と云ふ。高祖のたまはく、『我守の強かし程は、多くの鬪に逢て疵を蒙りしか共、其痛無し。運既に盡ぬ。命は則天に在り。縱ひ扁鵲といふとも、何の益か有ん。然ば又金を惜に似たり。』とて、五十斤の金を醫師に與へながら遂に治せざりき。先言耳に在り、今以て甘心す。重盛苟も九卿に列し、三台に昇る。その運命を計るに、もて天心に在り。何ぞ天心を察せずして、愚に醫療を痛はしうせむや。若定業たらば醫療を加ふ共益無からんか。又非業たらば、療治をくはへず共、助る事を得べし。彼耆婆が醫術及ばずして、大覺世尊、滅度を跋提河の邊に唱ふ。是即定業の病、 いやさざる事を示さんが爲也。定業猶醫療に拘るべう候はば、釋尊豈入滅あらんや。定業又治するに堪ざる旨明し。治するは佛體也。療するは耆婆也。然れば重盛が身佛體に非ず。名醫又耆婆に及べからず。縱四部の書を鑑て、百療に長ずといふ共、爭で有待の穢 身を求療せんや。縱五經の説を詳にして、衆病をいやすと云共、豈前世の業病を治せんや。若かの醫術に依て存命せば、本朝の醫道無に似たり。醫術効驗なくんば、面謁所詮なし。就中に本朝鼎臣の外相を以て、異朝浮遊の來客に見ん事、且は國の耻、且は道の陵遲也。縱重盛命は亡ずといふ共、爭か國の恥を思ふ心を存ぜざらん。此由を申せ。」とこそ宣ひけれ。 盛俊福原に歸りまゐて、此由泣々申ければ、入道相國、「是程國の恥を思ふ大臣上古にも未聞かず、増て末代に有べし共覺えず。日本に相應せぬ大臣なれば、如何樣にも今度失なんず。」とて、泣く/\急ぎ都へ上られけり。 同七月廿八日小松殿出家し給ぬ。法名は淨蓮とこそつき給へ。やがて八月一日、臨終正念に住して遂に失給ぬ。御歳四十三、世は盛とこそ見えつるに、哀なりし事共也。 入道相國の、さしも横紙をやられつるも、此人のなほし宥られつればこそ、世も穩かりつれ。此後天下に如何なる事か出來んずらむとて、京中の上下歎合へり。前右大將宗盛卿の方樣の人は、世は唯今大將殿へ參りなんずとぞ悦ける。人の親の子を思ふ習は、愚なるが先立だにも悲きぞかし。況や是は當家の棟梁當世の賢人にておはしければ、恩愛の別、家の衰微、悲でも猶餘有り。去ば世には良臣を失へる事を歎き、家には武略の廢ぬる事を悲む。凡は此大臣文章麗うして、心に忠を存し、才藝勝て、詞に徳を兼給へり。 -------------------------------------------------------------------------------- 無文 天性此大臣は、不思議の人にて、未來の事をも兼て悟給けるにや、去四月七日の夢に、見給ける事こそ不思議なれ。譬ば、何く共知らぬ濱路を遙々と歩行給ふ程に、道の傍に大なる鳥居有けるを、「あれは如何なる鳥居やらん。」と問給へば、「春日大明神の御鳥居なり。」と申。人多く群集したり。其中に、法師の頭を一つ指擧たり。「さてあのくびは如何に。」と問給へば、是は平家太政入道殿の御頭を惡行超過し給へるに依て、當社大明神の召取せ給て候。」と申と覺えて、夢打覺ぬ。當家は保元平治より以降、度々の朝敵を平げて、勸賞身に餘り、忝く一天の君の御外戚として、一族の昇進六十餘人。二十餘年の以降は、樂榮え申計も無りつるに、入道の惡行超過せるに依て、一門の運命既に盡んずるにこそと、こし方行末の事共思召續けて、御涙に咽ばせ給ふ。 折節妻戸をほと/\と打敲く。「誰そ。あれ聞。」と宣へば、「瀬尾太郎兼康が參て候。」と申。「如何に、何事ぞ。」とのたまへば、「只今、不思議の事候て、夜の明候はんが遲う覺え候間、申さんが爲に參て候。御前の人を除られ候へ。」と申ければ、大臣人を遙に除て對面あり。さて兼康が見たりける夢の樣を始より終まで委しう語り申けるが、大臣の御覽じたりける御夢に少しも違はず。さてこそ瀬尾太郎兼康をば、神にも通じたる者にてありけりと大臣も感じ給ひけれ。 その朝嫡子權亮少將維盛院の御所へ參んとて出させ給たりけるを、大臣呼奉て、「人の親の身としてか樣の事を申せば、きはめてをこがましけれ共、御邊の人は子共の中には勝て見え給 ふ也。但此世の中の在樣いかゞあらむずらんと心細うこそ覺ゆれ。貞能は無いか、少將に酒進めよ。」と宣へば、貞能御酌に參りたり。「此盞をば先づ少將にこそ取せたけれ共、親より先にはよも飲給はじなれば、重盛まづ取擧げて少將にさゝん。」とて、三度受て、少將にぞ差されける。少將又三度うけ給ふ時、「如何に貞能引出物せよ。」と宣へば、畏て承り、錦の袋に入たる御太刀を取出す。「あはれ是は家に傳はれる小烏と云ふ太刀やらん。」など、世に嬉氣に思ひて見給ふ處に、さはなくして、大臣葬の時用る無文の太刀にてぞ有ける。其時少將氣色はとかはて世に忌はしげに見給ければ、大臣涙をはら/\と流いて、「如何に少將其は貞能が咎にも非ず。其故は如何にと云に、此太刀は大臣葬の時用る無文の太刀也。入道如何にもおはせん時、重盛が帶て供せんとて持たりつれ共、今は重盛、入道殿に先立奉んずれば、御邊に奉るなり。」とぞ宣ける。少將之を聞給てとかうの返事にも及ばず。涙に咽びうつぶして、其日は出仕もし給はず、引かづきてぞ伏渡ふ。其後大臣熊野へ詣り下向して病つき、幾程もなくして遂に失給けるにこそ、實にもと思知られけれ。 -------------------------------------------------------------------------------- 燈籠之沙汰 すべて此大臣は、滅罪生善の御志深う坐ければ、當來の浮沈を歎いて東山の麓に、六八弘誓の願になぞらへて、四十八間の精舎を建て、一間に一つづゝ、四十八間に四十八の燈籠を掛られければ、九品の臺目の前に輝き、光耀鸞鏡を琢て、淨土の砌に臨めるが如し。毎月十 四日十五日を點じて、當家他家の人々の御方より、みめよく若う盛なる女房達を多く請じ聚め、一間に六人づつ、四十八間に二百八十八人、時衆に定て、彼兩日が間は、一心稱名聲斷ず、誠に來迎引攝の悲願も、此所に影向を垂れ、攝取不捨の光も、此大臣を照し給ふかとぞ見えし。十五日の日中を結願として、大念佛有しに、大臣自ら彼の行道の中に交て、西方に向ひ、「南無安養世界教主 彌陀善逝、三界六道の衆生を普く濟度し給へ。」と、迴向發願せられければ、見る人慈悲を起し、聞く者感涙を催けり。かかりしかば此大臣をば燈籠大臣とぞ人申ける。 -------------------------------------------------------------------------------- 金渡 又大臣吾朝には如何なる大善根をし置たり共、子孫相續で、弔ん事有がたし。他國に如何なる善根をもして、後世をとぶらはればやと、安元の比ほひ、鎭西より妙典と云ふ船頭をめし上せ、人を遙に除て對面有り。金を三千五百兩召寄て、「汝は大正直の者であんなれば、五百兩をば汝に給ぶ。三千兩をば宋朝へ渡し、育王山へ參せて、千兩を僧に引き、二千兩をば御門へ參せ、田代を育王山へ申寄て、我が後世弔はせよ。」とぞ宣ひける。妙典是を賜て、萬里の煙浪を凌つゝ、大宋國へぞ渡りける。育王山の方丈、佛照禪師徳光に逢奉り、此由申たりければ、隨喜感嘆して、千兩を僧に引き、二千兩をば御門へ參せ、大臣の申されける旨を具に奏聞せられたりければ、御門大に感じ思召て、五百町の田代を育王山へぞ寄られける。さ れば日本の大臣、平朝臣重盛公の後生善所と祈る事、今に斷ずとぞ承る。 -------------------------------------------------------------------------------- 法印問答 入道相國小松殿に後れ給て、萬心細うや思はれけん、福原へ馳下り、閉門してこそ座けれ。同十一月七日の夜戌刻許、大地おびたゞしう動て良久し。陰陽頭安倍泰親、急ぎ内裏へ馳參て、「今夜の地震、占文の指す所其愼輕からず。當道三經の中に、坤儀經の説を見候に、『年を得ては年を出ず、月を得ては月を出ず、日を得ては日を出ず。』と見えて候。以の外に火急候。」とて、はらはらとぞ泣ける。傳奏の人も色を失ひ、君も叡慮を驚せ坐ます。若き公卿殿上人は「怪からぬ泰親が今の泣樣や、何事の有るべき。」とて、笑合れけり。され共此泰親は、晴明五代の苗裔を請て、天文は淵源を窮め、推條掌を指が如し。一事も違はざりければ、指神子とぞ申ける。雷の落懸りたりしか共、雷火の爲に、狩衣の袖は燒ながら、其身は恙も無りけり。上代にも末代にも、有がたかりし泰親なり。 同十四日、相國禪門此日比福原におはしけるが、何とか思ひなられたりけん。數千騎の軍兵をたなびいて、都へ入給ふ由聞えしかば、京中何と聞わきたる事は無れ共、上下怖れおののく。何者の申出したりけるやらん。入道相國朝家を恨み奉べしと披露をなす。關白殿、内内聞召るゝ旨や有けん、急ぎ御參内有て、「今度相國禪門入洛の事は、ひとへに基房亡すべき結構にて候也。如何なる憂目にか逢べきやらん。」と、奏せさせ給へば、主上大に驚せ給 て、「そこに如何なる目にも逢むは偏にたゞ吾逢にてこそ有んずらめ。」とて、御涙を流させ給ふぞ忝き。誠に天下の御政は主上攝 録の御計にてこそ有に、こは如何にしつる事共ぞや。天照大神春日大明神の神慮の程も量がたし。 同十五日、入道相國朝家を恨奉るべき事、必定と聞えしかば、法皇大に驚せ給て、故少納言信西の子息靜憲法印を御使にて、入道相國の許へ遣さる。「近年朝廷靜ならずして、人の心も調らず、世間も落居せぬ樣に成行く事、惣別に附て歎思召せ共、さてそこにあれば、萬事は頼思召てこそ有に、天下を靜る迄こそ無らめ、嗷々なる體にて、剩へ朝家を恨むべしなど聞召すは、何事ぞ。」と仰遣はさる。靜憲法印御使に西八條の邸へ向ふ。朝より夕に及ぶ迄待れけれ共、無音なりければ、去ばこそと無益に覺えて、源大夫判官季貞をもて、勅定の趣言入させ、「暇申て。」とて出られければ、其とき入道、「法印よべ。」とて出られたり。喚かへいて、「やゝ、法印の御房、淨海が申所は僻事か。先内府が身罷候ぬる事、當家の運命を計にも、入道隨分悲涙を押てこそ罷過候へ。御邊の心にも推察し給へ。保元以後は亂逆打つゞいて、君安い御心も渡せ給はざりしに、入道は唯大方を執行ふ許りでこそ候へ。内府こそ手を下し身を碎て、度々の逆鱗をば休め參せて候へ。其外臨時の御大事、朝夕の政務、内府程の功臣は有難うこそ候らめ。爰を以て古を憶ふに、唐の太宗は魏徴に後て、悲の餘に、『昔の殷宗は夢の中に良弼を得、今の朕は覺ての後賢臣を失ふ。』と云ふ碑文を自書て、廟に立てだにこそ悲給けるなれ。我朝にも、間近く見候し事ぞかし。顯頼民部卿逝去したりしをば、故院 殊に御歎有て、八幡の行幸延引し、御遊無りき。惣て臣下の卒するをば、代代の御門皆御歎ある事でこそ候へ。さればこそ親よりもなつかしう、子よりもむつまじきは君と臣との中とは申事にて候らめ。され共内府が中陰に、八幡の御幸有て御遊有き。御歎の色一事も之を見ず。縱入道が悲を御憐なく共、などか内府が忠を思召し忘させ給ふべき。縱内府が忠を思召忘させ給ふ共、爭か入道が嘆きを御憐無らん。父子ともに叡慮に背候ぬる事、今に於て面目を失ふ。是一つ。次に越前國をば、子子孫孫まで、御變改有まじき由、御約束在て給はて候しを、内府に後て後、やがて召され候事は、何の過怠にて候やらむ。是一つ。次に中納言闕の候し時、二位中將の所望候しを、入道隨分執申しか共、遂に御承引なくして、關白の息を成さるゝ事は如何に。たとひ入道如何なる非據を申おこなふ共、一度はなどか聞召入れでは候べき。申候はんや、家嫡と云ひ、位階と云ひ、理運左右に及ばぬ事を、引違させ給ふは、本意なき御計とこそ存候へ。是一つ。次に新大納言成親卿已下、鹿谷に寄合て、謀反の企候し事、全く私の計略に非ず。併君御許容有に依て也。今めかしき申事にて候へども、七代迄は、此一門をば爭か捨させ給ふべき。其に入道七旬に及で、餘命幾くならぬ一期の内にだにも、動もすれば亡すべき由御計らひあり。申候はんや、子孫相ついで、朝家に召仕れん事有がたし。凡老て子を失ふは、枯木の枝無に異ならず。今は程なき浮世に、心を費ても、何かはせんなれば、いかでも有なんとこそ、思成て候へ。」とて、且は腹立し、且は落涙し給へば、法印怖うも又哀にも覺て、汗水に成り給ぬ。其時は如何なる人も、一言の返事に及がたき事 ぞかし。其上我身も近習の仁也。鹿谷に寄合たりし事を正しう見聞れしかば、其人數とて、只今も召や籠られんずらんと思ふに、龍の鬚を撫で虎の尾を蹈む心地はせられけれども、法印もさる怖い人で、些もさわがず、申されけるは、「誠に度々の御奉公淺からず。一旦恨申させ坐す旨、其謂候。但官位と云ひ俸禄と云ひ、御身に取ては悉く滿足す。されば功の莫大なる事をも君御感有でこそ候へ。然に近臣事を亂り、君御許容有といふ事、謀臣の凶害にてぞ候らん。耳を信じて目を疑ふは、俗の常の弊也。小人の浮言を重うして、朝恩の他に異なるに、君を背き參させ給はん事と、冥顯につけて、其恐すくなからず候。凡天心は蒼々として測難し、叡慮定て此儀でぞ候らん。下として上に逆る事は、豈人臣の禮たらんや。能能御思惟候べし。詮ずる所、此趣をこそ披露仕候はめ。」とて出られければ、幾等も竝居たる人人、「穴怖し。入道のあれ程怒り給へるに、些も恐れず、返事うちして立るゝ事よ。」とて、法印を譽ぬ人こそ無かりけれ。 -------------------------------------------------------------------------------- 大臣流罪 法印御所へ參て、此由奏聞せられければ、法皇も道理至極して、仰下るゝ方もなし。同十六日入道相國、此日來思立給へる事なれば、關白殿を始奉て、太政大臣以下の公卿、殿上人、四十三人が官職を停て、追籠らる。關白殿をば、太宰帥に遷て、鎭西へ流し奉る。かゝらん世には、とてもかくても有なんとて、鳥羽の邊、古川と云ふ所にて、御出家有り。御歳三十 五。禮儀能く知めし、曇なき鏡にて渡せ給ひつる者をとて、世の惜奉る事斜ならず、遠流の人の道にて出家したるをば、約束の國へは遣ぬ事である間、初は日向國と定られたりしか共、御出家の間、備前の國府の邊、井ばさまと云ふ所に留め奉る。 大臣流罪の例は、左大臣蘇我赤兄、右大臣豐成、左大臣魚名、右大臣菅原、左大臣高明公、右大臣藤原伊周公に至る迄、既に六人。され共攝政關白流罪の例は、是始めとぞ承る。 故中殿の御子二位の中將基通は入道の婿にておはしければ、大臣關白になし奉らる。圓融院の御宇、天禄三年十一月一日、一條攝政謙徳公失給しかば、御弟堀川の關白忠義公、其時は未從二位中納言にてましましけり。其御弟法興院の大入道殿其比は大納言の右大將にておはしける間、忠義公は、御弟に越られ給しか共、今又越返し奉り、内大臣正二位にあがて、内覽の宣旨蒙らせ給ひたりしをこそ、人皆耳目を驚したる御昇進とは申しに、是は其には猶超過せり、非參議二位中將より大中納言を經ずして、大臣關白になり給ふ事いまだ承り及ばず。普賢寺殿の御事也。上卿の宰相、大外記、大夫史に至る迄、皆あきれたる樣にぞ見えたりける。 太政大臣師長は、つかさを停て、東の方へ流され給ふ。去ぬる保元に父惡左大臣殿の縁座に依て、兄弟四人流罪せられ給しが、御兄右大將兼長、御弟左中將隆長、範長禪師三人は歸洛を待ず、配所にてうせ給ぬ。是は土佐の畑にて、九囘の春秋を送り迎へ、長寛二年八月に召還されて、本位に復し、次の年正月正二位して、仁安元年十月に、前中納言より權大納言 に上り給ふ。折節大納言明ざりければ、員の外にぞ加はられける。大納言六人になる事是始也。又前中納言より權大納言に成る事も、後山階大臣躬守公、宇治大納言隆國卿の外は、未承及ばず。管絃の道に達し、才藝勝れてましましければ、次第の昇進滯らず、太政大臣迄極させ給て、又如何なる罪の報にや、重て流され給ふらん。保元の昔は、南海土佐へ遷され、治承の今は、又東關尾張國とかや。本より罪無して、配所の月を見んと云ふ事は、心有際の人の願ふ事なれば、大臣敢て事共し給はず。彼唐太子賓客白樂天、潯陽の江の邊にやすらひ給けん其古を思やり、鳴海潟汐路遙に遠見して、常は朗月を望み、浦風に嘯き、琵琶を彈じ、和歌を詠じて、等閑がてらに月日を送らせ給けり。或時當國第三の宮熱田明神に參詣あり。其夜神明法樂の爲に、琵琶ひき朗詠し給ふに、所本より無智の境なれば、情を知れる者なし。邑老、村女、漁人、野叟、頭を低れ、耳を そばだつと云ども、更に清濁を分て、呂律を知る事なし。され共胡巴琴を彈ぜしかば、魚鱗躍迸り、虞公歌を發せしかば、梁塵動き搖く。物の妙を極る時には、自然に感を催す理なれば、諸人身の毛よだて、滿座奇異の思をなす。漸漸深更に及で、風香調の中には、花芬馥の氣を含み、流泉の曲の間には、月清明の光を爭ふ。願くは今生世俗文字の業、狂言綺語の謬をもてと云ふ朗詠をして、秘曲を彈給へば、神明感應に堪ずして、寶殿大に震動す。平家の惡行無りせば、今此瑞相を、爭か拜むべきとて、大臣感涙をぞ流されける。 按察大納言資方卿の子息右近衞少將兼讚岐守源資時、二つの官を停らる。參議皇太后宮權大 夫兼右兵衞督藤原光能、大藏卿右京大夫兼伊豫守高階康經、藏人左少辨兼中宮權大進藤原基親、三官共に停めらる。按察大納言資方卿、子息右近衞少將、孫の右少將雅方、是三人をやがて都の中を追出さるべしとて、上卿には藤大納言實國、博士判官中原範貞に仰せて、やがて其日都の中を追出さる。大納言宣けるは、「三界廣しといへ共、五尺の身置き所なし。一生程なしといへ共、一日暮難し。」とて、夜中に九重のうちを紛出て、八重立つ雲の外へぞ赴かれける。彼大江山、生野の道にかゝりつゝ、丹波國村雲と云ふ所にぞ、暫はやすらひ給けるが、其より終には尋出されて、信濃國とぞ聞えし。 -------------------------------------------------------------------------------- 行隆之沙汰 前關白松殿の侍に、江大夫判官遠成と云ふ者有り。是も平家心よからざりければ、既に六波羅より押寄て搦捕るべしと聞えし間、子息江左衞門尉家成打具して、いづちともなく落行きけるが、稻荷山に打上り、馬より下て、父子言合けるは、「是より東國の方へ落くだり、伊豆國の流罪人前兵衞佐頼朝を憑ばやとは思へ共、其も當時は勅勘の人で、身一つだにも叶難う坐也。日本國に、平家の庄園ならぬ所や有る。とても遁ざらん物故に、年來住馴たる所を人に見せんも恥がましかるべし。只是より歸て、六波羅より召使有らば、腹掻切て死なんにはしかじ。」とて、河原坂の宿所へとて取て返す。案の如く、六波羅より源大夫判官季定、攝津判官盛澄、ひた甲三百餘騎、河原坂の宿所へ押寄て、鬨をどとぞ作ける。江大夫判官縁に立出で、 「是御覽ぜよ、おの/\、六波羅では此樣を申させ給へ。」とて、館に火をかけ、父子共に腹かき切り、 ほのほの中にて燒死ぬ。 抑か樣に上下多の人の亡び損ずる事を以何と云に、當時關白に成せ給へる二位中將殿と前の殿の御子三位中將殿と、中納言御相論の故と申す。さらば關白殿御一所こそ、如何なる御目にも逢せ給はめ、四十餘人迄の人々の、事に逢べしやは。去年讃岐院の御追號と、宇治惡左府贈官贈位在しか共、世間は猶も靜かならず。凡是にも限まじかんなり。入道相國の心に天魔入かはて腹を居かね給へりと聞えしかば、又天下に如何なる事か出でこんとて京中上下怖れおのゝく。 其比前左少辨行高と聞えしは、故中山中納言顯時卿の長男也。二條院の御代には、辨官に加てゆゆしかりしか共、此十餘年は官を停められて、夏冬の衣がへにも及ばず、朝暮の ざんも心に任せず、有か無かの體にて坐けるを、太政入道、「申べき事有り。きと立より給へ。」と宣遣はされたりければ、行高此十餘年は、何事にも交はらざりつる物を、人の讒言したる者あるにこそとて、大に恐れ騒がれけり。北方、君達も「如何なる目にか逢はんずらん。」と泣悲しみ給ふに、西八條より、使布竝に有ければ、力及ばで、人に車借て西八條へ出られたり。思には似ず、入道やがて出向うて對面あり。「御邊の父の卿は、大小事申合せし人なれば、愚に思ひ奉らず。年來籠居の事も、いとほしう思たてまつりしか共、法皇御政務の上は力及ばず。今は出仕し給へ。官途の事も申沙汰仕るべし。さらば疾歸られよ。」とて入給ぬ。被歸たれば、 宿所には女房達死だる人の生返りたる心地して、指つどひて、皆悦泣共せられけり。 太政入道源大夫判官季貞を以て、知行し給べき庄園状共數多遣はす。先さこそ有らめとて、百疋百兩に米を積でぞ贈られける。出仕の料にとて、雜色牛飼牛車迄、沙汰し遣はさる。行高手の舞足の踏どころも覺えず、こはされば夢かや夢かとぞ驚かれける。同十七日五位の侍中に補せられて、左少辨に成かへり給ふ。今年五十一、今更若やぎ給ひけり。唯片時の榮花とぞ見えし。 -------------------------------------------------------------------------------- 法皇被流 同廿日、院御所法住寺殿には、軍兵四面を打圍む。平治に信頼が、仕たりし樣に、火をかけて、人をば皆燒殺さるべしと聞えし間、上下の女房女童、物をだに打被かず、遽て噪で走出づ。法皇も大に驚かせおはします。前右大將宗盛卿、御車を寄て、「とう/\めさるべう候。」と奏せられければ、法皇「こはされば何事ぞや。御とがあるべし共思召さず。成親俊寛が樣に遠き國遙の島へも、遷遣んずるにこそ。主上さて渡せ給へば、政務の口入する計也。其もさるべからずば、自今以後さらでこそ有め。」と仰ければ、宗盛卿「其儀では候はず。世を靜ん程、鳥羽殿へ御幸成參せんと、父入道申候。」「さらば宗盛やがて御供に參れ。」と仰けれ共、父の禪門の氣色に畏を成て、參られず。「哀れ是に附ても、兄の内府には事外に劣たる者かな。一念もかゝる御目に逢べかりしを内府が身に代て制し停てこそ今日迄も心安かりつれ。諫む る者無しとて、か樣にするにこそ。行末とても憑しからず。」とて御涙を流させ給ふぞ忝けなき。 さて御車に召されけり。公卿殿上人、一人も供奉せられず。只北面の下臈、さては金行といふ御力者許ぞ參りける。御車の尻には、尼前一人參られたり。此尼前と申は、法皇の御乳の人、紀伊二位の事也。七條を西へ、朱雀を南へ御幸成る。恠しの賤の男賤の女に至るまで「あはれ法皇の流されさせましますぞや。」とて、涙を流し袖を絞らぬは無けり。「去七日の夜の大地震も、かゝるべかりける前表にて、十六洛叉の底迄も答へ、堅牢地神の驚きさわぎ給ひけんも理哉。」とぞ人申ける。 さて鳥羽殿へ入せ給たるに大膳大夫信成が、何として紛れ參りたりけるやらむ、御前近う候けるをめして「如何樣にも、今夜失はれなんずと思召すぞ。御行水を召さばやと思召すは如何せんずる。」と仰ければ、さらぬだに信成、今朝より肝魂も身に添はず、あきれたる樣にて有けるが、此仰承る忝さに、狩衣に玉だすきあげ、小柴墻壞、大床のつか柱破などして、水汲入かたのごとく御湯しだいて參せたり。 又靜憲法印、入道相國の西八條の邸に行て、「夕法皇の鳥羽殿へ御幸成て候なるに、御前に人一人も候はぬ由承るが餘に淺ましう覺え候。何か苦う候べき、靜憲ばかりは御ゆるされ候へかし。參り給はん。」と申されければ、「とう/\、御房は事あやまつまじき人なれば。」とて許されけり。法印鳥羽殿へ參て、門前にて車よりおり、門の内へさし入給へば、折しも法皇、御 經を打上々々遊されける御聲も、殊にすごう聞えさせ給ける。法印のつと參られたれば、遊ばされける御經に、御涙のはら/\とかゝらせ給を見參せて、法印餘の悲さに、裘代の袖を顏に押當て、泣々御前へぞ參られける。御前には尼前ばかり候はれけり。「如何にや法印御房、君は昨日の朝、法住寺殿にて、供御聞召されて後は、よべも今朝も聞召も入ず。長夜すがら御寢も成らず。御命も既に危くこそ見えさせ御座ませ。」とのたまへば、法印涙を押て申されけるは、「何事も限有る事にて候へば、平家樂みさかえて二十餘年。され共惡行法に過て既に亡び候なんず。天照大神、正八幡宮爭か捨まゐらせさせ給ふべき。中にも君の御頼ある日吉山王七社、一乘守護の御誓あらたまらずば、彼法華八軸に立翔てこそ、君をば守參させ給ふらめ。しかれば政務は君の御代となり、凶徒は水の泡と消失候べし。」など申されければ、此詞に少し慰せ坐ます。 主上は關白の流され給ひ、臣下の多く亡びぬる事をこそ御歎有けるに、剩へ法皇鳥羽殿に押籠られさせ給ふと聞召されて後は、つや/\供御も聞召れず。御惱とて常は夜のおとどにのみぞ入せ給ける。きさいの宮をはじめしまゐらせて御前の女房たちいかなるべし共覺え給はず。 法皇鳥羽殿へ押籠られさせ給て後は、内裏には臨時の御神事とて、主上夜ごとに清凉殿の石灰の壇にて、伊勢太神宮をぞ御拜有ける。是は唯一向法皇の御祈也。二條院は、賢王にて渡せ給しか共、天子に父母なしとて、常は法皇の仰をも申替させましける故にや、繼體の君に てもましまさず。されば御讓を受させ給ひたりし六條院も、安元二年七月十四日御年十三にて崩御成りぬ。淺ましかりし御事也。 -------------------------------------------------------------------------------- 城南離宮 「百行の中には、孝行を以て先とす。明王は孝を以て天下を治む。」と云へり。されば唐堯は老衰へたる母を貴ひ、虞舜はかたくななる父を敬ふと見えたり。彼賢王聖主の先規を追せ坐しけむ叡慮の程こそ目出たけれ。其比内裏よりひそかに鳥羽殿へ御書あり。「かゝらむ世には雲井に跡を留めても何にかはし候べき。寛平の昔をも訪ひ、花山の古をも尋て、家をいで世をのがれ山林流浪の行者とも成ぬべうこそ候へ。」と遊されたりければ、法皇の御返事には、「さな思召され候そ。さて渡せ給ふこそ一つの頼にても候へ。跡なく思召し成せ給ひなん後は、何の頼か候べき。唯愚老がともかうもならむ樣を聞召果させ給ふべし。」と遊されたりければ、主上此返事を龍顏に押當て、いとゞ御涙に沈ませ給ふ。君は船、臣は水、水能く船を浮べ、水又船を覆す。臣能く君を保ち、臣又君を覆す。保元平治の比は、入道相國君を保ち奉ると云共、安元治承の今は、又君をなみし奉る。史書の文に違はず。大宮大相國、三條内大臣、葉室大納言、中山中納言も失せられぬ。今は古き人とては成頼、親範ばかり也。此人々も、かゝらむ世には、朝に仕へ身を立て、大中納言を經ても何かはせんとて、いまだ盛んなし人々の、家を出で世を遁れ、民部卿入道親範は、大原の霜に伴ひ、宰相入道成頼は、高野 の霧に交り、一向後世菩提の營みの外は他事なしとぞ聞えし。昔も商山の雲にかくれ、潁川の月に心を澄す人も有ければ、是豈博覽清潔にして、世を遁たるに非や。中にも高野に坐ける宰相入道成頼、か樣の事共を傳へ聞いて、「あはれ心疾も世を遁たる物かな。かくて、聞も同事成共、親り立交て見ましかば、如何に心憂らん。保元平治の亂をこそ、淺ましと思しに、世末に成ば、かゝる事も有けり。此後、猶いか許の事か出來むずらむ、雲を分ても上り、山を隔ても入なばや。」とぞ宣ける。實心有ん程の人の跡を留むべき世共みえず。 同廿三日。天台座主覺快法親王、頻に御辭退有るに依て、前座主明雲大僧正、還著せらる。入道相國は、かく散々にし散されたれ共、御娘中宮にてまします。關白殿と申も聟也。萬心安うや思はれけん。「政務は只一向主上の御計たるべし。」とて、福原へぞ下られける。前右大將宗盛卿、急ぎ參内して、此由奏聞せられければ、主上は「法皇の讓坐したる世ならばこそ。唯とう/\執柄に言合て、宗盛ともかうも計へ。」とて、聞召もいれざりけり。 法皇は城南の離宮にして、冬も半過させ給へば、野山の嵐の音のみ烈くて、寒庭の月の光ぞさやけき。庭には雪のみ降積れ共、跡蹈つくる人も無く、池にはつらゝ閉重て、むれ居し鳥も見えざりけり。大寺の鐘の聲、遺愛寺の聞を驚し、西山の雪の色、香爐峯の望を催す。夜霜に寒き砧の響、幽に御枕に傳ひ、曉氷を輾る車の跡、遙に門前に横はれり。巷を過る行人、征馬のいそがはしげなる氣色、浮世を渡る有樣も、思召し知られて哀也。宮門を守る蠻夷の夜晝警衞を勤るも、先の世のいかなる契にて、今縁を結ぶらんと仰なりけるぞ忝き。凡 物に觸れ事に隨て、御心を傷しめずと云ふ事なし。さるまゝには彼折々の御遊覽、處々の御參詣、御賀の目出たかりし事共、思召續けて、懷舊の御涙抑へ難し。年去り年來て、治承も四年に成りけり。 -------------------------------------------------------------------------------- 平家物語卷第四 嚴島御幸 治承四年正月一日の日、鳥羽殿には、相國も許さず、法皇も恐させ坐しければ、元日元三の間、參入する人も無し。されども、故少納言入道信西の子息、櫻町中納言重教卿、其弟左京大夫長教ばかりぞ許されて參られける。同正月廿日のひ春宮御袴著、竝に御眞魚始とて、目出たき事共有しかども法皇は鳥羽殿にて、御耳の餘所にぞ聞召す。 二月廿一日、主上異なる恙も渡せ給はぬを押下し奉り、東宮踐祚有り。これは入道相國、萬思ふ樣なるが致す所なり。時よくなりぬとてひしめき合へり。内侍所神璽寶劔渡し奉る。上達部陣に聚て、故事共先例に任せて行しに、辨内侍御劔とて歩み出づ。清凉殿の西面にて泰通中將請取る。備中の内侍しるしの御箱取り出づ。隆房の少將請取る。内侍所璽の御箱、今夜ばかりや手をも懸んと思ひあへりけむ内侍の心の中共、さこそはと覺えて哀れ多かりける中に、璽の御箱をば、少納言内侍とり出づべかりしを、今夜是に手をも懸ては長く新しき内侍には成まじき由人の申けるをきいて、其期に辭し申て取出ざりけり。年既に長たり。二度盛を期すべきにも在らずとて人人惡みあへりしに、備中内侍とて、生年十六歳、未だ幼なき 身ながら、其期に態と望み申て取出でける、優しかりし樣也。傳はれる御物共しな%\司々請取て新帝の皇居五條内裡へ渡し奉る。閑院殿には火の影も幽に鷄人の聲も留り瀧口の問籍も絶にければ、ふるき人々心細く覺えて目出度き祝の中に涙を流し心を痛ましむ。左大臣陣に出で、御位讓の事共仰せしを聞いて、心有る人々は、涙を流し袖を濕す。我と御位を儲君に讓り奉り、麻姑射の山の中も、閑になど思召す先々だにも、哀は多き習ぞかし。況や是は御心ならず、押下されさせ給ひけん哀さ、申も中々愚也。 新帝今年は三歳、あはれ何しかなる讓位かなと、時の人々申合れけり。平大納言時忠卿は、内の御乳母、帥のすけの夫たるによて、「今度の讓位何しかなりと、誰か傾け申すべき。異國には、周の成王三歳、晉の穆帝二歳、我朝には、近衞院三歳、六條院二歳、是皆襁褓の中に包まれて、衣帶を正うせざりしかども、或は攝政負て位に即け、或は母后抱て朝に臨むと見えたり。後漢の孝殤皇帝は、生て百日と云に踐祚あり。天子位を踐む先蹤、和漢かくのごとし。」と申されければ、其時の有職の人々、「あな怖し、物な申されそ。されば其は好例どもかや。」とぞつぶやき合れける。春宮位に即せ給ひしかば、入道相國夫婦共に外祖父外祖母とて、准三后の宣旨を蒙り、年官年爵を賜はて、上日の者を召使ふ。繪書き花つけたる侍共出入て、偏に院宮の如くにてぞ有ける。出家入道の後も榮耀は盡せずとぞ見えし。出家の人の准三后の宣旨を蒙る事は、法興院の大入道殿兼家公の御例也。 同き三月上旬に、上皇安藝國嚴島へ御幸成るべしと聞えけり。帝王位をすべらせ給ひて、諸 社の御幸の始には、八幡賀茂春日などへこそ成せ給ふに、安藝國までの御幸は如何にと、人不審をなす。或人の申けるは、「白河院は熊野へ御幸、後白河は日吉の社へ御幸なる。既に知ぬ、叡慮に有と云事を。」御心中に深き御立願有り。其上此嚴島をば平家斜ならず、崇敬ひ給ふ間、上には平家に御同心、下には法皇の何となう鳥羽殿に押籠られて渡らせ給ふ、入道相國の謀反の心をも和げ給へとの御祈念の爲とぞ聞えし。山門の大衆憤り申す。「石清水、賀茂、春日へならずば、我山の山王へこそ御幸は成るべけれ。安藝國への御幸は何の習ぞや。其儀ならば神輿を振下し奉て、御幸を留め奉れ。」と僉議しければ、是に依て暫御延引有けり。入道相國やう/\になだめたまへば、山門の大衆靜りぬ。 同十七日、嚴島御幸の御門出とて、入道相國の西八條の亭へ入せ給ふ。其日の暮方に、前右大將宗盛卿を召て、「明日御幸の次に、鳥羽殿へ參て、法皇の見參に入ばやと思召すはいかに。相國禪門にしらせずしては、惡かりなんや。」と仰ければ、宗盛卿涙をはら/\と流いて、「何條事か候ふべき。」と申されければ、「さらば宗盛其樣をやがて今夜鳥羽殿へ申せかし。」とぞ仰ける。前右大將宗盛卿、急ぎ鳥羽殿へ參て、此由奏聞せられければ、法皇餘に思召す御事にて、夢やらんとぞ仰ける。 同十九日、大宮大納言隆季卿、未夜深う參て、御幸催されけり。此日比聞えさせ給ひつる嚴島の御幸、西八條より既に遂させ御座す。三月も半過ぬれど、霞に曇る有明の月は猶朦なり。越地を指て歸る雁の雲居に音信行も、折節哀に聞召す。未夜の中に鳥羽殿へ御幸なる。門前 にて御車より下させ給ひ、門の中へ差入せ給ふに、人稀にして木暗く、物さびしげなる御栖、先哀にぞ思食す、春既に暮なんとす、夏木立にも成にけり。梢の花色衰へて、宮の鶯聲老たり。去年の正月六日の日、朝勤の爲に、法住寺殿へ行幸有しには、樂屋に亂聲を奏し、諸卿列に立て、諸衞陣を引き、院司の公卿參り向て、幔門を開き、掃部寮筵道を布し、正かりし儀式一事もなし。けふは唯夢とのみぞ思食す。 重教中納言、御氣色申たりければ、法皇寢殿の階隱の間へ御幸成て、待參させ給ひけり。上皇は今年御歳二十、明方の月の光にはえさせ給ひて、玉體もいとど美しうぞ見させ御坐します。御母儀建春門院に、痛く似參させ給たりければ、法皇は先故女院の御事思食し出て、御涙塞敢させ給はず。兩院の御座、近くしつらはれたり。御問答は人承るに及ばず。御前には尼前計ぞ候はれける。良久しう御物語せさせ給ふ。遙に日闌けて後、御暇申させ給ひ、鳥羽の草津より御船に召されけり。上皇は法皇の離宮の故亭、幽閑寂寞の御すまひ、御心苦く御覽じ置せ給へば、法皇は又上皇の旅泊の行宮、浪の上、船の中の御在樣、覺束なくぞおぼしめす。誠に宗廟、八幡、賀茂などを指置せ給て、遙々と安藝國迄の御幸をば、神明もなどか御納受無るべき。御願成就疑なしとぞ見えたりける。 -------------------------------------------------------------------------------- 還御 同廿六日、嚴島へ御參著、入道相國の最愛の内侍が宿所、御所になる。中二日御逗留有て、 經會舞樂行はれける。導師には、三井寺の公兼僧正とぞ聞えし。高座に登り、鐘打鳴し、表白の詞にいはく、「九重の都を出て、八重の汐路を分以て參らせ給ふ御志の忝さ。」と、高らかに申されたりければ、君も臣も感涙を催されけり。大宮、客人を始め參せて、社々所々へ皆御幸なる。大宮より五町許、山を廻て、瀧の宮へ參せ給ふ。公兼僧正一首の歌讀で拜殿の柱に書附られたり。 雲居よりおちくる瀧のしらいとに、ちぎりをむすぶ事ぞうれしき。 神主佐伯景廣加階、從上の五位、國司藤原有綱、品上あげられて加階、從下の四品、院の殿上許さる。座主尊永、法印になさる。神慮も動き、太政入道の心もはたらきぬらんとぞ見えし。 同廿九日上皇御船飾て還御なる。風烈かりければ、御船漕戻し、嚴島の内、ありの浦に留らせ給ふ。上皇、「大明神の御名殘惜に、歌仕れ。」と仰ければ、隆房の少將、 立かへる名殘もありの浦なれば、神もめぐみをかくる白浪。 夜半許に浪も靜に風も靜まりければ、御船漕ぎ出し、其日は備後國敷名の泊に著せ給ふ。此所は去ぬる應保の比ほひ、一院御幸の時、國司藤原爲成が造たる御所の有けるを、入道相國御設にしつらはれたりしかども、上皇其へは上らせ給はず。 今日は卯月一日衣更と云ふ事のあるぞかしとて、各都の方をおもひやり遊び給ふに、岸に色深き藤の松に咲懸りたりけるを、上皇叡覽有て、隆季の大納言を召て、「あの花折に遣せ。」と 仰ければ、左史生中原康定が橋船に乘て、御前を漕通りけるを召て折に遣す。藤の花を手折り、松の枝に附ながら、持て參りたり。心ばせありなど仰られて、御感有けり。「此花にて歌あるべし。」と仰ければ、隆季の大納言、 千年へん君がよはひに藤なみの、松の枝にもかゝりぬる哉。 其後御前に人々餘た候はせ給ひて、御戯れことの在りしに、上皇「白き衣著たる内侍が國綱卿に心を懸たるな。」とて、笑はせおはしましければ、大納言大に爭がひ申さるゝ所に、文持たる便女が參て、「五條の大納言殿へ。」とて指上たり。さればこそとて滿座興ある事に申しあはれけり。大納言是を取て見給へば、 白浪の衣の袖をしぼりつゝ、君故にこそたちもまはれね。 上皇「優しうこそ思食せ。此返事はあるべきぞ。」とて、やがて御硯をくださせ給ふ。大納言返事には、 おもひやれ君がおもかげ立つ浪の、よせくる度に濕るゝ袂を。 其より備前國小島の泊に著せ給ふ。 五日の日天晴風しづかに、海上も長閑かりければ、御所の御船を始參せて、人々の船共皆出しつつ、雲の波煙の浪を分過させ給ひて、其日の酉刻に播磨國山田の浦に著せ給ふ。其より御輿に召て、福原へ入せ坐ます。六日は供奉の人々、今一日も都へ疾と急がれけれども、新院御逗留有て、福原の所々歴覽有けり。池中納言頼盛卿の山庄、荒田まで御覽ぜらる。 七日、福原を出させ給に、隆季の大納言勅定を承はて、入道相國の家の賞行はる。入道の養子、丹波守清國、正下五位、同入道の孫、越前少將資盛、四位の從上とぞ聞えし。其日寺井に著せ給ふ。八日都へいらせ給ふに、御迎の公卿殿上人、鳥羽の草津へぞ參られける。還御の時は、鳥羽殿へは御幸もならず、入道相國の西八條の亭へいらせ給ふ。 同四月二十二日新帝の御即位あり。大極殿にてあるべかりしかども、一年炎上の後は、未造りも出されず。太政官の廳にて、行はるべしと、定められたりけるを、其時の九條殿申させ給ひけるは、「太政官の廳は、凡人の家にとらば公文所體の所也。大極殿無らん上は、紫宸殿にてこそ、御即位は有るべけれ。」と申させ給ひければ、紫宸殿にてぞ、御即位は有ける。「去じ康保四年十一月一日、冷泉院の御即位、紫宸殿にて有しは、主上御邪氣に依て、大極殿へ行幸かなはざりし故也。其例如何あるべからん。只後三條院の延久の佳例に任せ、太政官の廳にて行はるべき物を。」と人々申合はれけれども、九條殿の御計の上は、左右に及ばず。中宮は弘徽殿より仁壽殿へ遷らせ給ひて、高御座へ參せ給ひける御有樣、目出度かりけり。平家の人々皆出仕せられける中に、小松殿の公達は、去年大臣失せ給ひし間、色にて籠居せられたり。 -------------------------------------------------------------------------------- 源氏揃 藏人左衞門權佐定長、今度の御即位に違亂なく目出たき樣を、厚紙十枚計にこま%\と記い て、入道相國の北方、八條の二位殿へ參らせたりければ笑を含んでぞ悦ばれける。か樣に花やかに目出たきこと共在しか共、世間は猶靜かならず。 其比一院第二の皇子、以仁の王と申しは、御母加賀大納言季成卿の御娘也。三條高倉にましませば、高倉宮とぞ申ける。去じ永萬元年十二月十六日、御年十五にて、忍つゝ、近衞河原の大宮御所にて、御元服有けり。御手跡美しう遊し、御才學勝てましましければ、位にも即せ給ふべきに、故建春門院の御猜にて、押籠められさせ給つゝ、花の下の春の遊には、紫毫を揮て手から御作を書き、月の前の秋の宴には、玉笛を吹て自ら雅音を操給ふ、かくして明し暮し給ふ程に、治承四年には、御歳三十にぞ成せましましける。 其比近衞河原に候ける源三位入道頼政、或夜竊に此宮の御所に參て、申されける事こそ怖けれ。「君は天照大神四十八世の御末神武天皇より七十八代に當せ給ふ。太子にも立ち、位にも即せ給ふべきに、三十迄宮にて渡せ給ふ御事をば、心憂しとは思召さずや。當世の體を見候に、上には從ひたる樣なれども、内々は平家を猜まぬ者や候。御謀反起させ給ひて、平家を亡し、法皇のいつとなく鳥羽殿に押籠られて渡せ給ふ御心をも休め參せ、君も位に即せ給ふべし。是御孝行の至にてこそ候はんずれ。若思召し立せ給ひて、令旨を下させ給ふ物ならば、悦をなして馳參らむずる源氏共こそ多う候へ。」とて申續く。「先京都には、出羽前司光信が子共、伊賀守光基、出羽判官光長、出羽藏人光重、出羽冠者光能、熊野には、故六條判官爲義が末子、十郎義盛とて隱て候。攝津國には多田藏人行綱こそ候へども、新大納言成親卿の 謀反の時、同心しながら返り忠したる不當人で候へば申に及ばず。さりながら、其弟多田次郎朝實、手島冠者高頼、太田太郎頼基、河内國には、武藏權守入道義基、子息石河判官代義兼、大和國には、宇野七郎親治が子ども、太郎有治、次郎清治、三郎成治、四郎義治、近江國には、山本、柏木、錦古里、美濃、尾張には山田次郎重廣、河邊太郎重直、泉太郎重光、浦野四郎重遠、安食次郎重頼、其子太郎重資、木太三郎重長、開田判官代重國、矢島先生重高、其子太郎重行、甲斐國には、逸見冠者義清、其子太郎清光、武田太郎信義、加々美次郎遠光、同小次郎長清、一條次郎忠頼、板垣三郎兼信、逸見兵衞有義、武田五郎信光、安田三郎義定、信濃國には、大内太郎維義、岡田冠者親義、平賀冠者盛義、其子の四郎義信、故帶刀先生義方が次男、木曽冠者義仲、伊豆國には流人前右兵衞佐頼朝、常陸國には、信太三郎先生義教、佐竹冠者正義、其子太郎忠義、同三郎義宗、四郎高義、五郎義季、陸奧國には故左馬頭義朝が末子、九郎冠者義經、是皆六孫王の苗裔、多田新發意滿仲が後胤也。朝敵をも平げ、宿望を遂げし事は、源平何れ勝劣無りしかども、今は雲泥交を隔てて、主從の禮にも猶劣れり。國には國司に從ひ、庄には領所に召使はれ、公事雜事に驅立られて、安い思ひも候はず。如何計か心憂く候らん。君若思召立せ給て、令旨を賜づる者ならば、夜を日に續で馳上り、平家を滅さん事、時日を囘すべからず。入道も年こそ寄て候へども、子供引具して參候べし。」とぞ申たる。 宮は此事如何有るべからんとて、暫は御承引も無りけるが、阿古丸大納言宗通卿の孫、備後 前司季通が子、少納言維長と申しは、勝たる相人なりければ、時の人相少納言とぞ申ける。其人が此宮を見參らせて、「位に即せ給ふべき相坐す。天下の事思召放たせ給ふべからず。」と申ける上、源三位入道もか樣に申されければ、「さては然るべし。天照大神の御告やらん。」とて。ひしひしと思召立せ給ひけり。熊野に候十郎義盛を召て、藏人になさる。行家と改名して、令旨の御使に東國へぞ下されける。 同四月二十八日都を立て近江國より始めて美濃、尾張の源氏共に次第に觸て行程に、五月十日伊豆の北條に下りつき流人前兵衞佐殿に令旨奉る。信太三郎先生義教は、兄なれば取せんとて、常陸國信太の浮島へ下る。木曽冠者義仲は、甥なればたばんとて、山道へぞおもむきける。 其比の熊野別當湛増は、平家に志し深かりけるが、何とかして漏れ聞きたりけん、新宮の十郎義盛こそ、高倉宮の令旨賜はて美濃尾張の源氏共觸れ催し、既に謀反を起なれ。那智新宮の者共は、定て源氏の方人をぞせんずらん。湛増は平家の御恩を、天山と蒙りたれば、爭で背奉べき。那智新宮の者共に矢一つ射懸て、平家へ仔細を申さんとて、直甲一千人、新宮の湊へ發向す。新宮には鳥井法眼、高坊法眼、侍には、宇井、鈴木、水屋、龜甲、那智には執行法眼以下、都合其勢二千餘人也。閧作り矢合して、源氏の方にはとこそ射れ、平家の方にはかうこそ射れと、互に矢叫の聲の退轉もなく、鏑の鳴止む隙もなく、三日が程こそ戰うたれ。熊野別當湛増、家の子郎等多くうたせ、我身手負ひ、辛き命を生つゝ、本宮へこそ逃上 りけれ。 -------------------------------------------------------------------------------- 鼬沙汰 さる程に法皇は、「遠き國へも流され遙の島へも移んずるにや。」と仰せけれども、城南の離宮にして、今年は二年に成せ給ふ。同五月十二日午刻許、御所中には鼬夥う走騒ぐ。法皇大に驚き思食し御占形を遊いて、近江守仲兼、其比は未鶴藏人と召されけるを召て、「此占形持て泰親が許へ行き、屹と勘させて、勘状を取て參れ。」とぞ仰ける。仲兼是を賜はて、陰陽頭安倍泰親が許へ行く、折節宿所には無りけり。白川なる所へと言ければ、其へ尋ゆき、泰親に逢うて、勅定の趣仰すれば、軈て勘状を參せけり。仲兼、鳥羽殿に歸り參て門より參らうとすれば、守護の武士共許さず。案内は知たり、築地を越え大床の下を這て、切板より泰親が勘状をこそ參せたれ。法皇是をあけて御覽ずれば、「今三日がうちの御悦竝に御歎。」とぞ申たる。法皇「御悦は然るべし。是程の御身に成て又いかなる御歎のあらんずるやらん。」とぞ仰ける。 さる程に前右大將宗盛卿、法皇の御事をたりふし申されければ、入道相國漸思直て、同十三日鳥羽殿を出奉り、八條烏丸美福門院の御所へ御幸なし奉る。今三日が中の御悦とは泰親是をぞ申ける。 かゝりける所に、熊野別當湛増、飛脚を以て、高倉宮の御謀反の由都へ申たりければ、前右 大將宗盛卿大に騒で、入道相國折節福原に坐けるに、此由申されたりければ、聞きもあへず、やがて都へ馳のぼり、「是非に及べからず。高倉宮搦取て、土佐の畑へ流せ。」とこそ宣けれ。上卿は三條大納言實房、職事は頭辨光雅とぞ聞えし。源大夫判官兼綱、出羽判官光長承て、宮の御所へぞ向ひける。此源大夫判官と申は、三位入道の次男なり。然るを此人數に入られける事は、高倉宮の御謀反を、三位入道勸め申たりと、平家未知ざりけるに依て也。 -------------------------------------------------------------------------------- 信連 宮は五月十五夜の雲間の月を詠させ給ひ、何の行方も思召よらざりけるに、源三位入道の使者とて、文持て忙しげに出來り、宮の御乳母子、六條のすけの大夫宗信、是を取て、御前へ參り開いて見に、「君の御謀反已に顯れさせ給ひて、土佐の畑へ流し參すべしとて、官人共御迎に參り候。急ぎ御所を出させ給て、三井寺へいらせ坐せ。入道もやがて參り候べし。」とぞ申ける。「こは如何せん。」と噪がせおはします處に、宮の侍長兵衞尉信連と云ふ者有り。「唯別の樣候まじ。女房裝束にて出させ給へ。」と申ければ、「然るべし。」とて、御髮を亂し、重ねたる御衣に、市女笠をぞ召れける。六條のすけの大夫宗信、唐笠持て御供仕る。鶴丸と云ふ童、袋に物入て戴いたり、譬へば青侍の女を迎へて行樣に出立せ給ひて、高倉を北へ落させ給ふに、大なる溝の有けるを、いと物輕う越させ給へば、路行人立留まて、「はしたなの女房の溝の越樣や。」とて、怪げに見參せければ、いとゞ足早に過させ給ふ。 長兵衞尉信連は御所の留守にぞ置れたる。女房達の少々坐けるを彼此へ立忍せて、見苦き物有ば、取認めむとて見程に、宮のさしも御秘藏有ける小枝と聞えし御笛を、只今しも常の御所の御枕に取忘れさせ給ひたりけるぞ、立歸ても取まほしう思召す。信連是を見附て、「あな淺まし。君のさしも御秘藏有る御笛を。」と申て、五町が内に追著て參たり。宮斜ならず御感有て、「我死ば、此笛をば御棺に入よ。」とぞ仰ける。「やがて御供に候へ。」と仰ければ、信連申けるは、「只今御所へ、官人共が御迎へに參り候なるに、御前に人一人も候はざらんか、無下にうたてしう候。信連が此御所に候とは上下皆知られたる事にて候に、今夜候はざらんは、其も其夜は迯たりけりなど言れん事、弓箭取る身は、假にも名こそ惜う候へ。官人共暫あひしらひ候て打破てやがて參り候はん。」とて、走り歸る。 長兵衞が其日の裝束には、薄青の狩衣の下に、萌黄威の腹卷を著て、衞府の太刀をぞ帶たりける。三條面の惣門をも、高倉面の小門をも、共に開いて待かけたり。源大夫判官兼綱、出羽判官光長、都合其勢三百餘騎、十五日の夜の子の刻に宮の御所へぞ押寄せたる。源大夫判官は、存ずる旨有と覺て、遙の門外にひかへたり。出羽判官光長は、馬に乘ながら門の内に打入れ、庭にひかへて大音聲を揚て申けるは、「御謀反の聞え候に依て、官人共別當宣を承はり、御迎に參て候。急ぎ御出候へ。」と申ければ、長兵衞尉大床に立て、「是は當時は御所でも候はず。御物詣で候ぞ。何事ぞ、事の仔細を申されよ。」と言ければ、「何條此御所ならでは、いづくへか渡せ給ふべかんなる。さないはせそ。下部共參て、捜し奉れ。」とぞ云ける。長兵 衞尉是を聞て、「物も覺ぬ官人共が申樣哉。馬に乘ながら門の内へ參るだにも奇怪なるに、下部共參て捜まゐらせよとは、爭で申ぞ。左兵衞尉長谷部信連が候ぞ。近う寄て過すな。」とぞ申ける。廳の下部の中に、金武と云ふ大力の剛の者、長兵衞に目をかけて、大床の上へ飛上る。是れを見てどうれいども十四五人ぞ續たる。長兵衞は狩衣の帶紐引切て捨るまゝに、衞府の太刀なれ共、身をば心得て作せたるを拔合て、散々にこそ切たりけれ。敵は大太刀大長刀で振舞へども、信連が衞府の太刀に切立られて、嵐に木の葉の散樣に、庭へ颯とぞ下りたりける。 さ月十五夜の雲間の月の顯れ出で明りけるに、敵は無案内なり、信連は案内者也、あそこの面道に追懸ては、はたと切り、此所の詰に追詰てはちやうと切る。「如何に宣旨の御使をば、かうはするぞ。」と云ければ、「宣旨とは何ぞ。」とて、太刀曲ばをどり退き、押直し踏直し、立ち處に好者共十四五人こそ切伏たれ。太刀のさき三寸許打折て腹を切んと腰を探れば、鞘卷落て無けり。力及ばず、大手を廣て、高倉面の小門より走り出んとする所に、大長刀持たる男一人寄合ひたり、信連長刀に乘んと、飛で懸るが、乘損じて、股をぬい樣に貫かれて、心は猛く思へども、大勢の中に取籠られて、生捕にこそせられけれ。 其後御所を捜せども、宮渡らせ給はず。信連許搦て、六波羅へ率て參る。入道相國は簾中に居給へり。前右大將宗盛卿、大床に立て、信連を大庭に引居させ、「誠にわ男は、『宣旨とは何ぞ。』とて切たりけるか。其上、廳の下部を、刃傷殺害したん也。詮ずる所糺問して、よく よく事の仔細を尋問ひ、其後河原に引出て、首を刎候へ。」とぞ宣ひける。信連少しも噪がずあざ笑て申けるは、「この程夜々あの御所を、物が窺ひ候時に、何事の有るべきと存じて、用心も仕候はぬ處に、鎧きたる者共が打入て候を、『何者ぞ。』と問候へば、『宣旨の御使』と名乘り候。山賊、海賊、強盗など申す奴原は、或は『公達の入せ給ふぞ。』或は『宣旨の御使』など名乘り候と兼々承て候へば、『宣旨とは何ぞ。』とて切たる候。凡物の具をも思ふ樣に仕り、鐵善き太刀をも持て候はば、官人共をよも一人も安穩では歸し候はじ。又宮の御在所は何くにか渡せ給ふらん。知參せ候はず。縱知參せて候とも、侍ほんの者の、申さじと思切てん事、糺問に及で申べしや。」とて、其後は物も申さず。 幾らも竝居たりける平家の侍共、「哀剛の者哉。あたら男を切られんずらん無慚さよ。」と申あへり。其中に或人の申けるは、「あれは先年所に有し時も、大番衆が留兼たりし強盗六人に、唯一人追懸て四人切伏せ、二人生捕にして、其時成れける左兵衞尉ぞかし。是をこそ一人當千の兵とも云べけれ。」とて口々に惜合へりければ、入道相國いかゞ思はれけん、伯耆の日野へぞ流されける。源氏の世に成て、東國へ下り、梶原平三景時について、事の根元一一次第に申ければ、鎌倉殿神妙なりと感じおぼしめして、能登國に御恩蒙りけるとぞ聞えし。 -------------------------------------------------------------------------------- 競 宮は高倉を北へ、近衞を東へ、賀茂河を渡せ給て、如意山へいらせ御座す。昔清見原の天皇 の未だ東宮の御時、賊徒に襲はれさせ給ひて、吉野山へ入せ給ひけるにこそ、をとめの姿をば假せ給ひけるなれ。今此宮の御有樣も、其には少しも違せ給はず。知ぬ山路を終夜分入せ給ふに、何習はしの御事なれば、御足より出る血は、沙を染て紅の如し。夏草の茂が中の露けさも、さこそは所せう思召れけめ。かくして曉方に三井寺へ入せ御座す。「かひなき命の惜さに、衆徒を憑んで、入御あり。」と仰ければ大衆畏り悦んで、法輪院に御所を飾ひ、其に入れ奉てかたのごとくの供御したてゝ參らせけり。 明れば十六日、高倉宮の御謀反起させ給ひて、失させ給ぬと申程こそ有けれ、京中の騒動斜ならず。法皇是を聞食して「鳥羽殿を御出在は御悦也。並に御歎。と泰親が勘状を參せたるは是れを申けり。」とぞ仰せける。 抑源三位入道年比日來も有ばこそ有けめ。今年如何なる心にて、謀反をば起しけるぞといふに、平家の次男前右大將宗盛卿すまじき事をし給ひけるに依てなり、去ば人の世に有ばとて、すまじき事をもし、坐に言ふ間敷事をも言ふは能々思慮有るべき者なり。 譬へば、源三位入道の嫡子、仲綱の許に、九重に聞えたる名馬有り。鹿毛なる馬の雙なき逸物、乘走り心むき、又有るべし共覺えず。名をば木の下とぞ云れける。前右大將是を傳聞き仲綱の許へ使者を立て、「聞え候名馬を見候はばや。」と宣ひ遣されければ、伊豆守の返事には、「さる馬は持て候つれ共、此程餘に乘損じて候つる間、暫勞せ候はむとて田舎へ遣して候。」「さらんには力なし。」とて、其後沙汰も無りしを、多く竝居たりける平家の侍共、「哀其馬 は一昨日迄は候し者を、昨日も候ひし、今朝も庭乘し候つる。」など申ければ、「さては惜むごさんなれ。惡し、乞へ。」とて侍して馳させ、文などして、一日が中に五六度七八度など乞はれければ、三位入道是を聞き、伊豆守喚寄せ、「縱金を丸たる馬なりとも、其程に人の乞うものを惜べき樣やある。速に其馬六波羅へ遣せ。」とぞ宣ける。伊豆守力及ばで一首の歌を書そへて、六波羅へ遣す。 戀くば來ても見よかし、身にそへるかげをばいかゞ放ちやるべき。 宗盛卿、歌の返事をばし給はで、「哀馬や、馬は誠に好い馬で有けり。去ども餘に主が惜つるが憎きに、やがて主が名乘を印燒にせよ。」とて、仲綱と云ふ印燒をして、厩に立られたり。客人來て「聞え候名馬を見候はばや。」と申ければ、「其仲綱めに鞍置いて引出せ。仲綱め乘れ。仲綱め打て、はれ。」など宣ひければ、伊豆守是を傳聞き、「身にかへて思ふ馬なれども、權威について取るゝだにも有に、馬故仲綱が天下の笑れ草と成んずる事こそ安からね。」と、大に憤られければ、三位入道是を聞き伊豆守に向て、「何事の有べきと思侮て、平家の人どもが、さ樣のしれ事をいふにこそ有なれ。其儀ならば、命生ても何かせん、便宜を窺ふでこそ有め。」とて、私には思も立たず、宮を勸め申けるとぞ後には聞えし。 是に附ても、天下の人、小松大臣の御事をぞしのび申ける。或時小松殿參内の次に、中宮の御方へ参せ給ひたりけるに、八尺許有ける蛇が、大臣の指貫の左の輪を這廻りけるを、重盛騒がば、女房達も騒ぎ、中宮も驚せ給ひなんずと思召し、左の手で蛇の尾を押へ、右の手で 首を取り、直衣の袖の中に引入れ、些ともさわがず、つい立て、「六位や候、六位や候。」と召されければ、伊豆守、其時は未衞府藏人でおはしけるか、仲綱と名乘て參れたりけるに、此蛇をたぶ。給て弓場殿を經て、殿上の小庭にいでつゝ、御倉の小舎人をめして、「是給れ。」と言れければ、大に頭を掉て逃去ぬ。力及ばず我郎等競の瀧口を召て、是を給ぶ。給て捨てけり。其朝小松殿善い馬に鞍置て、伊豆守の許へ遣すとて、「さても昨日の振舞こそ、優に候しか。是は乘一の馬で候。夜陰に及で陣外より、傾城の許へ通れむ時もちゐらるべし。」とて遣さる。伊豆守、大臣の御返事なれば、「御馬畏て賜り候ぬ。さても昨日の御振舞は、還城樂にこそ似て候しか。」とぞ申されける。如何なれば小松大臣は、か樣にゆゆしうおはせしに、宗盛卿はさこそ無らめ、剩へ人の惜む馬乞取て、天下の大事に及ぬるこそうたてけれ。 同十六日の夜に入て、源三位入道頼政、嫡子伊豆守仲綱、次男源太夫判官兼綱、六條藏人仲家、其子藏人太郎仲光已下、都合其勢三百餘騎、館に火かけ燒上て、三井寺へこそ參られけれ。三位入道の侍に、渡邊源三瀧口競と云者有り。馳後て留たりけるを、前右大將競を召て、「如何に汝は三位入道の供をばせで、留たるぞ。」と宣ば競畏て申けるは、「自然の事候はば、眞先かけて、命を奉らうとこそ日比は存て候つれども、何と思はれ候けるやらん、かうとも仰せられ候はず。」「抑朝敵頼政に同心せむとや思ふ。又是にも兼參の者ぞかし。先途後榮を存じて、當家に奉公致さんとや思ふ。有の儘に申せ。」とこそ宣ひけれ。競涙をはら/\と流いて、「相傳の好はさる事で候へ共、いかが朝敵となれる人に同心をばし候べき。殿中に 奉公仕うずる候。」と申ければ、「さらば奉公せよ。頼政法師がしけん恩には、些も劣まじきぞ。」とて入給ひぬ。 「侍に競はあるか、」「候。」「競はあるか。」「候。」とて朝より夕に及まで祗候す。漸日も暮ければ、大將出られたり。競畏て申けるは、「誠や三位入道殿三井寺にと聞え候。定めて討手向けられ候はんずらん。心にくうも候はず。三井寺法師、さては渡邊のしたしい奴原こそ候らめ。擇討などもし候べきに、乘て事にあふべき馬の候つるを、親い奴めに盗まれて候。御馬一匹下し預るべうや候らん。」と申ければ、大將尤さるべしとて、白葦毛なる馬の煖廷とて秘藏せられたりけるに、好い鞍置てぞ給だりける。競屋形に歸て、「早日の暮よかし、此馬に打乘て、三井寺へ馳參り、三位入道殿の眞先かけて、打死せん。」とぞ申ける。日も漸暮ければ、妻子共をば彼此へ立忍せて、三井寺へと出立ける心の中こそ無慚なれ。 平紋の狩衣の菊綴大らかにしたるに、重代の著背長の緋威の鎧に、星白の甲の緒をしめ、いか物作の大太刀帶き、二十四差たる大中黒の矢負ひ、瀧口の骨法忘れじとや、鷹の羽にて矧だりける的矢一手ぞ差副たる。滋籐の弓持て、煖廷に打乘り、乘替一騎打具し、舎人男にもたてわき挾せ、屋形に火かけ燒上て、三井寺へこそ馳たりけれ。六波羅には、競が宿所より火出來たりとて、ひしめきけり。宗盛卿急ぎ出て、「競はあるか。」と尋給ふに、「候はず。」と申す。「すはきやつめを手延にして、たばかられぬるは。あれ追懸て討。」と宣へども、競は本より勝れたる強弓精兵矢繼早の手きゝ大力の剛の者二十四差たる矢で先二十四人は射殺れなん ず。音なせそとて、向ふ者こそ無りけれ。三井寺には、折節競が沙汰ありけり。渡邊黨「競をば召具すべう候つる者を、六波羅に殘り留まて、いかなるうき目にか逢ひ候らん。」と申ければ、三位入道心を知て「よも其者、無體に囚へ搦られはせじ。入道に志深い者也今見よ。唯今參うずるぞ。」と宣も果ねば、競つと出來たり。「さればこそ。」とぞ宣ける。競かしこまて申けるは「伊豆守殿の、木の下が代に、六波羅の煖廷をこそ取て參て候へ。參せ候はん。」とて伊豆守夜半ばかり門の内へぞ追入たる。馬やに入て、馬共に噛合ければ、舎人驚あひ、「煖廷が參て候。」と申す。大將急ぎ出て見給ふに、「昔は煖廷、今は平宗盛入道」と云ふ印燒をぞしたりける。大將「安からぬ。競めを手延にしてたばかられぬる事こそ遺恨なれ。今度三井寺へ寄たらんに、如何にもして先づ競めを生捕にせよ。鋸で頸斬ん。」とて、躍上々々怒られけれども、煖廷が尾髪を生ず、印燒も又失ざりけり。 -------------------------------------------------------------------------------- 山門牒状 三井寺には、貝鐘鳴いて、大衆僉議す。「近日世上の體を案ずるに、佛法の衰微、王法の牢籠正に此時に當れり。今度清盛入道が暴惡を戒めずば、何の日をか期すべき。宮此に入御の御事、正八幡宮の衞護、新羅大明神の冥助に非ずや。天衆地類も影向を垂れ、佛力神力も降伏を加へ坐す事などか無るべき。抑北嶺は圓宗一味の學地、南都は夏臘得度の戒場也。牒送の 處に、などか與せざるべき。」と、一味同心に僉議して、山へも奈良へも、牒状をこそ遣しけれ。先山門への状に云、 園城寺牒す、延暦寺の衙。特に合力を致して、當寺の破滅を助けられんと思ふ状右入道淨海恣に王法を失ひ、佛法を滅ぼさんと欲す。愁歎極なき所に、去る十五日の夜、一院第二の王子、竊に入寺せしめ給ふ。こゝに院宣と號して、出し奉るべき由、責ありといへども、出し奉るに能はず。仍て官軍を放ち遣す旨、其聞えあり。當寺の破滅、正に此時に當れり。諸衆何ぞ愁嘆せざらんや。就中に延暦、園城兩寺は、門跡二つに相分ると雖、學する所は是圓頓一味の教門に同じ。譬へば鳥の左右の翅の如し。又車の二つの輪に似たり。一方闕けんに於ては、爭かその歎無らんや、者れば、特に合力を致して、當寺の破滅を助けられば、早く年來の遺恨を忘て、住山の昔に復せん。衆徒の僉議此の如し。仍牒送件の如し。 治承四年五月十八日 大衆等 とぞ書たりける。 -------------------------------------------------------------------------------- 南都牒状 山門の大衆、此状を披見して、こは如何に、當山の末寺で有ながら、鳥の左右の翅の如く、 又車の二つの輪に似たりと、抑て書く條、奇怪なり。」とて、返牒を送らず。其上入道相國天台座主明雲大僧正に、衆徒を靜らるべき由宣ければ、座主急ぎ登山して、大衆をしづめ給ふ。かゝりし間、宮の御方へ、不定の由をぞ申ける。又入道相國、近江米二萬石、北國の織延絹三千匹、往來に寄らる。是を谷々嶺々に引れけるに、俄の事では有り、一人して數多を取る大衆も有り。又手を空うして、一つも取ぬ衆徒も有り。何者の爲態にや有けん、落書をぞしたりける。 山法師織延衣うすくして、恥をばえこそかくさざりけれ。 又絹にもあたらぬ大衆の詠たりけるやらん。 織延を一きれも得ぬわれらさへ、薄恥をかくかずに入哉。 又南都への状に云、 園城寺牒す、興福寺の衙。特に合力を致して、當寺の破滅を助けられんと乞ふ状右佛法の殊勝なる事は、王法を守らんがため、王法亦長久なる事は、即ち佛法に依る。ここに入道前太政大臣平朝臣清盛公、法名淨海、恣に國威を竊にし、朝政を亂り、内につけ外につけ、恨をなし歎をなす間、今月十五日の夜、一院第二の王子、不慮の難を遁れんがために、俄に入寺せしめ給ふ。爰に院宣と號して出したてまつるべき旨、責ありと云へども、衆徒一向是を惜み奉る。仍て彼の禪門、武士を當寺に入れんとす。佛法と云、王 法と云、一時に當に破滅せんとす。昔唐の會昌天子、軍兵を以て佛法を滅さしめし時、清凉山の衆、合戰を致して是を防ぐ。王權猶かくの如し。何ぞ況や謀反八逆の輩に於てをや。就中に南京は例なくして、罪なき長者を配流せらる。今度にあらずば、何の日か會稽を遂げん。願くは、衆徒、内には佛法の破滅を助け、外には惡逆の伴類を退けば、同心の至り、本懷に足ぬべし。衆徒の僉議かくの如し。仍牒送如件。 治承四年五月十八日 大衆等 とぞ書たりける。 南都の大衆此状を披見して、やがて返牒を送る。其返牒に云、 興福寺牒す、園城寺の衙來牒一紙に載せられたり。右入道淨海が爲に、貴寺の佛法を滅さんとする由の事、牒す、玉泉、玉花、兩家の宗義を立つと云へども、金章、金句、同じく一代の教門より出でたり。南京北京共に以て、如來の弟子たり。自寺他寺互に、調達が魔障を伏すべし。抑清盛入道は、平氏の糟糠、武家の塵芥なり。祖父正盛、藏人五位の家に仕へて、諸國受領の鞭をとる。大藏卿爲房、賀州刺史の古、檢非所に補し、修理の大夫顯季、播磨の大守たりし昔、厩の別當職に任ず。然を親父忠盛昇殿を許されし時、都鄙の老少皆蓬壺の瑕瑾を惜み、内外の榮幸各馬臺の讖文に啼く。忠盛青雲の翅を刷ふといへども、世の民猶白屋の種を輕ず。名を惜む青侍其家に望むことなし。然るを去る平治元年十二月、太上天皇、一 戰の功を感じて、不次の賞を授け給ひしより以降、高く相國に上り、兼て兵仗を給る。男子或は台階を辱うし、或は羽林に連る。女子或は中宮職に備り、或は准后の宣を蒙る。群弟庶子、皆棘路に歩み、その孫、かの甥、悉く竹符を割く。加之九州を統領し、百司を進退して、奴婢皆僕從と成す。一毛心に違へば、王侯と云へ共是を囚へ、片言耳に逆ふれば、公卿といへども是を搦む。是に依て、或は一旦の身命をのべんがため、或は片時の凌蹂を遁れんと思て、萬乘の聖主猶面諂の媚をなし、重代の家君却て膝行の禮を致す。代々相傳の家領を奪ふと云へども、上裁も恐れて舌を卷巻き、宮々相承の庄園を取ると云へども、權威に憚てもの言ふことなし。勝に乘るあまり、去年の冬十一月太上皇の棲を追捕し、博陸公の身を推し流す。反逆の甚しい事、誠に古今に絶たり。其時我等すべからく賊衆に行き向て、其罪を問ふべしと云へども、或は神慮に相憚り、或は綸言と稱するに依て、鬱陶を抑へ光陰を送る間、重て軍兵を起して、一院第二の親王宮を打ち圍む所に、八幡三所、春日大明神、竊に影向を垂れ、仙蹕を捧げ奉り、貴寺に送りつけて、新羅の扉に預け奉る。王法盡べからざる旨明けし。隨て又貴寺身命を捨てゝ、守護し奉る條、含識の類、誰か隨喜せざらん。我等遠域にあて、其情を感ずる所に、清盛入道猶匈氣をおこして、貴寺に入らんとするよし、仄に承り及を以て、兼て用意を致す。十八日辰の一點に大衆を起し、諸寺に牒送し、末寺に下知し、軍士を得て後、案内を達せんとする所に、青島飛び來て芳翰を投げたり。數日の鬱念一時に解散す。彼唐家清凉一山の 鳥芻、猶武宗の官兵を返す。況 や和國南北兩門の衆徒、何ぞ謀臣の邪類を掃はざらんや。能く梁園左右の陣を固めて、宜く我等が進發の告を待つべし。状を察して、疑貽をなすことなかれ。以て牒す。 治承四年五月二十一日 大衆等 とぞ書たりける。 -------------------------------------------------------------------------------- 永僉議 三井寺には又大衆起て僉議す。山門は心替しつ、南都は未參らず。此事延ては惡かりけん。六波羅に押寄て夜討にせん。其儀ならば、老少二手に分て、老僧共は如意が嶺より搦手に向ふべし。足輕ども四五百人先立て、白川の在家に火を懸け燒上ば、在京人六波羅の武士「あはや事出來たり。」とて、馳向んずらん。其時岩坂、櫻本にひかけ/\、暫支へて戰ん間に、大手は、伊豆守を大將軍にて、惡僧共、六波羅に押寄せ、風上に火かけ一揉もうで攻んに、などか太政入道燒出て討ざるべき。」とぞ僉議しける。 其中に平家の祈しける一如房阿闍梨眞海、弟子同宿數十人引具し、僉議の庭に進出で申けるは、「かう申せば、平家の方人とや思召され候らん。縱さも候へ。いかゞ衆徒の義をやぶり、我寺の名をも惜では候ふべき。昔は源平左右に爭て、朝家の御守たりしかども、近來は源氏の運傾き、平家世を取て二十餘年、天下に靡ぬ草木も候はず。内々の館の有樣も、小勢にてはたやすう攻落しがたし。よく/\外に謀を運して、勢を催し、後日に寄らるべう や候らん。」と、程を延さんが爲に、長々とぞ僉議したる。 爰に乘圓房阿闍梨慶秀と云老僧あり。衣の下に腹卷を著、大なる打刀前垂に差ほらし、かしら包んで、白柄の大長刀杖につき、僉議の庭に進出でて申けるは、「證據を外に引くべからず。我寺の本願天武天皇は未だ春宮の御時、大友王子にはゞからせ給ひて、芳野の奧をいでさせ給ひ、大和國宇多郡を過させ給ひけるには、其勢僅に十七騎、去共伊賀伊勢に打越え、美濃尾張の勢を以て、大友王子を亡して、終に位に即せ給ひき。『窮鳥懷に入る。人倫是を憐む』と云ふ本文有り。自餘は知らず、慶秀が門徒に於ては、今夜六波羅に押寄て、打死せよや。」とぞ僉議しける。圓滿院大輔源覺、進出て申けるは、「僉議ばし多し、夜の更るに、急げや進め。」とぞ申ける。 -------------------------------------------------------------------------------- 大衆揃 搦手に向ふ老僧共大將軍には源三位入道頼政、乘圓房阿闍梨慶秀律成房阿闍梨日胤、帥法印禪智、禪智が弟子義寶、禪永を始として、都合其勢一千人、手々に燒松もて、如意が峯へぞ向ひける。大手の大將軍には嫡子伊豆守仲綱、次男源大夫判官兼綱、六條藏人仲家、其子藏人太郎仲光、大衆には圓滿院大輔源覺、成喜院荒土佐、律成房伊賀公、法輪院鬼佐渡、是等は力の強さ、弓箭打物もては、鬼にも神にも逢うと云ふ一人當千の兵也。平等院には、因幡竪者荒大夫、角六郎房、島阿闍梨、筒井法師に、郷阿闍梨、惡少納言、北院には、金光院の 六天狗、式部大輔、能登、加賀、佐渡、備後等也。松井肥後、證南院筑後、賀屋筑前、大矢俊長、五智院但馬、乘圓房阿闍梨慶秀が房人、六十人の内、加賀光乘、刑部春秀、法師原には一來法師に如ざりき。堂衆には、筒井淨妙明秀、小藏尊月、尊永、慈慶、樂住、鐡拳玄永、武士には渡邊省播磨次郎、授薩摩兵衞、長七唱、競瀧口、與右馬允、續源太、清、勸を先として、都合其勢一千五百餘人三井寺をこそ打立けれ。 宮入せ給て後は大關小關堀切て、堀ほり逆茂木引いたりければ、堀に橋渡し、逆茂木ひき除などしける程に、時刻おし移て、關路の鷄啼あへり。伊豆守宣けるは、「爰で鳥鳴ては、六波羅は白晝にこそ寄んずれ、如何せん。」と宣へば、圓滿院大輔源覺、又先の如く進出て僉議しけるは、「昔秦昭王のとき、孟嘗君召禁られたりしに、后の御助に依て、兵三千人を引具して、逃免れけるに、函谷關に至れり。鷄啼ぬ限は、關の戸を開く事なし。孟嘗君が三千の客の中に、てんかつと云ふ兵有り。鷄の啼眞似をありがたくしければ鷄鳴とも云れけり。彼鷄鳴高き所に走上り、鷄の鳴眞似をしたりければ、關路の鷄聞傳て、皆鳴ぬ。其時關守鳥の虚音にばかされて、關の戸開てぞ通しける。是も敵の謀にや鳴すらん、唯寄よ。」とぞ申ける。かゝりし程に、五月の短夜ほの%\とこそ明にけれ。伊豆守宣けるは、「夜討にこそさりともと思つれ共、晝軍には如何にも叶ふまじ。あれ呼返せや。」とて、搦手は如意が嶺よりよび返す。大手は松坂より取て返す。若大衆共、「是は一如房阿闍梨が長僉議にこそ夜は明たれ。押寄せて其坊きれ。」とて、坊を散々にきる。防ぐ處の弟子同宿、數十人討れぬ。一如 房阿闍梨這々六波羅に參て老眼より涙を流いて此由訴申けれ共、六波羅には軍兵數萬騎馳集て騒ぐ事もなかりけり。 同廿三日の曉、宮は此の寺ばかりでは叶ふまじ、山門は心替し、南都は未參らず。後日に成ては惡かりなんとて、三井寺を出させ給ひて、南都へぞ入せ座ます。此宮は蝉折、小枝と聞えし漢竹の笛を二つ持せ給へり。彼蝉折と申は、昔鳥羽院の御時金を千兩、宋朝の御門へ、送らせ給ひたりければ、返報と覺くて、生たる蝉の如くに、節の附たる笛竹を、一節贈らせ給ふ。如何が是程の重寶をば左右なうはゑらすべきとて、三井寺の大進僧正覺宗に仰せて、壇上に立て、七日加持して、彫せ給へる御笛也。或時高松中納言實平卿參て、此御笛を吹れけるに、尋常の笛の樣に思忘て、膝より下に置れたりければ、笛や尤けん、其時蝉折にけり。さてこそ蝉折とは付られたれ。笛の御器量たるに依て、此宮御相傳有けり。されども今を限とや思食れけん、金堂の彌勒に參らさせおはします。龍華の曉、値遇の御爲かと覺えて、哀也し事共なり。 老僧共には皆暇賜で、留めさせ坐ます。しかるべき若大衆惡僧共は參りけり。源三位入道の一類引具して、其勢一千人とぞ聞えし。乘圓房阿闍梨慶秀、鳩の杖にすがりて、宮の御前に參り、老眼より涙をはら/\と流いて申けるは、「何迄も御供仕べう候へ共、齡既に八旬にたけて、行歩叶ひがたう候。弟子で候刑部房俊秀を參らせ候。是は一年平治の合戰の時、故左馬頭義朝が手に候ひて、六條河原で討死仕り候し相摸國住人山内須藤刑部丞俊通が子で候。 いさゝか縁候間、跡懷でおほしたてて、心の底迄能知て候。何迄も召具せられ候べし。」とて、涙を抑て留りぬ。宮もあはれに思召て、何の好にかうは申らんとて、御涙せきあへさせ給はず。 -------------------------------------------------------------------------------- 橋合戰 宮は宇治と寺との間にて、六度迄御落馬有けり。これは去ぬる夜、御寢の成ざりし故也とて、宇治橋三間引きはづし、平等院に入奉て、暫御休息有けり。六波羅には、「すはや宮こそ南都へ落させ給ふなれ。追懸て討奉れ。」とて、大將軍には左兵衞督知盛、頭中將重衡、左馬頭行盛、薩摩守忠教、侍大將には、上總守忠清、其子上總太郎判官忠綱、飛騨守景家、其子飛騨太郎判官景高、高橋判官長綱、河内判官秀國、武藏三郎左衞門尉有國、越中次郎兵衞尉盛繼、上總五郎兵衞忠光、惡七兵衞景清を先として、都合其勢二萬八千餘騎、木幡山打越て、宇治橋の詰にぞ押寄たる。敵平等院にと見てんげれば、閧を作る事三箇度、宮の御方にも、同う閧の聲をぞ合せたる。先陣が、「橋を引いたぞ、過すな。」とどよみけれども、後陣に是を聞つけず、我先にと進程に、先陣二百餘騎押落され、水に溺れて流けり。橋の兩方の詰に打立て矢合す。 宮の御方には、大矢俊長、五智院但馬、渡邊省授、續源太が射ける矢ぞ鎧もかけず楯もたまらず通ける。源三位入道は、長絹の鎧直垂に、品皮威の鎧也。其日を最後とや思はれ けん。態と甲は著給はず。嫡子伊豆守仲綱は、赤地の錦の直垂に、黒絲威の鎧也。弓を強う引んとて是も甲は著ざりけり。爰に五智院但馬、大長刀の鞘を外いて、唯一人橋の上にぞ進んだる。平家の方には是を見て、「あれ射取や者共」とて究竟の弓の上手共が矢先を汰へて差詰引詰散々に射る。但馬少しも噪がず、揚る矢をばつい潜り、下る矢をば跳り越え、向て來をば長刀で切て落す。敵も御方も見物す。其よりしてこそ、矢切の但馬とは云はれけれ。 堂衆の中に、筒井の淨妙明秀は、褐の直垂に、黒革威の鎧著て、五枚甲の緒をしめ、黒漆の太刀を帶き、二十四差たる黒ほろの矢負ひ、塗籠籐の弓に、好む白柄の大長刀取副て、橋の上にぞ進んだる。大音聲を揚て名のりけるは「日來は音にも聞きつらむ、今は目にも見給へ。三井寺には其隱れ無し。堂衆の中に筒井淨妙明秀とて、一人當千の兵ぞや。我と思はむ人々は寄合や、見參せむ。」とて、二十四差たる矢を差詰引詰散々に射る。矢庭に十二人射殺して、十一人手負せたれば、箙に一つぞ殘たる。弓をばからと投捨て、箙も解て捨てけり。つらぬき脱で跣に成り、橋の行桁をさら/\と走渡る。人は恐れて渡らねども、淨妙房が心地には、一條二條の大路とこそ振舞たれ。長刀で向ふ敵五人薙ふせ、六人に當る敵に逢て、長刀中より打折て捨てけり。其後太刀を拔て戰ふに、敵は大勢なり、蜘蛛手、角繩、十文字、蜻蜒返り、水車、八方透さず切たりけり。矢庭に八人切ふせ、九人に當る敵が甲の鉢に、餘に強う打當て、目貫の元よりちやうと折れ、くと拔て、河へざぶと入にけり。憑む所は腰刀、偏へに死なんとぞ狂ける。 爰に乘圓房阿闍梨慶秀が召使ける一來法師と云ふ大力の早態在けり。續て後に戰ふが、行桁は狹し、側通べき樣はなし。淨妙房が甲の手さきに手を置て、「惡う候、淨妙房」とて、肩をつんど跳り越てぞ戰ひける。一來法師打死してんげり。淨妙房は這々歸て、平等院の門の前なる芝の上に物具脱捨て、鎧に立たる矢目を數へたりければ六十三、裏掻く矢五所、され共大事の手ならねば、所々に灸治して、首からげ淨衣著て、弓打切り杖に突き、平あしたはき、阿彌陀佛申て、奈良の方へぞ罷ける。 淨妙房が渡るを手本にして、三井寺の大衆、渡邊黨走續々々、我も/\と行桁をこそ渡けれ。或は分取して歸る者も有り、或は痛手負て、腹掻切り川へ飛入る者もあり、橋の上の戰、火いづる程ぞ戰ひける。是を見て平家の方の侍大將上總守忠清、大將軍の御前に參て、「あれ御覽候へ。橋の上の戰、手痛う候。今は川を渡すべきで候が、折節五月雨の比で、水まさて候。渡さば馬人多く亡候なんず。淀芋洗へや向ひ候べき、河内路へや參り候べき。」と申處に下野國の住人、足利又太郎忠綱、進出て申けるは、「淀芋洗河内路をば、天竺震旦の武士を召て向けられ候はんずるか。其も我らこそ向ひ候はんずれ。目に懸たる敵を討ずして南都へ入參せ候なば、吉野とつ川の勢共馳集て、彌御大事でこそ候はんずらめ。武藏と上野の境に、利根川と申候大河候。秩父、足利、中違て、常は合戰を爲候しに、大手は長井渡、搦手は古我杉渡より寄せ候ひしに、爰に上野國の住人、新田入道、足利に語はれて、杉の渡より寄んとて儲たる舟共を秩父が方より皆破れて、申候しは、「唯今爰を渡さずば、長き弓箭の疵なるべし。 水に溺れて死なば死ね、いざ渡さんとて、馬筏を作て渡せばこそ渡しけめ。坂東武者の習として、敵を目にかけ、川を隔つる軍に、淵瀬嫌ふ樣や有る。此河の深さ、早さ、利根河に幾程の劣り勝りはよもあらじ。續けや殿原。」とて、眞先にこそ打入たれ。續く人共、大胡、大室、深須、山上、那波太郎、佐貫廣綱四郎大夫、小野寺前司太郎、邊屋子四郎、郎等には宇夫方次郎、切生六郎、田中宗太を始として、三百餘騎ぞ續ける。足利大音聲を揚て、「強き馬をば上手に立てゝ、弱き馬をば下手になせ。馬の足の及ばう程は、手綱をくれて歩せよ。はづまばかい操て泳せよ。下う者をば弓の弭に取附せよ。手を取組み、肩を竝て渡すべし。鞍壺に能く乘定めて、鐙を強う踏め。馬の頭沈まば、引揚よ。痛う引て引被くな。水溜まば、三頭の上に乘懸れ。馬には弱う、水には強う中べし。河中にて弓引な。敵射共相引すな。常に錣を傾よ。痛う傾て天邊射さすな。かねに渡て推落さるな。水にしなうて渡せや渡せ。」と掟て、三百餘騎、一騎も流さず、向の岸へ颯と渡す。 -------------------------------------------------------------------------------- 宮御最後 足利は、朽葉の綾の直垂に、赤革威の鎧著て、高角打たる甲の緒をしめ、金作の太刀を帶き、切斑の矢負ひ、重籐の弓持て、連錢蘆毛なる馬に、柏木にみゝづく打たる金覆輪の鞍置てぞ乘たりける。鐙踏張り立上り、大音聲を揚て、名乘けるは、「遠くは音にも聞き、近くは目にも見給へ。昔朝敵將門を亡し、勸賞蒙し俵藤太秀里に十代、足利太郎俊綱が子、又太郎忠 綱、生年十七歳、か樣に無官無位なる者の、宮に向ひ參せて、弓を引き矢を放つ事天の恐少からず候へ共、弓も矢も冥加の程も、平家の御上にこそ候らめ。三位入道殿の御方に、我と思はん人々は、寄合や見參せん。」とて平等院の門の内へ責入々々戰けり。 是を見給て、大將軍左兵衞督知盛、「渡せや渡せ。」と下知せられければ、二萬八千餘騎、皆打入て渡しけり。馬や人に塞れて、さばかり早き宇治川の、水は上にぞ湛へたる。自ら外るゝ水には、何も不堪流れけり。雜人共は、馬の下手に取附々々渡りければ、膝より上をば濡さぬ者も多かりけり。如何したりけん伊賀伊勢兩國の官兵、馬筏押破られ水に溺れて六百餘騎ぞ流れける。萠黄、緋威、赤威、色々の鎧の浮ぬ沈ぬゆられけるは、神南備山の紅葉葉の、嶺の嵐に誘れて、龍田河の秋の暮、井塞に懸て、流もやらぬに異ならず。其中に緋威の鎧著たる武者が三人、網代に流れ懸て淘けるを、伊豆守見給ひて、 伊勢武者はみなひおどしの鎧きて、宇治の網代にかゝりぬるかな。 是等は三人ながら伊勢國の住人也。黒田後平四郎、日野十郎、乙部彌七と云ふ者なり。其中に日野十郎は、ふる者にて有ければ、弓の弭を岩の狹間にねぢ立て、掻上り、二人の者どもをも引上て、助たりけるとぞ聞えし。大勢みな渡して、平等院の門の内へ、入替/\戰ひけり。此の紛に、宮をば南都へ先立て參せ、源三位入道の一類、殘て防矢射給ふ。 三位入道七十に餘て軍して、弓手の膝口を射させ、痛手なれば、心靜かに自害せんとて、平等院の門の内へ引退いて、敵おそひかゝりければ、次男源大夫判官兼綱、紺地の錦の直垂に、 唐綾威の鎧著て、白葦毛なる馬に乘り、父を延さんと、返合せ/\防戰ふ。上總太郎判官が射ける矢に兼綱内甲を射させて疼む處に、上總守が童、次郎丸と云ふしたゝか者押竝て引組でどうと落つ。源大夫判官は、内甲も痛手なれども、聞る大力なりければ、童を取て押て頸を掻き、立上らんとする處に、平家の兵共、十四五騎ひし/\と落重て、兼綱を討てけり。伊豆守仲綱も、痛手あまた負ひ平等院の釣殿にて自害す。其頸をば下河邊藤三郎清親取て、大床の下へぞ投入ける。六條藏人仲家、其子藏人太郎仲光も、散々に戰ひ、分捕餘たして、遂に討死してけり。此仲家と申は、故帶刀先生義方が嫡子也。孤にて有しを、三位入道養子にして、不便にし給しが、日來の契を變ぜず、一所にて死にけるこそ無慚なれ。三位入道は渡邊長七唱を召て、「我頸うて。」と宣へば、主の生頸討ん事の悲しさに、涙をはらはらと流いて、「仕るとも覺え候はず。御自害候て、其後こそ給り候はめ。」と申ければ、「誠にも。」とて西に向ひ、高聲に十念唱へ最後の詞ぞあはれなる。 埋木の花さく事もなかりしに、みのなる果ぞかなしかりける。 是を最後の詞にて、太刀のさきを腹に突立て、俯樣に貫てぞ失られける。其時に歌讀べうは無りしか共、若より強に好たる道なれば、最後の時も忘れ給はず。其頸をば唱取て泣々石に括合せ敵の中を紛れ出て、宇治川の深き所に沈てけり。 競瀧口をば平家の侍共、如何にもして、生捕にせんとうかゞひけれ共、競も先に心えて、散散に戰ひ、大事の手負ひ、腹掻切てぞ死にける。圓滿院大輔源覺、今は宮も遙に延させ給ひ ぬらんとや思ひけん。大太刀大長刀左右に持て、敵の中をうち破り、宇治川へ飛で入り、物具一つも捨ず、水の底を潜て、向の岸に渡り著き、高き所に登り、大音聲を揚て、「如何に平家の君達、是までは御大事かよう。」とて、三井寺へこそ歸けれ。 飛騨守景家は、古兵にて有ければ、此紛に、宮は南都へやさきたゝせ給ふらんとて軍をばせず、其勢五百餘騎、鞭鐙を合せて追懸奉る。案の如く、宮は三十騎許で落させ給けるを、光明山の鳥居の前にて、追附奉り、雨の降る樣に射參せければ、何が矢とは覺ねども、宮の左の御側腹に矢一筋立ければ、御馬より落させ給て、御頸取れさせ給ひけり。是を見て御伴に候ける鬼佐渡、荒土佐、荒大夫、理智城房の伊賀公、刑部俊秀、金光院の六天狗、何の爲に命をば惜むべきとて、をめき叫んで討死す。 其中に宮の御乳母子、六條助大夫宗信敵は續く、馬は弱し、にゐ野の池へ飛でいり、浮草顏に取掩ひ、慄居たれば、敵は前を打過ぬ。暫し有て兵者共の四五百騎、さゞめいて打ち歸ける中に、淨衣著たる死人の、頸も無いを、蔀の下にかいていできたりけるを誰やらんとみ奉れば、宮にてぞましましける。我死ば此笛をば御棺に入よと仰ける小枝と聞えし御笛も、未御腰に差れたり。走出て取も附まゐらせばやと思へども、怖しければ其も叶はず。かたき皆歸て後、池より上り、ぬれたる物共絞著て、泣々京へ上たれば、憎まぬ者こそ無りけれ。 去程に南都の大衆ひた甲七千餘人、宮の御迎に參る。先陣は粉津に進み、後陣は未興福寺の南大門にゆらへたり。宮は早光明山の鳥居の前にて討れさせ給ぬと聞えしかば、大衆みな 力及ばず涙を押へて留りぬ。今五十町許待附させ給はで、討れさせ給けん宮の御運の程こそうたてけれ。 -------------------------------------------------------------------------------- 若宮出家 平家の人々は宮竝びに三位入道の一族、三井寺の衆徒、都合五百餘人が頸、太刀長刀のさきに貫き、高く指上げ、夕に及で六波羅へ歸入る。兵共勇 のゝしる事夥し。怖しなども愚也。其中に源三位入道の頸は、長七唱が取て宇治川の深き所に沈てければ、それは見ざりけり。子供の頸はあそこ爰より皆尋出されたり。中に宮の御頸は、年來參り寄る人も無れば、見知り參せたる人もなし。先年典藥頭定成こそ、御療治の爲に召たりしかば、其ぞ見知り參せたるらんとて召れけれども、現所勞とて參らず。宮の常に召されける女房とて、六波羅へ尋ね出されたり。さしも淺からず、思食されて、御子を産參せ最愛ありしかば、爭か見損じ奉るべき。只一目見參せて、袖を顏に推當て、涙を流されけるにこそ、宮の御頸とも知てけれ。 この宮は、腹々に御子の宮達あまた渡らせ給ひけり。八條女院に伊豫守盛教が娘、三位局とて候はれける女房の腹に、七歳の若宮、五歳の姫宮御座けり。入道相國、弟池中納言頼盛卿を以て、八條女院へ申されけるは、「高倉宮の御子の宮達のあまた渡らせ給候なる。姫宮の御事は申に及ばず、若宮をば、疾う/\出し參させ給へ。」と申されたりければ、女院御返事に、「かゝる聞えの有し曉、御乳人などが、心少う具し奉て失にけるにや、全く此御所に渡せ給は ず。」と仰ければ、頼盛卿力及ばで此由を入道相國に申されけり。「何條其御所ならでは、何くへか渡せ給ふべかんなる。其儀ならば、武士共參て、搜奉れ。」とぞ宣ける。此中納言は、女院の御乳母、宰相殿と申す女房に相具して、常は參り通れければ、日來は懷うこそ思召つるに、此宮の御事申しに參られたれば、今はあらぬ人の樣に疎しうぞ思召されける。若宮、女院に申させ給けるは、「是程の御大事に及び候上は終には遁れ候まじ。とう/\出させ御座ませ。」と申させ給ければ、女院御涙をはら/\と流させ給ひて、「人の七つ八つは、何事をも聞分ぬ程ぞかし。其に我故、大事の出來たる事を、片腹痛く思て、か樣に宣ふいとほしさよ。由無かりける人を、此六七年手馴して、かかる憂目を見よ。」とて、御涙せきあへさせ給はず。頼盛卿、宮出し參らさせ給ふべき由重ねて申されければ、女院力及ばせ給はで、終に宮を出しまゐらさせ給ふ。御母三位局、今を限の別なれば、さこそは御名殘惜うも思はれけめ。泣泣御衣著奉り、御髮掻撫で、出し參せ給ふも、唯夢とのみぞ思はれける。女院を始參せて、局の女房、女童に至るまで、涙を流し袖を絞らぬは無りけり。 頼盛卿、宮請取參せ、御車に乘奉て、六波羅へ渡し奉る。前右大將宗盛卿此宮を見參せて、父の相國禪門の御前に坐て、「何と候やらん、此宮を見奉るが、餘に痛う思ひ參せ候。理を枉て此宮の御命をば、宗盛に賜候へ。」と申されければ、入道「さらばとう/\出家をせさせ奉れ。」とぞ宣ける。宗盛卿、此由を八條女院に申されければ、女院「何の樣もあるべからず、唯疾々。」とて法師になし奉り、釋氏に定らせ給ひて、仁和寺の御室の御弟子になし參させ給 ひけり。後には東寺の一の長者、安井宮僧正道尊と申しは、此宮の御事なり。 -------------------------------------------------------------------------------- 通乘沙汰 又奈良にも一所座しけり。御乳母讃岐守重秀が御出家せさせ奉り、具し參らせて、北國へ落下りたりしを、木曽義仲上洛の時主にし進せんとて、具し奉て都へ上り、御元服せさせ參らせたりしかば、木曽が宮とも申けり。又還俗の宮とも申けり。後には嵯峨の邊、野依に渡らせ給ひしかば、野依の宮とも申けり。 昔通乘といふ相人有り。宇治殿二條殿をば、君三代の關白、共に御年八十と申たりしも違はず。帥内大臣をば、流罪の相在すと申たりしも違はず。聖徳太子の、崇峻天皇を横死の相在ますと申させ給ひたりしが、馬子大臣に殺され給ひにき。さも然るべき人々は、必ず相人としもあらねども、かくこそ目出たかりしか。是は相少納言が不覺にはあらずや。中比兼明親王、具平親王と申しは、前中書王、後中書王とて、共に賢王聖主の王子にて渡せ給ひしかども、位にも即せ給はず。され共何かは謀反を起させ給ひし。又後三條院第三の皇子、資仁親王も御才學勝て御座ければ、白河院未東宮にておはしまいし時「御位の後は、此宮を位には即參らさせ給へ。」と、後三條院、御遺詔有しかども、白河院如何思召されけん、終に位にも即け參らさせ給はず、責ての御事には、資仁親王の御子に、源氏の姓を授け參らさせ給て、無位より一度に三位に叙して、軈て中將に成參らさせ給ひけり。一世の源氏、無位より三位 する事嵯峨皇帝の御子、陽院の大納言定卿の外は是始とぞ承る。花園左大臣有仁公の御事なり。 高倉宮の御謀反の間、調伏の法承はて修せられける高僧達に勸賞行はる。前右大將宗盛卿の子息侍從清宗三位して、三位侍從とぞ申ける。今年纔に十二歳。父の卿も、此齡では兵衞佐でこそおはせしか。忽に上達部に上り給ふ事、一の人の公達の外は、いまだ承り及ばず。源茂仁、頼政法師父子追討の賞とぞ除書には有ける。源茂仁とは、高倉宮を申けり。正い太上法皇の王子をうち奉るだに有に、凡人にさへなし奉るぞ淺ましき。 -------------------------------------------------------------------------------- [1] ぬえ 抑源三位入道頼政と申は、攝津守頼光に五代、參河守頼綱が孫、兵庫頭仲正が子也。保元の合戰の時、御方にて先をかけたりしか共、させる賞にも預らず、又平治の逆亂にも、親類を捨て參じたりしか共、恩賞是疎なりき。大内守護にて年久う有しかども、昇殿をば許されず。年たけ齡傾いて後、述懷の和歌一首詠んでこそ昇殿をば許されけれ。 人しれず大内山の山守は、木隱てのみ月を見るかな。 此歌に依て昇殿許され、正下四位にて暫有しが、三位を心にかけつゝ、 のぼるべき便無き身は木の下に、しゐをひろひて世をわたるかな。 さてこそ三位はしたりけれ。軈て出家して、源三位入道とて、今年は七十五にぞ成れける。 此人一期の高名と覺し事は、近衞院御在位の時、仁平の頃ほひ、主上夜々おびえたまぎらせ給ふ事有けり。有驗の高僧貴僧に仰て、大法秘法を修せられけれども、其驗なし。御惱は丑刻許で在けるに、東三條の森の方より、黒雲一村立來て、御殿の上に掩へば、必ずおびえさせ給ひけり。是に依て公卿僉議有り。去る寛治の比ほひ、堀河天皇御在位の時、しかの如く、主上夜な/\おびえさせ給ふ事在けり。其時の將軍義家朝臣、南殿の大床に候はれけるが、御惱の刻限に及で、鳴絃する事三度の後、高聲に「前陸奧守、源義家」と名乘たりければ、人人皆身の毛堅て、御惱怠せ給ひけり。然れば即先例に任て、武士に仰て警固有べしとて、源平兩家の兵の中を選せられけるに、此頼政を選出れたりけるとぞ聞えし。此時は未兵庫頭とぞ申ける。頼政申けるは、「昔より朝家に武士を置るゝ事は、逆反の者を退け、違勅の輩を亡さんが爲なり。目にも見えぬ變化の物仕れと仰せ下さるゝ事、未承り及ばず。」と申ながら、勅定なれば召に應じて參内す。頼政は憑切たる郎等、遠江國の住人、井早太に、ほろのかざきりはいだる矢負せて、唯一人ぞ具したりける。我身は二重の狩衣に、山鳥の尾を以て作だる鋒矢二筋、滋籐の弓に取添て、南殿の大床に伺候す。頼政矢を二つ手挾ける事は、雅頼卿其時は未左少辨にて坐けるが、變化の者仕らんずる仁は、頼政ぞ候と選び申されたる間、一の矢に變化の物を射損ずる者ならば、二の矢には、雅頼の辨の、しや頸の骨を射んとなり。日來人の申に違はず、御惱の刻限に及で、東三條の森の方より、黒雲一村立來て、御殿の上にたなびいたり。頼政吃と見上たれば、雲の中に恠き物の姿あり。是を射損 ずる者ならば、世に有るべしとは思はざりけり。さりながらも矢取て番ひ、南無八幡大菩薩と、心の中に祈念し、能引て、ひやうと射る。手答して、はたと中る。「得たりやをう」と、矢叫をこそしたりけれ。井早太つと寄り、落る處をとて押へて、續樣に九刀ぞ刺たりける。其時上下手々に火を燃いて、是を御覽じ見給ふに、頭は猿、躯は狸、尾は蛇、手足は虎の姿也。鳴く聲 ぬえにぞ似たりける。怖しなども愚なり。主上御感の餘に、獅子王といふ御劔を下されけり。宇治左大臣殿是を賜り次で、頼政に賜んとて、御前のきざはしを半許下させ給へる處に、比は卯月十日餘の事なれば、雲井に郭公、二聲三聲音信てぞ通りける。其時左大臣殿 時鳥名をも雲井にあぐるかな。 と仰せられたりければ、頼政右の膝をつき、左の袖を廣げ、月を少し傍目にかけつゝ、 弓はり月のいるにまかせて。 と仕り、御劔を賜て罷出づ。「弓矢を取てならびなきのみならず、歌道も勝たりけり。」とて君も臣も御感在ける。さて彼變化の物をば、空船に入て流されけるとぞ聞えし。 去る應保の比ほひ、二條院御在位の御時、 ぬえと云ふ化鳥、禁中に鳴て、屡宸襟を惱す事有き。先例を以て、頼政を召されけり。比は五月二十日餘のまだ宵の事なるに、 ぬえ唯一聲音信て、二聲とも鳴ざりけり。目指とも知ぬ闇では有り、姿形も見えざれば、矢つぼを何とも定めがたし。頼政策に先大鏑を取て番ひ、 ぬえの聲しつる内裏の上へぞ射上たる。 ぬえ鏑の音に驚 て虚空に暫ひゝめいたり。二の矢に小鏑取て番ひ、ひいふつと射切て、 ぬえと鏑と竝べて前にぞ落したる。禁中さざめきあひ、御感斜ならず、御衣を被させ給けるに、其時は、大炊御門右大臣公能公是を賜りついで、頼政にかづけさせ給ふとて、「昔の養由は、雲の外の鴈を射き、今の頼政は、雨の中の ぬえを射たり。」とぞ感ぜられける。 五月闇名をあらはせる今宵哉。 と仰せられかけたりければ、頼政、 たそがれ時もすぎぬとおもふに。 と仕り、御衣を肩に懸て退出す。其後伊豆國賜はり、子息仲綱受領になし、我身三位して、丹波の五箇庄、若狹のとう宮河を知行して、さて坐べかりし人の、由なき謀反起て、宮をも失參せ我身も子孫も亡ぬるこそうたてけれ。 [1] The kanji in our copy-text is New Nelson 6976 or Nelson 5357. -------------------------------------------------------------------------------- 三井寺炎上 日ごろは山門の大衆こそ、亂りがはしき訴仕るに、今度は穩便を存じて音もせず。南都三井寺或は宮請取奉り、或は宮の御迎に參る。是以て朝敵也。されば三井寺をも南都をも攻らるべしとて、同五月二十七日、大將軍には入道の四男頭中將重衡、副將軍には薩摩守忠度、都合其勢一萬餘騎で園城寺へ發向す。寺にも堀ほり、かい楯掻き、逆茂木引て待かけたり。卯刻に矢合して、一日戰ひ暮す。防ぐ所の大衆以下法師原三百餘人まで討れにけり。夜軍に 成て、暗さはくらし、官軍寺中に攻入て、火を放つ。燒る所、本覺院、成喜院、眞如院、花園院、普賢堂、大寶院、清瀧院、教待和尚本坊、竝に本尊等、八間四面の大講堂、鐘樓、經藏、灌頂堂、護法善神の社壇、新熊野の御寶殿、惣じて堂舎塔廟六百三十七宇、大津の在家一千八百五十三宇、智證の渡し給へる一切經七千餘卷、佛像二千餘體、忽に煙と成こそ悲しけれ。諸天五妙の樂も、此時長く盡き、龍神三熱の苦も彌盛なるらんとぞ見えし。 夫三井寺は、近江の義大領が私の寺たりしを、天武天皇に寄奉て、御願となす。本佛も彼御門の御本尊、然るを生身の彌勒と聞え給し教待和尚百六十年行て、大師に附囑し給へり。都史多天上摩尼寶殿より天降り、遙に龍華下生の曉を待せ給ふとこそ聞つるに、こは如何にしつる事共ぞや。大師此所を傳法灌頂の靈跡として、井花水のみづをむすび給し故にこそ、三井寺とは名附たれ。かゝる目出たき聖跡なれども、今は何ならず。顯密須臾に亡て、伽藍更に跡もなし。三密道場もなければ、鈴の聲も聞えず。一夏の花も無れば、閼伽の音もせざりけり。宿老碩徳の名師は、行學に怠り、受法相承の弟子は、又經教に別んたり。寺の長吏圓慶法親王は、天王寺の別當をとゞめらる。其外僧綱十三人、闕官せられて、皆けん非違使に預らる。惡僧は筒井淨妙明秀に至るまで、三十餘人流されけり。かゝる天下の亂、國土の騒、徒事とも覺えず、平家の世末になりぬる先表やらんとぞ人申ける。 -------------------------------------------------------------------------------- 平家物語巻第五 都遷 治承四年六月三日、福原へ行幸在べしとて京中ひしめきあへり。此日來都遷り有るべしと聞えしかども、忽に今明の程とは思はざりつるに、こは如何にとて上下騒合へり。剩へ三日と定められたりしが、今一日引上て、二日になりにけり。二日の卯刻に、既に行幸の御輿を寄たりければ、主上は今年三歳、未幼なう坐ましければ、何心もなう召されけり。主上少なう渡せ給ふ時の御同輿には、母后こそ參せ給ふに、是は其儀なし。御乳母平大納言時忠卿の北の方帥のすけ殿ぞ、一つ御輿に參られける。中宮、一院、上皇、御幸なる。攝政殿を始め奉て太政大臣已下の公卿殿上人、我も/\と供奉せらる。三日福原へ入せ給ふ。池中納言頼盛卿の宿所、皇居になる。同四日頼盛家の賞とて、正二位し給ふ。九條殿の御子、右大將良通卿、越られ給ひけり。攝ろくの臣の御子息、凡人の次男に、加階越えられ給ふ事、是れ始とぞ聞えし。 さる程に法皇を入道相國やう/\思直て、鳥羽殿を出し奉り、都へ入れ參らせたりしが、高倉宮御謀反に依て又大に憤り、福原へ御幸なし奉り、四面に端板して、口一つ開たる内に 三間の板屋を作て、押籠參らせ、守護の武士には、原田の大夫種直ばかりぞ候ける。輙う人の參通ふべき事も無れば、童部は、籠の御所とぞ申ける。聞も忌々しう怖しかりし事共也。法皇今は世の政しろしめさばやとは、露も思召しよらず、唯山々寺々修行して、御心の儘に慰ばやとぞ仰せける。凡平家の惡行に於ては悉く極りぬ。去ぬる安元より以降、多くの卿相、雲客、或は流し、或は失ひ、關白流し奉り、我聟を關白になし、法皇を城南の離宮に遷し奉り、第二の皇子、高倉宮を討ち奉り、今殘る所の都遷なれば、か樣にしたまふにやとぞ人申ける。 都遷は先蹤なきに非ず。神武天皇と申すは、地神五代の帝、彦波瀲武うが草葺不合尊の第四の王子、御母は玉依姫、海人の娘也。神の代十二代の跡を受け、人代百王の帝祖也。辛酉の歳、日向國宮崎郡にして、皇王の寶祚を繼ぎ、五十九年と云し己未歳十月に東征して、豐葦原中津國に留り、此比大和國と名づけたる畝傍の山を點じて、帝都をたて橿原の地を切掃て、宮室を作り給へり。是を橿原の宮と名づけたり。其より以降、代々の帝王、都を他國他所へ遷さるゝ事三十度に餘り、四十度に及べり。神武天皇より、景行天皇まで十二代には、大和國郡々に都を立て、他國へは終に移れず。然るを成務天皇元年に近江國に移て、志賀郡に都を立つ。仲哀天皇二年に、長門國に移て、豐浦郡に都を立つ。其國の彼都にて、御門隱れさせ給しかば、后神功皇后御世を請取らせ給ひ、女體として、鬼界、高麗、契丹まで、責從へさせ給ひけり。異國の軍を靖めさせ給ひて、歸朝の後筑前國三笠郡にして、皇子御誕 生、其所をば宇美宮とぞ申たる。かけまくも忝なく、八幡の御事是なり。位に即せ給ひては、應神天皇とぞ申ける。其後神功皇后は、大和國に移て、磐余稚櫻宮に御座す。應神天皇は同國輕島明宮に住せ給ふ。仁徳天皇元年に、津國難波に移て、高津宮に御座す。履仲天皇二年に、大和國に移て、十市郡に都を立つ。反正天皇元年に、河内國に移て、柴垣宮に住せ給ふ。允恭天皇四十二年に又大和國に移て、飛鳥のあすかの宮におはします。雄略天皇二十一年に、同國泊瀬朝倉に宮居し給ふ。繼體天皇五年に、山城國綴喜に移て、十二年、其後乙訓に宮居し給ふ。宣化天皇元年に、又大和國に歸て、檜隈入野宮におはします。孝徳天皇大化元年に、攝津國長柄に移て、豐崎宮に住せ給ふ、齊明天皇二年、又大和國に歸て、岡本宮におはします。天智天皇六年に、近江國に移て、大津宮に住せ給ふ、天武天皇元年に、猶大和國に歸て、岡本の南の宮に住せ給ふ。是を清見原の御門と申き。持統、文武二代の聖朝は、同國藤原宮におはします。元明天皇より、光仁天皇迄七代は、奈良の都に住せ給ふ。然を桓武天皇、延暦三年十月二日、奈良の京春日の里より、山城國長岡にうつて、十年と云し正月に、大納言藤原小黒丸、參議左大辨紀古佐美、大僧都玄慶等を遣して、當國葛野郡宇多村を見せらるゝに、兩人共に奏して云、此地の體を見るに、左青龍、右白虎、前朱雀、後玄武、四神相應の地なり。尤帝都を定むるに足れりと申す。仍て愛宕郡に御座す賀茂大明神に、告申させ給ひて、延暦十三年十一月廿一日、長岡の京より此京へ移されて後、帝王三十二代、星霜は三百八十餘歳の春秋を送り迎ふ。昔より代々の帝王、國々所々に、多の都を立てら れしかども、かくの如くの勝地は無しとて、桓武天皇殊に執し思食し、大臣公卿諸道の才人等に仰せ合せ、長久なるべき樣とて、土にて八尺の人形を作り、鐡の鎧甲をきせ、同う鐡の弓矢を持せて、東山の嶺に、西向に立てゝ埋まれけり。末代に此都を他國へうつす事あらば、守護神となるべしとぞ御約束ありける。されば天下に事出來んとては、此塚必鳴動す。將軍が塚とて今に在り。桓武天皇と申は平家の曩祖にて御座す。中にも此京をば平安城と名付けて平かに安き都と書り。尤平家の崇べき都也。先祖の御門の、さしも執し思食されたる都を、させる故なく、他國他所へ遷さるゝこそ淺ましけれ。嵯峨皇帝の御時平城の先帝尚侍の勸に依て世を亂り給ひし時、既に此京を他國へ移さんとせさせ給ひしを大臣公卿諸國の人民背き申しかば、移されずして止にき。一天の君萬乘の主だにも移し得給はぬ都を、入道相國、人臣の身として、移されけるぞ怖しき。 舊都はあはれ目出たかりつる都ぞかし。王城守護の鎭守は、四方に光を和げ、靈驗殊勝の寺寺は上下に甍を竝給ひ、百姓萬民煩なく、五畿七道も便あり。されども今は辻々をみな掘切て、車などの輙う行かよふ事もなし。邂逅に行く人も、小車に乘り、道を歴てこそ通けれ。軒を爭し人のすまひ、日を歴つゝ荒行く。家々は賀茂河桂河に壞入れ、筏に組浮べ、資材雜具舟に積み、福原へと運下す。たゞなりに、花の都、田舎になるこそ哀しけれ。何者の爲態にや有けん。舊き都の内裏の柱に二首の歌をぞ書いたりける。 百年を四かへり迄に過來にし、愛宕の里のあれやはてなん。 さきいづる花の都をふりすてて、風ふく原の末ぞあやふき。 同き六月九日、新都の事始め有るべしとて、上卿には徳大寺左大將實定卿、土御門宰相中將通親卿、奉行の辨には、藏人左少辨行隆、官人共召具して、和田の松原の西の野を點じて、九條の地を割れけるに、一條より下五條までは其所あて、五條より下は無りけり。行事官歸り參て、此の由を奏聞す。さらば播磨の印南野か、猶攝津國の兒屋野かなどいふ公卿僉議有しかども、事行べしとも見えざりけり。 舊都をば既にうかれぬ、新都は未事行かず、有とし有る人は、身を浮雲の思をなす。本此所に栖む者は地を失て愁へ、今移る人々は、土木の煩を歎きあへり。惣て只夢の樣なりし事共也。土御門宰相中將通親卿の申されけるは、異國には三條の廣路を開いて、十二の通門を立と見えたり。況や五條迄有ん都に、などか内裏を立ざるべき。且々里内裏造るべき由、議定有て、五條大納言國綱卿、臨時に周防國を賜て、造進せらるべき由、入道相國計ひ申されけり。此國綱卿は大福長者にておはすれば、造出れん事、左右に及ばねども、如何が國の費え民の煩ひ無るべき。指當る大事、大嘗會などの行はるべきを差置いて、かゝる世の亂に遷都造内裏、少も相應せず。古の賢き御代には、即内裏に茨を葺き、軒をだにも調へず、煙の乏きを見給ふ時は、限有る御貢物をも許れき。是即民を惠み、國を扶け給ふに依て也。楚、章華臺を立て黎民をあらけ、秦、阿房殿を起して、天下亂ると云へり。茅茨剪ず、采椽けづらず、舟車飾ず、衣服文無ける世も有けん物を。されば唐の太宗は、驪山宮を造て、民の費 えをや憚せ給けん、遂に臨幸なくして、瓦に松生ひ、墻に蔦茂て止にけるには、相違かなとぞ人申ける。 -------------------------------------------------------------------------------- 月見 六月九日、新都の事始、八月十日上棟、十一月十三日遷幸と定めらる。舊き都は荒行ば、今の都は繁昌す。淺ましかりける夏も過ぎ、秋にも既に成にけり。やう/\秋も半に成行ば、福原の新都にまします人々、名所の月を見んとて、或は源氏の大將の昔の迹を忍つゝ、須磨より明石の浦傳ひ、淡路のせとを押渡り、繪島が磯の月を見る。或は白良、吹上、和歌の浦、住吉、難波、高砂、尾上の月の曙を、詠て歸る人も有り。舊都に殘る人々は、伏見廣澤の月を見る。 其中にも徳大寺左大將實定卿は、舊き都の月を戀て、八月十日餘に、福原よりぞ上り給ふ。何事も皆變り果て、稀に殘る家は、門前草深して、庭上露滋し。蓬が杣淺茅が原、鳥のふしどと荒果て、蟲の聲々恨つゝ、黄菊紫蘭の野邊とぞ成にける。故郷の名殘とては、近衞河原の大宮ばかりぞまし/\ける。大將其御所に參て、先隨身に、惣門を叩せらるるに、内より女の聲して、「誰そや蓬生の露打拂ふ人もなき處に。」と咎れば、「福原より大將殿の御參り候。」と申す。「惣門は鎖のさゝれて候ぞ。東面の小門より入せ給へ。」と申ければ、大將「さらば」とて、東の門より參られけり。大宮は御つれ%\に、昔をや思召出でさせ給ひけん、南面の 御格子開させて御琵琶遊されける處に、大將參られたりければ、「如何に夢かや現か、是へ是へ。」とぞ仰せける。源氏の宇治の巻には、優婆塞宮の御娘、秋の名殘を惜み、琵琶を調べて、夜もすがら心を澄し給しに、有明の月の出けるを、堪ずや思ほしけん、揆にて招き給ひけんも、今こそ思ひ知られけれ。 待宵の小侍從といふ女房も、此御所にてぞ候ける。此女房を、待宵と申ける事は、或時御所にて、「待宵、歸る朝、何れかあはれは勝る。」と御尋ありければ、 待宵のふけゆく鐘の聲聞けば、歸るあしたの鳥はものかは。 と讀たりけるに依てこそ、待宵とは召されけれ。大將彼女房呼出し、昔今の物語して、小夜もやう/\更行けば、ふるき都のあれゆくを今樣にこそうたはれけれ。 舊き都を來て見れば淺茅が原とぞ荒にける、月の光はくまなくて秋風のみぞ身にはしむ。 と三反歌ひすまされければ、大宮を始め參せて、御所中の女房達、皆袖をぞ濕されける。 去程に夜も明ければ、大將暇申て、福原へこそ歸られけれ。御伴に候藏人を召て、「侍從が餘に名殘惜げに思ひたるに、汝歸て何とも云てこそ。」と仰せければ、藏人走り歸て、「『畏申せ』と候。」とて 物かはと君が云けん鳥の音の、今朝しもなどか悲かるらん。 女房涙を押へて、 またばこそ深行く鐘も物ならめ、あかぬわかれの鳥の音ぞうき。 藏人歸り參て、此由を申たりければ、「さればこそ汝をば遣つれ。」とて、大將大に感ぜられけり。其よりしてこそ物かはの藏人とはいはれけれ。 -------------------------------------------------------------------------------- 物怪之沙汰 福原へ都を移されて後、平家の人々夢見も惡う、常は心噪ぎのみして、變化の者共多かりけり。或夜入道の臥給へる所に、一間にはゞかる程の物の面出來て、覗奉る。入道相國ちとも噪がず、ちやうとにらまへておはしければ、只消に消失ぬ。岡の御所と申は、新しう造られたれば、然べき大木もなかりけるに、或夜大木の倒るゝ音して、人ならば二三十人が聲して、どと笑ふ事ありけり。是は如何樣にも天狗の所爲と云ふ沙汰にて、蟇目の當番と名附て、夜百人晝五十人番衆をそろへて蟇目を射させらるるに、天狗の在る方へ向いて射たる時は、音もせず、又無い方へ向いて射たるとおぼしき時は、はと笑などしけり。 又或朝入道相國帳臺より出で、妻戸をおしひらいて、坪の内を見給へば、死人の髑髏共が幾らと云ふ數も知らず、庭にみち/\て、上に成り、下に成り、轉合轉退き、端なるは中へ轉び入り、中なるは端へ出づ。おびたゞしうからめき合ければ、入道相國、「人や有る/\。」と召されけれども折節人も參らず。かくして多くの髑髏どもが一つに固まりあひ、坪の内にはゞかる程に成て、高さ十四五丈も有らんと覺ゆる山の如くに成にけり。彼一つの大頭に生 たる人の眼の樣に大の眼共が千萬出きて、入道相國をちやうとにらまへて、またゝきもせず。入道少も噪がず。ちやうとにらまへて立たれたり。彼大頭餘りに強く睨まれ奉り、霜露などの日に當て消る樣に、跡かたもなく成にけり。其外に一の御厩に立てて、舎人數多付けられ、朝夕隙なく撫飼れける馬の尾に、一夜の中に鼠巣をくひ、子を生だりける。是唯事にあらずとて陰陽師に占はせられければ重き御愼とぞ申ける。此御馬は、相摸國の住人大庭三郎景親が、東八箇國一の馬とて、入道相國に參らせたり。黒き馬の額白かりけり。名をば望月とぞ付られたる。陰陽頭安倍泰親給はりけり。昔天智天皇の御時、寮の御馬の尾に、一夜の中に鼠巣をくひ、子を産だりけるには、異國の凶賊蜂起したりけるとぞ、日本紀には見えたる。 又源中納言雅頼卿の許に候ける青侍が見たりける夢も、怖しかりけり。譬へば大内の神祇官とおぼしき所に、束帶正しき上臈達數多おはして、議定の樣なる事の有しに、末座なる人の、平家の方人すると覺しきを、其中より追立らるゝ。彼の青侍夢の心に「あれは如何なる上臈にてましますやらん。」と或老翁に問ひ奉れば「嚴島の大明神」と答へ給ふ。其後座上に氣高げなる宿老のましましけるが、「此日來平家の預りたる節刀をば今は伊豆國の流人、頼朝に賜ばうずるなり。」と仰せられければ、其御傍に猶宿老のまし/\けるが、「其後は我孫にも給候へ。」と仰せらるゝといふ夢を見て是を次第に問ひたてまつる。「節刀を頼朝に給うと仰られつるは、八幡大菩薩、其後には我孫にも給び候へと仰られつるは、春日大明神、かう申す老翁 は、武内の大明神。」と仰らるゝと云ふ夢を見て、是を人に語る程に入道相國洩聞いて、源大夫判官季貞を以て雅頼卿のもとへ、「夢見の青侍急ぎ是へ給べ。」と宣ひ遣されたりければ、彼夢見たる青侍、やがて逐電してんげり。雅頼卿、急ぎ入道相國の許に行向て、「全くさる事候はず。」と、陳じ申されければ、其後沙汰も無りけり。それにふしぎなりし事には清盛公いまだ安藝守たりし時神拜のついでに靈夢をかうぶて嚴島の大明神よりうつゝにたまはれたりし銀のひるまきしたる小長刀つねの枕をはなたず、たてられたりしが、ある夜俄にうせにけるこそふしぎなれ。平家日比は朝家の御固にて、天下を守護せしかども、今は勅命に背けば、節刀をも召返さるゝにや、心細うぞ聞えし。中にも高野に坐ける宰相入道成頼、か樣の事共を傳へ聞て、「すは平家の代は、やう/\末に成ぬるは、嚴島大明神の、平家の方人し給ひけると云ふは其謂れ有り。但し其れは沙羯羅龍王の第三の姫宮なれば、女神とこそ承れ。八幡大菩薩の節刀を頼朝に給うと仰せられけるは理なり。春日大明神の其後は我孫にも給び候へと被仰けるこそ心得ね。其も平家亡び、源氏の世盡なん後、大織冠の御末、執柄家の君達の、天下の將軍に成給べきか。」などぞ宣ける。又或僧の折節來たりけるが申けるは、「夫神明は和光垂跡の方便區々にましませば、或時は俗體とも現じ、或時は女神とも成り給ふ。誠に嚴島の大明神は女神とは申しながら、三明六通の靈神にてましませば俗體に現じ給はんも、難かるべきにあらず。」とぞ申ける。うき世を厭ひ眞の道に入ぬれば、偏に後世菩提の外の世の營み有まじき事なれども、善政を聞ては感じ、愁を聞ては歎く、是皆人間の習也。 -------------------------------------------------------------------------------- 早馬 同九月二日、相摸國の住人、大庭三郎景親、福原へ早馬を以て申けるは、「去ぬる八月十七日、伊豆國の流人、前右兵衞佐頼朝、舅北條四郎時政を遣して、伊豆の目代、和泉判官兼高を、やまきの館にて夜討に討候ぬ。其後土肥、土屋、岡崎を始として三百餘騎、石橋山に楯籠りて候處に、景親、御方に志を存ずる者共一千餘騎を引率して、押寄せ責候程に、兵衞佐七八騎に打成れ、大童に戰ひなて、土肥の杉山へ逃籠候ぬ。其後畠山五百餘騎で、御方を仕る。三浦大介義明が子共、三百餘騎で源氏方をして、湯井小坪の浦で戰ふに、畠山軍にまけて、武藏國へ引退く。其後畠山が一族、河越、稻毛、小山田、江戸、葛西惣じて其外七黨の兵共、三千餘騎を相具して、三浦衣笠の城に押寄て攻め戰ふ。大介義明討たれ候ぬ。子どもは皆栗濱の浦より舟に乘り、安房、上總へ渡り候ぬ。」とこそ申たれ。 平家の人々、都移も早興醒ぬ。若き公卿殿上人は、「哀疾、事の出來よかし、討手に向はう。」など云ぞはかなき。畠山庄司重能、小山田別當有重、宇都宮左衞門朝綱、大番役にて、折節在京したりけり。畠山申けるは、「僻事にてぞ候らん。親う成て候なれば、北條は知り候はず。自餘の輩は、よも朝敵が方人をば仕候はじ。今聞召直んずるものを。」と申ければ、「實にも」と云人も有り、「いや/\只今天下の大事に及びなんず。」とささやく者も多かりけり。入道相國怒られける樣斜ならず。「頼朝をば既に死罪に行はるべかりしを、故池殿の強に歎き宣ひ し間、流罪に由宥めたり。然るに其恩忘て、當家に向て弓を引くにこそあんなれ。神明三寶も、爭か赦させ給ふべき。只今天の責め蒙らんずる頼朝也。」とぞ宣ける。 -------------------------------------------------------------------------------- 朝敵揃 夫れ我朝に朝敵の始めを尋ぬれば日本磐余彦尊の御宇四年、紀州名草郡、高雄村に一つの蜘蛛有り、身短く足手長くて、力人に勝れたり。人民多く損害せしかば、官軍發向して、宣旨を讀かけ、葛の網を結で、終に是を掩ひ殺す。其より以降野心を狹んで、朝威を滅んとする輩、大石の山丸、大山王子、守屋の大臣、山田の石河、蘇我の入鹿、大友の眞鳥、文屋の宮田、橘の逸勢、氷上の川繼、伊豫の親王、太宰少貳藤原の廣嗣、惠美の押勝、早良の太子、井上の皇后、藤原仲成、平將門、藤原純友、安倍貞任、對馬守源義親、惡佐府、惡衞門督に至る迄、すべて廿餘人。され共一人として、素懷を遂ぐる者なし。尸を山野に曝し、頭を獄門に懸らる。 此世にこそ王位も無下に輕けれ。昔は宣旨を向て讀ければ、枯たる草木も花咲き實なり、飛鳥も隨ひけり。中頃の事ぞかし、延喜御門神泉苑に行幸在て、池の汀に鷺の居たりけるを、六位を召て、「あの鷺取て參らせよ。」と仰ければ、爭か取らんと思けれ共、綸言なれば歩み向ふ。鷺も羽つくろひして立んとす。「宣旨ぞ。」と仰すれば、ひらんで飛去らず。是を取て參りたり。「汝が宣旨に隨て、參りたるこそ神妙なれ。やがて五位に成せ。」とて、鷺を五位にぞ成されける。「今日より後は鷺のなかの王たるべし。」と云ふ札を遊し、頸にかけて放たせ給ふ。全 く鷺の御料には非ず、唯王威の程を知召んが爲也。 -------------------------------------------------------------------------------- 咸陽宮 又先蹤を異國に尋るに、燕の太子丹と云者、秦の始皇帝に囚はれて、戒を蒙る事十二年、太子丹涙を流いて申けるは、「我本國に老母有り、暇を給はて彼を見ん。」と申せば、始皇帝あざ笑て、「汝に暇を給ん事は馬に角生ひ、烏の頭の白く成んを待つべし。」燕丹天に仰ぎ地に俯て、「願くは馬に角生ひ、烏の頭白く成ぬを待つべし。」燕丹天に仰ぎ地に俯て、「願くは馬に角生ひ、烏の頭白くなしたべ。故郷に歸て、今一度母を見ん。」とぞ祈ける。彼妙音菩薩は、靈山淨土に詣して、不孝の輩を戒め、孔子、顏囘は、支那震旦に出て、忠孝の道を始め給ふ。冥顯の三寶、孝行の志を憐み給ふ事なれば、馬に角生て宮中に來り、烏の頭白く成て庭前の木に栖りけり。始皇帝、烏頭馬角の變に驚き、綸言返らざる事を信じて、太子丹を宥つゝ、本國にこそ歸されけれ。始皇猶悔みて、秦の國と燕の國の境に、楚國と云ふ國有り。大なる河流れたり。彼の河に渡せる橋をば楚國の橋と云へり。始皇官軍を遣て、燕丹が渡らん時、河中の橋を蹈まば落る樣に認めて、燕丹を渡らせけるに、何かは落入らざるべき。河中へ落入ぬ。されども、ちとも水にも溺れず、平地を行如して、向の岸へ著にけり。こは如何にと思ひて、後を顧ければ、龜共が幾らと云ふ數も知らず、水の上に浮れ來て、甲を竝てぞ歩ませたりける。是も孝行の志を冥顯憐給ふに依て也。 太子丹恨を含んで、又始皇帝に隨はず。始皇官軍を遣して、燕丹をうたんとし給ふに、燕丹 怖れ慄き、荊軻と云ふ兵を語らうて、大臣になす。荊軻又田光先生と云ふ兵を語らふ。かの先生申けるは、「君は此身が若う盛なし事を知召されて憑仰らるゝか。麒麟は千里を飛べども、老ぬれば駑馬にも劣れり。今は如何にも叶ひ候まじ。兵をこそ語らうて參せめ。」とて歸らんとする處に、荊軻、「此事穴賢、人に披露すな。」と言ふ。先生申けるは、「人に疑はれぬるに過たる恥こそ無けれ。此事漏ぬる物ならば、我疑がはれなんず。」とて、門前なる李の樹に首を突當て、打碎いてぞ死にける。又樊於期と云ふ兵有り。是は秦國の者なり。始皇の爲に、父伯叔兄弟を滅されて、燕の國に迯籠れり。秦皇四海に宣旨を下いて、「樊於期が頭はねて參らせたらん者には、五百斤の金を與へん。」と披露せらる。荊軻是を聞き、樊於期が許にゆいて、「我れ聞く。汝が頭を五百斤の金に報ぜらる。汝が首我にかせ、取て始皇帝にたてまつらん。悦んで叡覧を歴られん時、劍を拔き胸を刺んに易かりなん。」と云ひければ、樊於期跳上り、大息ついて申けるは、「我親伯叔兄弟を始皇の爲に滅されて、夜晝これを思ふに、骨髄に徹て忍びがたし。げにも始皇帝を滅すべくば、首を與へん事、塵芥よりも尚易し。」とて、手づから首を切てぞ死にける。 又秦舞陽と云ふ兵有り。是も秦の國の者なり。十三の歳敵を討て、燕の國に迯籠れり。ならびなき兵也。彼が嗔て向ふ時は、大の男も絶入す。又笑で向ふ時は、みどり子も抱かれけり。是を秦の都の案内者に語らうて具してゆく程に、或片山の邊に宿したりける夜、其邊近き里に管絃をするを聞て、調子を以て本意の事を占ふに、敵の方は水也、我方は火也。さる程に 天も明ぬ。白虹日を貫て通らず。「我等が本意遂ん事、有がたし。」とぞ申ける。 さりながら歸るべきにもあらねば、始皇の都咸陽宮に到りぬ。燕の指圖竝に樊於期が首持て參りたる由を奏しければ、臣下を以て請取らんとし給ふ。「全く人しては參せじ、直に上まつらん。」と奏する間、「さらば。」とて、節會の儀を調て、燕の使を召されけり。咸陽宮は、都のめぐり一萬八千三百八十里に積れり。内裏をば地より三里高く築上て、其上に立たり。長生殿不老門有り、金を以て日を作り、銀を以て月を作れり。眞珠の砂、瑠璃の砂、金の砂を布充てり。四方には高さ四十丈の鐵の築地を築き、殿の上にも同く鐵の網をぞ張たりける。是は冥途の使を入じと也。秋は田面の鴈、春はこしぢへ歸るにも、飛行自在の障有れば、築地には鴈門と名附て、鐵の門を開てぞ通しける。其中にも阿房殿とて、始皇の常は行幸成て、政道行はせ給ふ殿有り。高さは三十六丈、東西へ九町、南北へ五町、大床の下は、五丈の旗矛を立たるが、猶及ぬ程也。上は瑠璃の瓦を以て葺き、下は金銀にて磨きけり。荊軻は燕の指圖を持ち、秦舞陽は樊於期が首を持て、玉の階をのぼりあがる。餘に内裏のおびたゞしきを見て、秦舞陽わな/\と振ひければ、臣下怪みて「舞陽謀反の心在り。刑人をば君の側に置かず、君子は刑人に近づかず、刑人に近づくは則死を輕んずる道也。」と云へり、荊軻立歸て「舞陽全く謀反の心なし。唯田舎の賤しきにのみ習て、皇居に馴ざる故に、心迷惑す。」と申ければ、臣下みな先靜りぬ。仍て王にちかづき奉る。燕の指圖ならびに樊於期が首見參にいるゝところに指圖の入たる櫃の底に、氷の樣なる劍の見えければ、始皇帝是を見て、や がて逃んとし給ふ。荊軻王の御袖をむずと引へて、劍を胸に差當たり。今はかうとぞ見えたりける。數萬の兵庭上に袖を列ぬと云へども、救んとするに力なし。只君逆臣に犯れ給ん事をのみ悲み合り。始皇のたまはく、「われに暫時の暇を得させよ。朕が最愛の后の琴の音を、今一度聞ん。」と宣へば、荊軻暫は侵し奉らず。始皇は三千人の后を持給へり。其中に華陽夫人とて、勝れたる琴の上手坐けり。凡此后の琴の音を聞ては、猛き武士の怒れるも和ぎ、飛鳥も落ち、草木も颱ぐ程なり。況や今を限の叡聞に備んと、泣々彈給ひけん、さこそは面白かりけめ。荊軻も頭を低れ、耳をそばだてて謀臣の思も怠にけり。其時后始めて更に一曲を奏す。「七尺の屏風は高くとも、跳らばなどか越ざらん。一條の羅穀は勁くとも、引かばなどかは絶ざらん。」とぞ彈給ふ。荊軻はこれを聞知ず、始皇は聞知て、御袖を引切り、七尺の屏風を飛超えて、銅の柱の陰に迯隱れさせたまひぬ。荊軻怒て、劍を投懸奉る。折節御前に番の醫師の候けるが、藥の袋を荊軻が劍に投合せたり。劍藥の袋を懸られながら、口六尺の銅の柱を、半迄こそ切たりけれ。荊軻又劍を持ねば、續いても投ず。王立歸て、わが劍を召寄て、荊軻を八裂にこそし給ひけれ。秦舞陽も討れにけり。官軍を遣して燕丹を亡さる。蒼天宥し給はねば、白虹日を貫いて通らず、秦始皇は遁れて、燕丹終に亡にき。されば今の頼朝もさこそは有らんずらめと、色代する人々も有けるとかや。 -------------------------------------------------------------------------------- 文學荒行 抑彼頼朝と申は、去る平治元年十二月、父左馬頭義朝が謀反に依て、年十四歳と申し永暦元年三月廿日、伊豆國蛭島へ流されて、二十餘年の春秋を送り迎ふ。年來も有ばこそ有けめ、今年如何なる心にて、謀反をば起されけるぞと云ふに、高雄の文學上人の申勸められたりけるとかや。彼文學と申は、本は渡邊の遠藤左近將監茂遠が子、遠藤武者盛遠とて、上西門院の衆也。十九の年道心發し出家して、修行にいでんとしけるが、「修行といふは、いか程の大事やらん、試いて見ん。」とて、六月の日の草もゆるがず光たるに、片山の藪の中に這いり、仰のけに伏し、虻ぞ、蚊ぞ、蜂蟻など云ふ毒蟲共が身にひしと取附て螫食などしけれども、ちとも身をも動かさず、七日迄は起上らず。八日と云ふに起上て、「修行と云ふは、是程の大事か。」と人に問へば、「其程ならんには、爭か命も生べき。」と言ふ間、「さては安平ごさんなれ。」とて、軈て修行にぞ出にける。 熊野へ參り、那智籠せんとしけるが、行の試みに、聞ゆる瀑に暫くうたれて見んとて、瀑下へぞ參りける。比は十二月十日餘の事なれば、雪降積り、つらゝいて、谷の小川も音もせず、峯の嵐吹凍り、瀑の白絲垂氷と成り、皆白妙に押竝べて、四方の梢も見え分かず。然るに文學瀑壺に下浸り、頸際漬て、慈救の咒を滿けるが、二三日こそ有けれ、四五日にも成ければ、堪へずして文學浮あがりにけり。數千丈漲り落る瀑なれば、なじかはたまるべき。さとおとされて、刀の刃の如くに、さしも嚴き岩角の中を、浮ぬ沈ぬ、五六町こそ流れたれ。時にうつくしげなる童子一人來て、文學が左右の手を取て引上給ふ。人奇特の思を成し、火を燒 きあぶりなどしければ、定業ならぬ命では有り、ほどなく息いでにけり。文學少し人心地いできて、大の眼を見怒かし「我此瀑に三七日打れて、慈救の三洛叉を滿うと思ふ大願有り。今日は纔に五日になる。七日だにも過ざるに、何者が爰へはとて來たるぞ。」と言ければ、見る人身の毛よだて物いはず。又瀑壺に歸り立て打れけり。 第二日と云に、八人の童子來て、引上んとし給へども、散々に抓合うて上らず。第三日と云に、文學終にはかなくなりにけり。瀑壺を穢さじとや、鬟結うたる天童二人、瀑の上より下降り、文學が頂上より手足の爪さき手裏に至る迄、よに煖に香き御手を以て、撫下給ふと覺えければ夢の心地して息出ぬ「抑如何なる人にてましませば、かうは憐給ふらん。」と問奉る。「我は是大聖不動明王の御使に、金迦羅、逝多伽と云ふ二童子也。文學無上の願を發して勇猛の行を企つ、行て力を合すべしと、明王の勅に依て、來れる也。」と答へ給ふ。文學聲を怒らかして、「さて明王は何くにましますぞ。」「兜率天に。」と答へて、雲井遙に上り給ひぬ。掌を合せて是を拜したてまつる。「されば、我行をば、大聖不動明王までも知召れたるにこそ。」と、頼もしう覺えて、猶瀑壺に歸立て打れけり。誠に目出たき瑞相ども在ければ、吹來る風も身に入ず、落來る水も湯の如し。かくて三七日の大願終に遂げにければ、那智に千日籠り、大峯三度、葛城二度、高野、粉川、金峯山、白山、立山、富士の嶽、伊豆、箱根、信濃の戸隱、出羽の羽黒、惣じて日本國殘る所なく行廻て、さすが猶故郷や戀しかりけん、都へ歸上たりければ、凡そ飛鳥も祈落す程の、やいばの驗者とぞ聞えし。 -------------------------------------------------------------------------------- 勸進帳 後には、高雄と云ふ山の奧に、行ひすましてぞ居たりける。彼高雄に神護寺と云ふ山寺有り。昔稱徳天皇の御時、和氣清麿が建たりし伽藍也。久く修造無りしかば、春は霞に立籠られ、秋は霧に交り、扉は風に倒て、落葉の下に朽ち、甍は雨露に侵れて、佛壇更に顯也。住持の僧も無れば稀に差入物とては、月日の光ばかり也。文學是を如何にもして、修造せんといふ大願を起し、勸進帳を捧て、十方檀那を勸めありきける程に、或時院の御所法住寺殿へぞ參りたりける。御奉加有るべき由奏聞しけれども、御遊の折節で、聞召も入れられず。文覺は天性不敵第一の荒聖なり。御前の骨、内證をば知らず、只申入ぬぞと心得て、是非なく御坪の内へ破り入り、大音聲を揚て申けるは、「大慈大悲の君にておはします、などか聞召入れざるべき。」とて、勸進帳を引廣げ、高らかにこそ讀だりけれ。 沙彌文學敬白す。殊には貴賤道俗の助成を蒙て、高雄山の靈地に一院を建立し、二世安樂の大利を勤行せんと請ふ勸進の状夫以れば、眞如廣大なり。生佛の假名を斷つと云へども、法性隨妄の雲厚く覆て、十二因縁の峰に並び居しより以降、本有心蓮の月の光幽にして、未だ三徳四曼の大虚に現はれず。悲哉。佛日早く沒して、生死流轉の衢冥々たり。只色に耽り酒に耽る。誰か狂象跳猿の迷を謝せん。徒に人を謗し法を謗す。豈閻羅獄卒の責を免れんや。爰に文學適俗塵 を打拂て、法衣を飾と云へ共、惡行猶心に逞して、日夜に造り、善苗又耳に逆て朝暮に廢る。痛哉。再度三塗の火坑に歸て、永く四生の苦輪に廻らん事を。此故に無二の顯章千萬軸、軸々に佛種の因を明す、隨縁至誠の法、一として菩提の彼岸に至らずといふ事なし。故に文學無常の觀門に涙を落し、上下の眞俗を勸めて、上品蓮臺に歩を運び、等妙覺王の靈場を建んとなり。抑高雄は山堆くして、鷲峯山の梢を表し、谷閑にして商山洞の苔を敷けり。巖泉咽んで布を引き、嶺猿叫んで枝に遊ぶ。人里遠うして囂塵なし、咫尺好して信心のみあり。地形勝れたり、尤佛天を崇むべし。奉加少しきなり、誰か助成せざらん。風に聞く、聚沙爲佛塔功徳忽に佛因を感ず。況や一紙半錢の寶財に於てをや。願くは建立成就して金闕鳳歴御願圓滿、乃至都鄙遠近隣民親疎、堯舜無爲の化をうたひ、椿葉再會の笑を開かん。殊には又聖靈幽儀先後大小、速に一佛眞門の臺に至り、必ず三身萬徳の月を翫ばん。仍て勸進修行の趣、蓋以如此。 治承三年三月 日  文學 とこそ讀上たれ。 -------------------------------------------------------------------------------- 文學被流 折節御前には、太政大臣妙音院、琵琶掻鳴し朗詠目出度うせさせ給。按察大納言資方卿拍子取て風俗、催馬樂歌はれけり。右馬頭資時、四位侍從盛定、和琴掻鳴し、今樣とり%\に歌 ひ、玉の簾、錦の帳の中さゞめき合ひ、誠に面白かりければ、法皇も附歌せさせ坐します。其に文學が大音聲出來て、調子も違ひ、拍子も皆亂にけり。「何者ぞ。そ頸突け。」と仰下さるる程こそ有けれ。はやりの若者共、我も我もと進ける中に、資行判官と云ふ者、走出でゝ、「何條事申ぞ。罷出よ。」と云ければ、「高雄の神護寺に庄一所寄られざらん程は全く文學いづまじ。」とて動かず。寄てそ頸を突うとしければ、勸進帳を取直し、資行判官が烏帽子を、はたと打て打落し、拳を握て、しや胸を突て、仰に撞倒す。資行判官は、髻放て、おめ/\と大床の上へ迯上る。其後文學懷より、馬の尾で柄巻たる刀の、氷の樣なるを拔出いて、寄來ん者を突うとこそ待懸たれ。左の手には勸進帳、右の手には刀を拔て走りまはる間、思設ぬ俄事では有り、左右の手に刀を持たる樣にぞ見えたりける。公卿殿上人も、こは如何に/\と噪れければ、御遊もはや荒にけり。院中の騒動斜ならず。信濃國の住人、安藤武者右宗、其頃當職の武者所で有けるが、「何事ぞ。」とて、太刀を拔て走出たり。文學悦でかゝる所を、斬ては惡かりなんとや思ひけん、太刀のみねを取直し、文學が刀持たる肘をしたゝかに打つ。打れてちと疼む處に太刀を捨てて「えたりやをう。」と、組だりける。組まれながら文學安藤武者が右の肘を突く。突れながらしめたりけり。互に劣らぬ大力なりければ、上に成り下に成り、轉合ふ所に、賢顏に、上下寄て、文學が動く所のぢやうをがうしてけり。去れ共、是を事ともせず、彌惡口放言す。門外へ引出いて、廳の下部にたぶ。ゐてひはる。ひはられて立ながら、御所の方を睨まへ、大音聲をあげて、「奉加をこそし給はざらめ。是程文學に辛い 目を見せ給ひつれば、思知せ申さんずる物を。三界は皆火宅也。王宮と云ふとも、其難を遁るべからず。十善の帝位に誇たうとも、黄泉の旅に出なん後は、牛頭馬頭の責をば免れ給はじ物を。」と、躍上躍上ぞ申ける。此法師奇怪なりとて、やがて獄定せられたり。資行判官は、烏帽子打落されて恥がましさに、暫は出仕もせず。安藤武者は、文學組だる勸賞に、一臈を歴ずして、右馬允にぞ成されける。さる程に其比美福門院隱れさせ給ひて、大赦有りしかば、文學程なく赦されけり。暫はどこにも行ふべかりしが、さはなくして、又勸進帳を捧て、勸めけるが、さらば唯も無して、「あはれこの世の中は、唯今亂れ、君も臣も皆滅失んずる物を。」など、怖き事のみ申ありく間、「此法師都に置ては叶ふまじ、遠流せよ。」とて伊豆國へぞ流されける。 源三位入道の嫡子、仲綱の其比伊豆守にておはしければ其沙汰として、東海道より船にて下すべしとて、伊勢國へ將て罷りけるに、放免兩三人ぞつけられたる。是等が申けるは、「廳の下部の習、加樣の事についてこそ自らの依怙も候へ。如何に聖の御房、是程の事に逢て、遠國へ流され給ふに、知人は持給はぬか、土産粮料如きの物をも乞給へかし。」といひければ、文學は「左樣の要事いふべき得意も持たず、東山の邊にぞ得意は有る。いでさらば文を遣う。」と云ければ、怪しかる紙を尋て、得させたり。「か樣の紙で物書くやうなし。」とて、投返す。さらばとて、厚紙を尋て得させたり。文學笑て「法師は物をえ書ぬぞ、さらばおれら書け。」とて書するやう、「文學こそ、高雄の神護寺造立供養の志あて勸め候つる程に、かゝる君の代に しも逢て所願をこそ成就せざらめ。禁獄せられて剩へ伊豆國へ流罪せられ候。遠路の間で候。土産粮料如きの物も、大切に候。此使に給べし。」と書けと云ければ、いふ儘に書て、「さて誰殿へとかき候はうぞ。」「清水の觀音房へと書け。」是は廳の下部を欺くにこそ。」と申せば「さりとては文學は觀音をこそ深う憑奉たれ。さらでは誰にかは用事をば言ふべき。」とぞ申ける。 伊勢國阿濃の津より舟に乘て下りけるが、遠江國天龍灘にて、俄に大風吹き大波立て、既に此舟を打覆さんとす。水手梶取共、如何にもして、助らんとしけれども、波風彌荒ければ、或は觀音の名號を唱へ、或は最後の十念に及ぶ。されども、文學は是を事ともせず。高鼾かいて臥したりけるが、何とか思けん、今はかうと覺えける時、かはと起、船の舳に立て、奥の方を睨へ大音聲を揚て、「龍王やある、龍王やある。」とぞ喚だりける。「如何に是程の大願發いたる聖が乘たる船をば過うとはするぞ。唯今天の責蒙んずる龍神共かな。」とぞ申ける。其故にや波風程なく靜て、伊豆國へ著にけり。文學京を出ける日より祈誓する事あり。「我都に歸て、高雄の神護寺造立供養すべくば、死ぬべからず。此願空かるべくば、道にて死ぬべし。」とて、京より伊豆へ著ける迄、折節順風無りければ、浦傳ひ島傳ひして三十一日が間は、一向斷食にてぞ有ける。され共氣力少しも劣へず、行うちして居たりけり。誠に直人とも覺ぬ事共多かりけり。近藤四郎國高といふ者に預けられて、伊豆國奈古屋が奥にぞすみける。 -------------------------------------------------------------------------------- 福原院宣 さる程に兵衞佐殿へ常は參て、昔今の物語ども申て慰む程に、ある時文學申しけるは、「平家には小松大臣殿こそ、心も剛に策も勝て坐しか。平家の運命が末に成やらん、去年八月薨ぜられぬ。今は源平の中に、わどの程將軍の相持たる人はなし。早々謀反起して、日本國隨給へ。」兵衞佐、「思も寄らぬ事宣ふ聖御房哉。我は故池尼御前にかひなき命を助けられ奉て候へば、其後世を弔はん爲に、毎日に法華經一部轉讀する外は他事なし。」とこそ宣けれ、文學重て申けるは「天の與ふるを取ざれば、却て其咎を受く。時至て行はざれば、却て其殃を受と云ふ本文有り。か樣に申せば、御邊の心を見んとて、申など思ひ給か。御邊に志の深い色を見給へかし。」とて、懷より白布に裏だる髑髏を一つ取出す。兵衞佐殿、「あれは如何に。」と宣へば、「是こそわどのの父、故左馬頭殿の頭よ。平治の後、獄舎の前なる苔の下に埋れて、後世弔ふ人も無かりしを、文學存ずる旨有て、獄守に乞て此十餘年頸に懸け、山々寺々拜みまはり、弔ひ奉れば、今は定て一劫もたすかり給ぬらん。去れば、文學は故頭殿の御爲にも、奉公の者でこそ候へ。」と申ければ、兵衞佐殿、一定とは覺ねども、父の頭と聞く懷しさに、先涙をぞ流されける。其後は打解て物語し給ふ。「抑頼朝勅勘を許りずしては、爭か謀反をば起すべき。」と宣へば「それ易い事、やがて上て申許いて奉らん。」「さもさうず、御房も勅勘の身で人を申許さうと宣ふ、あてがひ樣こそ、大に誠しからね。」「吾身の勅勘を許うと申さば こそ僻事ならめ。わどのの事申さうは、何か苦しかるべき。今の都福原の新都へ上らうに、三日に過まじ。院宣伺はうに、一日が逗留ぞ有らんずる。都合七日八日に過ぐべからず。」とてつき出ぬ。奈古屋に歸て、弟子共には、伊豆の御山に人に忍んで、七日參籠の志ありとて出にけり。實にも三日と云に、福原の新都へ上りつゝ前右兵衞督光能卿の許に、聊縁有ければ、其に行いて、「伊豆國の流人、前右兵衞佐頼朝こそ勅勘を許されて、院宣をだにも給はらば、八箇國の家人ども催し集めて、平家を亡し、天下を靜んと申候へ。」兵衞督、「いさとよ、我身も當時は三官共に停られて、心苦しい折節なり。法皇も押籠られて渡せ給へば、如何有んずらん。さりながら伺うてこそ見め。」とて、此由竊に奏せられければ、法皇やがて院宣をこそ下されけれ。聖是を頸にかけ、又三日と云に伊豆國へ下り著く。兵衞佐「あはれ、此聖の御房は、なまじひに由なき事申し出して、頼朝又如何なる憂目にか逢んずらん。」と、思はじ事なう、あんじ續けて坐ける處に八日と云ふ午刻許に下著て、「すは院宣よ。」とて奉る。兵衞佐、院宣と聞く忝さに、手水鵜飼をし、新き烏帽子淨衣著て、院宣を三度拜して披かれけり。 頻の年より以降、平氏王化を蔑如し、政道に憚ることなし。佛法を破滅して朝威を亡さんとす。夫吾朝は神國なり、宗廟相並んで神徳惟新なり。故に朝廷開基の後、數千餘歳の間、帝猷を傾け、國家を危ぶめんとする者、皆以て敗北せずといふことなし。然れば則、且は神道の冥助に任せ、且は勅宣の旨趣を守て、早く平氏の一類を誅して、朝家の怨敵を 退けよ。譜代弓箭の兵略を繼ぎ、累祖奉公の忠勤を抽で、身を立て家を興すべし、てへれば、院宣此の如し。仍執達如件。 治承四年七月十四日 前右兵衞督光能奉 謹上 前右兵衞佐殿 とぞ書かれたる。此院宣をば、錦の袋に入れて、石橋山の合戰の時も、兵衞佐殿頸に懸られたりけるとかや。 -------------------------------------------------------------------------------- 富士川 さる程に、福原には勢の附ぬ先に、急ぎ討手を下べしと公卿僉議有て、大將軍には小松權亮少將維盛、副將軍には薩摩守忠度、都合其勢三萬餘騎、九月十八日に新都を立て、十九日には舊都に著き、やがて廿日東國へこそ討立れけれ。大將軍權亮少將維盛は、生年二十三、容儀帶佩繪に書とも筆も及難し。重代の鎧唐皮と云ふ著せ長をば、唐櫃に入て舁せらる。道中には、赤地の錦の直垂に、萌黄絲威の鎧著て、連錢蘆毛なる馬に、金覆輪の鞍置て乘り給へり。副將軍薩摩守忠度は、紺地の錦の直垂に、黒糸威の鎧著て、黒き馬の太う逞に沃懸地の鞍置て乘り給へり。馬鞍鎧甲弓箭太刀刀に至る迄、光輝く程に出立れたりしかば、めでたかりし見物也。薩摩守忠度は、年來或る宮腹の女房の許へ通はれけるが、或時坐たりけるに、其女房の許へ、止事なき女房客人に來て、良久しう物語し給ふ。小夜も遙に更行く迄に 客人歸り給はず。忠度軒端にしばしやすらひて、扇を荒く遣はれければ、宮腹の女房、「野もせに集く蟲の音よ。」と、優にやさしく口ずさみ給へば、薩摩守やがて遣ひ止て歸られけり。其後又坐たりけるに、宮腹の女房「さても一日、何とて扇をば遣ひ止にしぞや。」ととはれければ、「いさ、かしがましなど聞え候しかば、さてこそ遣ひやみ候しか。」とぞ宣ひける。彼女房の許より忠度の許へ、小袖一重遣すとて、千里の名殘の悲しさに、一首の歌をぞ、贈られける。 東路の草葉をわけん袖よりも、たゝぬ袂の露ぞこぼるゝ。 薩摩守返事には 別路を何かなげかんこえて行く、關もむかしの跡とおもへば。 關も昔の跡と詠る事は、平將軍貞盛、將門追討の爲に、東國へ下向せし事を、思ひ出て讀たりけるにや、最優うぞ聞えし。 昔は朝敵を平げに外土へ向ふ將軍は、先參内して節刀を賜る。宸儀南殿に出御して、近衞階下に陣を引き、内辨外辨の公卿參列して、中儀の節會を行はる。大將軍副將軍各禮儀を正うして、是を給はる。承平天慶の蹤跡も、年久う成て准へ難しとて、今度は讃岐守正盛が、前對馬守源義親追討の爲に、出雲國へ下向せし例とて、鈴ばかり賜て、皮の袋に入て、雜色が頸に懸させてぞ下られける。古朝敵を滅さんとて、都をいづる將軍は、三つの存知有り。節刀を賜はる日家を忘れ、家をいづるとて妻子を忘れ、戰場にして敵に鬪ふ時身を忘る。さ れば今の平氏の大將軍維盛忠度も、定てか樣の事をば存知せられたりけん。あはれなりし事共也。 同二十一日新院又安藝國嚴島へ御幸成る。去る三月にも御幸ありき。其故にや、中一兩月世も目出度治て、民の煩も無りしが、高倉宮の御謀反に依て、又天下亂れて、世上も靜かならず。是に依て、且は天下靜謐の爲、且は聖代不豫の御祈念の爲とぞ聞えし。今度は福原よりの御幸なれば、斗藪の煩も無りけり。手から自から御願文を遊ばいて、清書をば攝政殿せさせおはします。 蓋し聞く、法性雲閑なり。十四十五の月高く晴れ、權化智深く一陰一陽の風旁扇ぐ。夫嚴島の社は稱名普く聞る場、効驗無雙の砌也。遙嶺の社壇を繞る、自大慈の高く峙を彰し、巨海の祠宇に及ぶ、空に弘誓の深廣なる事を表す。夫以れば初庸昧の身を以て忝なく皇王の位を踐む。今賢猷を靈境の群に玩で閑放を射山の居に樂む。然るに竊に一心の精誠を抽で孤島の幽祠に詣、瑞離の下に冥恩を仰ぎ、懇念を凝して汗を流し、寶宮の内に靈託を垂。其告げの心に銘する在り。就中に特に怖畏謹愼の期をさすに、專ら季夏初秋の候に當る。病痾忽に侵し、猶醫術の驗を施す事なし。萍桂頻に轉ず。彌神感の空からざる事を知ぬ。祈祷を求と云へども、霧露散じ難し。しかじ、心府の志を抽でゝ、重て斗藪の行を企てんと思ふ。漠々たる寒嵐の底、旅泊に臥て夢を破り、凄々たる微陽の前、遠路に臨で眼を究む。遂に枌楡の砌に著て、敬て清淨の席をのべ、書寫したて奉る色紙墨字 の妙法蓮華經一部、開結二經、阿彌陀、般若心經等の經、各一巻。手づから自から書寫しまつる金泥の提婆品一巻。時に蒼松蒼柏の陰、共に善理の種を添へ、潮去潮來響空に梵唄の聲に和す。弟子北闕の雲を辭して八亥、涼燠の多くめぐる事なしと云へども、西海の浪を凌ぐ事二度、深く機縁の淺からざる事を知ぬ。朝に祈る客一つにあらず。夕に賽しする者且千也。但尊貴の歸仰多しといへども院中の往詣未聞かず。禪定法皇初めて其儀をのこい給ふ。弟子眇身深運其志、彼嵩高山の月の前には漢武未だ和光の影を拜せず。蓬莱洞の雲の底にも天仙空く垂跡の塵を隔つ。仰願くは大明神、伏乞らくは、一乘經、新に丹祈を照して、唯一の玄應を垂給へ。 治承四年九月二十八日 太上天皇 とぞ遊ばされたる。 さる程に此人々は九重の都を立て、千里の東海に赴かれける。平かに歸上ん事も、まことに危き有樣共にて、或は野原の露に宿をかり、或は高峯の苔に旅寢をし、山を越え河を重ね、日數歴れば、十月十六日には、駿河國清見が關にぞ著給ふ。都をば三萬餘騎で出しかど、路次の兵召具して、七萬餘騎とぞ聞えし。前陣は蒲原富士川に進み、後陣は未手越宇津谷に支へたり。大將軍權亮少將維盛、侍大將上總守忠清を召て「只維盛が存知には、足柄を打越えて坂東にて軍をせん。」と早られけるを上總守申けるは、「福原を立せ給し時、入道殿の御定には、軍をば忠清に任せさせ給へんと仰候しぞかし。八箇國の兵共皆兵衞佐に隨ひついて候なれ ば、何十萬騎か候はん。御方の御勢は七萬餘騎とは申せども、國々の驅武者共也。馬も人も責伏せて候。伊豆駿河の勢の參るべきだにも未見えず候。只富士川を前に當てて、御方の御勢を待せ給ふべうや候らん。」と申ければ、力及ばでゆらへたり。 さる程に、兵衞佐は足柄の山を打越えて、駿河國黄瀬川にこそ著給へ。甲斐信濃の源氏ども馳來て一つになる。浮島が原にて、勢汰あり。廿萬騎とぞ記いたる。常陸源氏佐竹太郎が雜色、主の使に文持て京へ上るを、平家の先陣上總守忠清是を留て、持たる文を奪取り明て見れば、女房の許への文也。苦かるまじとて取せてけり。「抑兵衞佐殿の勢、いか程有ぞ。」と問へば、「凡そ八日九日の道に、はたとつゞいて、野も山も海も河も武者で候。下臈は四五百千迄こそ、物の數をば知て候へ共其より上は知らぬ候。多いやらう少いやらうをば知候はず。昨日黄瀬川にて、人の申つるは、源氏の御勢二十萬騎とこそ申候つれ。」上總守是を聞いて、「あはれ大將軍の御心の延させ給たる程、口惜い事候はず。今一日も先に討手を下させ給ひたらば、足柄の山越えて、八箇國へ御出候はゞ、畠山が一族、大庭兄弟、などか參らで候べき。是等だにも參りなば、坂東には靡かぬ草木も候まじ。」と、後悔すれども甲斐ぞなき。 又大將軍權亮少將維盛、東國の案内者とて、長井齋藤別當實盛を召て、「やや實盛、汝程の強弓精兵、八箇國に如何程有ぞ。」と問ひ給へば、齋藤別當あざ笑て申けるは、「左候へば、君は實盛を大矢と思召し候か。僅に十三束こそ仕り候へ。實盛程射候者は八箇國に幾らも候。大 矢と申す定の者の、十五束に劣て引は候はず、弓の強さも、したゝかなる者五六人して張り候。かゝる精兵共が射候へば、鎧の二三兩をも重ねて、容易う射て徹し候也。大名一人と申は勢の少い定、五百騎に劣るは候はず。馬に乘つれば落る道を知らず。惡所を馳れども、馬を倒さず。軍は又親も討れよ、子も討れよ、死ぬれば乘越々々戰ふ候。西國の軍と申は親討れぬれば孝養し、忌明て寄せ、子討れぬれば、其思ひ歎きに、寄候はず。兵粮米盡ぬれば春は田作り、秋は刈収て寄せ、夏は熱しと云ひ、冬は寒しと嫌ひ候。東國には、惣て其儀候はず。甲斐信濃の源氏共、案内は知て候。富士のすそより搦手にやまはり候らん。かう申せば、君を憶せさせ參せんとて申とや思召し候らん。其儀には候はず。軍は勢には依らず、策に依るとこそ申傳て候へ。實盛今度の軍に命生て再都へ參るべしとも覺候はず。」と申ければ、平家の兵共是を聞て、皆震ひわなゝきあへり。 さる程に、十月二十三日にもなりぬ。明日は源平富士川にて、矢合と定めたりけるに、夜に入て、平家の方より源氏の陣を見渡せば、伊豆駿河の人民百姓等が、軍に怖て、或は野に入り山に隱れ、或は舟に取乘て、海河に浮び、營の火見えけるを、平家の兵共「あなおびただしの源氏の陣の遠火の多さよ。げにも誠に野も山も海も河も、皆敵で有けり。如何せん。」とぞあわてける。其夜の夜半ばかり、富士の沼に幾らもむれ居たりける水鳥共が、何にか驚きたりけん、只一度にはと立ける羽音の、大風雷などの樣に聞えければ、平家の兵共、「すはやげんじの大勢の寄するは。齋藤別當が申つる樣に、定めて搦手もまはるらん。取籠められて は叶ふまじ。爰をば引いて、尾張河、州俣を防げや。」とて、取る物も取敢ず、我先にとぞ落行ける。餘に遽て噪いで弓取る者は矢を知らず、矢取る者は弓を知らず、人の馬には我乘り、わが馬をば人に乘らる。或は繋いだる馬に騎て株を繞る事限なし。近き宿々より迎へ取て遊びける遊君遊女共、或は頭蹴破れ、腰蹈折れて、喚叫ぶ者多かりけり。 あくる二十四日卯の刻に、源氏大勢廿萬騎、富士川に押寄て、天も響き大地も搖ぐ程に、閧をぞ三箇度作りける。 -------------------------------------------------------------------------------- 五節之沙汰 平家の方には、音もせず。人を遣はして見せければ、「皆落て候。」と申す。或は敵の忘たる鎧取て參りたる者も有り。或は敵の捨たる大幕取て參りたる者も有り。「敵の陣には蠅だにも翔り候はず。」と申す。兵衞佐、馬より降り、甲を脱ぎ、手水鵜飼をして、王城の方を伏拜み、「是は全く頼朝が私の高名にあらず、八幡第菩薩の御計也。」とぞ宣ひける。やがて打取る所なればとて、駿河國をば一條次郎忠頼、遠江をば安田三郎義定に預けらる。平家續いても攻べけれども後もさすが覺束なしとて浮島原より引退き、相摸國へぞ歸られける。海道宿々の遊君遊女ども、「あな忌々し。射手の大將軍の矢一つだに射ずして、逃上り給ふうたてさよ。軍には見逃と云事をだに心憂き事にこそするに、是は聞にげし給ひたり。」と笑ひあへり。落書共多かりけり。都の大將軍をば宗盛と云ひ、討手の大將をば權亮と云ふ間、平家をひら屋 によみなして、 ひらやなるむねもりいかにさわぐらん、柱とたのむすけをおとして。 富士河の瀬々の岩こす水よりも、はやくもおつるいせ平氏かな。 上總守たゞきよが、富士河に鎧を捨たりけるを讀めり。 富士河に鎧はすてつ、墨染の衣たゞきよ後の世のため。 たゞきよはにげの馬にぞのりにける、上總鞦かけてかひなし。 同十一月八日、大將軍權亮少將維盛、福原の新都へ上りつく。入道相國大に怒て、「大將軍權亮少將維盛をば鬼界が島へ流すべし、侍大將上總守忠清をば死罪に行へ。」とぞ宣ひける。同九日平家の侍共、老少參會して、「忠清が死罪の事、いかゞ有らん。」と評定す。中に主馬判官盛國進出でて申けるは、「忠清は昔より不覺人とは承り及ばず、あれが十八歳と覺え候、鳥羽殿の寶藏に五畿内の惡黨二人、迯籠て候しを、寄て搦めうと申す者候はざりしに、此忠清白晝に唯一人築地を越え、はね入て、一人をば討取り、一人をば生捕て、後代に名を揚たりし者にて候。今度の不覺は、徒事とも覺え候はず。是に附ても、能々兵亂の御愼候べし。」とぞ申ける。 同十日、大將軍權亮少將維盛、右近衞中將になり給ふ。「討手の大將と聞えしかども、させるし出たる事もおはせず。是は何事の勸賞ぞや。」と人々ささやき合へり。 昔將門追討の爲に、平將軍貞盛、田原藤太秀里、うけ給て坂東へ發向したりしかども、將門 容易う亡難かりしかば、重て討手を下すべしと、公卿僉議あて、宇治民部卿忠文、清原重藤、軍監と云ふ官を給て下られけり。駿河國清見關に宿したりける夜、彼重藤、漫々たる海上を遠見して、「漁舟火影寒うして浪を燒き、驛路鈴聲夜山をすぐ」と云ふ唐歌を高らかに口ずさみ給へば、忠文優に覺えて、感涙をぞ流されける。さる程に將門をば、貞盛秀里が終に討取てけり。其頭を持せて上る程に、清見關にて行逢うたり。其より先後の大將軍打連て上洛す。貞盛秀里に勸賞行はれける時、忠文重藤にも勸賞有べきかと、公卿僉議有り。九條右丞相師輔公の申させ給ひけるは、「坂東へ討手は向うたりと云へども、將門容易う亡ひ難き處に、此人共仰を蒙て、關の東へ赴く時、朝敵既に亡びたり。さればなどか勸賞無るべき。」と申させ給へども、其時の執柄小野宮殿、「『疑しきをば成す事なかれ』と禮記の文に候へば。」とて、遂になさせ給はず。忠文是を口惜事にして、「小野宮殿の御末をば、奴に見なさん。九條殿の御末には、何の世迄も守護神と成ん。」と誓ひつゝ、干死にこそし給ひけれ。されば九條殿の御末は、目出たう榮させ給へども、小野宮殿の御末には、然るべき人も坐さず、今は絶果給ひけるにこそ。 さる程に入道相國の四男、頭中將重衡、左近衞中將に成給ふ。同十一月十三日福原には、内裏造出して、主上御遷幸有り。大嘗會あるべかりしかども、大嘗會は十月の末、東河に御幸して、御禊有り。大内の北の野に齋場所を作て、神服神具を調ふ。大極殿の前、龍尾道の壇下に、迴立殿を建て、御湯をめす。同壇の竝に、大嘗宮を作て、神膳を備ふ。宸宴有り。御 遊有り。大極殿にて大禮有り。清暑堂にて御神樂有り。豊樂院にて宴會あり。然を此福原の新都には、大極殿も無ければ、大禮行ふべき處もなし。清暑堂無れば、御神樂奏すべき樣もなし。豊樂院も無れば、宴會も行はれず。今年は唯新嘗會五節許有るべきよし、公卿僉議有て、猶新嘗の祭をば、舊都の神祇官にして遂られけり。 五節は、淨見原の當時、吉野宮にして、月白く風烈しかりし夜、御心を澄しつゝ琴を彈給しに、神女あま下り、五度袖を飜す。是ぞ五節の始なる。 -------------------------------------------------------------------------------- 都歸 今度の都遷をば、君も臣も御歎有り。山奈良を始て、諸寺諸社に至る迄、然べからざる由一同に訴申間、さしも横紙を破るゝ太政入道も、さらば都還有るべしとて京中ひしめきあへり。 同十二月二日、俄に都還有けり。新都は北は山にそひて高く、南は海近くして下れり。波の音常は喧く、鹽風烈しき所也。されば新院いつとなく、御惱のみしげかりければ、急ぎ福原を出させ給ふ。攝政殿を始奉て、太政大臣以下の公卿殿上人我も/\と供奉せらる。入道相國を始として平家一門の公卿殿上人我先にとぞ上られける。誰か心憂かりつる新都に、片時も殘るべき。去る六月より屋ども壞よせ、資材雜具運び下し、形の如く取立たりつるに、又物狂はしう、都還有ければ、何の沙汰にも及ばず、打捨々々上られけり。各すみかも無く して、八幡、賀茂、嵯峨、太秦、西山、東山の片邊について、御堂のくわい廊、社の拜殿などに、立宿てぞ然るべき人々もましましける。 今度の都遷の本意を如何にと云ふに、舊都は南都北嶺近くして、聊の事にも春日の神木、日吉の神輿など言て亂りがはし。福原は山隔たり江重て、程もさすが遠ければ、左樣の事たやすからじとて、入道相國の計ひ出されたりけるとかや。 同十二月二十三日、近江源氏の背きしを攻んとて、大將軍には左兵衞督知盛、薩摩守忠度、都合其勢二萬餘騎で、近江國へ發向して、山本、柏木、錦古里など云ふ溢れ源氏共一々に皆攻落し、やがて美濃尾張へ越え給ふ。 -------------------------------------------------------------------------------- 奈良炎上 都には又高倉宮園城寺へ入御の時、南都の大衆同心して、剩へ御迎に參る候、是以て朝敵なり。されば南都をも三井寺をも攻らるべしといふ程こそ在けれ、奈良の大衆おびただしく蜂起す。攝政殿より「存の旨あらば、幾度も奏聞にこそ及ばめ。」と仰下されけれ共一切用たてまつらず。有官の別當忠成を御使に下されたりければ、「しや乘物より取て引落せ、髻切れ。」と騒動する間、忠成色を失て迯上る。次に右衞門佐親雅を下さる。是をも「髻切れ。」と大衆ひしめきければ、取る物も取敢ず、逃上る。其時は勸學院の雜色二人が、髻切れけり。 又南都には大なる毬杖の玉作て、是は平相國の頭と名附て、「打て、踏め。」などぞ申ける。 「詞の漏し易は殃を招く媒也。詞の愼まざるは、破れを取る道也。」と云へり。此入道相國と申は、かけまくも忝く當今の外祖にて坐ます。其をか樣に申ける南都の大衆、凡は天魔の所爲とぞ見えたりける。 入道相國か樣の事共傳聞給ひて、爭か好しと思はるべき。且々南都の狼藉を靜めんとて、備中國の住人瀬尾太郎兼康、大和國の檢非所に補せらる。兼康五百餘騎で南都へ發向す。「相構て、衆徒は狼藉を致すとも、汝等は致すべからず。物具なせそ。弓箭な帶しそ。」とて向はれたりけるに、大衆かゝる内議をば知らず、兼康が餘勢六十餘人搦取て、一々に皆頸を斬て、猿澤の池の端にぞ懸竝べたる。入道相國大に怒て、「さらば南都を攻よや。」とて、大將軍には頭中將重衡、副將軍には中宮亮通盛、都合其勢四萬餘騎で南都へ發向す。大衆老少嫌はず七千餘人甲の緒をしめ、奈良坂、般若寺、二箇所の路を掘切て、堀ほり垣楯かき、逆茂木引て待かけたり。平家は四萬餘騎を二手に分て、奈良坂、般若寺、二箇所の城郭に押寄て、鬨をどとつくる。大衆は皆歩立打物なり。官軍は馬にてかけまはしかけまはし、あそここゝに追懸/\指つめ引つめ散々に射ければ、防ぐ所の大衆數を盡いて討れにけり。卯刻に矢合して一日戰ひ暮す。夜に入て、奈良坂、般若寺、二箇所の城郭共に破れぬ。落行く衆徒の中に、坂四郎永覺と云ふ惡僧あり。打物持ても弓箭を取ても力の強さも七大寺十五大寺に勝たり。萌黄威の腹巻の上に、黒絲威の鎧を重てぞ著たりける。帽子甲に五枚甲の緒をしめて、左右の手には茅の葉の樣に反たる白柄の大長刀、黒漆の大太刀持つまゝに、同宿十餘人前後にたて、 てがいの門より打て出でたり。是ぞ暫支たる。多くの官兵、馬の足薙れて討れにけり。されども官軍は大勢にて、入替入替攻ければ、永覺が前後左右に防ぐ所の同宿皆討れぬ。永覺只獨猛けれども、後あらはになりければ、南を指いて落ぞ行く。 夜軍に成て、暗は暗し、大將軍頭中將重衡、般若寺の門の前に打立て、「火を出せ。」と宣ふ程こそ在けれ。平家の勢の中に播磨國の住人福井庄の下司、次郎太夫友方と云ふ者、楯を破り續松にして、在家に火をぞ懸けたりける。十二月二十八日の夜なりければ、風は烈しゝ、火本は一つなりけれども、吹迷ふ風に、多くの伽藍に吹かけたり。恥をも思ひ、名をも惜む程の者は、奈良坂にて討死し、般若寺にて討れにけり。行歩に叶へる者は、吉野十津川の方へ落ゆく。歩も得ぬ老僧や、尋常なる修學者、兒ども、女童部は、大佛殿、山階寺の内へ我先にとぞ迯行ける。大佛殿の二階の上には、千餘人昇り上り、敵の續くを上せじと階をば引てけり。猛火は正う押懸たり。喚叫ぶ聲、焦熱、大焦熱、無間阿鼻のほのほの底の罪人も、是には過じとぞ見えし。 興福寺は淡海公の御願、藤氏累代の寺なり。東金堂に坐ます佛法最初の釋迦の像、西金堂に坐ます自然湧出の觀世音、瑠璃を竝べし四面の廊、朱丹を交へし二階の樓、九輪空に輝きし二基の塔、忽に煙となるこそ悲しけれ。東大寺は常在不滅、實報寂光の生身の御佛と思めし準へて、聖武皇帝、手ら親ら琢き立給ひし金銅十六丈の盧舎那佛、鳥瑟高く顯れて、半天の雲にかくれ、白毫新に拜れ給ひし滿月の尊容も、御頭は燒落て大地に有り、御身は鎔合 て山の如し。八萬四千の相好は、秋の月早く五重の雲に掩隱れ、四十一地の瓔珞は、夜の星空く十惡の風に漂ふ。煙は中天に滿々て、炎は虚空に隙もなし。親りに見奉る者、更に眼を當ず、遙に傳聞く人は、肝魂を失へり。法相三論の法門聖教、總て一巻も殘らず。我朝はいふに及ばず、天竺震旦にも、是程の法滅有るべしともおぼえず。優填大王の紫磨金を瑩き、毘首羯摩が赤栴檀を刻じも、纔に等身の御佛なり。況や是は南閻浮提の中には、唯一無雙の御佛、長く朽損の期あるべしとも覺えざりしに、今毒縁の塵に交て、久く悲を殘し給へり。梵釋四王、龍神八部、冥官冥衆も、驚き騒給ふらんとぞ見えし。法相擁護の春日大明神、如何なる事をか覺しけん。されば春日野の露も色變り、三笠山の嵐の音、恨る樣にぞ聞えける。ほのほの中にて燒死ぬる人數をしるいたりければ、大佛殿の二階の上には一千七百餘人、山階寺には八百餘人、或御堂には五百餘人、或御堂には三百餘人、具に記いたりければ、三千五百餘人なり。戰場にして討るゝ大衆千餘人、少々は般若寺の門に切かけ、少々は頸共持せて都へ上り給ふ。 二十九日、頭中將、南都亡して北京へ歸りいらる。入道相國ばかりぞ、憤晴て喜ばれける。中宮一院上皇攝政以下の人々は、「惡僧をこそ滅すとも、伽藍を破滅すべしや。」とぞ御歎有ける。衆徒の頸ども本は大路を渡いて、獄門の木にかけらるべしと、聞えしかども、東大寺興福寺の亡ぬる淺ましさに沙汰にも及ばず。あそここゝの溝や堀やにぞ捨置ける。聖武皇帝の宸筆の御記文には、「我寺興複せば、天下も興複し、我寺衰微せば、天下も衰微すべし。」 と遊されたり。されば天下の衰微せん事、疑なしとぞ見えたりける。淺ましかりつる年も暮れ、治承も五年に成にけり。 -------------------------------------------------------------------------------- 平家物語卷第六 新院崩御 治承五年正月一日のひ、内裏には、東國の兵革、南都の火災に依て、朝拜停められ、主上出御もなし。物の音も吹鳴さず、舞樂も奏ぜず、吉野の國栖も參らず、藤氏の公卿一人も參ぜられず、氏寺燒失に依て也。二日のひ殿上の宴醉もなし。男女打ひそめて、禁中忌々しうぞ見えける。佛法王法ともに盡ぬる事ぞ淺ましき。一院仰なりけるは、「我れ十善の餘薫に依て萬乘の寶位を保つ。四代の帝王、思へば子也孫也。如何なれば萬機の政務を停められて、空う年月を送らむ。」とぞ御歎有ける。 同五日のひ、南都の僧綱等、闕官せられ、公請を停止し、所職を沒収せらる。衆徒は老たるも若きも、或は射殺され、或は斬殺され、或は煙の中を出でず、炎に咽んで多く亡にしかば、纔に殘る輩は山林に交り、跡を留る者一人もなし。興福寺別當花林院僧正永圓は、佛像經卷の煙とのぼりけるを見て、あな淺ましと、心打騒ぎ、心をくだかれけるより病附て、幾程もなく終に失給ぬ。此僧正は優に情深き人也。或時郭公の鳴を聞いて、 聞く度にめづらしければほとゝぎす、いつも初音の心地こそすれ。 と云歌を詠うで、初音僧正とぞ云れ給ける。 但しかたのやうにても御齋會は在べきにて僧名の沙汰在しに、南都の僧綱は闕官せられぬ、北京の僧綱を以て行はるべきかと公卿僉議あり。さればとて南都をも捨果させたまふべきならねば、三論宗の學生、成法已講が勸修寺に忍つゝ隱れ居たりけるを召出されて、御齋會形のごとくに行はる。上皇は、去去年法皇の鳥羽殿におしこめられさせ給し御事、去年高倉宮の討たれさせ給し御有樣、都遷とて淺間しかりし天下の亂れ、加樣の事共御心苦しう思食されけるより御惱つかせ給ひて、常は煩しう聞えさせ給ひしが、東大寺興福寺の亡びぬるよし聞召されて、御惱彌重らせ給ふ。法皇斜ならず御歎有し程に、同正月十四日六波羅池殿にて、上皇終に崩御成ぬ。御宇十二年、徳政千萬端、詩書仁義の廢ぬる道を興し、理世安樂の絶たる跡を繼給ふ。三明六通の羅漢も免れ給はず、幻術變化の權者も遁ぬ道なれば、有爲無常の習なれども、理過てぞ覺えける。やがて其夜東山の麓、清閑寺へ遷し奉り、夕の煙とたぐへ、春の霞と上らせ給ひぬ。澄憲法印御葬送に參會んと、急ぎ山より下られけるが、はや空しき煙と成らせ給ふを見參せて、 常に見し君が御幸をけふ問へば、かへらぬ旅ときくぞ悲き。 又或女房、君隱させ給ひぬと承て、かうぞ思ひつゞける。 雲の上に行末遠く見し月の、光きえぬときくぞかなしき。 御年廿一。内には十戒を保ち、外には五常を亂らず、禮義を正うせさせ給ひけり。末代の賢 王にて坐ましければ、世の惜み奉る事、月日の光を失へるが如し。かやうに人の願も叶はず、民の果報も拙き人間の境こそ悲けれ。 -------------------------------------------------------------------------------- 紅葉 「ゆうに優う人の思附き參らする方も恐くは延喜天暦の帝と申すとも、爭でか是には勝るべき。」とぞ人申ける。大方は兼王の名を揚げ、仁徳の行を施させまします事も、君御成人の後清濁を分たせ給ひての上の返事にてこそ有るに、此君は無下に幼主の御時より、性を柔和に受させ給へり。去ぬる承安の比ほひ、御在位の始つかた、御年十歳許にも成せ給ひけん、餘に紅葉を愛せさせ給ひて、北の陣に小山を築せ、櫨楓の、色うつくしう紅葉したるを植させて、紅葉の山と名づけて、終日に叡覧有に、猶飽足せ給はず。然を或夜野分はしたなう吹て、紅葉を皆吹散し、落葉頗狼藉なり。殿守の伴の造朝ぎよめすとて、是を悉く掃捨ててけり。殘れる枝、散れる木葉をば掻聚て、風寒じかりけるあしたなれば、縫殿の陣にて、酒煖てたべける薪にこそしてんげれ。奉行藏人、行幸より先にと、急ぎ行て見るに、跡形なし。「如何に。」と問へば、「しか%\。」といふ。藏人大きに驚き、「あな淺まし。君のさしも執し思召されつる紅葉をか樣にしける淺ましさよ。知らず、汝等、只今禁獄流罪にも及び、我身も如何なる逆鱗にか預らんずらん。」と、歎く處に、主上いとゞしく夜のおとゞを出させ給ひも敢ず、かしこへ行幸成て、紅葉を叡覧なるに、無りければ、「如何に。」と御尋有に、藏人 奏すべき方はなし、有の儘に奏聞す。天氣殊に御心好げに打笑せ給ひて、「『林間に酒を煖めて紅葉を燒く』と云ふ詩の心をば、其等には誰が教へけるぞや。優うも仕りける物哉。」とて、却て叡感に預し上は、敢て勅勘無りけり。 又安元の比ほひ、御方違の行幸有しに、さらでだに鶏人曉唱聲、明王の眠を驚す程にも成しかば、何も御寢覺がちにて、つや/\御寢もならざりけり。況や冱る霜夜の烈きには、延喜聖代、國土の民共いかに寒るらんとて、夜のおとゞにして、御衣を脱せ給ける事などまでも思召し出して、我帝徳の至ぬ事をぞ御歎有ける。やゝ深更に及んで、程遠く人の叫ぶ聲しけり。供奉の人々は聞附られざりけれども、主上聞召て、「今叫ぶ者は何者ぞ。きと見て參れ。」と仰ければ、上臥したる殿上人、上日の者に仰す。走り散て尋ぬれば、或辻に、怪の女童のながもちの蓋提て泣にてぞ有ける。「いかに。」と問へば、「主の女房の、院の御所に侍はせ給ふが、此程やうやうにして、したてられつる御裝束が持て參る程に、只今男の二三人詣來て、奪取て罷りぬるぞや。今は御裝束が有ばこそ、御所にもさぶらはせ給はめ。はかばかしう立宿せ給ふべき親い御方も坐さず。此事思ひつゞくるに泣也。」とぞ申ける。さて彼女童を具して參り、此由奏聞しければ、主上聞召て、「あな無慚。如何なる者のしわざにてか有らん。堯の代の民は、堯の心のすなほなるを以て心とするが故に皆すなほ也。今の代の民は、朕が心を以て心とするが故に、かたましき者朝に在て罪を犯す。此吾恥に非ずや。」とぞ仰ける。「さて取られつらん衣は何色ぞ。」と御尋あれば、「然々の色。」と奏す。建禮門院の未中宮にておは しましける時なり。其御方へ、「さやうの色したる御衣や候。」と仰ければ、先のより遙に美きが參たりけるを、件の女童にぞ賜せける。「未夜深し、又さる目にもや逢ふ。」とて、上日の者をつけて、主の女房の局まで送せましましけるぞ忝き。されば怪の賤の男、賤の女に至る迄、只此君千秋萬歳の寶算をぞ祈り奉る。 -------------------------------------------------------------------------------- 葵前 中にも哀成し御事は、中宮の御方に候はせ給ふ女房の召使ける上童、思はざる外、龍顏に咫尺する事有けり。唯尋常の白地にても無して主上常はめされけり。まめやかに御志深かりければ、主の女房も召使はず、却て主の如くにぞいつきもてなしける。そのかみ謠詠にいへることあり。「女を生でもひいさんする事無れ。男を生でも喜歡する事無れ。男は侯にだにも封ぜられず、女は妃たり。」とて、后に立つと云へり。此人女御后とももてなされ、國母仙院ともあふがれなんず。目出たかりける幸かなとて其名をば葵前と云ければ、内々は葵女御などぞささやきける。主上是を聞召て、其後は召ざりけり。御志の盡ぬるには非ず、唯世の謗を憚せ給ふに依て也。されば常に御詠がちにて、夜のおとゞにのみぞ入せ給ふ。 其時の關白松殿、御心苦しき事にこそあんなれ。申慰め參せんとて、急ぎ御參内有て、「さ樣に叡慮にかゝらせ坐さん事、何條事か候べき。伴の女房とく/\召さるべしと覺え候。品尋らるゝに及ばず、基房やがて猶子に仕り候はん。」と奏せさせ給へば、主上「いさとよ。そ こに申事はさる事なれども、位を退て後は、間さるためしもあんなり。正う在位の時、さ樣の事は後代の謗なるべし。」とて、聞召も入ざりけり。關白殿力及ばせ給はず、御涙を抑て、御退出有り。其後主上緑の薄樣の殊に匂深かりけるに、古きことなれ共、思召し出て遊れける。 しのぶれど色に出にけり我戀は、物や思ふと人のとふまで。 此御手習を冷泉少將隆房賜り續で、件の葵前に賜せたれば、顏打ち赤め、例ならぬ心地出來たりとて里へ歸り、打臥す事五六日して終にはかなく成にけり。「君が一日の恩の爲に妾が百年の身を誤つ。」ともか樣の事をや申べき。昔唐太宗の鄭仁基が娘を元觀殿に入んとし給ひしを、魏徴、「彼娘既に陸氏に約せり。」と諫申しかば殿に入るゝ事をやめられけるには、少も違はせ給はぬ御心ばせ也。 -------------------------------------------------------------------------------- 小督 主上戀募の御思に沈ませおはします。申慰參せんとて、中宮の御方より小督殿と申す女房を參せらる。此女房は、櫻町中納言重教卿の御娘、宮中一の美人、琴の上手にておはしける。冷泉大納言隆房卿、未少將なりし時、見初たりし女房なり。少將初は歌を詠み文を盡し戀悲しみ給へども、靡く氣色も無りしが、さすが歎に弱る心にや、終には靡給ひけり。されども今は君に召れ參せて、爲方もなく悲さに、飽ぬ別の涙には、袖しほたれてほしあへず。 少將餘所ながらも小督殿見奉る事もやと、常は參内せられけり。御座ける局の邊、御簾のあたりを彼方此方へ行き通りたゝずみ歩き給へども、小督殿吾君に召されん上は、少將いかにいふとも、詞をもかはし文を見べきにもあらずとて、傳の情をだにも懸られず。少將若やと、一首の歌を詠で、小督殿のおはしける御簾の中へ投入たる。 思かね心は空にみちのくの、ちかの鹽釜近きかひなし。 小督殿、やがて返事もせばやと思はれけれども、君の御爲、御後めたうや思はれけん、手にだに取ても見給はず。やがて上童に取せて、坪の内へぞ投出す。少將情なう恨めしけれども、人もこそ見れと、空恐しう思はれければ、急ぎ是を取て懷に入てぞ出られける。猶立歸て、 玉章を今は手にだにとらじとや、さこそ心に思ひすつとも。 今は此世にて相見ん事も難ければ、生て物を思んより、死んとのみぞ願れける。 入道相國是を聞き、中宮と申も御女也、冷泉少將も聟也。小督殿に、二人の聟を取られて、「いやいや小督があらん限りは世の中好まじ。召出して失はん。」とぞ宣ひける。小督殿漏聞いて、「我身の事は爭でもありなん、君の御爲御心苦し。」とて或暮方に内裏を出て、行方も知ず失たまひぬ。主上御歎斜ならず、晝は夜のおとゞに入せ給ひて、御涙にのみ咽び、夜は南殿に出御成て、月の光を御覧じてぞ、慰せ給ひける。入道相國是を聞き、「君は小督故に思召し沈せ給ひたん也。さらむには。」とて、御介錯の女房達をも參せず、參内し給ふ臣下をも猜み給へば、入道の權威に憚て、通ふ人もなし。禁中彌忌々しうぞ見えける。 かくて八月十日餘に成にけり。さしも隈なき空なれど、主上は御涙に曇りつゝ、月の光も朦にぞ御覧ぜられける。やゝ深更に及で、「人やある/\。」と召れけれども、御いらへ申す者もなし。彈正少弼仲國其夜しも御宿直にまゐて遙に遠う候が、「仲國」と御いらへ申たれば、「近う參れ。仰下さるべき事有り。」何事やらんとて御前近う參じたれば、「汝若小督が行方や知たる。」仲國「爭か知り參せ候ふべき。努々知り參らせず候。」「誠やらん、小督は嵯峨の邊に片折戸とかやしたる内に在りと申す者の有ぞとよ。主が名をば知らずとも、尋ねて參せなんや。」と仰ければ、「主が名を知り候はでは、爭か尋參せ候べき。」と申せば、「實にも。」とて、龍顏より御涙を流させ給ふ。 仲國つく%\と物を案ずるに、誠や、小督殿は、琴彈給ひしぞかし。此月の明さに、君の御事思出參せて、琴彈給はぬ事はよもあらじ。御所にて彈給ひしには、仲國笛の役に召されしかば、其琴の音は、何くなりとも聞知んずる物を。嵯峨の在家幾程かあるべき。打廻て尋ねんに、などか聞出ざるべきと思ひければ、「さ候はば、主が名は知らずとも、若やと尋ね參せて見候はん。但し尋逢參らせて候とも御書を給はらで申さんにはうはの空にや思召され候はんずらん。御書を賜はて向ひ候はん。」と申ければ、誠にもとて、御書をあそばいて給うだりけり。「寮の御馬に乘て行け。」とぞ仰ける。仲國寮の御馬給はて、明月に鞭を揚げ、そことも知らずあくがれ行く。小鹿鳴く此山里と詠じけん、嵯峨の邊の秋の比、さこそは哀にも覺けめ。折片戸したる屋を見附ては、此内にやおはすらんと、ひかへ/\聞けれども、琴彈く 所も無りけり。御堂などへ參り給へる事もやと、釋迦堂を始て、堂々見まはれども、小督殿に似たる女房だに見え給はず。空う歸參たらんは、中々參らざらんよりは惡かるべし。これよりもいづちへも迷行かばやと思へども、何くか王地ならぬ、身をかくすべき宿もなし。如何せんと思ひ煩ふ。誠や、法輪は程近ければ、月の光に誘れて、參り給へる事もやと、其方に向てぞ歩ませける。 龜山の傍近く、松の一村有る方に、幽に琴ぞ聞えける。峯の嵐か松風か、尋ぬる人の琴の音か、覺束なくは思へども、駒を早めて行く程に、片折戸したる内に、琴をぞ彈澄されたる。控へて是を聞ければ、少しも紛べうもなき小督殿の爪音也。樂は何ぞと聞ければ、夫を想て戀ふると詠む想夫婦と云ふ樂なり。さればこそ、君の御事思出でまゐらせて、樂こそ多けれ、此樂を彈給ひける優さよ。在り難う覺て腰よりやうでう拔出し、ちと鳴いて、門をほと/\と敲けば、軈て彈止給ぬ。高聲に「是は内裏より仲國が御使に參て候、開させ給へ。」とて、たゝけども/\、咎る人も無りけり。やゝ有て、内より人の出る音のしければ嬉う思て待つ所に、鎖子をはづし、門を細目に開け、いたいけしたる小女房、顏ばかり指出いて、「門違にてぞ候らん。是には、内裏より御使など給はるべき所にても候はず。」と申せば、中々返事して門たてられ、鎖子さゝれては惡かりなんと思ひて、押開てぞ入にける。妻戸の際の縁に居て、「いかにか樣の所には御渡候やらん。君は御故に思召沈ませ給ひて、御命も既に危うこそ見えさせ御坐し候へ。只うはの空に申とや思召され候はん。御書を給て參て候。」とて、取出 て奉る。有つる女房取次で、小督殿に參せたり。開て見給へば、誠に君の御書也けり。軈て御返事書き引結び、女房の裝束一重添て出されたり。仲國、女房の裝束をば肩にうちかけ申けるは、「餘の御使で候はば御返事の上はとかう申に及び候はねども、日比内裏にて御琴遊しし時、仲國笛の役に召され候し奉公をば爭か御忘候べき。直の御返事を承らで歸參らん事こそ世に口惜う候へ。」と申ければ、小督殿實もとや思はれけん、自ら返事し給ひけり。「其にも聞せ給ひつらん。入道相國の餘に怖き事をのみ申すと聞しかば淺ましさに、内裏をばにげ出て、此程はかゝる栖ひなれば、琴など彈く事無りつれども、さても有るべきならねば、明日よりは大原の奥に思ひ立つ事の候へば、主の女房の今夜ばかりの名殘を惜うで、今は夜も更ぬ、立聞く人もあらじなど勸れば、さぞな昔の名殘もさすが床くて、手馴し琴を彈く程に、安うも聞出されけりな。」とて、涙もせき敢給はねば、仲國も袖をぞ濕しける。やゝ有て、仲國涙を抑へて申けるは、「明日より大原の奥に思召立つ事と候は、御樣などを變させ給ふべきにこそ。努々あるべうも候はず。さて君の御歎をば何とかし參せ給べき。是ばし出し參すな。」とて、供に召具したる馬部吉上など留置き、其屋を守護せさせ、寮の御馬に打騎て、内裏へ歸參りたれば、ほの%\と明にけり。「今は入御もなりぬらん。誰して申入べき。」とて、寮の御馬繋せ、ありつる女房の裝束をばはね馬の障子に打掛け、南殿の方へ参れば主上は未夜邊の御座にぞまし/\ける。「南に翔北に嚮、寒温を秋鷹に付難し。東に出で西に流れ、唯瞻望を曉の月に寄す。」と、打詠めさせ給ふ處に、仲國つと參りたり。小督殿の御返事をぞ參せた る。主上なのめならず御感なて、「汝やがてよさり具して參れ。」と仰ければ、入道相國の還聞給はん所は怖しけれども、是又綸言なれば、雜色牛飼牛車清げに沙汰して、嵯峨へ行向ひ、參るまじき由やう/\に宣へども、樣々に拵へて、車にとり乘奉り、内裏へ參たりければ、幽なる所に忍せて、夜々召されける程に、姫宮御一所出來させ給ひけり。此姫宮と申は坊門の女院の御事なり。入道相國何としてか漏聞たりけん。「小督が失たりといふ事は、跡形もなき虚言也けり。」とて小督殿を捕へつつ、尼に成てぞ放たる。小督殿出家は元よりの望なりけれども、心ならず尼に成されて、歳二十三、濃墨染にやつれ果てて嵯峨の邊にぞすまれける。うたてかりし事ども也。主上はか樣の事共に、御惱はつかせ給て、遂に御隱れありけるとぞ聞えし。 法皇は打續き御歎のみぞ繁かりける。去る永萬には第一の御子、二條院崩御なりぬ。安元二年の七月には御孫六條院かくれさせ給ぬ。天に栖まば比翼鳥、地にすまば連理枝と成んと、漢河の星を指て、御契淺からざりし建春門院、秋の霧に侵されて、朝の露と消させ給ひぬ。年月は重なれ共、昨日今日の御別の樣に思召して、御涙も未盡せぬに、治承四年五月には、第二皇子高倉宮討たれさせ給ひぬ。現世後生たのみ思召されつる新院さへ先立せ給ぬれば、とにかくに、かこつ方なき御涙のみぞ進ける。「悲の至て悲きは、老て後子に後たるよりも悲きはなし。恨の至て恨しきは、若うして親に先立よりも恨しきはなし。」と、彼朝綱相公の、子息澄明に後て、書たりけん筆のあと今こそ思召し知られけれ。さるままには彼一乘妙典の 御讀誦も、怠らせ給はず、三密行法の御薫修も、積らせ給けり。天下諒闇に成しかば、大宮人も推竝て、華の袂や窶けん。 -------------------------------------------------------------------------------- 廻文 入道相國、か樣に痛う情なう振舞おかれし事を、さすが怖とや思はれけん、法皇慰め參せんとて、安藝の嚴島の内侍が腹の御娘、生年十八に成給ふが、優に花やかにおはしけるを法皇へ參らせらる。上臈女房達餘た選ばれて、參られける。公卿殿上人多く供奉して、偏に女御參の如くにてぞありける。上皇隱させ給て後、僅に二七日だにも過ざるに、然るべからずとぞ人々内々はささやきあはれける。 さる程に、其比信濃國に、木曽冠者義仲と云ふ源氏有りと聞えけり。故六條判官爲義が次男帶刀先生義方が子なり。父義方は、久壽二年八月十六日鎌倉の惡源太義平が爲に誅せらる。其時義仲二歳なりしを、母泣々抱へて信濃へ越え、木曽中三兼遠が許に行き、「是如何にもして育て、人に成て見せ給へ。」と云ひければ、兼遠請取てかひ/\しう二十餘年養育す。漸長大する儘に、力も世に勝れてつよく、心も雙なく甲なりけり。ありがたき強弓精兵、馬の上、かちたち、都て上古の田村、、利仁、餘五將軍、致頼、保昌、先祖頼光、義家朝臣と云ふ共、爭か是には勝べきとぞ人申ける。 或時乳母の兼遠を召てのたまひける。「兵衞佐頼朝既に謀反を起し、東八箇國を討從へて、東 海道より上り、平家を追落んとするなり。義仲も東山北陸兩道を從へ、今一日も先に平家を責落し、譬へば日本國に、二人の將軍と云はればや。」とほのめかしければ、中三兼遠大きに畏り悦で、「其料にこそ、君をば今迄養育し奉れ。かう仰らるゝこそ誠に八幡殿の御末とも覺えさせ給へ。」とて、やがて謀反を企てけり。 兼遠に具せられて常は都へ上り平家の人々の振舞在樣をも見伺ひけり。十三で元服しけるも、八幡へまゐり八幡大菩薩の御前にて「我が四代の祖父義家朝臣は此御神の御子と成て名をば八幡太郎と號しき。且つは其跡を追べし。」とて八幡大菩薩の御寶前にて髻取上げ、木曽次郎義仲とこそ付たりけれ。兼遠、先めぐらし文候べしとて、信濃國には、禰井小彌太滋野行親を語ふに、背く事なし。是を始て、信濃一國の兵共、なびかぬ草木もなかりけり。上野國には故帶刀先生義方が好にて田子郡の兵共、皆隨附にけり。平家の末に成る折を得て、源氏の年來の素懷を遂んとす。 -------------------------------------------------------------------------------- 飛脚到來 木曽と云所は、信濃に取ても南の端、美濃境なれば都も無下に程近し。平家の人々漏れ聞て、「東國の背だに有に北國さへ、こは如何に。」とぞ噪れける。入道相國仰られけるは、「其者心にくからず。思へば信濃一國の兵共こそ、隨附と云ふとも、越後國には、餘五將軍の末葉、城太郎助長、同四郎助茂、是等は兄弟共に多勢の者也。仰下したらんずるに、安う討て參せ てんず。」と宣ひければ、「如何在んずらむ。」と内々はささやく者多かりけり。 二月一日、越後國住人、城太郎助長、越後守に任ず。是は木曽追討せられんずる謀とぞ聞えし。同七日大臣以下家々にて、尊勝陀羅尼、不動明王、書供養せらる。是は又兵亂の愼の爲也。 同九日、河内國石川郡に居住したりける武藏權守入道義基、子息石川判官代義兼、平家を背て、兵衞佐頼朝に心を通し既に東國へ落行べき由聞えしかば、入道相國やがて討手を遣す。討手の大將には源大夫判官末方、攝津判官盛澄、都合其勢三千餘騎で發向す。城内には武藏權守入道義基、子息判官代義兼を先として、其勢百騎許には過ざりけり。鬨作り矢合して、入かへ/\數刻戰ふ。城の内の兵共、手のきは戰ひ、打死する者多かりけり。武藏權守入道義基討死す。子息石川判官代義兼は、痛手負て生捕にせらる。同十一日義基法師が首都へ入て大路を渡さる。諒闇に賊首を渡さるゝ事、堀河天皇崩御の時、前對馬守源義親が首を渡されし例とぞ聞えし。 同十二日、鎭西より飛脚到來、宇佐大宮司公通が申けるは、九州の者共、緒方三郎を始として、臼杵、戸次、松浦黨 に至る迄、一向平家を背いて源氏に同心の由申たりければ、「東國北國の背だに有に、こは如何に。」とて、手を打てあざみ合へり。 同十六日に、伊豫國より飛脚到來、去年の冬比より、河野四郎通清を初として、四國の者共皆平家を背いて、源氏に同心の間、備後國の住人、額の入道西寂、平家に志深かりければ、 伊豫國へ押渡り、道前道後のさかひ、高直城にて、河野四郎通清を討候ぬ。子息河野四郎通信父が討たれける時、安藝國の住人奴田次郎は母方の伯父なりければ、其へ越えてありあはず。通信父を討せて安らぬ者也。如何にもして西寂を討取むとぞ窺ひける。額入道西寂河野四郎通清を討て後、四國の狼藉を鎭め、今年正月十五日に備後の鞆へ押渡り、遊君遊女共聚めて、遊戲れ酒もりしけるが、前後も知らず醉臥したる處に、河野四郎思切たる者共百餘人相語て、はと押寄す。西寂が方にも三百餘人有ける者共、俄の事なれば、思も設けず周章ふためきけるを、立合ふ者をば射伏せ切伏せ、先西寂を生捕して、伊豫國へ押渡り、父が討れたる高直城へさげて行き、鋸で頸を切たりとも聞えけり。又磔にしたりとも聞えけり。 -------------------------------------------------------------------------------- 入道死去 其後四國の者共、皆河野四郎に隨附く。熊野別當湛増も、平家の重恩の身なりしが、其も背いて源氏に同心の由聞えけり。およそ東國北國悉く背きぬ。南海西海かくのごとし。夷狄の蜂起耳を驚し、逆亂の先表頻に奏す。四夷忽に起れり。世は唯今失なんずとて、必平家の一門ならねども、心有る人々の歎き悲まぬは無りけり。 同廿三日、公卿僉議あり。前右大將宗盛卿申されけるは坂東へ討手は向たりと云ども、させる爲出したる事も候はず。今度は宗盛大將軍を承て、向べき由申されければ、諸卿色代し て、「ゆゝしう候なん。」と申されけり。公卿殿上人も、武官に備り、弓箭に携らん人々は、宗盛卿を大將軍にて、東國北國の凶徒等追討すべき由仰下さる。 同二十七日前右大將宗盛卿源氏遂討の爲に、東國へ既に門出と聞えしが、入道相國違例の心地とて、留り給ひぬ。明る廿八日より重病を受給へりとて、京中六波羅「すは仕つる事を。」とささやけり。入道相國病附給ひし日よりして、水をだに喉へ入たまはず、身の内の熱き事火を燒が如し。臥給へる所、四五間が内へ入る者は、熱さ堪がたし。唯宣ふ事とては、「あたあた」とばかり也。少しも徒事とは見えざりけり。比叡山より、千手井の水を汲下し、石の船に湛へて、其に下て冷給へば、水夥う湧上て、程なく湯にぞ成にける。若や扶かり給ふと筧の水をまかせたれば、石や鐡などの燒たる樣に、水迸て寄附ず。自ら中る水は、ほのほと成て燃ければ、黒煙殿中に充滿て、炎渦巻いて上りけり。是や昔法藏僧都といし人、閻王の請に趣いて、母の生所を尋ねしに閻王憐み給ひて、獄卒を相副へて焦熱地獄へ遣さる。鐡の門の内へ差入ば、流星などの如くに、炎空へたちあがり、多百由旬に及びけんも、今こそ思知られけれ。 入道相國の北の方、二位殿の夢に見給ひける事こそ恐しけれ。譬へば、猛火の夥う燃たる車を門の内へ遣入たり。前後に立たる者は或は馬の面の樣なる者も有り、或は牛の面の樣なる者も有り。車の前には、無と云ふ文字ばかりぞ見えたる鐡の札をぞ立たりける。二位殿夢の心に、「あれは何よりぞ。」と御尋あれば、「閻魔の廳より平家太政入道殿の御迎に參て候。」 と申す。「さて、其札は何といふ札ぞ。」と問せ給へば、「南閻浮提金銅十六丈の盧遮那佛燒亡し給へる罪に依て、無間の底に堕給ふべき由、閻魔の廳に御さだめ候が、無をば書かれて、間の字をば未だ書れぬ也。」とぞ申ける。二位殿打驚き、汗水になり、是を人に語給へば、聞く人皆身の毛よだちけり。靈佛靈社に、金銀七寶を投げ、馬鞍鎧冑弓箭太刀刀に至る迄、取出し運出して祈られけれども、其驗も無りけり。男女の君達、跡枕に指つどひて、如何にせんと歎悲み給へども叶べしとも見えざりけり。 閏二月二日、二位殿熱う堪難けれども、御枕の上に寄て、泣々宣けるは、「御有樣見奉に、日に添て憑少うこそ見えさせ給へ。此世に思食おく事あらば、少し物の覺えさせ給ふ時、仰置け。」とぞ宣ひける。入道相國、さしも日來はゆゝしげに坐しかども、誠に苦げにて、息の下に宣ひけるは、「われ保元平治より以來、度々の朝敵を平げ、勸賞身に餘り、忝くも帝祖太政大臣に至り、榮花子孫に及ぶ。今生の望、一事も殘る所なし。但し思置く事とては、伊豆國の流人前右兵衞佐頼朝が頸を見ざりつるこそ安からね。我如何にも成なん後は堂塔をも立て孝養をもすべからず。やがて討手を遣し、頼朝が頭を刎て、我墓の前にかくべし。其ぞ孝養にて有んずる。」と宣ひけるこそ、罪深けれ。 同四日、病に責められ、せめての事に、板に水を沃て、其に臥轉給へ共、助る心地もし給はず。悶絶びやく地して、遂にあつち死にぞし給ひける。馬車の馳違ふ音天も響き大地も搖ぐほど也。一天の君萬乘の主の、如何なる御事在すとも是には過じとぞ見えし。今年は六十四にぞ 成給ふ、老死と云べきにはあらねども、宿運忽に盡給へば、大法秘法の効驗もなく、神明三寶の威光も消え、諸天も擁護し給はず。況や凡慮に於てをや。命に代り身に代らんと忠を存ぜし數萬の軍旅は、堂上堂下に竝居たれども、是は目にも見えず力にも關らぬ無常の刹鬼をば、暫時も戰返さず。又歸り來ぬ死出の山、三瀬川、黄泉中有の旅の空に、唯一所こそ赴き給ひけめ。日比作り置れし罪業計や、獄卒と成て、迎に來けん。哀なりし事共也。さても有べきならねば、同七日に、愛宕にて煙になし奉り、骨をば圓實法眼頸にかけて、攝津國へ下り、經島にぞ納ける。さしも日本一州に名を揚げ威を振し人なれども、身は一時の煙と成て、都の空に立上り、屍は暫やすらひて、濱の眞砂に戲つゝ、空き土とぞ成給ふ。 -------------------------------------------------------------------------------- 築嶋 やがて葬送の夜不思議の事餘た有り。玉を磨き金銀を鏤て作られし西八條殿、其夜俄に燒ぬ。人の家の燒るは、常の習ひなれ共、淺間しかりし事共也。何者の所爲にや有けん、放火とぞ聞えし。又其夜六波羅の南に當て、人ならば二三十人が聲して、「嬉や水鳴は瀧の水」と云ふ拍子を出して、舞躍り、どと笑ふ聲しけり。去ぬる正月には、上皇隱させ給ひて、天下諒闇に成ぬ。僅に中一兩月を隔て、入道相國薨ぜられぬ。怪の賤の男賤の女に至る迄、如何が憂へざるべき。是は如何樣にも天狗の所爲と云ふ沙汰にて、平家の侍の中にはやりをの若者共、百餘人笑ふ聲について、尋行て見れば、院の御所法住寺殿に、此二三年は院も渡らせ 給はず、御所預備前前司基宗と云ふ者有り。彼基宗が相知たる者共、二三十人夜に紛れて來り集り酒を飲けるが、初はかゝる折節に音なせそとて飲む程に、次第に飲醉て、か樣に舞躍ける也。はと押寄せて、酒に醉たる者共一人も漏さず三十人ばかり搦て、六波羅へ將て參り、前右大將宗盛卿のおはしける坪の内にぞ引居たる。事の仔細を能々尋聞給ひて實も其程に醉たらんずる者をば斬るべきにもあらずとて皆許されけり。人の失ぬる跡には、恠しの者も朝夕に鐘打鳴し、例時懺法讀む事は、常の習ひなれども、此禪門薨ぜられぬる後は、供佛施僧の營と云ふ事もなし。朝夕は唯軍合戰の策より外は、他事なし。 凡は最後の所勞の有樣こそうたてけれ共、直人とも覺ぬ事共多かりけり。日吉社へ參り給ひしにも、當家他家の公卿多く供奉して、攝ろくの臣の春日御參詣、宇治入など云ふもとも、是には爭か勝るべきとぞ人申ける。又何事よりも福原の經島築いて今の世に至る迄、上下往來の船の煩なきこそ目出たけれ。彼島は去る應保元年二月上旬に築始められたりけるが、同年の八月に俄に大風吹き大浪立て、皆淘失ひてき。同三年三月下旬に、阿波民部重能を奉行にて、築かせられけるが、人柱立てらるべしなど、公卿僉議有しかども、罪業なりとて、石の面に一切經を書いて、築れたりける故にこそ、經島とは名づけたれ。 -------------------------------------------------------------------------------- 慈心坊 古い人の申されけるは、清盛公は惡人とこそ思へども、誠は慈慧僧正の再誕也。其故は、攝 津國清澄寺と云ふ山寺あり。彼寺の住僧慈心房尊慧と申しけるは本は叡山の學侶、多年法華の持者也。然るに道心を發し離山して、此寺に年月を送りければ皆人是を歸依しけり。去ぬる承安二年十二月廿二日の夜、脇息に倚懸り法華經讀奉りけるに、丑刻ばかりに夢ともなく現ともなく、年五十計なる男の淨衣に立烏帽子著て、草鞋脛巾したるが、立文を持て來れり。尊慧「あれは何くよりの人ぞ。」と問ければ、「閻魔王宮よりの御使也。宣旨候。」とて、立文を尊慧に渡す。尊慧是を開いて見れば、 くつ請、閻浮提大日本國攝津國清澄寺の慈心房尊慧、來廿六日、閻魔羅城大極殿にして、十萬人の持經者を以て十萬部の法華經を轉讀せらるべき也。仍て參勤せらるべし。閻王宣に依てくつ請如件。 承安二年十二月廿二日   閻魔廳 とぞ書かれたる。尊慧いなみ申べき事ならねば、左右なう領承の請文を書て奉ると覺て、覺にけり。偏に死去の思なして、院主の光影房に此事を語る。皆人奇特の思ひをなす。尊慧口には彌陀の名號を唱へ、心に引攝の悲願を念ず。やう/\二十五日の夜陰に及で常住の佛前にいたり例の如く脇息に倚懸て念佛讀經す。子刻に及で眠切なるが故に、住房に歸て打臥す。丑刻許に又先の如くに淨衣裝束なる鬼二人來て、はや/\參らるべしと勸る間、閻王宣を辭せんとすれば、甚其恐有り。參詣せんとすれば、更に衣鉢なし。此思をなす時、法衣自然に身に纒て肩に懸り、天より金の鉢下る。二人の童子、二人の從僧、十人の下僧、七 寶の大車、寺坊の前に現ず。尊慧なのめならず喜で即時に車に乘る。從僧等西北の方に向て空を翔て、程なく閻魔王宮にいたりぬ。 王宮の體を見るに、外郭渺々として、其内曠々たり。其内に七寶所成の大極殿あり。高廣金色にして、凡夫の褒る所にあらず。其日の法會終て後、請僧皆歸る時、尊慧は南方の中門に立て遙に大極殿を見渡せば、冥官冥衆、皆閻魔法王の御前に畏る。尊慧あり難き參詣也。此次に後生の事尋申さんとて、大極殿へ參る。其間に二人の童子かいを指し、二人の從僧箱を持ち、十人の下僧列を引て、漸々歩近附く時、閻魔法王、冥官冥衆皆悉下迎ふ。多聞持國二人の童子に現じ、藥王菩薩勇施菩薩、二人の從僧に變ず。十羅刹女十人の下僧に現じて、隨逐給仕し給へり。閻王問て曰く、「餘僧皆歸去ぬ。御房來る事如何。」「後生の在所承はらん爲也。」「但し往生不往生は、人の信不信に有り云々。」閻王又冥官に勅してのたまはく、「此御房の作善の文箱南方の寶藏にあり。取出して一生の行、化他の碑の文見せ奉れ。冥官承て、南方の寶藏に行て、一の文箱を取て參りたり。即蓋を開て是を悉く讀聞す。尊慧悲歎啼泣して、「唯願くは我を哀愍して出離生死の方法を教へ、證大菩提の直道を示給へ。」其時閻王哀愍教化して、種々の偈を誦す。冥官筆を染て一々に是を書く。 妻子王位財眷屬  死去無一來相親常隨業鬼繋縛我  苦受叫喚無邊際 閻王此偈を誦し終て、即ち彼の文を尊慧に附屬す。尊慧なのめならず悦で、「日本の大相國 と申す人攝津國和田御崎を點じて、四面十餘町に屋を作り、今日の十萬僧會の如く持經者を多くくつ請して、坊ごとに一面に座につき、説法讀經、丁寧に勤行を致され候。」と申ければ、閻王隨喜感嘆して、「件の入道は、たゝ人に非ず、慈慧僧正の化身也。天台の佛法護持の爲に、日本に再誕す。故に、毎日に三度彼人を禮する文あり。則此文を以て彼人に奉るべし。」とて、 敬禮慈慧大僧正  天台佛法擁護者示現最初將軍身  惡業衆生同利益 尊慧是を給はて、大極殿の南方の中門を出づる時、官士等十人門外に立て、車に乘せ、前後に隨ふ。又、空を翔て歸り來る。夢の心地して息出きにけり。尊慧是を以て、西八條へ參り、入道相國に參せたりければ、斜ならず悦て、樣々もてなし樣々の引出物共給で、其勸賞に律師に成されけるとぞ聞えし。さてこそ、清盛公をば、慈慧僧正の再誕也と人知りてけれ。 -------------------------------------------------------------------------------- 祇園女御 又或人の申けるは、清盛公は忠盛が子には非ず、誠には白河院の皇子也。其故は、去る永久の比ほひ、祇園女御と聞えし幸人御座ける。件の女房のすまひ所は、東山の麓祇園の邊にてぞ有ける。白河院常は御幸なりけり。或時殿上人一兩人、北面少々召具して、しのびの御幸有しに、比は五月廿日餘のまだ宵の事なれば、目さすとも知ぬ闇ではあり、五月雨さへ掻暮し、誠にいぶせかりけるに、件の女房の宿所近く御堂あり。御堂の傍に光物出來たり。首 は銀の針を磨立たる樣にきらめき、左右の手と覺しきを差上たるが、片手には槌の樣なる物を持ち、片手には光る物をぞ持たりける。君も臣も「あな恐ろし、是は誠の鬼と覺る。手に持てる物は、聞る打出の小槌なるべし。如何せん。」と噪せ御座す處に、忠盛其比は未だ北面の下臈にて、供奉したりけるを召て、「此中にて汝ぞあるらん、あの者射もころし、斬も停なんや。」と仰せければ、忠盛畏まり承て行向ふ。内々思けるは、此者さしも猛き者とは見えず。狐狸などにてぞあるらん。是を射も殺し、斬も殺したらんは、無下に念なかるべし。生捕にせんと思て、歩倚る。と計有ては颯と光り、と計有ては颯と光り、二三度しけるを、忠盛走り寄て、むずと組む。組まれて、「こは如何に。」と騒ぐ。變化の者にては無りけり、はや人にてぞ在ける。其時上下手々に火をともいて、是を御覧じ見給ふに、六十計の法師也。譬へば御堂の承仕法師で有けるが、御明參せんとて、手瓶と云ふ物に油を入て、片手には土器に火を入てぞ持たりける。雨は沃にいて降る、濡じとて、かしらに小麥の藁を笠の樣に引結うでかついだり、土器の火に小麥藁耀て、銀の針の樣には見えける也。事の體一々に露れぬ。「是を射も殺し、切も殺したらんは、如何に念無らん。忠盛が振舞樣こそ思慮深けれ。弓矢取る身は優かりけり。」とて、其勸賞にさしも御最愛と聞えし祇園の女御を忠盛にこそ給だりけれ。 さて彼女房院の御子を孕み奉しかば、「産らん子、女子ならば朕が子にせん。男子ならば忠盛が子にして弓矢とる身に仕立よ。」と仰けるに即男を産めり。此事奏聞せんと伺ひけれど も、然るべき便宜も無りけるに、或時白河院熊野へ御幸なりけるが紀伊國絲鹿坂と云ふ所に、御輿かき居させ暫御休息有けり。藪にぬかごの幾らも有けるを、忠盛袖にもり入て、御前へ參り、 いもが子は這ふ程にこそ成にけれ。 と申たりければ、院やがて御心得有て、 たゞもりとりてやしなひにせよ。 とぞ附させ坐ける。其よりしてこそ、吾子とは持成ける。此若君餘に夜啼をし給ひければ、院聞食されて、一首の詠を遊して下されけり。 夜啼すとたゞもりたてよ末の代は、清く盛る事もこそあれ。 さてこそ、清盛とは名乘られけれ。十二の歳兵衞佐に成る。十八の歳四品して四位の兵衞佐と申しを、仔細存知せぬ人は、「華族の人こそかうは。」と申せば、鳥羽院も知召されて、「清盛が華族は、人に劣じ。」とぞ仰ける。 昔も天智天皇孕み給へる女御を、大織冠に賜ふとて、「此女御の産らん子女子ならば朕が子にせん、男子ならば臣が子にせよ。」と仰けるに、即男を産み給へり。多武峰の本願、定慧和尚是なり。上代にもかゝるためし有ければ、末代にも平大相國、誠に白河院の御子にておはしければにや、さばかりの天下の大事都遷などといふ輙からぬ事共、思立たれけるにこそ。 -------------------------------------------------------------------------------- 州俣合戰 同閏二月廿日、五條大納言國綱卿失せ給ぬ。平大相國と、さしも契深う志し淺からざりし人也。せめての契の深にや、同日に病附て、同月にぞ失せられける。此大納言と申は兼資中納言より八代の末葉、前右馬助守國が子也。藏人にだに成らず、進士の雜色とて候はれし、近衞院御在位の時、仁平の比ほひ、内裡に俄に燒亡出きたり。主上南殿に出御在しかども、近衞司一人も參ぜられず、あきれて立せおはしましたる處に、此國綱腰輿を舁せて參り、「か樣の時は、かかる御輿にこそ召され候へ。」と奏しければ、主上是に召て出御在り。「何者ぞ。」と御尋在ければ、「進士の雜色藤原國綱」と名乘り申。「かかるさか/\しき者こそあれ、召仕るべし。」と其時の殿下法性寺殿へ迎含られければ、御領餘た給ひなどして召仕はれける程に、同帝の御代に八幡へ行幸在しに、人長が酒に醉て水に倒れ入、裝束を濕し、御神樂遲々したりけるに、此國綱、神妙にこそ候はねども、人長が裝束は持せて候。」とて、一具取出されたりければ、是を著て御神樂調へ奏しけり。程こそ少しも推移たりけれども、歌の聲もすみのぼり、舞の袖、拍子に合て面白かりけり。物の身にしみて面白事は神も人も同心也。昔天の岩戸をおしひらかれけん神代の事わざ迄も今こそ思食知られけれ。 やがて此國綱の先祖に山蔭中納言といふ人おはしき。其子に如無僧都とて智慧才覺身に餘り、徳行持律の僧おはしけり。昌泰の比ほひ、寛平法皇、大井河へ御幸在しに、勸修寺の内大臣 高藤公の御子、泉の大將貞國、小倉山の嵐に烏帽子を河へ吹入られ袖にて髻を押へ、爲方なくてぞ立たりけるに、此如無僧都三衣箱の中より烏帽子一つとり出されたるけるとかや。彼僧都は、父、山蔭中納言、太宰大貳に成て鎭西へ下られける時、二歳なりしを、繼母惡であからさまに抱くやうにして、海に落し入殺さんとしけるを、死にける誠の母、存生の時、桂の鵜飼が鵜の餌にせんとて、龜を取て殺さんとしけるを著給へる小袖を脱ぎ、龜にかへ、放たれたりしが、其恩を報ぜんと、此若君落し入けるを水の上に浮び來て、甲に乘てぞ扶けたりける。其れは上代の事なれば如何有けん。末代に國綱卿の高名在がたき事共也。法性寺殿の御世に中納言になる。法性寺殿かくれさせ給ひて後入道相國存ずる旨ありとて、此人に語らひより給へり。大福長者にておはしければ、何にても必ず毎日に一種をば入道相國の許へ贈られけり。現世のとくいこの人に過べからずとて、子息一人養子にして、清國と名乘らせ、又入道相國の四男、頭中將重衡は彼大納言の聟になる。 治承四年の五節は福原にて行はれけるに、殿上人中宮の御方へ推參ありしが、或雲客の「竹湘浦に斑なり。」といふ朗詠をせられたりければ、此大納言立聞して、「あな淺間し、是は禁忌也とこそ承れ。かかる事きくとも聞じ。」とて、ぬき足して遁出られぬ。譬へば、此朗詠の心は、昔堯の帝に二人の姫宮ましましき。姉をば娥黄と云ひ、妹をば女英と云ふ。共に舜の御門の后也。舜の御門かくれ給ひて後、彼蒼梧の野邊へ送り奉り、烟となし奉る時、二人の后名殘を惜み奉り、湘浦といふ所迄隨ひつゝ、泣悲しみ給ひしに、其涙岸の竹に懸て斑にぞ染たり ける。其後も常には彼所におはして瑟を引て慰み給へり。今彼所を見るなれば、岸の竹は斑にて立けり。琴を調べし迹には雲たなびいて、物哀なる心を橘相公の賦に作れる也。此大納言はさせる文才詩歌麗しうおはせざりしか共、かゝるさかしき人にてか樣の事までも聞咎められけるにこそ。此人大納言までは思も寄らざりしを、母上賀茂大明神に歩みを運び、「願くは、我子の國綱一日でも候へ、藏人頭歴させたまへ。」と、百日肝膽を碎いて祈申されけるが、或夜の夢に檳榔の車をゐて來て、我家の車寄に立と夢を見て、是を人に語り給へば、「其れは、公卿の北方に成せ給ふべきにこそ。」とあはせたりければ、「我年已に闌たり。今更さ樣の振舞在べしとも覺えず。」と宣ひけるが、御子國綱藏人頭は事も宜し。正二位大納言に上り給ふこそ目出けれ。 同廿二日、法皇は院の御所法性寺殿へ御幸なる。彼御所は去ぬる應保三年四月十五日に造り出されて、新比叡、新熊野なども間近う勸請し奉り、山水木立に至る迄思召まゝなりしが、此二三年は平家の惡行に依て、御幸もならず。御所の破壞したるを修理して、御幸成し奉るべき由、前右大將宗盛卿奏せられたりければ、何の樣もあるべからず、唯とう/\とて御幸成る。先故建春門院の御方を御覧ずれば、岸の松、汀の柳年經にけりと覺て、木高くなれるに附ても、太液の芙蓉、未央の柳、是に向ふに如何が涙進ざらん。彼南内西宮の昔の跡、今こそ思召知れけれ。 三月一日南都の僧綱等、本官に復して末寺庄園もとの如く知行すべき由仰下さる。同三日大 佛殿造り始めらる。事始の奉行には藏人左少辨行隆とぞ聞えし。此行隆、先年八幡へ參り、通夜せられたりけるが、夢に御寶殿の内よりびんづら結たる天童の出て、「是は大菩薩の使なり。大佛殿奉行の時は是を持つべし。」と笏を賜はると云ふ夢を見て、覺て後見給へば、現に在けり。「あな不思議や當時何事あてか、大佛殿奉行に參るべき。」とて懷中して宿所へ歸り、深う納て置れけるが、平家の惡行に依て、南都炎上の間、此行隆、辨の中に選ばれて、事始の奉行に參られける宿縁の程こそ目出たけれ。 同三月十日、美濃國の目代、都へ早馬を以て申けるは、東國の源氏共すでに尾張國迄攻上り、道を塞ぎ、人を通さぬ由申たりければ、やがて討手を差遣す。大將軍には、左兵衞督知盛、左中將清經、小松少將有盛、都合其勢三萬餘騎で發向す。入道相國うせたまひて後、纔に五旬をだにも過ざるに、さこそ亂たる代といひながら、淺ましかりし事共也。源氏の方には十郎藏人行家、兵衞佐の弟卿公義圓、都合其勢六千餘騎、尾張河を中に隔て、源平兩方に陣をとる。 同十六日の夜半ばかり、源氏の勢六千餘騎河を渡て、平家三萬餘騎が中へをめいて懸入る。明れば十七日寅刻より矢合して、夜の明る迄戰ふに、平家の方には些も騒がず。「敵は河を渡いたれば馬物具も皆濡たるぞ、其を標にして討てや。」とて、大勢の中に取籠て、「餘すな、漏すな。」とて責め給へば、源氏の勢殘少なに討なされ、大將軍行家辛き命生て河より東へ引退く。卿公義圓は深入して討たれにけり。平家やがて河を渡て、源氏を追物射に射て行く。 源氏あそこ此で歸し合せ/\防けれ共、敵は大勢、御方は無勢也。かなふべしとも見ざりけり。『水澤を後にする事無れ。』とこそ云ふに、今度の源氏の策、愚なり。」とぞ人申ける。 去程に大將軍十郎藏人行家、參河國に打越て、矢矧川の橋を引き、垣楯掻て待懸たり。平家やがて押寄せ攻給へば、こらへずして、そこをも、又、攻落れぬ。平家やがて續て攻給はば、參河遠江の勢は、隨つくべかりしに大將軍左兵衞督知盛、勞有て參河國より歸上らる。今度も僅に一陣を破ると云へども、殘黨を攻ねば、し出たる事なきが如し。平家は去々年小松大臣薨ぜられぬ。今年又入道相國失給ひぬ。運命の末に成る事あらはなりしかば、年來恩顧の輩の外は、隨附く者無りけり。東國には草も木も皆源氏にぞ靡きける。 -------------------------------------------------------------------------------- 嗄聲 去程に越後國の住人、城太郎助長、越後守に任ず。朝恩の忝さに、木曽追討の爲に、都合三萬餘騎同六月十五日門出して、明る十六日の卯刻にすでに討立んとしけるに、夜半許、俄に大風吹き、大雨降り、雷おびたゞしう鳴て、天晴て後雲井に大なる聲のしはがれたるを以て、「南閻浮提金銅十六丈の盧遮那佛燒亡し奉る平家の方人する者爰に有り、召取や。」と、三聲叫んでぞ通ける。城太郎を始として、是をきく者、皆身の毛よだちけり。郎等共、「是程怖しい天の告の候ふに、唯理を枉て留せ給へ。」と申けれども、「弓矢取る者の、其によるべき樣なし。」とて、明る十六日卯刻に城を出て僅に十餘町ぞ行たりける。黒雲一村立來て、助 長が上に掩ふとこそ見えけれ、俄に身すくみ心ほれて、落馬してけり。輿に舁乘せ館へ歸り、打臥す事三時許して、遂に死にけり。飛脚を以て、此由都へ申たりければ、平家の人々、大に噪がれけり。 同七月十四日改元有て、養和と號す。其日筑後守貞能、筑前肥後兩國を給はて、鎭西の謀反平げに、西國へ發向す、其日又非常の大赦行はれて、去ぬる治承三年に流され給ひし人々、召還さる。松殿入道殿下備前國より御上洛、太政大臣妙音院尾張國より上らせたまふ。按察大納言資方卿信濃國より歸洛とぞ聞えし。 同廿八日、妙音院殿御院參。去ぬる長寛の歸洛には、御前の簀子にして、賀王恩、還城樂を彈せ給しに、養和の今の歸京には、仙洞にして秋風樂をぞ遊しける。何も/\風情折を思召よらせ給けん御心の程こそ目出けれ。按察大納言資方卿も、其日院參せらる。法皇、「如何にや夢の樣にこそ思食。習ぬ鄙の住ひして、郢曲なども、今は跡方あらじと思召せども、先今樣一つ有ばや。」と仰ければ、大納言拍子取て、「信濃に有なる木曽路川。」と云ふ今樣を、是は見給ひたりし間、「信濃に有し木曽路川」と歌はれけるぞ時に取ての高名なる。 -------------------------------------------------------------------------------- 横田河原合戰 八月七日の日官の廳にて、大仁王會行はる。是は將門追討の例とぞ聞えし。九月一日、純友追討の例とて、鐵の鎧甲を伊勢大神宮へ參せらる。勅使は祭主神祇權大副大中臣定高、 都を立て近江國甲賀の驛より病附き、伊勢の離宮にして、死にけり。謀反の輩調伏の爲に、五壇の法承て行はれける降三世の大阿闍梨、大行事の彼岸所にして、ね死にしぬ。神明も三寶も、御納受なしと云ふ事いちじるし。又大元法承て修せられける安祥寺の實玄阿闍梨が御巻數を進じたりけるを、披見せられければ、平家調伏の由を註進したりけるぞ怖しき。「こは如何に。」と仰ければ、「朝敵調伏せよと仰下さる。當世の體を見候ふに、平家專朝敵と見え給へり。仍て是を調伏す、何のとがや候べき。」とぞ申ける。「此法師奇怪也。死罪か流罪か。」と有しが、大小事の怱劇に、打紛れて其後沙汰も無りけり。源氏の代と成て後、鎌倉殿「神妙なり。」と感じ思食して、其勸賞に、大僧正に成されけるとぞ聞えし。 同十二月廿四日、中宮院號蒙せ給ひて、建禮門院とぞ申ける。未幼主の御時、母后の院號是始とぞ承る。さる程に今年も暮て、養和も二年に成にけり。 二月廿一日、太白昴星を侵す。天文要録に曰、「太白昴星を侵せば、四夷起る。」と云へり。又「將軍勅令を蒙て、國の境を出。」とも見えたり。 三月十日、除目行はれて、平家の人々大略官加階し給ふ。四月十日、前權少僧都顯眞、日吉社にして、如法に法華經一萬部轉讀する事有けり。御結縁の爲に、法皇も御幸なる。何者の申出したりけるやらん、一院山門の大衆に仰て、平家を追討せらるべしと聞えし程に、軍兵内裏へ參て、四方の陣頭を警固す。平氏の一類、皆六波羅へ馳集る。本三位中將重衡卿、法皇の御むかへに其勢三千餘騎で日吉の社へ參向す。山門に又聞えけるは、平家山攻んとて、 數百騎の勢を率して登山すと聞えしかば、大衆皆東坂本へ降下て、「こは如何に。」と僉議す。山上洛中の騒動斜ならず。供奉の公卿殿上人色を失なひ、北面の者の中には餘にあわて噪いで、黄水つく者多かりけり。本三位中將重衡卿、穴太の邊にて、法皇迎取參せて還御なし奉る。「かくのみ有んには此後は御物詣なども今は御心に任すまじき事やらん。」とぞ仰ける。まことには山門大衆平家を追討せんといふ事もなし。平家山せめんといふ事もなし。是跡形なき事共也。「天魔の能く荒たるにこそ。」とぞ人申ける。同四月廿日、臨時に官幣あり。是は飢饉疾疫に依て也。 同五月二十四日改元有て、壽永と號す。其日又越後國の住人城四郎助茂、越後守に任ず。兄の助長逝去の間、不吉なりとて頻に辭し申けれども、勅令なれば力不及。助茂を長茂と改名す。 同九月二日、城四郎長茂木曽追討の爲に、越後、出羽、會津四郡の兵共を引率して、都合其勢四萬餘騎、信濃國へ發向す。同九日、當國横田河原に陣をとる。木曽は依田城に有りけるが、是を聞て依田城を出て三千餘騎で、馳向ふ。信濃源氏、井上九郎光盛が謀に、俄に赤旗七旒作り三千餘騎を七手に分ち、あそこの峯、こゝの洞より赤旗ども手に/\指揚て寄ければ、城四郎是を見て、「あはや此國にも平家の方人する人有けりと、力附ぬ。」とて、勇のゝしる處に、次第に近う成ければ、相圖を定めて、七手が一つに成り、一度に閧をどとぞ作ける。用意したる白旗、さと差揚たり。越後の勢共、是を見て、「敵何十萬騎有らん。如何せん。」と 色を失ひ、あわてふためき、或は河に追はめられ、或は惡所におひ落され、助る者は少う、討るゝ者ぞ多かりける。城四郎が頼切たる越後の山太郎、會津の乘丹房と云ふ聞ゆる兵共、そこにて皆討れぬ。我身手負ひ、辛き命生つゝ、河に傳うて越後國へ引退く。 同十六日、都には平家是をば事共し給はず前右大將宗盛卿、大納言に還著して、十月三日、内大臣に成給ふ。同七日悦申あり。當家の公卿十二人扈從して、藏人頭以下、殿上人十六人前駈す。東國北國の源氏共、蜂の如くに起合ひ、唯今都へ責上らんとするに、か樣に波の立つやらん、風の吹やらんも知ぬ體にて花やかなりし事共、中々云ふかひなうぞ見えたりける。 さる程に、壽永二年に成にけり。節會以下常の如し。内辨をば平家の内大臣宗盛公勤めらる。正月六日主上朝覲の爲に、院御所法住寺殿へ行幸なる。鳥羽院六歳にて、朝覲行幸、其例とぞ聞えし。二月廿二日、宗盛公從一位し給ふ。軈て其日内大臣をば上表せらる。兵亂愼の故とぞ聞えし。南都北嶺の大衆、熊野金峯山の僧徒、伊勢大神宮の祭主神官に至る迄、一向平家を背いて、源氏に心を通しける。四方に宣旨を成下し、諸國に院宣遣せども、院宣宣旨も、皆平家の下知とのみ心得て隨附く者無りけり。 -------------------------------------------------------------------------------- 平家物語卷第七 清水冠者 壽永二年三月上旬に、兵衞佐と木曾冠者義仲、不快の事ありけり。兵衞佐木曾追討の爲に、其勢十萬餘騎で、信濃國へ發向す。木曾は依田城に有けるが、之を聞て、依田の城を出て信濃と越後の境熊坂山に陣を取る。兵衞佐は同信濃國、善光寺に著給。木曾、乳母子の今井四郎兼平を使者で、兵衞佐の許へ遣す。「如何なる子細のあれば義仲討むとは宣ふなるぞ。御邊は東八箇國を打隨へて、東海道より攻上り、平家を追おとさむとし給ふ也。義仲も東山北陸兩道を從へて、今一日も先に平家を攻落さむとする事でこそ有れ。なんの故に、御邊と義仲と中を違て、平家に笑れんとは思ふべき。但十郎藏人殿こそ、御邊を恨むる事有りとて、義仲が許へおはしたるを、義仲さへすげなうもてなし申さむ事、如何ぞや候へば、打連申たり。全く義仲に於ては、御邊に意趣思ひ奉らず。」と云遣す。兵衞佐の返事には、「今こそさ樣には宣へ共、たしかに頼朝討つべき由謀反の企有りと、申者あり。其にはよるべからず。」とて、土肥、梶原を先として、既に討手を差向らるゝ由聞えしかば、木曾眞實意趣なき由を顯さむが爲に、嫡子清水冠者義重とて、生年十一歳に成る小冠者に、海野、望月、諏訪、藤 澤など云ふ聞ゆる兵共をつけて、兵衞佐の許へ遣す。兵衞佐は、「此上は誠に意趣無りけり。頼朝未成人の子を持たず。好々さらば子にし申さむ。」とて、清水冠者を相具して、鎌倉へこそ歸られけれ。 -------------------------------------------------------------------------------- 北國下向 さる程に、木曾、東山北陸兩道を隨がへて、五萬餘騎の勢にて既に京へ攻上る由聞えしかば、平家は去年よりして、「明年は、馬の草飼に附て、軍有べし。」と披露せられたりければ、山陰、山陽、南海、西海の兵共、雲霞の如くに馳參る。東山道は近江、美濃、飛騨の兵共は參たれ共、東海道は遠江より東は參らず、西は皆參りたり。北陸道は若狹より北の兵共一人も參らず。先木曾冠者義仲を追討して其後兵衞佐を討んとて、北陸道へ討手を遣す。大將軍には小松三位中將維盛、越前三位通盛、但馬守經正、薩摩守忠度、參河守知度、淡路守清房、侍大將には、越中前司盛俊、上總大夫判官忠綱、飛騨大夫判官景高、高橋判官長綱、河内判官秀國、武藏三郎左衞門有國、越中二郎兵衞盛嗣、上總五郎兵衞忠光、惡七兵衞景清を先として、以上大將軍六人、しかるべき侍三百四十餘人、都合其勢十萬餘騎、壽永二年四月十七日辰の一點に都を立て、北國へこそ趣きけれ。片道を給はてければ、相坂の關より始て、路次にもて逢ふ權門勢家の正税官物をも恐れず、一々に皆奪取る。志賀、唐崎、三河尻、眞野、高島、鹽津、貝津の道の邊を、次第に追捕して通ければ、人民こらへずして、山野に皆逃散 す。 -------------------------------------------------------------------------------- 竹生島詣 大將軍維盛、通盛は進給へ共、副將軍經正、忠度、知度、清房なんどは、未近江國鹽津、貝津に引へたり。其中にも經正は、詩歌管絃に長じ給へる人なれば、かゝる亂の中にも、心を澄し、湖の端に打出て、遙に澳なる島を見渡し伴に具せられたる藤兵衞有教を召て、「あれをば何くと云ぞ。」と問はれければ、「あれこそ聞え候ふ竹生島にて候へ。」と申。「げにさる事あり。いざや參らん。」とて、藤兵衞有教、安衞門守教以下、侍五六人召具して、小船に乘り、竹生島へぞ渡られける。比は卯月中の八日の事なれば、緑に見ゆる梢には、春の情を殘すと覺え、 澗谷の鶯舌の聲老て、初音床しき郭公、折知顏に告渡る。松に藤なみさきかゝて誠に面白かりければ、急ぎ船より下り、岸に上て此島の景色を見給ふに、心も詞も及れず。彼秦皇、漢武、或は童男丱女を遣はし、或は方士をして不死の藥を尋ね給ひしに、蓬莱を見ずばいなや歸らじと云て、徒に船の中にて老い、天水茫々として求る事を得ざりけん蓬莱洞の有樣もかくや在けんとぞ見えし。或經の文に云く、「閻浮提の内に湖有り、其中に金輪際より生出たる水精輪の山有り、天女住む處。」と云り。即此島のこと也。經正、明神の御前につい居給ひつゝ、「夫大辯功徳天は、往古の如來、法身の大士なり。辯才妙音二天の名は、各別なりとは云へ共、本地一體にして、衆生を濟度し給ふ。一度参詣の輩は、所願成就圓滿すと承は る。憑しうこそ候へ。」とて、しばらく法施參らせ給に、漸々日暮れ、居待の月指出て、海上も照渡り、社壇も彌輝きて、誠に面白かりければ、常住の僧共、「聞ゆる御事なり。」とて、御琵琶を參らせたりければ、經正是を彈給ふに、上原石上の秘曲には、宮の中も澄渡り、明神感應に堪ずして、經正の袖の上に、白龍現じて見え給へり。忝なく嬉しさの餘りに、なくなくかうぞ思續け給ふ。 ちはやぶる神にいのりの叶へばや、しるくも色のあらはれにけり。 されば怨敵を目の前に平らげ、凶徒を唯今責落さむ事も、疑なしと悦で、又船に取乘て、竹生島をぞ出られける。 -------------------------------------------------------------------------------- 火打合戰 木曾義仲自は信濃に有ながら、越前國火打城をぞ構ける。彼城郭に籠る勢、平泉寺長吏齋明威儀師、稻津新介、齋藤太、林六郎光明、富樫入道佛誓、土田、武部、宮崎、石黒、入善、佐美を始として、六千餘騎こそ籠けれ。火打本より究竟の城郭也。磐石峙ち廻て、四方に嶺を列ねたり。山を後ろにし、山を前にあつ。城郭の前には能美河、新道河とて流たり。二つの河の落合に、大木を伐て逆茂木に曳き、柵をおびたゞしうかき上たれば、東西の山の根に、水塞こうで湖に向へるが如し。影南山を浸して青くして滉漾たり。浪西日を沈めて紅にして隱淪たり。彼無熱池の底には、金銀の砂を敷き、昆明池の渚には、とくせいの 船を浮たり。此火打城の築池には、堤をつき、水を濁して、人の心を誑かす。船なくしては輙う渡すべき樣無ければ、平家の大勢、向への山に宿して、徒に日數を送る。 城の内に在ける平泉寺長吏齋明威儀師、平家に志深かりければ、山の根を廻りて、消息を書き、蟇目の中に入れて忍びやかに平家の陣へぞ射入たる。「彼湖は往古の淵に非ず、一旦山川を塞上て候。夜に入、足輕共を遣て柵を切落させ給へ、水は程なく落べし。馬の足立好所で候へば急ぎ渡させ給へ。後矢は射て參らせむ。是は、平泉寺長吏齋明威儀師が申状。」とぞ書たりける。大將軍大に悦び、やがて足輕どもを遣して、柵を切落す。おびたゞしう見えつれども、げにも山川なれば水は程なく落にけり。平家の大勢暫の [1]遲々にも及ばす、さと渡す。城の内の兵共暫し支へて防ぎけれ共、敵は大勢也、御方は無勢也ければ、叶べしとも見えざりけり。平泉寺長吏齋明威儀師、平家に附て忠をいたす。稻津新介、齋藤太、林六郎光明、富樫入道佛誓こゝをば落て、猶平家を背き加賀國に引退き、白山河内に引籠る。平家やがて加賀に打越て、林、富樫が城郭二箇所燒拂ふ。何面を向ふべしとも見ざりけり。近き宿々より飛脚を立て、此由都へ申たりければ、大臣殿以下殘り留まり給ふ一門の人々勇悦事なのめならず。 同五月八日、加賀國篠原にて勢汰へ在り。軍兵十萬餘騎を二手に分て大手搦手へ向はれけり。大手の大將軍は小松三位中將維盛、越前三位通盛、侍大將には越中前司盛俊を始として、都合其勢七萬餘騎、加賀と越中の境なる砥浪山へぞ向れける。搦手の大將軍は、薩摩守忠度、 參河守知度、侍大將には、武藏三郎左衞門を先として、都合其勢三萬餘騎、能登越中の境なる志保の山へぞ懸かられける。木曾は越後の國府に有けるが、是を聞て、五萬餘騎で馳向ふ。我が軍の吉例なればとて、七手に作る。先叔父の十郎藏人行家、一萬餘騎で志保山へぞ向ける。仁科、高梨、山田次郎、七千餘騎で北黒坂へ搦手に差遣す。樋口次郎兼光、落合五郎兼行七千餘騎で南黒坂へ遣しけり。一萬餘騎をば砥浪山の口、黒坂のすそ、松長の柳原、茱萸木林に引隱す。今井四郎兼平、六千餘騎で鷲の瀬を打渡し、日宮林に陣を取る。木曾我身は一萬餘騎で、をやべの渡をして、砥浪山の北のはづれはにふに陣をぞ取たりける。 -------------------------------------------------------------------------------- 願書 木曾宣ひけるは、「平家は定めて大勢なれば、砥浪山打越て、廣みへ出で懸合の軍にてぞ有んずらむ。但し懸合の軍は、勢の多少による事也。大勢かさに懸て、取籠られては惡かりなん。先づ旗差を先だてゝ、白旗を差あげたらば平家是を見て、『あはや源氏の先陣は向たるは。定めて大勢にてぞ有らん。左右なう廣みへ打出て、敵は案内者、我等は無案内也、取籠られては叶まじ。此山は四方岩石であんなれば、搦手へはよも廻じ、暫下居て馬休ん。』とて、山中にぞ下居んずらん。其時義仲暫會釋ふ樣に持なして、日を待昏し、平家の大勢を倶利迦羅谷へ追落さうと思ふなり。」とて先白旗三十旒、先立てゝ黒坂の上にぞ打立たる。案の如く平家是を見て、「あはや源氏の先陣は向たるは、定めて大勢成らん。左右無う廣みへ打出なば、敵は 案内者、我等は無案内也。とりこめられては惡かりなん。此山は四方岩石であん也。搦手へはよも廻はらじ。馬の草飼水便共によげ也、暫下居て馬休ん。」とて、砥浪山の山中、猿の馬場と云所にぞ下居たる。木曾は羽丹生に陣取て、四方をきと見廻せば、夏山の峯の緑の木の間より朱の玉垣ほの見えて、かたそぎ作の社有り。前に鳥居ぞ立たりける。木曾殿國の案内者を召て、「あれは何れの宮と申ぞ、如何なる神を崇奉るぞ。」「あれは八幡でまし/\候。軈て此所は八幡の御領で候。」と申す。木曾殿大に悦て、手書に具せられたる大夫房覺明を召て、「義仲こそ幸に新八幡の御寶殿に近附奉て、合戰を既に遂げむとすれ。如何樣にも今度の軍には相違なく勝ぬと覺ゆるぞ。さらんにとては、且は後代の爲、且は當時の祈祷にも願書を一筆書て參せばやと思ふは如何に。」覺明「尤然るべう候。」とて、馬より下て書んとす。覺明が爲體、あかぢの直垂に黒革威の鎧著て、黒漆の太刀を帶き、二十四差たる黒ほろの矢負ひ、塗籠籐の弓脇に挾み、甲をば脱ぎ高紐に懸け、箙より小硯疊紙取出し、木曾殿の御前に畏て願書を書く。あはれ文武二道の達者哉とぞ見えにける。此覺明は、本儒家の者也。藏人道廣とて、勸學院に在けるが、出家して最乘坊信救とぞ名乘ける。常は南都へも通ひけり。一とせ高倉宮の園城寺に入せ給ひし時、牒状を山奈良へ遣したりけるに、南都の大衆返牒をば此信救にぞ書せたりける。「清盛は、平氏の糟糠、武家の塵芥。」と書たりしを太政入道大に怒て「其信救法師めが、淨海を平氏のぬかゝす、武家のちりあくたと書くべき樣は如何に。其法師め搦捕て、死罪に行へ。」と宣ふ間、南都をば逃て北國へ落下り、木曾殿の手書して、大夫坊 覺明とぞ名乘ける。其願書に云、 歸命頂禮、八幡大菩薩は日域朝廷の本主、累世明君の曩祖也。寶祚を守らんが爲、蒼生を利せんが爲に、三身の金容を顯し、三所の權扉をおし排き給へり。爰に頻の年以來、平相國と云者あり、四海を管領して萬民を惱亂せしむ。是既に佛法の怨、王法の敵なり。義仲苟も弓馬の家に生れて、僅に箕裘の塵を續ぐ。彼暴惡を案ずるに、思慮を顧に能はず。運を天道に任せて、身を國家に投ぐ。試みに義兵を起して、凶器を退けんと欲す。然るを鬪戰兩家の陣を合はすと云へども、士卒未だ一致の勇を得ざる間、區々の心恐れたる處に、今一陣、旗を擧る戰場にして、忽に三所和光の社壇を拜す。機感の純熟明か也。兇徒誄戮疑なし。歡喜の涙こぼれて、渇仰肝に染む。就中に曾祖父前陸奧守義家朝臣、身を宗廟の氏族に歸附して、名を八幡太郎と號せしより以降、門葉たる者の歸敬せずといふことなし。義仲其後胤として、首を傾て年久し。今此大功を發す事、譬へば嬰兒の貝を以て巨海を量り、蟷螂が斧を怒かして隆車に向が如し。然ども國の爲、君の爲にして是を發す、家の爲身の爲にして是を起さず。志の至神感天にあり。憑哉。悦哉。伏て願くは、冥顯威を加へ、靈神力を戮て勝事を一時に決し、怨を四方に退け給へ。然則丹祈冥慮に叶ひ、玄鑑加護をなすべくば、先づ一の瑞相を見せしめ給へ。 壽永二年五月十一日  源 義仲 敬白 と書て、我身を始めて、十三人が上矢の鏑と拔き、願書に取具して、大菩薩の御寶殿にぞ納 めける。憑哉八幡大菩薩の眞實の志二なきをや遙に照覧し給けん、雲の中より山鳩三つ飛來て源氏の白旗の上に翩翻す。 昔神功皇后新羅を攻させ給ひしに、御方の戰弱く、異國の軍強して、既にかうと見えし時、皇后天に御祈誓ありしかば、靈鳩三つ飛來て、楯の面に顯れて、異國の軍敗れにけり。又此人人の先祖、頼義の朝臣、貞任、宗任を攻給ひしにも、御方の戰弱くして、凶徒の軍強かりしかば、頼義朝臣敵の陣に向て、是は全く私の火には非ず、神火なりとて火を放つ。風忽に夷賊の方へ吹掩ひ、貞任が館厨河の城燒ぬ。其後軍敗て貞任、宗任亡びにき。木曾殿か樣の先蹤を忘れ給はず、馬より下り、甲を脱ぎ、手水鵜飼をして、今靈鳩を拜し給ひけん心の中こそ憑しけれ。 -------------------------------------------------------------------------------- 倶利迦羅落 さる程に源平兩方陣を合す。陣の交僅に三町許に寄せ合せたり。源氏も進まず、平家も進まず。源氏の方より、精兵十五騎楯の面に進ませて、十五騎が上矢の鏑を、平家の陣へぞ射入たる。平家又策とも知らず、十五騎を出いて、十五の鏑を射返す。源氏三十騎を出いて、射さすれば、平家三十騎を出いて、三十の鏑を射返す。五十騎を出せば、五十騎を出し合せ、百騎を出せば百騎を出し合せ、兩方百騎づゝ陣の面に進んだり。互に勝負をせんと疾りけれ共、源氏の方より制して、勝負をせさせず。源氏はか樣にして日を暮し、平家の大勢を倶利 迦羅谷へ追落さうとたばかりけるを、少しも悟らずして、共に會釋ひ日を暮すこそはかなけれ。 次第に闇うなりければ北南より廻れる搦手の勢一萬餘騎、倶利迦羅の堂の邊にまゐり會ひ、箙の方立打敲き、鬨をどとぞ作ける。平家後を顧みければ、白旗雲の如く差上あり。此山は四方巖石であんなれば、搦手よもまはらじとこそ思つるに、こは如何にとて噪ぎあへり。去程に木曾殿大手より鬨のこゑをぞ作合せ給ふ。松長の柳原、茱萸木林に一萬騎引へたりける勢も、今井四郎が六千餘騎で、日宮林に在けるも同う鬨をぞ作ける。前後四萬騎が喚く聲、山も河も唯一度に崩るるとこそ聞えにけれ。案のごとく平家。次第に闇うはなる、前後より敵は攻來る、「きたなしや返せや返せ。」と云ふ族多かりけれ共、大勢の傾立ちぬるは、左右なう取て返す事難ければ、倶利迦羅谷へ、我先にとぞ落しける。ま先に落したる者が見えねば、此谷の底に、道の有にこそとて、親落せば子も落し、兄落せば弟も續く。主落せば家子郎等落しけり。馬には人、人には馬、落重り落重りさばかり深き谷一つを、平家の勢七萬餘騎でぞ填たりける。巖泉血を流し、死骸岳を成せり。されば其谷の邊には、矢の穴刀の瑕殘て今に有りとぞ承はる。平家には宗と憑まれたりける上總大夫判官忠綱、飛騨大夫判官景高、河内判官秀國も、此谷に埋もれて失にけり。備中國住人瀬尾太郎兼康といふ聞ゆる大力も、そこにて加賀國住人藏光次郎成澄が手に懸て、生捕にせらる。越前國火打が城にて、返忠したりける平泉寺の長吏齋明威儀師も捕はれぬ。木曾殿「あまりに憎きに其法師をば先切れ。」と て、切られけり。平氏の大將維盛、通盛、希有の命生て加賀國へ引退く。七萬餘騎が中より、僅に二十餘騎ぞ遁たりける。 明る十二日奧の秀衡が許より、木曾殿へ龍蹄二匹奉る。一匹はつき毛一匹は連錢葦毛なり。やがて是に鏡鞍置て白山社へ神馬に立てられたり。木曾殿宣ひけるは、「今は思ふ事なし。但十郎藏人殿の、志保の戰こそ覺束なけれ。いざ行て見ん。」とて、四萬餘騎が中より、馬や人を勝て、二萬餘騎で馳向ふ。氷見湊を渡さんとするに、折節潮滿て深さ淺さを知ざりければ、鞍置馬十匹許追入たり。鞍瓜浸る程にて、相違なく向の岸へ著にけり。「淺かりけるぞ、渡せや。」とて二萬餘騎の大勢、皆打入て渡しけり。案のごとく十郎藏人行家、散々に懸なされ、引退いて、馬の息休むる處に、木曾殿「さればこそ」とて、荒手二萬餘騎、入かへて平家三萬餘騎が中へをめいて駈入り、揉に揉で、火出る程にぞ攻たりける。平家の兵共暫し支へて防ぎけれ共、こらへずして、そこをも遂に攻落さる。平家の方には大將軍參河守知度討れ給ぬ。是は入道相國の末子也。侍共多く亡にけり。木曾殿は志保山打越えて、能登の小田中、親王の塚の前に陣を取る。 -------------------------------------------------------------------------------- 篠原合戰 そこにて諸社へ神領を寄せられけり。白山社へは横江、宮丸、菅生社へは能美の庄、多田の八幡へは蝶屋の庄、氣比社へは飯原庄を寄進す。平泉寺へは藤島七郷を寄せられけり。 一年石橋山の合戰の時、兵衞佐殿射奉し者共、都へにげ上て、平家の方にぞ候ける。宗との者には俣野五郎景久、長井齋藤別當實盛、伊藤九郎助氏、浮巣三郎重親、眞下四郎重直、是等は暫く軍の有ん時迄休まんとて、日毎に寄合々々、巡酒をしてぞ慰みける。先實盛が許に寄合たりける日、齋藤別當申けるは、「倩此世中の在樣を見るに、源氏の御方は強く、平家の御方は、負色に見えさせ給ひけり。いざ各木曾殿へ參う。」と申ければ、皆「さなう」と同じけり。次日浮巣三郎が許に寄合たりける時、齋藤別當、「さても昨日申し事は如何に、各。」其中に俣野五郎、進出でて申けるは、「我等はさすが、東國では皆人に知られて、名ある者でこそあれ。好きに附て彼方へ參り、此方へ參らう事も、見苦かるべし。人をば知參せず候。景久に於ては、平家の御方にて、如何にも成らう。」と申ければ、齋藤別當あざ笑て、「誠には各の御心共をがな引奉んとてこそ申たれ。其上實盛は今度の軍に討死せうと思切て候ぞ。二度、都へ參るまじき由、人々にも申置たり。大臣殿へも此樣を申上て候ぞ。」と云ひければ、皆人此議にぞ同じける。されば其約束を違じとや、當座に有し者共、一人も殘らず北國にて皆死けるこそ無慚なれ。 さる程に平家は人馬の息を休めて加賀國篠原に陣をとる。同五月廿一日の辰の一點に、木曾、篠原に押寄せて鬨をどと作る。平家の方には、畠山庄司重能、小山田別當有重、去る治承より今迄召籠められたりしを「汝らは故い者共也。軍の樣をもおきてよ。」とて、北國へ向られたり。是等兄弟三百餘騎で陣の面に進んだり。源氏の方より今井四郎三百余騎でうちむか ふ。今井四郎、畠山始めは互に五騎十騎づゝ出し合せて、勝負をせさせ、後には兩方亂れ合てぞ戰ひける。五月二十一日午刻、草も ゆるがず照す日に、我劣じと戰へば、遍身より汗出て、水を流すに異ならず。今井が方にも兵多く亡にけり。畠山、家子郎等殘り少なに討成され力及ばで引退く。次に平家の方より、高橋判官長綱、五百餘騎で進んだり。木曾殿の方より、樋口次郎兼光、落合五郎兼行、三百餘騎で馳向ふ。暫支て戰ひけるが、高橋勢は、國々の驅武者なれば、一騎も落合はず、我先にとこそ落行きけれ。高橋心は猛く思へども、後あらはに成ければ、力及ばで引退く。唯一騎落て行處に越中國の住人入善小太郎行重、よい敵と目を懸け、鞭鐙を合て馳來り、押双てむずと組む。高橋、入善を掴うで鞍の前輪に押附け、「わ君は何者ぞ、名乘れ聞う。」といひければ、「越中國の住人入善小太郎行重、生年十八歳。」と名乘る。「あら無慚、去年おくれし長綱が子も今年はあらば、十八歳ぞかし。わ君ねぢ切て捨べけれども、助ん。」とて許しけり。吾身も馬より下り、暫く御方の勢待んとて休み居たり。入善「我をば助たれども、あはれ敵や、如何にもしてうたばや。」と思居たる所に、高橋打解て物語しけり。入善勝たる早わざの士で、刀を拔き、取て懸り、高橋が内甲を二刀さす。さる程に、入善が郎黨三騎後馳に來て落合たり。高橋心は猛く思へども、運や盡にけん、敵はあまた有り、痛手は負つ、そこにて遂に討たれにけり。 又平家の方より武藏三郎左衞門有國、三百騎許で喚てかく。源氏の方より、仁科、高梨、山田次郎、五百餘騎で馳向ふ。暫支て戰ひけるが、有國が方の勢多く討たれぬ。有國深入し て戰ふほどに、矢種皆射盡して馬をも射させ、歩立になり、打物拔て戰ひけるが、敵餘た討取り矢七つ八つ射立られて、立死にこそ死にけれ。大將か樣になりしかば、其勢皆落行ぬ。 -------------------------------------------------------------------------------- 實盛 又武藏國の住人長井齋藤別當實盛御方は皆落行けども、只一騎返合返合防ぎ戰ふ。存ずる旨有ければ、赤地の錦の直垂に、萠黄威の鎧著て、鍬形打たる甲の緒をしめ、金作の太刀を帶き、切斑の矢負ひ、滋籐の弓持て、連錢葦毛なる馬に金覆輪の鞍置てぞ乘たりける。木曾殿の方より、手塚太郎光盛好い敵と目をかけ「あなやさし。如何なる人にてましませば、御方の御勢は皆落候に、唯一騎殘らせ給ひたるこそゆかしけれ。名乘らせ給へ。」と詞を懸ければ、「かう言ふわ殿は誰そ。」「信濃國の住人手塚太郎金刺光盛」とこそ名乘たれ。「さては互に好い敵ぞ。但わ殿をさぐるには非ず、存ずる旨があれば、名乘るまじいぞ。よれ組う手塚。」とて、押竝る處に、手塚が郎黨、後馳に馳來て、主を討せじと中に隔たり、齋藤別當にむずと組む。「あはれ己は日本一の剛の者にくんでうずな、うれ。」とて、取て引寄せ鞍の前輪に押附け、頸掻切て捨てけり。手塚太郎、郎等が討るゝを見て、弓手に廻りあひ、鎧の草摺引擧て、二刀刺し、弱る所に組で落つ。齋藤別當心は猛く思へども、軍にはしつかれぬ、其上老武者では有り、手塚が下に成にけり。又手塚が郎等後れ馳に出きたるに首取せ、木曾殿の御前に馳參りて、「光盛こそ奇異の曲者組で討て候へ。侍かと見候へば、錦の直垂を著て候。又大將 軍かと見候へば、續く勢も候はず。名乘々々と責候つれども、遂に名乘候はず。聲は坂東聲にて候つる。」と申せば、木曾殿「あはれ是は齋藤別當で有ござんなれ。其ならば、義仲が上野へこえたりし時、少目に見しかば、白髮の糟尾なりしぞ。今は定めて、白髮にこそ成ぬらんに、鬢鬚の黒いこそ怪しけれ。樋口次郎は、馴遊で、見知たるらん樋口召せ。」とて召されけり。樋口次郎唯一目見て、「あな無慚や、齋藤別當で候けり。」木曾殿、「其ならば、今は七十にも餘り、白髮にこそ成ぬらんに、鬢鬚の黒いは如何に。」と宣へば、樋口次郎涙をはら/\と流いて、「さ候へば其樣を申上うと仕候が、餘に哀で、不覺の涙のこぼれ候ぞや。弓矢とりは、聊の所でも、思出の詞をば兼て仕置くべきで候ける者哉。齋藤別當、兼光に逢て、常は物語に仕候し、『六十に餘て、軍の陣へ向はん時は、鬢鬚を黒う染て、若やがうと思ふ也。其故は若殿原に爭ひて、先を懸んも長げなし。又老武者とて人の侮らんも口惜かるべし。』と申候しが、誠に染て候けるぞや。洗はせて御覽じ候へ。」と申ければ、さも有らんとて、洗せて見給へば、白髮にこそ成にけれ。 錦の直垂を著たりける事は、齋藤別當最後の暇申に大臣殿へ參て申けるは、「實盛が身一つの事では候はねども、一年東國へ向ひ候し時、水鳥の羽音に驚いて矢一つだにも射ずして、駿河國の蒲原より迯上て候し事、老後の恥辱、唯此事候。今度北國へ向ひては、討死仕候べし。さらんにとては、實盛、本、越前國の者で候しかども、近年御領に就て、武藏の長井に居住せしめ候き。事の譬候ぞかし。故郷へは錦を著て歸れと云ふ事の候。錦の直垂御許し候 へ。」と申ければ、大臣殿、「優うも申たる物哉。」とて、錦の直垂を御免有けるとぞ聞えし。昔の朱買臣は、錦の袂を會稽山に翻し、今の齋藤別當は、其名を来た國の巷に揚とかや。朽もせぬ空き名のみ留め置き、骸は越路の末の塵と成るこそ悲しけれ。 去ぬる四月十七日、十萬餘騎にて都を立し事柄は、何に面を向ふべしとも見えざりしに、今、五月下旬に歸り上るには、其勢僅に二萬餘騎「流を盡して漁る時は、多くの魚を得と云へども、明年に魚なし。林を燒て獵る時は、多くの獸を得と云へども、明年に獸なし。後を存じて、少々は殘さるべかりける者を。」と、申す人々も有けるとかや。 -------------------------------------------------------------------------------- 還亡 上總守忠清、飛騨守景家はをとゝし入道相國薨ぜられける時、ともに出家したりけるが、今度北國にて子ども皆亡びぬときいて其のおもひのつもりにや、終に歎き死にぞ死にける。是を始めて親は子に後れ、婦は夫に別れ、凡遠國近國もさこそ在けめ。京中には、家々に門戸を閉て、聲聲に念佛申し、喚叫ぶ事おびただし。 六月一日藏人右衞門權佐定長、神祇權少副大中臣親俊を、殿上の下口へ召て、兵革靖まらば、大神宮へ行幸成るべき由仰下さる。大神宮は高天原より天降せ給ひしを垂仁天皇の御宇、廿五年三月に、大和國笠縫の里より、伊勢國渡會の郡、五十鈴の河上、下津磐根に大宮柱をふとしきたて、祝初奉てより以降、日本六十餘州、三千七百五十餘社の、大小の神祗冥道の中 には無雙也。され共、代々の御門臨幸は無りしに、奈良の御門の御時左大臣不比等の孫、參議式部卿宇合の子、右近衞權少將兼太宰少貳藤原廣嗣と云ふ人有けり。天平十五年十月、肥前國松浦郡にして、數萬の凶賊を語らて、國家を既に危めんとす。是によて大野東人を大將軍にて、廣嗣追討せられし時、始めて大神宮へ行幸なりけるとかや、其例とぞ聞えし。彼廣嗣は肥前の松浦より都へ一日に下上る馬を持たりけり。追討せられし時も、御方の凶賊落行き、皆亡て後、件の馬に打乘て、海中へ馳入けるとぞ聞えし。其亡靈あれて、怖き事共多かりける中に、天平十六年六月十八日、筑前國御笠郡、太宰府の觀世音寺、供養せられし導師には、 [2]玄 ばう僧正とぞ聞えし。高座に上り敬白の鐘打鳴す時、俄に空掻曇り雷おびたゞしう鳴て、 [3]玄 ばうの上に落懸り、其首を取て雲の中へぞ入にける。是は廣嗣調伏したりける故とぞ聞えし。 此僧正は吉備大臣入唐の時、相伴て渡り、法相宗渡たりし人也。唐人が玄 ばうと云ふ名を笑て「玄ばうは還亡ぶと云ふ音あり。如何樣にも、歸朝の後事に逢ふべき人也。」と相したりけるとかや。同天平十九年六月十八日、髑髏に [4]玄 ばうと云ふ銘を書て、興福寺の庭に落し、虚空に人ならば千人許が聲にて、どと笑ふ事在けり。興福寺は法相宗の寺たるに依て也。彼僧正の弟子共是を取て、塚を築き、其首を納て、頭墓と名づけて、今に有り。是即廣嗣が靈の致す所也。是によて彼亡靈を崇られて、今松浦の鏡宮と號す。 嵯峨皇帝の御時は平城先帝、尚侍の勸に依て、世を亂り給ひし時、其御祈の爲に、御門第 三皇女祐智子内親王を、賀茂の齋院に奉らせ給けり。是齋院の始めなり。朱雀院の御宇には、將門純友が兵亂に依て八幡の臨時の祭を始めらる。今度もか樣の例を以て樣々の御祈共始められけり。 -------------------------------------------------------------------------------- 木曾山門牒状 木曾、越前の國府について、家子郎等召集めて評定す。「抑義仲近江國を經てこそ、都へは入らんずるに、例の山僧共は防ぐ事もや有んずらん。懸け破て通ん事は安けれども、平家こそ當時は佛法とも云はず、寺を亡し、僧を失ひ、惡行をば致せ。其を守護の爲に上洛せん者が、平家と一つになればとて、山門の大衆に向て、軍せん事、少も違はぬ二の舞なるべし。是こそさすが安大事よ。如何にせん。」と宣へば手書に具せられたる大夫坊覺明進出て申けるは、「山門の衆徒は三千候、必一味同心なる事は候はず、皆思々心々に候也。或は源氏に附んと申す衆徒も候らん、或は平家に同心せんと云ふ大衆も候らん、牒状を遣して御覽候へ。事の樣返牒に見え候はんずらん。」と申ければ、「此議尤然るべし、さらば書け。」とて、覺明に牒状書せて、山門へ送る。其状に云、 義仲倩平家の惡逆を見るに、保元平治より以來、永く人臣の禮を失ふ。雖然、貴賤手を束ね、緇素足を戴く。恣に帝位を進退し、飽くまで國郡を掠領す。道理非理を論ぜず、權門勢家を追捕し、有罪無罪をいはず、卿相侍臣を損亡す。其資材を奪取て、悉く郎從に 與へ、彼庄園を沒収して、猥がはしく子孫に省む。就中、去治承三年十一月、法皇を城南の離宮に遷し奉り、博陸を海西の絶域に流し奉る。衆庶言はず、道路目を以す。加之同四年五月、二の宮の朱閣を圍み奉り、九重の垢塵を驚かさしむ。爰に帝子非分の害を逃れん爲に、竊に園城寺へ入御の時、義仲先日に令旨を給るに依て、鞭を擧げんとする處に、怨敵巷に滿て、豫參路を失ふ。近境の源氏、猶參候せず、況や遠境に於てをや。然るを園城は分限なきによて、南都へ趣かしめ給ふ間、宇治橋にて合戰す。大將三位入道頼政父子、命を輕んじ義を重んじて、一戰の功を勵すと云へ共、多勢の責を免かれず、形骸を古岸の苔にさらし、生命を長河の波に流す。令旨の趣肝に銘じ、同類の悲魂を消す。是によて東國北國の源氏等、各參洛を企て、平家を亡さんと欲す。義仲去年の秋、宿意を達せんが爲に、旗を擧げ劍を取て、信州を出でし日、越後國の住人、城の四郎長茂、數萬の軍兵を率して發向せしむる間、當國横田河原にして合戰す。義仲僅に三千餘騎を以て、かの數萬の兵を破り畢ぬ。風聞廣きに及て、平氏の大將十萬の軍士を率して、北陸に發向す。越州、加州、砥浪、黒坂、鹽坂、篠原以下の城郭にして、數箇度合戰す。策を帷幄の中に運らして、勝事を咫尺のもとに得たり。然を討てば必ず伏し、攻れば必ず降る。秋風の芭蕉を破るに異ならず。冬の霜の群葉を枯すに同じ。是偏に神明佛陀の助けなり、更に義仲が武略にあらず。平氏敗北の上は、參洛を企る者也。今叡岳の麓を過ぎて、洛陽の衢に入るべし。此時に當て、竊に疑殆あり。抑天台の衆徒、平家に同心か、源氏に與力か。若 しかの逆徒を助けらるべくば、衆徒に向て合戰すべし。若し合戰をいたさば、叡岳の滅亡踵をめぐらすべからず。悲哉、平氏宸襟を惱し、佛法を滅す間、惡逆を靜めんが爲に、義兵を發す處に、忽ち三千の衆徒に向て、不慮の合戰を致さんことを。痛哉、醫王、山王に憚り奉て、行程に遲留せしめば、朝廷緩怠の臣として、永く武略瑕瑾の謗を遺さんことを。猥しく進退に迷て、案内を啓する所なり。庶幾三千の衆徒神の爲、佛の爲、國の爲、君の爲に源氏に同心して兇徒を誅し、鴻化に浴せん。懇丹の至に堪へず。義仲恐惶謹白。 壽永二年六月十日  源 義仲 進上  惠光坊律師御房 とぞかいたりける。 -------------------------------------------------------------------------------- 返牒 案の如く、山門の大衆此状を披見して、僉議區々也。或は源氏に附んといふ衆徒もあり、或は又平家に同心せんと云大衆もあり。思々異議區々也。老僧共の僉議しけるは、詮ずる所、我等專金輪聖主天長地久と祈奉る。平家は當代の御外戚、山門に於て歸敬を致さる。去れば今に至る迄彼繁昌を祈誓す。然りといへども惡行法に過て、萬人是を背く。討手を國々へ遣すと云へ共、却て異賊の爲にほろぼさる。源氏は近年より以降、度々の軍に討勝て、運命開けんとす。何ぞ當山獨宿運盡ぬる平家に同心して、運命開くる源氏を背かんや。須く平家 値遇の義を翻して、源氏合力の旨に任ずべき由、一味同心に僉議して、返牒を送る。木曾殿又家の子郎等を召集めて、覺明に此返牒を開かせらる。 六月十日の牒状、同十六日到來、披閲の處に數日の欝念一時に解散す。凡平家の惡逆累年に及で朝廷の騒動止時なし。事人口にあり、遺失するに能はず。夫叡岳に至ては、帝都東北の仁祠として、國家靜謐の精祈を致す。然るを、一天久しくかの夭逆に侵されて、四海鎭に、その安全を得ず。顯密の法輪なきが如く、擁護の神威屡すたる。此に貴家適累代武備の家に生れて、幸に當時清選の仁たり。豫じめ奇謀を囘らして忽に義兵を起す。萬死の命を忘れて一戰の功をたつ。其勞未だ兩年を過ぎざるに、其名既に四海に流る。吾山の衆徒、且且以て承悦す。國家の爲、累家の爲、武功を感じ、武略を感ず。此の如くならば、則山上の精祈空しからざる事を悦び、海内の衞護怠りなき事を知んぬ。自寺、他寺、常住の佛法、本社、末社、祭奠の神明、定て教法の再び榮えんことを喜び、崇敬のふるきに復せんことを隨喜し給ふらむ。衆徒等が心中、唯賢察を垂れよ。然則、冥には十二神將、醫王善逝の使者として凶賊追討の勇士にあひ加り、顯には三千の衆徒、暫く修學鑽仰の勤節を止て、惡侶治罰の官軍を扶けしめん。止觀十乘の梵風は、奸侶を和朝の外に拂ひ、瑜伽三密の法雨は、時俗を堯年の昔に囘さん。衆議かくの如し。倩是を察せよ。 壽永二年七月二日 大衆等 とぞ書たりける。 -------------------------------------------------------------------------------- 平家山門連署 平家は是を夢にも知らずして、興福園城兩寺は、欝憤を含める折節なれば、語ふとも靡じ。當家は未だ山門の爲に怨を結ばず、山門又當家の爲に不忠を存ぜず。山王大師に祈誓して、三千の衆徒を語らはばやとて、一門公卿十人、同心連署の願書を書いて、山門へ送る。其状に云、 敬白延暦寺を以て氏寺に准じ、日吉社を以て氏社として、一向天台の佛法を仰べき事右當家一族の輩、殊に祈誓する事あり。旨趣如何となれば、叡山は是桓武天皇の御宇、傳教大師入唐歸朝の後、圓頓の教を此所に廣め、遮那の大戒を其内に傳てより以降、專ら佛法繁昌の靈崛として、鎭護國家の道場に備ふ。方に今伊豆國流人、源頼朝、身の咎を悔いず、却て朝憲を嘲る。加之奸謀に與して、同心を致す源氏等、義仲、行家以下黨を結て數あり。隣境遠境數國を掠領し、土宜土貢萬物を押領す。これによて或は累代勳功の跡を逐ひ、或は當時弓馬の藝に任せて、速に賊徒を追討し、凶黨を降伏すべき由、苟くも勅命を含んで類に征伐を企つ。爰に魚鱗鶴翼の陣、官軍利を得ず、星旄電戟の威、逆類勝に乘に似たり。若神明佛陀の加被にあらずば、爭か反逆の凶亂を鎭めん。是を以て、一向天台の佛法に歸し、併せて日吉の神恩を憑み奉らまくのみ。何ぞ況や忝なく、臣等が曩祖を思へば本願の餘裔と云つべし。彌崇重すべし、彌恭敬すべし。自今以後、山門に悦 あらば一門の悦とし、社家に憤あらば一家の憤として、各子孫に傳へて永く失墜せじ。藤氏は春日社興福寺を以て氏社氏寺として、久しく法相大乘の宗に歸す。平氏は日吉社延暦寺を以て、氏社氏寺として、目の當り圓實頓悟の教に値遇せん。彼は昔の遺跡なり、家の爲榮幸を思ふ。是は今の誓祈なり、君の爲追罰を請ふ。仰ぎ願くは、山王七社、王子眷屬、東西滿山護法聖衆、十二上願醫王善逝、日光月光十二神將、無二の丹誠を照して、唯一の玄應を垂給へ。然る間邪謀逆心の賊、手を軍門につかね、暴逆殘害の輩、首を京土に傳へん。仍て當家の公卿等、異口同音に禮をなして祈誓如件。 從三位行兼越前守平朝臣通盛 從三位行兼右近衞中將平朝臣資盛 正三位行右近衞權中將兼伊豫守平朝臣維盛 正三位行左近衞中將兼播磨守平朝臣重衡 正三位行右衞門督兼近江遠江守平朝臣清宗 參議正三位皇太后宮大夫兼修理大夫加賀越中守平朝臣經盛 從二位行中納言兼左兵衞督征夷大將軍平朝臣知盛 從二位行權中納言兼肥前守平朝臣教盛 正二位行權大納言兼出羽陸奧按察使平朝臣頼盛 從一位平朝臣宗盛 壽永二年七月五日  敬白 とぞ書かれたる。 貫首是を憐み給ひて、左右なく披露せられず。十禪寺權現の御殿に籠て、三日加持して、其後衆徒に披露せらる。始は有とも見えざりし一首の歌願書の上卷に、出來たり。 平かに花咲く宿も年ふれば、西へ傾く月とこそなれ。 山王大師是に憐を垂れ給ひ、三千の衆徒力を合せよと也。されども年比日比の振舞、神慮にも違ひ、人望にも背きにければ、祈れども叶はず語へども靡ざりけり。大衆誠に、事の體を憐けれども、「既に源氏に同心の返牒を送る。今又輕々しく、其議を改るに能はず。」とて是を許容する衆徒もなし。 -------------------------------------------------------------------------------- 主上都落 同七月十四日、肥後守貞能、鎭西の謀反平げて、菊池、原田、松浦黨以下、三千餘騎を召具して上洛す。鎭西は、纔に平げども、東國、北國の軍如何にも靜まらず。 同二十二日の夜半許、六波羅の邊おびたゞしう騒動す。馬に鞍置き腹帶しめ、物共東西南北へ運び隱す。唯今敵の打入たる樣なり。明て後聞えしは、美濃源氏、佐渡衞門尉重貞と云ふ者有り。一年保元の合戰の時、鎭西八郎爲朝が、方の軍に負て、落人と成たりしを搦て出たりし勸賞に、本は兵衞尉たりしが、其時右衞門尉に成ぬ。是に依て一門にはあたまれて、平家 に諂ひけるが、其夜の夜半計六波羅に馳參て申けるは、木曾すでに北國より五萬餘騎で攻上り、比叡山東坂本に充滿て候。郎等に楯六郎親忠、手書に大夫坊覺明、六千餘騎で、天台山に競登り、三千の衆徒皆同心して、唯今都へ攻入る由申たりける故也。平家の人々 [5]大に噪いで、方々へ討手を向けられけり。大將軍には新中納言知盛卿、本三位中將重衡卿、都合其勢三千餘騎都を立て先づ山階に宿せらる。越前三位通盛、能登守教經、二千餘騎で宇治橋をかためらる。左馬頭行盛、薩摩守忠度、一千餘騎で淀路を守護せられけり。 源氏の方には、十郎藏人行家、數千騎で宇治橋より入るとも聞えけり。陸奧新判官義康が子、矢田判官代義清、大江山を經て上洛すとも申あへり。攝津河内の源氏等雲霞の如くに同う都へ亂入由聞えしかば、平家の人々此上は唯一所にて如何にも成給へとて、方々へ向られたる討手共都へ皆呼返れけり。帝都、名利の地鷄鳴て安き事なし。治れる世だにもかくの如し。況や亂たる世に於てをや。吉野山の奧の奧へも入なばやとは思はれけれども、諸國七道、悉く背きぬ。何れの浦か穩しかるべき。三界無安猶如火宅とて如來の金言一乘の妙文なれば、なじかは少しも違ふべき。 同七月廿四日の小夜更方に、前内大臣宗盛公、建禮門院の渡らせ給ふ六波羅殿へ參て申されけるは、「此世の中の在樣、さりともと存候つるに今はかうにこそ候めれ。唯都の内で如何にもならんと人人は申あはれ候へども、目のあたり浮目を見せ參せんも口惜候へば、院をも内をも取奉て、西國の方へ御幸行幸をも成し參せて見ばやとこそ思成て候へ。」と申されければ、 女院、「今は只ともかうもそこの計らひにてこそ有んずらめ。」とて御衣の御袂に餘る御涙塞あへさせ給ず。大臣殿も直衣の袖絞る許に見えられけり。 其夜法皇をば内々平家の取奉て、都の外へ落行べしといふ事を聞召されてや有けん、按察使大納言資方卿の子息右馬頭資時計御伴にて、竊に御所を出させ給ひ鞍馬へ御幸なる。人是を知らざりけり。平家の侍に橘内左衞門尉季康と云ふ者有り。さか/\しき士にて、院にも召使はれけり。其夜しも法住寺殿に御宿直して候けるに、常の御所の方よに噪がしうさゝめきあひて、女房達忍ねに泣などし給へば、何事やらんと聞程に、「法皇の俄に見えさせ給ぬは、何方へ御幸やらん。」といふ聲に聞なしつ。「あな淺まし。」とて、やがて六波羅へ馳參り、大臣殿に此由申ければ、「いで僻事でぞ有るらん。」と宣ひながら、聞もあへず、急ぎ法住寺殿へ馳參て見參させ給へば、げに見えさせ給はず。御前に候はせ給ふ女房達、二位殿、丹後殿以下、一人もはたらき給はず。「いかにや如何に。」と申されけれども「我こそ御行方知參せたれ。」と申さるゝ人、一人もおはせず、皆あきれたる樣也けり。 さる程に、法皇都の内にも渡らせ給はずと申す程こそ有けれ、京中の騒動斜ならず。況や平家の人々の遽て噪がれける有樣、家々に敵の打入たりとも、限あれば是には過じとぞ見えし。日頃は平家院をも内をも取參らせて、西國の方へ御幸行幸をも成したてまつらんと支度せられたりしに、かく打捨させ給ぬれば、憑む木の本に雨のたまらぬ心地ぞせられける。 さりとては行幸ばかりなり共成參せよとて、卯刻計に既に行幸の御輿寄たりければ、主上は 今年六歳、未幼なうましませば何心もなう召されけり。御母儀建禮門院御同輿に參らせ給ふ。「内侍所、神璽、寶劔、渡し奉る。印鑰、時札、玄上、鈴鹿などをも取具せよ。」と平大納言時忠卿下知せられけれども、餘りに遽噪いで、取落す物ぞ多かりける。晝の御座の御劔などをも取忘させ給ひけり。やがて此時忠卿、内藏頭信基、讃岐中將時實三人計ぞ、衣冠にて供奉せられける。近衞司、御綱佐、甲冑をよろひ弓箭を帶して、供奉せらる。七條を西へ朱雀を南へ行幸なる。 明れば七月廿五日也。漢天既に開きて、雲東嶺にたなびき、明方の月白く冴て、鷄鳴又忙し。夢にだにかゝる事は見ず。一年都遷とて俄にあわたゞしかりしは、かゝるべかりける先表とも今こそ思知れけれ。 攝政殿も行幸に供奉して、御出なりけるが、七條大宮にて、髫結たる童子の、御車の前をつと走通るを御覽ずれば、彼童子の左の袂に、「春の日」と云ふ文字ぞ顯れたる。「春の日」と書ては「春日」と讀めば、法相擁護の春日大明神、大織冠の御末を守らせ給ひけりと、憑敷思召す處に、件の童子の聲と覺しくて、 いかにせん藤の末葉のかれゆくを、唯春の日に任せてや見ん。 御伴に候進藤左衞門尉高直を近う召て、「倩事の體を案ずるに行幸はなれ共、御幸も成ず、行末憑からず思召すは如何に。」と仰ければ、御牛飼に目を見合たり。やがて心得て、御車を遣りかへし、大宮を上りに飛が如くに仕り、北山の邊、知足院へ入せ給ふ。 -------------------------------------------------------------------------------- 維盛都落 平家の侍越中次郎兵衞盛嗣是を承はて逐ひ留め參せんと頻に進み出けるが、人人に制せられて留まりけり。 小松三位中將維盛卿は、日比より思食設られたりけれ共、指當ては悲かりけり。北方と申は、故中御門新大納言成親卿の御娘也。桃顏露に綻び、紅粉眼に媚をなし、柳髮風に亂るゝ粧、又人有べし共見え給はず。六代御前とて、生年十に成給ふ若君、其妹八歳の姫君おはしけり。此人々皆後じと慕ひ給へば、三位中將宣ひけるは、「日比申し樣に、我は一門に具して、西國の方へ落行なり。何く迄も具足し奉るべけれ共、道にも敵待なれば、心安う通ん事も有難し。縱我討れたりと聞給ふ共、樣など替給ふ事は努々有るべからず。其故は、如何ならん人にも見えて、身をも助け、少き者共をも育み給ふべし。情を懸る人も、などか無かるべき。」と、慰め給へども、北方とかうの返事もし給はず引被てぞ臥給ふ。既に打立んとし給へば、袖にすがて「都には父もなし母もなし、捨られ參らせて後、誰にかはみゆべき。如何ならん人にも見えよなど承るこそ恨しけれ。前世の契り有ければ、人こそ憐み給ふとも、又人毎にしもや情を懸くべき。何く迄も伴ひ奉り、同野原の露とも消え、一つの底の水屑とも成らんとこそ契りしに、されば小夜の寢覺の睦語は、皆僞に成にけり。責ては身一つならば如何がせん。捨られ奉る身の憂さ、思知ても留まりなん。少き者共をば、誰に見讓り、如何にせよとか思 召す。恨しうも留め給ふ者哉。」と、且は恨み且は慕ひ給へば、三位中將宣ひけるは、「誠に人は十三、我は十五より見初奉り、火の中水の底へも、倶に入り倶に沈み、限ある別路迄も後れ先立じとこそ申しかども、かく心憂き有樣にて、軍の陣へ趣けば、具足し奉て、行方も知ぬ旅の空にて、憂目を見せ奉らんも、うたてかるべし。其上今度は用意も候はず。何くの浦にも心安う落著いたらば、其よりこそ迎へに人をも奉らめ。」とて、思ひ切てぞ立れける。中門の廊に出て、鎧取て著、馬引寄させ、既に乘らんとし給へば、若君姫君走出でて、父の鎧の袖、草摺に取附き、「是はされば何地へとて、渡せ給ぞ。我も參ん、我も行ん。」と面々に慕ひ泣給ふにぞ、浮世のきづなと覺えて、三位中將、いとゞ爲方なげには見えられける。 さる程に御弟新三位中將資盛卿、左中將清經、同少將有盛、丹後侍從忠房、備中守師盛、兄弟五騎馬に乘ながら、門の中へ打入り、庭にひかへて、「行幸は遙に延させ給ひぬらん、如何にや今迄。」と、聲々に申されければ、三位中將馬に打乘て出給ふが、猶引返し、縁の際へうち寄せて、弓の弭で御簾をさと掻揚げ、「是御覽ぜよ各、少き者共が餘りに慕ひ候を、とかうこしらへ置んと仕る程に、存の外の遲參。」と宣ひもあへず、泣かれければ、庭にひかへ給へる人々、皆鎧の袖をぞ濡されける。 こゝに齋藤五、齋藤六とて、兄は十九、弟は十七に成る侍あり。三位中將の御馬の左右のみづつきに取著き、何く迄も御とも仕るべき由申せば、三位中將宣ひけるは、「己等が父齋藤別當北國へ下し時、汝等が頻に伴せうと云しかども、存ずる旨が有ぞとて、汝等を留置き、北 國へ下て遂に討死したりけるは、かゝるべかりける事を、故い者で、兼て知たりけるにこそ。あの六代を留て行に、心安う扶持すべき者のなきぞ。誰理を枉て留まれ。」と宣へば、力及ばず、涙を押へて留りぬ。北方は、「年比日比、是程情なかりける人とこそ、兼ても思はざりしか。」とて臥まろびてぞ泣かれける。若君姫君女房達は、御簾の外迄まろびいで、人の聞をも憚らず聲をはかりにぞ喚叫び給ひける。此聲々耳の底に留て、西海の立つ浪の上、吹風の音迄も聞く樣にこそ思はれけめ。 平家都を落行に、六波羅、池殿、小松殿、八條、西八條以下、一門の卿相雲客の家々、二十餘箇所、次々の輩の宿所々々、京白川に四五萬の在家一度に火をかけて、皆燒拂ふ。 -------------------------------------------------------------------------------- 聖主臨幸 或は聖主臨幸の地也。鳳闕空しく礎を殘し、鸞輿只跡を留む。或は后妃遊宴の砌也。椒房の嵐聲悲み、掖庭の露色愁ふ。粧鏡翠帳の基戈林釣渚の館、槐棘の座 えん鸞の栖、多日の經營を空うして、片時の灰燼と成果ぬ。況や郎從の蓬 篳に於てをや。況や雜人の屋舎に於てをや。餘炎の及ぶ所、在々所々數十町也。強呉忽に亡て、姑蘇臺の露荊棘に移り、暴秦既に衰て、咸陽宮の烟 へいけいを隱しけんも、かくやと覺て哀也。日來は函谷二 かうの嶮しきを固うせしか共、北狄の爲に是を破られ、今は江河 けい渭の深きを憑みしか共、東夷の爲に是を取られたり。豈圖きや、忽に禮儀の郷を攻出されて、泣々無智の境に身を寄んとは。昨日は雲 の上にて雨を降す神龍たりき。今日は肆の邊に水を失ふ枯魚の如し。禍福道を同うし、盛衰掌を反す。今目前にあり、誰か是を悲ざらん。保元の昔は春の花と榮しかども、壽永の今は秋の紅葉と落果ぬ。 去治承四年七月大番の爲に上洛したりける畠山庄司重能、小山田別當有重、宇都宮左衞門尉朝綱、壽永迄、召籠られたりしが、其時既に斬るべかりしを、新中納言知盛卿申されけるは「御運だに盡させ給ひなば、是等百人千人が頸を斬せ給ひたりとも、世を取らせ給はん事難かるべし。故郷には妻子所從等如何に歎き悲み候らん。若し不思議に運命開けて、又都へ立歸らせ給はん時は、有難き御情でこそ候はんずれ。只理を枉げて、本國へ返し遣さるべうや候らむ。」と申されければ、大臣殿、「此義尤然るべし。」とて暇を給ぶ。是等首を地に著け、涙を流いて申けるは、「去治承より今までかひなき命を扶けられ參せて候へば、何くまでも御供仕て行幸の御ゆくへを見參せん。」と頻に申けれ共、大臣殿、「汝等が魂は皆東國にこそあるらんに、ぬけがらばかり西國へ召具すべき樣なし。急ぎ下れ。」と仰られければ、涙を押へて下けり。是等も二十餘年の主なれば、別れの涙押へ難し。 -------------------------------------------------------------------------------- 忠度都落 薩摩守忠度は、いづくよりか歸られたりけん、侍五騎、童一人、我身共に七騎取て返し、五條の三位俊成卿の宿所におはして見給へば門戸をとぢて開かず。忠度と名乘給へば、落人 歸り來たりとて、其内噪ぎあへり。薩摩守馬より下り、自高らかに宣ひけるは、「別の子細候はず、三位殿に申べき事有て、忠度が歸り參て候。門を開れず共、此際迄立寄らせ給へ。」と宣へば、俊成卿「さる事あるらん。其人ならば苦かるまじ。入れ申せ。」とて、門をあけて對面有り。事の體何となうあはれなり。薩摩守宣ひけるは、「年來申承はて後、愚ならぬ御事に思ひ參らせ候へ共、この二三年は京都の噪、國々の亂併當家の身の上の事に候間疎略を存せずといへども、常に參り寄る事も候はず。君既に都を出させ給ひぬ。一門の運命はや盡候ぬ。撰集の有るべき由承りしかば、生涯の面目に、一首なり共御恩を蒙らうと存じて候しに、やがて世の亂出で來て、其沙汰なく候條、唯一身の歎きと存ずる候。世靜まり候なば勅撰の御沙汰候はんずらん。是に候ふ卷物の中に、さりぬべきもの候はゞ、一首なりとも御恩を蒙て、草の蔭にても嬉しと存候はば、遠き御守りとこそ成參せ候んずれ。」とて、日來詠置れたる歌共の中に、秀歌と覺きを百餘首書集られたる卷物を、今はとて打立れける時、是を取て持れたりしが、鎧の引合せより取出でて、俊成卿に奉る。三位是をあけて見て、「かゝる忘れ形見を給り置候ぬる上は、努々疎略を存ずまじう候。御疑あるべからず。さても只今の御渡りこそ情も勝れて深う、哀れも殊に思ひしられて感涙抑へ難う候へ。」と宣へば、薩摩守悦で「今は西海の浪の底に沈まば沈め、山野に尸をさらさばさらせ、浮世に思置く事候はず。さらば暇申て。」とて、馬に打乘り、甲の緒をしめ、西を指いてぞ歩せ給ふ。三位後を遙に見送て立たれたれば、忠度の聲と覺しくて、「前途程遠し、思を雁山の夕の雲に馳。」と、高らかに口ずさ み給へば、俊成卿、いとゞ名殘惜しう覺えて、涙を抑てぞ入給ふ。其後世靜て、千載集を撰ぜられけるに、忠度のありし有樣、言置し言の葉、今更思出て哀なりければ、彼の卷物の中に、さりぬべき歌幾らもありけれど、勅勘の人なれば、名字をば顯されず、「故郷花」といふ題にて詠まれたりける歌一首ぞ、讀人しらずと入られける。 さゝ浪や志賀の都はあれにしを、昔ながらの山櫻かな。 其身朝敵と成にし上は、仔細に及ばずと云ながら、恨めしかりし事共なり。 -------------------------------------------------------------------------------- 經正都落 修理大夫經盛の子息、皇后宮亮經正、幼少にては、仁和寺の御室の御所に、童形にて、候はれしかば、かゝる怱劇の中にも、其御名殘きと思出て、侍五六騎具して、仁和寺殿へ馳參り、門前にて馬より下り、申入られけるは、「一門運盡て今日既に帝都を罷出候。浮世に思ひ殘す事とては、唯君の御名殘計也。八歳の時參り始め候て、十三で元服仕り候し迄は、相勞る事の候はぬ外は、白地にも御前を立去事も候はざりしに、今日より後西海千里の浪路に趣いて、又何の日、何の時、歸り參るべしとも覺えぬこそ口惜う候へ。今一度御前へ參て、君をも見參せたう候へども、既に甲冑を鎧ひ弓箭を帶し、あらぬ樣なる粧に罷成て候へば、憚存候。」とぞ申されける。御室哀に思召し、「唯其姿を改めずして參れ。」とこそ仰せけれ。經正其日は、紫地の錦の直垂に、萠黄匂の鎧著て、長覆輪の太刀を帶き、切斑の矢負ひ、滋籘 の弓脇に挾み、甲をば脱高紐にかけ、御前の御坪に畏る。御室やがて御出有て、御簾高く揚させ「是へ/\」と召されければ、大床へこそ參られけれ。供に具せられたる藤兵衞有教を召す。赤地の錦の袋に入たる御琵琶持て參たり。經正是を取次で、御前にさし置き申されけるは、「先年下し預て候し青山持せて參て候。餘りに名殘は惜しう候へども、さしもの名物を、田舎の塵に成ん事口惜う候。若不思議に運命開けて、又都へ立歸る事候はゞ、其時こそ猶下し預り候はめ。」と泣々申されければ、御室哀におぼしめし一首の御詠をあそばいて下されけり。 あかずして別るゝ君が名殘をば、後の形見につゝみてぞおく。 經正御硯下されて、 呉竹のかけひの水はかはれども、猶すみあかぬ宮の中かな。 さては暇申て出られけるに、數輩の童形、出世者、坊官、侍僧に至迄、經正の袂にすがり、袖を引へて、名殘を惜み、涙を流さぬは無りけり。其中にも經正幼少の時、小師でおはせし大納言法印行慶と申は、葉室大納言光頼卿の御子也。餘に名殘を惜みて、桂河の端迄打送り、さてもあるべきならねば其より暇請うて泣々別れ給ふに、法印かうぞ思續け給ふ。 あはれなり老木若木も山櫻、おくれ先だち花は殘らじ。 經正の返事には、 旅衣よな/\袖をかたしきて、思へば我は遠くゆきなん。 さて、卷て持せられたる赤旗、さと指上げたり。あそこ爰にひかへて待奉る侍共、「あはや」とて馳集まり、其勢百騎許鞭をあげ、駒を早めて、程なく行幸に逐つき奉る。 -------------------------------------------------------------------------------- 青山之沙汰 此經正十七の年、宇佐の勅使を承てくだられけるに、其時青山を給て、宇佐へ參り、御殿に向ひ參り、祕曲を彈給ひしかば、いつ聞馴たる事は無れ共、供の宮人推竝て、緑衣の袖をぞ絞ける。聞知らぬ奴子迄も村雨とは紛はじな。目出かりし事ども也。 彼青山と申す御琵琶は、昔仁明天皇御宇、嘉祥三年の春、掃部頭貞敏渡唐の時、大唐の琵琶博士廉妾夫に逢ひ、三曲を傳へて歸朝せしに、玄象、獅子丸、青山、三面の琵琶を相傳して渡りけるが、龍神や惜み給ひけん、浪風荒く立ければ、獅子丸をば海底に沈めぬ。今二面の琵琶を渡して、吾朝の御門の御寶とす。 村上聖代應和の比ほひ、三五夜中の新月白く冴え、凉風颯々たりし夜半に、御門清凉殿にして、玄象をぞ遊されける。時に影の如くなる者、御前に參じて、優にけだかき聲にて、唱歌を目出たう仕る。御門御琵琶を差置かせ給て、「抑汝は如何なる者ぞ。何くより來れるぞ。」と御尋あれば、「是は昔貞敏に三曲を傳へし大唐の琵琶博士、廉妾夫と申す者で候が、三曲の中、祕曲を一曲殘せるに依て、魔道に沈淪仕て候。今御琵琶の御撥音妙に聞えて侍る間、參入仕る處也。願くは此曲を君に授け奉り、佛果菩提を證すべき」由申て、御前に立られたる青山 を取り、轉手をねぢて、祕曲を君に授け奉る。三曲の中に上玄、石上是也。其後は、君も臣も恐させ給て、此御琵琶を遊し彈く事もせさせ給はず、御室へ參せられたりけるを、經正の幼少の時御最愛の童形たるに依て、下し預りたりけるとかや。甲は紫藤の甲、夏山の嶺の緑の木間より、有明の月の出るを、撥面に書かれたりける故にこそ、青山とは附られたれ。玄象にも相劣らぬ希代の名物なりけり。 -------------------------------------------------------------------------------- 一門都落 池の大納言頼盛卿も、池殿に火を懸て出られけるが、鳥羽の南の門に引へつゝ、「忘たる事あり。」とて、赤印切捨て、其勢三百餘騎都へ取て歸られけり。平家の侍越中次郎兵衞盛嗣、大臣殿の御前に馳參て「あれ、御覽候へ、池殿の御留まり候に、多の侍共の付參らせて、罷留まるが、奇怪に覺え候。大納言殿迄は恐れも候、侍共に矢一つ射懸候はん。」と申ければ。「年比の重恩を忘て、今此有樣を見果ぬ不當人をば、さなくとも有なん。」と宣へば、力及ばで留まりけり。「さて小松殿の君達は如何に。」と宣へば「未御一所も見えさせ給はず。」と申す。其時、新中納言殿、涙をはらはらと流いて「都を出て未だ一日だにも過ざるに、何しか人の心共の變行くうたてさよ。まして行末とてもさこそはあらんずらめと思しかば都の内で如何にも成らんと、申つる者を。」とて、大臣殿の御方を、世にも恨げにこそ見給ひけれ。 抑池殿の留まり給ふ事を如何にと云に兵衞佐頼朝、常は頼盛に情をかけて、「御方をば全く愚 に思ひ參らせ候はず。只故池殿の渡らせ給ふとこそ存候へ。八幡大菩薩も御照覽候へ。」など、度々誓状を以て申されける上、平家追討の爲に討手の使の上る度ごとに、「相構て池殿の侍共に向て弓引な。」と情を懸れば「一門の平家は運盡き既に都を落ぬ。今は兵衞佐に助られんずるにこそ。」と宣ひて、都へ歸られけるとぞ聞えし。八條女院の仁和寺の常磐殿に渡らせ給ふに參り籠られけり。女院の御乳母子宰相殿と申す女房に、相具し給へるに依てなり。「自然の事候はゞ、頼盛構へて助させ給へ。」と申されけれども、女院、「今は世の世にても有らばこそ。」とて、憑氣もなうぞ仰ける。凡は兵衞佐許こそ、芳心は存ぜらるゝとも、自餘の源氏共は如何あらんずらん。憖に一門には離れ給ひぬ。浪にも磯にも附ぬ心地ぞせられける。さる程に、小松殿の君達は三位中將維盛卿を始め奉て、兄弟六人其勢千騎許にて淀の六田河原にて、行幸に追附奉る。大臣殿待うけ奉り嬉げにて、「いかにや今迄。」と宣へば、三位中將、「少き者共が餘に慕ひ候を、とかうこしらへ置んと遲參仕候ぬ。」と申されければ、大臣殿、「などや心つよう六代殿をば具し奉給候はぬぞ。」と宣へば、維盛卿、「行末とても憑しうも候はず。」とて、問ふにつらさの涙を流されけるこそ悲しけれ。 落行く平家は誰々ぞ。前内大臣宗盛公、平大納言時忠、平中納言教盛、新中納言知盛、修理大夫經盛、右衞門督清宗、本三位中將重衡、小松三位中將維盛、新三位中將資盛、越前三位通盛、殿上人には、内藏頭信基、讃岐中將時實、左中將清經、小松少將有盛、丹後侍從忠房、皇后宮亮經正、左馬頭行盛、薩摩守忠度、能登守教經、武藏守知明、備中守師盛、淡路守清 房、尾張守清定、若狹守經俊、兵部少輔正明、藏人大夫成盛、大夫敦盛、僧には二位僧都專親、法勝寺執行能圓、中納言律師仲快、經誦坊阿闍梨祐圓、侍には受領、檢非違使、衞府、諸司百六十人、都合其勢七千餘騎、是は東國北國度々の軍に此二三箇年が間、討泄れて、僅に殘る所也。山崎關戸院に玉の御輿を舁居て、男山を伏拜み、平大納言時忠卿「南無歸命頂禮八幡大菩薩、君を始參せて、我等都へ歸し入させ給へ。」と祈れけるこそ悲しけれ。各後を顧給へば、霞める空の心地して、烟のみ心細く立のぼる。平中納言教盛卿 はかなしな主は雲井に別るれば、跡は煙とたちのぼるかな。 修理大夫經盛、 故郷をやけのの原にかへり見て、末もけぶりのなみぢをぞ行く。 誠に故郷をば、一片の烟塵に隔つゝ、前途萬里の雲路に赴れけん人々の心の中、推量られて哀也。 肥後守 [6]貞能ほ、川尻に源氏待と聞て、蹴散さんとて、五百餘騎で發向したりけるが、僻事なれば歸り上る程に、宇度野の邊にて行幸に參り合ふ。貞能馬より飛下り、弓脇挾み大臣殿の御前に、畏て申けるは、「是は、抑何地へとて落させ給候やらん。西國へ下せ給たらば、落人とて、あそこ爰にて討散らされ浮名を流させ給はん事こそ口惜う候へ。只都のうちでこそ、如何にも成せ給はめ。」と申ければ、大臣殿、「貞能は知ぬか。木曾すでに北國より五萬餘騎で攻上り、比叡山東坂本に滿々たんなり。此夜半ばかり法皇も渡らせ給はず。各が身ばかりな らば如何がせん、女院二位殿に目の當り憂目を見せ參せんも、心苦しければ、行幸をも成し參らせ、人々をも引具し奉て、一まともやと思ふぞかし。」と仰られければ、「左候はゞ、貞能は暇賜はて、都で如何にも成り候はん。」とて、召具したる五百餘騎の勢をば、小松殿の君達に附奉り、手勢三十騎許で都へ引かへす。 京中に殘り留まる平家の餘黨を伐んとて、貞能が歸り入由聞えしかば、池大納言「頼盛が身の上でぞ有らん。」とて、大に怖れ噪がれけり。貞能は、西八條の燒跡に、大幕ひかせ一夜宿したりけれども、歸り入給ふ平家の君達一所も坐ねば、さすが心細うや思ひけん、源氏の馬の蹄に懸じとて、小松殿の御墓掘せ、御骨に向ひ奉て、泣々申けるは、「あな淺まし、御一門の御果御覽候へ。『生ある者は必滅す。樂み盡て悲み來る。』と古より書置たる事にて候へ共、まのあたりかかる憂事候はず。君は斯樣の事を先づ悟せ給ひて、兼て佛神三寶に御祈誓有て、御世を早うせさせまし/\けるにこそ。有難うこそ覺え候へ。其時貞能も最後の御供仕るべう候ける物を、かひなき命を生て、今はかゝる憂目に逢候事こそ口惜う候へ。死期の時は、必一佛土へ迎へさせ給へ。」と泣々遙に掻口説き、骨をば高野へ送り、あたりの土をば賀茂川に流させ、世の在樣たのもしからずや思けん、主と後合に、東國へこそ落行けれ。宇都宮をば貞能が申預て、情有ければ、其好にや貞能又宇都宮を頼うで下られければ芳心しけるとぞ聞えし。 -------------------------------------------------------------------------------- 福原落 平家は小松三位中將維盛卿の外は、大臣殿以下妻子を具せられけれ共、次樣の人共はさのみ引しろふに及ばねば、後會其期を知らず、皆打捨てぞ落行ける。人は何れの日、何れの時、必ず立歸べしと其期を定置だにも、久しきぞかし。況や是は今日を最後、唯今限の事なれば、行くも止まるも、互に袖をぞ濕しける。相傳譜代の好年比日比の重恩、爭か忘べきなれば、老たるも若きも、後のみ歸り見て、前へは進みもやらざりけり。或は磯邊の波枕、八重の潮路に日を暮し、或は遠きを分け、嶮しきを凌ぎつゝ、駒に鞭打人もあり舟にさをさす者もあり、思々心々に落行けり。 平家は福原の舊都に著て、大臣殿然るべき侍共老少數百人召て仰られけるは、「積善の餘慶家に盡き、積惡の餘殃身に及ぶ故に、神明にも放たれ奉り、君にも捨られ參らせて、帝都を出て旅泊に漂ふ上は、何の憑みか有るべきなれ共、一樹の蔭に宿るも、前世の契淺からず、同じ流を掬ぶも、他生の縁尚深し。如何に況や、汝等は一旦隨ひ付く門客にあらず、累祖相傳の家人也。或は近親の好他に異なるも有り、或は重代芳恩是深きも有り。家門繁昌の古へは、恩波に依て、私を顧みき。今何ぞ芳恩を酬ひざらんや。且は十善帝王、三種神器を帶して渡らせ給へば、如何ならん野の末山の奧迄も、行幸の御供仕らんとは思はずや。」と仰られければ老少皆涙を流いて申けるは、「怪しの鳥獸も、恩を報じ徳を酬ふ心は候なり。況や、人倫 の身として、いかが其理を存知仕らでは候べき。廿餘年の間、妻子を育み、所從を顧み候事、併ら君の御恩ならずといふ事なし。就中に弓箭馬上に携る習ひ、二心あるを以て恥とす。然ば則ち日本の外、新羅、百濟、高麗、契丹、雲の果海の果迄も、行幸の御供仕て、如何にも成候はん。」と、異口同音に申ければ、人々皆憑氣にぞ見えられける。 福原の舊里に、一夜をこそ明されけれ。折節秋の初の月は下の弦なり。深更空夜閑にして、旅寢の床の草枕、露も涙も爭ひて、唯物のみぞ悲き。何歸るべし共覺えねば、故入道相國の造り置き給ひし所々を見給ふに、春は花見の岡の御所、秋は月見の濱の御所、泉殿、松蔭殿、馬場殿、二階の棧敷殿、雪見の御所、萱の御所、人々の館ども五條大納言國綱卿の承て造進せられし里内裏、鴦の瓦、玉の甃、何れも/\三年が程に荒果てゝ、舊苔徑を塞ぎ、秋の草門を閉づ。瓦に松生ひ垣に蔦茂れり。臺傾て苔むせり、松風ばかりや通ふらん。簾絶え閨露は也、月影のみぞ差入ける。明ぬれば福原の内裏に火を懸て、主上を始奉て人々皆御船に召す。都を立し程こそ無れども是も名殘は惜かりけり。海士の燒藻の夕煙、尾上の鹿の曉の聲、渚々に寄する浪の音、袖に宿かる月の影、千草にすだく蟋蟀のきり/\す、惣て目に見耳に觸る事、一として哀れを催し、心を痛しめずといふ事なし。昨日は東關の麓に轡を竝べて十萬餘騎、今日は西海の浪に纜を解て七千餘人、雲海沈々として、青天既に暮なんとす。孤島に夕霧隔て、月海上に浮べり。極浦の浪を分け、鹽に引かれて行船は、半天の雲に泝る。日數歴れば、都は既に山川 程を隔て、雲井の餘所にぞ成にける。遙々來ぬと思ふにも、唯盡ぬ者は涙なり。浪の上に白き鳥のむれゐるを見給ひては、彼ならん、在原のなにがしの隅田川にて言問ひけん、名も睦敷き都鳥にやと哀也。壽永二年七月二十五日に、平家都を落果ぬ。 [1] Nihon Koten Bungaku Taikei (Tokyo: Iwanami Shoten, 1957, vol. 33; hereafter cited as NKBT) reads 遲々にも及ばず. [2] NKBT reads 玄房. [3] NKBT reads 玄房. [4] NKBT reads 玄房. [5] Our copy-text reads 大 噪いで. The character に was added to our text from the standard text in NKBT. [6] NKBT reads 貞能は. -------------------------------------------------------------------------------- 平家物語卷第八 山門御幸 壽永二年七月廿四日夜半許、法皇は按察使大納言資方卿の子息右馬頭資時ばかり御伴にて、竊かに御所を出させ給ひ、鞍馬へ御幸なる。鞍馬寺僧ども、「是は猶都近くて惡う候なん」と申間篠の峯藥王坂など云ふ嶮き嶮難を凌がせ給て、横川の解脱谷寂場坊御所になる。大衆起て、「東塔へこそ御幸在べけれ。」と申ければ、東塔の南谷圓融房御所になる。かゝりしかば、衆徒も武士も、圓融房を守護し奉る。法皇は仙洞を出でて天台山に、主上は鳳闕を去て西海へ、攝政殿は芳野の奧とかや。女院宮々は、八幡、賀茂、嵯峨、太秦、西山、東山の片邊りに附て、迯隱させ給へり。平家は落ぬれど、源氏は未だ入替らず。既に此京は主なき里にぞ成にける。開闢より以來、かゝる事あるべしともおぼえず。聖徳太子の未來記にも、今日の事こそ床しけれ。 法皇天台山に渡せ給と聞えさせ給しかば、馳參らせ給ふ人々、其比の入道殿と申は、前關白松殿、當殿とは近衞殿、太政大臣、左右大臣、内大臣、大納言、中納言、宰相、三位、四位、五位の殿上人、すべて世に人とかぞへられ、官加階に望をかけ、所帶所職を帶する程の人の、 一人も漏るは無りけり。圓融房には、餘りに參りつどひて、堂上堂下門外門内、隙はさまなく充々たる。山門繁昌門跡の面目とこそ見えたりけれ。 同廿八日に法皇都へ還御なる。木曾五萬餘騎にて守護し奉る。近江源氏山本の冠者義高、白旗差て先陣に供奉す。此二十餘年見えざりつる白旗の、今日始めて都へ入る、珍しかりし事共なり。 去程に十郎藏人行家、宇治橋を渡て都へ入る。陸奧新判官義康が子、矢田判官代義清、大江山を經て上洛す。攝津國河内の源氏共雲霞の如くに同く都へ亂入る。凡京中には源氏の勢充々たり。勘解由小路中納言經房卿、檢非違使別當左衞門督實家院の殿上の簀子に候て、義仲行家を召す。木曾は赤地の錦の直垂に、唐綾威の鎧著て、いか物作の太刀を帶き、切斑の矢負ひ、滋籐の弓脇に挾み、甲をば脱ぎ高紐にかけて候。十郎藏人は、紺地の錦の直垂に、緋威の鎧著て、金造りの太刀を帶き、大中黒の矢負ひ、塗籠籐の弓脇に挾み、是も甲をば脱ぎ高紐にかけ、ひざまついて候ひけり。前内大臣宗盛公以下、平家の一族追討すべき由仰下さる。兩人庭上に畏て承る。各宿所のなき由を申す。木曾は大膳太夫成忠が宿所、六條西洞院を給はる。十郎藏人は、法住寺殿の南殿と申す萱の御所をぞ給はりける。法皇は主上外戚の平家に取らはれさせ給て、西海の浪の上に漂はせ給ふ事を、御歎き有て、主上竝に三種の神器、都へ返入れ奉るべき由、西國へ院宣を下されたりけれども、平家用ゐ奉らず。 高倉院の皇子は、主上の外三所おはしき。二宮をば、儲の君にし奉らんとて、平家いざな ひ參らせて、西國へ落給ぬ。三四は都にまし/\けり。同八月五日、法皇此宮達を迎へ寄せ參らせ給て、先三の宮の五歳に成せ給ふを、「是へ/\」と仰ければ、法皇を見參させ給ひて大にむつがらせ給ふ間、「とう/\」とて出し參させ給ひぬ。其後四の宮の四歳に成せ給ふを、「是へ」と仰せければ少も憚らせ給はず、やがて法皇の御膝の上に參せ給ひて、世にも懷氣にぞ坐しける。法皇御涙をはら/\と流させ給ひて、「げにもすぞろならむ者は、か樣の老法師を見て何とてか懷氣には思ふべき。是ぞ我實の御孫にてぞまし/\ける。故院の少生に少も違せ給はぬ者哉。かゝる忘れ形見を、今迄見ざりける事よ。」とて、御涙塞あへさせ給はず。淨土寺の二位殿、其時は未丹後殿とて御前に候はせ給ふが、「さて御讓は此宮にてこそ渡らせおはしまし候はめ。」と申させ給へば、法皇「仔細にや。」とぞ仰ける。内々御占のありしにも、「四宮位に即せ給ひてば、百王迄も日本國の御主たるべし。」とぞ勘へ申ける。 御母儀は七條修理大夫信隆卿の御娘なり。建禮門院の未だ中宮にてまし/\ける時其御方に宮仕給ひしを、主上常は召れける程に、うち續き宮あまた出來させ給へり。信隆卿、御娘餘たおはしければ、如何にもして女御后にもなしたてまつらばやとねがはれけるに、人の家に白い鷄を千飼つれば、其家に必ず后出來たると云ふ事有りとて、鷄の白いを千そろへて飼はれたりける故にや、此御娘皇子數多生參せ給へり。信隆卿内々うれしうは思はれけれども、平家にも憚り、中宮にも恐れ參せて、もてなし奉る事もおはせざりしを、入道相國の北方八條の二位殿、「苦しかるまじ、我育て參せて、儲の君にして奉らむ。」とて、御乳母共あ また附て、そだて參せ給ひけり。 中にも四宮は、二位殿の兄法勝寺執行能圓法師の養君にてぞ坐ける。法印平家に具せられて、西國へ落し時、餘りに遽噪いで、北方をも宮をも京都に棄置參せて下られたりしが、西國より急ぎ人を上せて、「女房宮具し參せて、よく/\くだり給べし。」と申されたりければ、北方斜ならず悦び、宮いざなひ參せて、西の七條なる處まで出られたりしを、女房の兄紀伊守教光、「是は物の附て狂給ふか。此宮の御運は唯今開かせ給はんずる者を。」とて、取留參せたりける次の日ぞ、法皇より御迎の車參りたりける。何事も然べき事と申ながら四宮の御爲には、紀伊守教光は奉公の人とぞ見えたりける。されども四宮位に即せ給ひて後、其情をも思召し出でさせ給はず、朝恩もなくして年月を送けるが、せめて思ひの餘りにや二首の歌を詠うで、禁中に落書をぞしたりける。 一聲は思ひ出てなけほとゝぎす、老蘇の森の夜半の昔を。 籠の内も猶羨まし山がらの、身のほどかくす夕顏の宿。 主上是を叡覽あて「あな無慚や、されば未だ世に長らへてありけるな。今日まで是を思召寄らざりけるこそ愚なれ。」とて、朝恩蒙り、正三位に敍せられけるとぞ聞えし。 -------------------------------------------------------------------------------- 名虎 同八月十日、院の殿上にて除目行はる。木曾は左馬頭に成て、越後國を給はる。其上朝日の 將軍と云ふ院宣を下されけり。十郎藏人は備後守に成る。木曾は越後をきらへば伊豫をたぶ。十郎藏人備後を嫌へば備前を給ぶ。其外源氏十餘人、受領、檢非違使、靱負尉、兵衞尉に成れけり。 同十六日、平家の一門百六十餘人が官職を停て、殿上の御札を削らる。其中に、平大納言時忠卿、内藏頭信基、讃岐中將時實、是三人は削られず。其は主上幵に三種の神器都へ返入れ奉るべき由、彼時忠卿の許へ度々院宣を下されけるに依て也。 同八月十七日、平家は筑前國御笠郡太宰府にこそ著給へ。菊池二郎高直は、都より平家の御供に候けるが、大津山の關開けて參らせんとて、肥後國へ打越えて、己が城に引籠り、召せ共/\參らず。當時は岩戸の諸卿大藏種直計ぞ候ける。九州二島の兵どもやがて參るべき由領状を申ながら參らず。平家安樂寺へ參て、歌詠み連歌して、宮仕し給ひしに、本三位中將重衡卿、 住なれし故き都の戀しさは、神も昔に思ひしるらん。 人々是を聞て、皆涙を流されけり。 同廿日、都には法皇の宣命にて、四宮閑院殿にて位に即せ給ふ。攝政は本の攝政近衞殿、替らせ給はず、頭や藏人成置きて、人々皆退出せられけり。三の宮の御乳母泣悲み後悔すれども甲斐ぞなき。天に二の日なし、國に二人の王なしとは申せども、平家の惡行に依てこそ、京田舎に二人の王は坐けれ。 昔文徳天皇は天安二年八月二十三日に隱れさせ給ひぬ。御子の宮達あまた位に望を懸て坐ますは内々御祈とも有けり。一の御子惟高親王をば、小原皇子とも申き。王者の才量を御心に懸け、四海の安危は掌の中に照し、百王の理亂は心の中にかけ給へり。されば賢聖の名をも取せ坐ぬべき君なりと見え給へり。二宮惟仁親王は、其比の執柄忠仁公の御娘、染殿の后の御腹也。一門公卿列して持成奉り給ひしかば、是も差置き難き御事なり。彼は守文繼體の器量有り。是は萬機輔佐の臣相有り。彼も是も痛はしくて、何れも思召煩れき。一宮惟高親王の御祈は、柿本紀僧正信濟とて、東寺の一の長者、弘法大師の御弟子也。二宮惟仁親王の御祈には、外祖忠仁公の御持僧、比叡山の惠亮和尚ぞ承はられける。互に劣らぬ高僧達也。とみに事行難うや有んずらんと人々ささやきあへり。御門隱させ給しかば、公卿僉議有り。「抑臣等が、慮を以て、選んで位に即奉ん事、用捨私有に似たり、萬人唇を反べし。しらず、競馬相撲の節を遂げて其運を知り、雌雄に依て、寶祚を授け奉るべし。」と議定畢ぬ。 同九月二日二人の宮達右近馬場へ行啓有り。爰に王公卿相、花の袂を粧ひ、玉の轡を竝べ、雲の如に重なり、星の如くに列り給ひしかば、此事希代の勝事、天下の壯なるみもの、日來心を寄奉りし月卿雲客、兩方に引分て、手を握り心を碎き給へり。御祈の高僧達、何れか疎略あらむや。信濟は東寺に壇を立て、惠亮は大内の眞言院に壇を立て行なはれけるに、惠亮は失たりと云ふ披露をなさば信濟僧正たゆむ心もやあるらんとて、惠亮和尚失たりといふ披露を成し、肝膽を碎いて祈れけり。既に十番の競馬始る。始め四番は一の宮惟高親王勝せ給 ふ。後六番は二の宮惟仁親王勝せ給ふ。やがて相撲の節有るべしとて、惟高の御方より、名虎右兵衞督とて、六十人が力現したるゆゝしき人をぞ出されたる。惟仁親王家よりは、能雄少將とて、背小うたへにして、片手に合べしとも見えぬ人、御夢想の御告有とて、申請けてぞいでられたる。名虎、能雄寄合うて、ひし/\とつま取して退にけり。暫し有て名虎、能雄少將を取てさゝげて、二丈許ぞ投たりける。たゞなほて倒れず。能雄又つと寄り、えい聲を上て名虎を取て伏むとす。名虎もともに聲をいだして能雄をとてふせむとす。何れ劣れりとも見えず。されども、名虎大の男、かさに廻る。能雄は危なう見えければ、二宮惟仁親王家の御母儀染殿后より、御使櫛の齒の如く、走り重て、「御方すでに劣色に見ゆ。如何せむ。」と [1]仰けれは、惠亮和尚、大威徳の法を修せられけるが、「こは心憂事にこそ。」とて、獨鈷を以て腦を撞碎き、乳に和して護摩に燒き、黒烟を立て、一揉揉まれたりければ、能雄相撲に勝にけり。親王位に即せ給ふ。清和御門是なり。後には水尾天皇とぞ申ける。其よりしてこそ山門には聊の事にも、惠亮腦を碎けば、二帝位に即き給ひ、尊位智劍を振しかば、菅相納受し給ふとも傳たれ。是のみや法力にても有けん。其外は皆天照大神の御はからひとぞ承はる。平家は西國にて是を傳聞きぬ。「安からぬ。三宮をも四宮をも取參せて落下べかりしものを。」と後悔せられければ、平大納言時忠卿、「さらむには木曾が主にしたてまつたる高倉宮の御子を、御乳母讃岐守重秀が、御出家せさせ奉り、具し參せて北國へ落下りしこそ、位には即け給はんずらめ」と宣へば、又或人々の申されけるは、「それは出家の宮をばいかゞ、位に即奉 るべき。」時忠「さもさうず、還俗の國王の樣、異國にも先蹤有らん、我朝には先天武天皇未だ東宮の御時、大伴皇子に憚からせ給て、鬢髮を剃り、芳野の奧に忍ばせ給せたりしかども、大伴皇子を亡して、終には位に即せ給ひき。又孝謙天皇も、大菩提心を發し、御飾をおろさせ給ひ、御名をば法基尼と申しかども、再位に即て、稱徳天皇と申しぞかし。まして木曾が主にし奉りたる還俗の宮、仔細在まじ。」とぞ宣ひける。 同九月二日の日、法皇より伊勢へ公卿の勅使を立らる。勅使は參議長教とぞ聞えし。太上天皇の伊勢へ公卿の勅使を立らるゝ事は、朱雀、白河、鳥羽三代の蹤跡ありといへども、是皆御出家以前なり。御出家以後の例はこれ始めとぞ承る。 -------------------------------------------------------------------------------- 緒環 去程に筑紫には、内裏造るべき由沙汰ありしかども、未だ都も定められず。主上は岩戸諸卿大藏種直が宿所に渡らせ給ふ。人々の家々は、野中田中なりければ、麻の衣は擣ねども、十市里とも謂つべし。内裏は山の中なれば、彼木の丸殿も角やと覺えて、中中優なる方も有けり。先宇佐宮へ行幸なる。大宮司公道が宿所皇居になる。社頭は月卿雲客の居所に成る。廊には五位六位の官人庭上には四國鎭西の兵ども、甲冑弓箭を帶して、雲霞の如く竝居たり。舊にし丹の玉垣、再飾るとぞ見えし。七日參籠の明方に、大臣殿の御爲に、夢想の告ぞ有ける。御寶殿の御戸推開き、ゆゆしう氣高げなる御聲にて、 世の中のうさには神もなき物を、何いのるらん心づくしに。 大臣殿打驚き、胸打噪ぎ、 さりともと思ふ心も蟲の音も、よわりはてぬる秋のくれかな。 と云ふ古歌をぞ心細げに口ずさみ給ける。 さる程に九月十日餘りに成にけり。荻の葉むけの夕嵐、獨丸寢の床の上、片布く袖もしをれつつ、深行く秋の哀さは、何くもとは云ながら、旅の空こそ忍難けれ。九月十三夜は、名を得たる月なれども、其夜は都を思出る涙に、我から曇てさやかならず。九重の雲の上、久堅の月に思を述し夕も、今の樣に覺て、薩摩守忠度、 月を見し去年の今宵の友のみや、都に我を思出らん。 修理大夫經盛 戀しとよこぞのこよひの夜もすがら、契りし人の思出られて。 皇后宮亮經正 分て來し野邊の露とも消えずして、思はぬ里の月を見る哉。 豐後國は刑部卿三位頼資卿の國也けり。子息頼經朝臣を代官に置かれたり。京より頼經の許へ、平家は神明にも放たれ奉り、君にも捨られ參せて、帝都を出で、浪の上に漂ふ落人となれり。然を鎭西の者共が請取て、もてなすこそ奇怪なれ。當國に於ては從ふべからず。一味同心して、追出すべき由、宣ひ遣されたりければ、頼經朝臣是を當國の住人緒方三郎維義に 下知す。 彼維義は、怖き者の末なりけり。。譬へば豐後國の片山里に昔女有りけり。或人の一人娘、夫も無りけるが許へ母にも知せず、男夜な夜な通ふ程に、年月も重なる程に、身も只ならず成ぬ。母是を怪しむで、「汝が許へ通ふ者は、何者ぞ。」と問へば、「來るをば見れども、歸るをば知らず。」とぞいひける。「さらば男の歸らん時、驗しを附て行む方を繋いで見よ。」とぞ教へければ、娘母の教に從て、朝歸りする男の水色の狩衣を著たりけるに狩衣のくびがみに、針を刺し、賤の小手卷といふ物を著て、歴て行方を繋いで行けば、豐後國に取ても、日向境、姥嶽と云ふ嵩のすそ、大きなる岩屋の中へぞ繋ぎ入たる。女岩屋の口にたゝずんで聞けば、大きなる聲してぞによびける。「わらはこそ是まで尋參たれ、見參せむ。」と云ければ、我は是人の姿にはあらず、汝我姿を見ては、肝魂も身に副まじき也。とう/\歸れ。汝が孕める子は、男子なるべし。弓矢打物取て、九州二島にならぶ者も有まじきぞ。」といひける。女重て申けるは、「縱如何なる姿にても有れ、日ごろの好などか忘るべき、互に姿をも見もし見えむ。」といはれて、「さらば。」とて、岩屋の中より臥長は五六尺、跡枕べは十四五丈も有らんと覺る大蛇にて、動搖してこそ這出たれ。狩衣のくびがみに刺すと思つる針は、即大蛇の のどぶえにこそ差いたりけれ。女是を見て肝魂も身にそはず、引具したる所從十餘人倒れふためき喚叫んで逃去ぬ。女歸て、程なく産をしたりければ、男子にてぞ有ける。母方の祖父大太夫生立て見むとて生立たれば、未十歳にも滿ざるに、背大に顏長く長高かりけり。七歳にて元服せさせ、 母方の祖父を、大太夫といふ間、是をば大太とこそ附たりけれ。夏も冬も、手足に大きなる胝隙なくわれければ、胝大太とこそいはれけれ。件の大蛇は日向國に崇められ給へる高知尾の明神の神體是也。此緒方の三郎はあかがり大太には五代の孫也。かゝる怖ろしき者の末なりければ國司の仰せを院宣と號して九州二島に囘し文をしければ然るべき兵共維義に隨ひ付く。 -------------------------------------------------------------------------------- 太宰府落 平家いまは筑紫に都を定め、内裏造るべきよし沙汰ありしに維義が謀反と聞えしかば、こは如何と噪がれけり。平大納言時忠卿申されけるは、「彼維義は、小松殿の御家人也。小松殿の君達一所向はせ給ひて、こしらへて御覽ぜらるべうや候らん。」と申されければ、誠にもとて、小松の新三位中將資盛卿五百餘騎で豐後國に打越えて樣々にこしらへ給へども、維義從奉らず。剩へ「君達をも、只今爰で取籠參すべう候へども、大事の中の小事なれとて、取籠參らせずは、何程の事か渡せ給ふべき。とう/\太宰府へ歸らせ給ひて、只御一所で如何にも成せ給へ。」とて、追返し奉る。維義が次男、野尻次郎維村を使者で、太宰府へ申けるは、「平家は重恩の君にてましませば、甲を脱ぎ弦を弛いて參るべう候へども、一院の御定に速に九國内を逐出し參らせよと候。急ぎ出させ給ふべうや候らん。」と申送たりければ、平大納言時忠卿、緋緒括の袴、絲葛の直垂、立烏帽子で、維村に出向て宣けるは、「夫我君は、天 孫四十九世の正統、人王八十一代の御門也。天照大神正八幡宮も、吾君をこそ守り參させ給らめ。就中に故太政大臣入道殿は保元平治兩度の逆亂を靜め、其上鎭西の者どもをばうち樣にこそ召されしか。東國北國の凶徒等が頼朝義仲等に語らはれて、爲おほせたらば國を預けう、庄をたばんといふを、實と思ひて、其鼻豐後が下知に從はん事、然べからず。」とぞ宣ける。豐後國司刑部卿三位頼資卿は、究て鼻の大きにおはしければ、かうは宣けり。維村歸て、父に此由云ければ、「こは如何に、昔は昔今は今、其儀ならば、速に九國の中を逐出し奉れ。」とて、勢汰ふるなど聞えしかば、平家の侍源太夫判官季定、攝津判官守澄、「向後傍輩のため奇怪に候。召取候はん。」とて、其勢三千餘騎で、筑後國、高野本庄に發向して、一日一夜攻戰ふ。されども維義が勢、雲霞の如く重りければ、力及ばで引退く。 平家は緒方の三郎維義が三萬餘騎の勢にて、既に寄すと聞えしかば、取物も取あへず、太宰府をこそ落給へ。さしも憑しかりつる天滿天神の注連の邊を心細も立離れ、駕輿丁も無れば、葱花鳳輦は唯名のみ聞きて、主上腰輿にぞ召れける。國母を始め奉て、止事なき女房達、袴の裾を取り大臣殿以下の卿相雲客、指貫のそば挾み、水城の戸を出で、歩跣にて我さきに前にと、箱崎の津へこそ落給へ。折節降る雨車軸の如し、吹く風砂をあぐとかや。落る涙降る雨、分きて何れも見えざりけり。住吉、箱崎、香椎、宗像、伏拜み、唯主上舊都の還幸とのみぞ祈られける。たるみ山、鶉濱などいふ峨々たる嶮難を凌ぎ渺々たる平沙へぞ趣き給ふ。何つ習はしの御事なれば、御足より出づる血は砂を染め、紅の袴は色をまし、白袴はすそ紅 にぞなりにける。彼玄弉三藏の流沙葱嶺を凌れけん苦も、是には爭かまさるべき。されども其は求法の爲なれば、自他の利益も有けん。是は怨敵の故なれば、後世の苦、且思ふこそ悲けれ。原田大夫種直は二千餘騎で平家の御ともにまゐる。山鹿兵藤次秀遠數千騎で平家の御むかひにまゐりけるが、種直秀遠以外に不和になりければ、種直はあしかりなんとて道より引かへす。あし屋の津といふ處をすぎさせ給ふにもこれは我が都より福原へ通し時、里の名なればとていづれの里よりもなつかしう今更あはれをぞもよほされける。新羅、百濟、高麗、契丹、雲の終海の終迄も、落行ばやとはおぼしけれども波風向うて叶はねば、兵藤次秀遠に具せられて、山賀城にぞ籠り給ふ。山賀へも又敵寄すと聞えしかば、小舟共に召て、通夜豐前國、柳浦へぞ渡り給ふ。爰に、内裏造るべき由沙汰有しかども、分限無かりければ造られず。又長門より源氏寄と聞えしかば、海士小舟に取乘て、海にぞ浮び給ひける。 小松殿の三男、左の中將清經は、本より何事も思入れける人なれば「都をば源氏が爲に攻落され、鎭西をば維義が爲に追出さる。網に懸れる魚の如し。何くへ行かば遁べきかは。長らへ果べき身にもあらず。」とて、月の夜心を澄し舟の屋形に立出て、横笛音取朗詠して、遊ばれけるが、閑に經讀み念佛して、海にぞ沈み給ひける。男女泣悲めども甲斐ぞなき。 長門國は新中納言知盛卿の國なりけり。目代は紀伊刑部大夫通資と云ふ者也。平家の、小船どもに乘り給へる由承て、大船百餘艘點じて奉る。平家是に乘移り、四國の地へぞ渡られける。重能が沙汰として、四國の内を催して讃岐の八島にかたの樣なる板屋の内裏や、御所をぞ造 せける。其程は怪の民屋を皇居とするに及ばねば、船を御所とぞ定めける。大臣殿以下の卿相雲客、海士の蓬屋に日を送り、賤がふしどに夜を重ね、龍頭鷁首を海中に浮べ、浪の上の行宮は、靜なる時なし。月を浸せる潮の深き愁に沈み、霜を掩へる葦の葉の脆き命を危ぶむ。洲崎に騒ぐ千鳥の聲は、曉の恨をまし、そはゐにかゝる かぢの音、夜半に心を傷しむ。遠松に白鷺のむれ居るを見ては、源氏の旗を擧るかと疑ひ、野雁の遼海に鳴を聞ては、兵共の終夜船を漕かと驚かる。晴嵐肌を侵し、翠黛紅顏の色漸々衰、蒼波眼穿て、外土望郷の涙押へがたし。翠帳紅閨にかはれるは、土生の小屋の葦簾、薫爐の煙に異る蘆火燒く屋の賤きに附ても、女房達盡せぬもの思ひに、紅の涙塞敢ず、緑の黛亂つゝ、其人とも見え給はず。 -------------------------------------------------------------------------------- 征夷將軍院宣 さる程に鎌倉前右兵衞佐頼朝、居ながら征夷將軍の院宣を蒙る。御使は左史生中原泰定とぞ聞えし。十月十四日關東へ下著す。兵衞佐宣ひけるは、「頼朝年來勅勘を蒙たりしかども、今武勇の名譽長ぜるに依て、居ながら征夷將軍の院宣を蒙る。如何んが私で請取奉るべき。若宮の社にて、給はらん。」とて、若宮へ參り向はれけり。八幡は鶴岡に立せ給へり。地形石清水に違ず、廻廊有り、樓門有り、作路十餘町見下たり。「抑院宣をば、誰してか請取り奉るべき。」とて評定有り。三浦介義澄して請取奉るべし。其故は、八箇國に聞えたりし弓矢取、三浦平太郎爲嗣が末葉也。其上父大介は君の御爲に命を捨たる兵なれば、彼義明が黄泉の冥闇 を照さんが爲とぞ聞えし。院宣の御使泰定は、家子二人郎等十人具したり。院宣をば文袋に入て雜色が頸にぞ懸させたりける。三浦介義澄も家子二人郎等十人具したり。二人の家子は、和田三郎宗實、比企藤四郎能員なり。十人の郎等をば大名十人して、俄に一人づゝ仕立けり。三浦介がその日の裝束にはかちの直垂に、黒絲威の鎧著て、いか物造の大太刀はき、廿四差たる大中黒の矢負ひ、滋籐の弓脇に挾み、甲をば脱ぎ高紐にかけ、腰を曲めて院宣を請取る。泰定「院宣を請取奉る人は如何なる人ぞ、名乘れや。」と云ければ、三浦介とは名乘らで、本名を三浦の荒次郎義澄とこそ名乘たれ。院宣をばらん箱に入られたり。兵衞佐に奉る。稍有てらん箱をば返されけり。重かりければ、泰定是を明て見るに、砂金百兩入られたり。若宮の拜殿にして、泰定に酒を勸らる。齋院次官親義陪膳す。五位一人役送を勤む。馬三匹引かる。一匹に鞍置たり。大宮の侍狩野工藤一臈資經是を引く。古き萱屋をしつらうて、いれられたり。厚綿の衣二兩、小袖十重長持に入て設たり、紺藍摺白布千端を積めり。杯盤豐にして美麗なり。 次の日兵衞佐の館へ向ふ。内外に侍あり、共に十六間也。外侍には家子郎等、肩を竝べ膝を組でなみ居たり。内侍には一門の源氏上座して、末座には大名小名次居たり。源氏の座上に泰定を居らる。良有て寢殿へ向ふ。廣廂に紫縁の疊を敷いて、泰定を居らる。上には高麗縁の疊を敷御簾高く揚させて、兵衞佐殿出られたり。布衣に立烏帽子也。顏大に背低かりけり。容貌優美にして言語分明也。まづ子細を一々のべ給ふ。「平家頼朝が威勢に恐て、都を 落ぬ。其の跡に木曾冠者、十郎藏人打入て、我高名顏に、官加階を思ふ樣に成り、剩へ國を嫌ひ申す條奇怪也。奧の秀衡が陸奧守になり、佐竹四郎隆義が常陸守に成て候とて頼朝が命に從はず。急ぎ追討すべき由の院宣を給はるべう候。」左史生申けるは、「今度泰定も名簿參らすべう候が御使で候へば、先づ罷上てやがて認て參すべう候。弟で候ふ史の大夫重能も其儀を申候。」兵衞佐笑て、「當時頼朝が身として、各の名簿思もよらず。さりながらげにも申されば、さこそ存ぜめ。」とぞ宣ひける。やがて今日上洛すべき由申す。今日ばかりは逗留あるべしとて留らる。 次の日兵衞佐の館へ向ふ。萌黄絲威の腹卷一兩、白う作たる太刀一振、滋籐の弓野矢副てたぶ。馬十三匹引る。三匹に鞍置たり。家子郎等十二人に、直垂、小袖、大口、馬鞍に及び、荷懸駄三十匹有けり。鎌倉出の宿より鏡宿に至るまで、宿々十石づゝの米を置かる。澤山なるに依て、施行に引けるとぞ聞えし。 -------------------------------------------------------------------------------- 猫間 泰定都へ上り、院參して、御坪の内にして、關東の樣具に奏聞しければ、法皇も御感有けり、公卿殿上人も皆ゑつぼにいり給へり。兵衞佐はかうこそゆゝしくおはしけるに、木曾左馬頭都の守護して在ける立居の振舞の無骨さ、もの云詞續の頑なる事限なし。理哉、二歳より信濃國木曾といふ山里に三十迄住馴たりしかば爭かよかるべき。或時猫間中納言光高卿とい ふ人。木曾に宣ひ合すべき事有て坐たりけり。郎等共「猫間殿の見參に入り申べき事ありとて入せ給ひて候。」と申ければ、木曾大に笑て、「猫は人に見參するか。」「是は猫間中納言殿と申公卿で渡せ給ふ。御宿所の名と覺え候。」と申ければ、木曾「さらば」とて對面す。猶も猫間殿とはえいはで、「猫殿のまれ/\わいたるに物よそへ。」とぞ宣ひける。中納言是を聞て「只今あるべうもなし。」と宣へば、「いかゞけときにわいたるに、さてはあるべき。」何も新き物を無鹽といふと心得て「こゝに無鹽の平茸有り、とう/\。」と急がす。根井小彌太陪膳す。田舎合子の極て大にくぼかりけるに、飯堆くよそひ、御菜三種して、平茸の汁で參せたり。木曾が前にも同じ體にて居たりけり。木曾箸取て食す。猫間殿は、合子のいぶせさに、召ざりければ、「其は義仲が精進合子ぞ。」中納言召でもさすが、あしかるべければ、箸取て食由しけり。木曾是を見て、「猫殿は小食におはしけるや。きこゆる猫おろしし給ひたり。かい給へ。」とぞ責たりける。中納言殿、か樣の事に興醒て宣ひ合すべき事も、一言も出さず、軈て急ぎ歸られけり。 木曾は、官加階したる者の、直垂で出仕せん事有べうもなかりけりとて、始て布衣とり、裝束烏帽子きはより指貫のすそまで、誠に頑なり。され共車にこのみのんぬ。鎧取て著、矢掻負ひ、弓持て、馬に乘たるには似もにず惡かりけり。牛車は八島の大臣殿の牛車也。牛飼もそれなりけり。世にしたがふ習ひなれば、とらはれてつかはれけれども、あまりのめざましさに、すゑ飼うたる牛の逸物なるが、門出る時、一標當たらうに、なじかはよかるべき。 飛で出るに木曾車の内にて、あふのけに倒れぬ。蝶の羽を廣げたる樣に、左右の袖をひろげて、起む/\とすれども、なじかは起きらるべき。木曾牛飼とはえ言で、「やれ小牛健兒、やれ小牛健兒。」といひければ、車をやれといふと心得て、五六町こそあがかせたれ。今井四郎兼平鞭鐙を合て、追附て、「如何に御車をばかうは仕るぞ。」と呵りければ、「御牛の鼻が強う候。」とぞのべたりける。牛飼中直せんとや思ひけん、「其に候手がたに取著せ給へ。」と申ければ、木曾手がたに無手と取著て、「あはれ支度や、是は牛健兒がはからひか、殿の樣か。」とぞ問うたりける。さて院御所に參著き、車かけはづさせ、後より下んとしければ、京の者の雜色に使はれけるが、「車は、召され候時こそ後より召され候へ。下させ給ふには前よりこそ下させ給へ。」と申けれども、「爭で車ならんからに、すどほりをばすべき。」とて、終に後より下てけり。其外をかしき事共多かりけれども、恐て是を申さず。 -------------------------------------------------------------------------------- 水島合戰 平家は讃岐の八島に有ながら、山陽道八箇國、南海道六箇國、都合十四箇國をぞ討取ける。木曾左馬頭是を聞き、安からぬ事也とて、やがて討手を差遣す。討手の大將には矢田判官代義清、侍大將には、信濃國の住人海野彌平四郎行廣、都合其勢七千餘騎山陽道へ馳下り、備中國水島が渡に舟を浮べて、八島へ既に寄んとす。 同閏十月一日、水島が渡に小船一艘出來たり。海士船釣船かと見る程に、さはなくして、 平家方より牒の使船也。是を見て、源氏の舟五百餘艘ほしあげたるををめき叫んで下けり。平家は千餘艘でおし寄たり。平家の方の大手の大將軍には新中納言知盛卿、搦手の大將軍には能登守教經也。能登殿宣ひけるは、「如何に者共、いくさをばゆるに仕るぞ。北國の奴原に生捕られんをば、心憂とは思はずや。御方の船をば組や。」とて、千餘艘が艫綱舳綱を組合せ、中にもやひを入れ、歩の板を引渡いたれば、船の上は平々たり。源平兩方鬨を作り、矢合して、互に舟ども推合せて責戰ふ。遠きをば弓で射、近きをば太刀で切り、熊手に懸て取もあり、取るゝもあり。引組て海に入もあり。刺違へて、死ぬるもあり。思ひ/\心々に勝負をす。源氏の方の侍大將海野彌平四郎討れにけり。是を見て大將軍矢田判官代義清主從七人小舟に乘て、眞先に進で戰ふ程に、如何したりけん、船踏沈て皆死ぬ。平家は鞍置馬を船の中に立られたりければ、船差寄せ馬共引下し、打乘/\をめいて懸ければ、源氏の勢大將軍は討れぬ。我先にとぞ落行ける。平家は水島の軍に勝てこそ、會稽の恥をば雪けれ。 -------------------------------------------------------------------------------- 瀬尾 さい後 木曾左馬頭是をきゝ、安からぬ事也とて、一萬騎で山陽道へ馳下る。平家の侍備中國住人瀬尾太郎兼康は、北國の戰ひに、加賀國の住人藏光次郎成澄が手にかゝて、生捕にせられたりしを、成澄が弟藏光三郎成氏に預けられたり。きこゆる剛の者大力なりければ、木曾殿あたらをのこを失ふべきかとて切らず、人あひ心樣優に情ありければ、藏光も懇にもてなしけり。 蘇子卿が胡國に囚はれ、李少卿が漢朝へ歸らざりしが如し。遠く異國につける事は、昔の人の悲めりし處也と云へり。韋鞴毳幕、以て風雨を禦ぎ、羶肉酪漿、以て飢渇に充つ。夜は寢事なく、晝は終日につかへ、木を伐草を刈ずと云ふ許に從ひつゝ、如何にもして敵を窺ひ討て、今一度舊主を見奉らんと、思ひける兼康が、心の程こそ怖けれ。 或時瀬尾太郎藏光三郎に逢うて云ひけるは、「去ぬる五月よりかひなき命を助けられ參せて候へば、誰をたれとか思ひ參せ候べき。自今以後御軍候はゞ、ま先かけて木曾殿に命を參せん。兼康が知行仕り候し備中の瀬尾は、馬の草飼好い處で候。御邊申て給らせ給へ。」といひければ、藏光この樣を申す。木曾殿「神妙の事を申すごさんなれ。さらば汝瀬尾を案内者にして先づ下れ。誠に馬の草なんどをも構へさせよ。」と宣へば、藏光三郎畏り悦んで其勢三十騎ばかり、兼康を先として備中へぞ下ける。瀬尾が嫡子小太郎宗康は、平家の御方に候けるが、父が木曾殿より暇ゆるされて下ると聞えしかば、年比の郎等共催し聚め、其勢五十騎許迎に上る程に、播磨の國府で行あうて下る。備前國三石の宿に留またりければ、瀬尾が親き者共、酒を持せて出來たり。其終夜悦の酒盛しけるに、あづかりの武士、藏光三郎所從ともに三千餘人強伏て起しも立ず、一々に皆刺殺てけり。備前國は十郎藏人の國也。其代官の國府に有けるをも、押寄て討てけり。「兼康こそ暇賜て罷下れ、平家に志思ひ參せん人々は、兼康を先として木曾殿の下り給に矢一つ射懸奉れ。」と披露しければ、備前、備中、備後三箇國の兵共馬物具然るべき所從をば、平家の御方へ参せて、息みける老者共、或はかきの直垂に つめ紐し、或は布の小袖に東折し、くさり腹卷綴り著て、山靱、高箙に矢共少々差し、掻負掻負瀬尾が許へ馳集る。都合其勢二千餘人、瀬尾太郎を先とし、備前國福龍寺繩手の篠の迫を城郭に構へ、口二丈深さ二丈に堀を掘り、逆茂木引高矢倉あげ、かい楯かき、矢先を汰へて今や/\と待かけたり。 備前の國に十郎藏人の置かれたりし代官、瀬尾に討たれて、其下人共が逃て京へ上る程に、播磨と備前の境船坂といふ處にて、木曾殿に參りあふ。此由申ければ、木曾殿、「やすからぬ。斬て捨べかりつる物を。」と後悔せられければ、今井四郎申けるは、「さ候へばこそ、きやつが面魂たゝ者とは見え候はず、千度斬うと申候つる者を、扶けさせ給て。」と申。「思ふに何程の事か在るべき。逐懸て討て。」とぞ宣ひける。今井四郎「まづ下て見候はん。」とて、三千餘騎で、馳下る。福龍寺繩手は、はたばり弓杖一たけばかりにて、遠さは西國道一里也。左右は深田にて、馬の足も及ねば、三千餘騎が心は先に進めども馬次第にぞ歩せける。兼平押寄せて見ければ、瀬尾太郎矢倉に立出で、大音聲を揚て、「去ぬる五月より今までかひなき命を助けられて候各の御芳志は、是をこそ用意仕て候へ。」とて、究竟の強弓精兵數百人勝り聚め、矢先を汰へて指詰引詰散々に射る。面を向くべき樣もなし。今井四郎を始として楯、禰井、宮崎三郎、諏訪、藤澤などいふはやりをの兵共、甲の錣を傾けて射殺さるゝ人馬を取入れ引入れ堀を埋め、をめき叫んで責戰ふ。或は左右の深田に打入れて馬のくさわきむながいつくし、太腹などに立處を事ともせず、むらめかいて寄せ、或は谷ふけをも嫌はず、懸入々々一 日戰ひ暮しけり。夜に入りて瀬尾が催し集めたる驅武者共、皆責落されて助る者は少う討るる者ぞ多かりける。瀬尾太郎篠の迫の城郭を破られて、引退き、備中國板倉河の端に、掻楯かいて待懸たり。今井四郎やがて押寄せ攻ければ、山靱竹箙に矢種の有程こそ防ぎけれ、皆射盡してければ、我先にとぞ落行ける。瀬尾太郎たゞ主從三騎に打なされ、板倉河の端に著て、みとろ山の方へ落行く程に北國で、瀬尾生捕にしたりし藏光次郎成澄、弟は討れぬ。「安からぬ事なり。瀬尾に於ては、又生捕に仕候はん。」とて、群に拔て追て行く。あはひ一町許に追附て、「如何に瀬尾殿、正なうも敵に後をば見する者哉。返せや返せ。」といはれ、板倉河を西へ渡す、河中に引へて待かけたり。藏光、馳來て押竝べてむずと組で、どうと落つ。互に劣ぬ大力なれば、上になり、下になり、ころびあふ程に、河岸に淵の有けるに轉入て、藏光は無水練也、瀬尾は勝れたる水練なりければ水の底で藏光を取て押へ、鎧の草摺引上、柄も拳も透れ/\と三刀刺いて頸をとる。我馬は乘損じたれば、敵藏光が馬に乘て落行ほどに、瀬尾が嫡子小太郎宗康馬にはのらず、歩行にて郎等つれて落行程に、未だ、年は二十二三の男なれども、餘に太て、一町ともえ走ず。物具ぬきすてゝ歩めども叶はざりけり。父は是をうち捨て、十餘町こそ逃延たれ。郎等に逢うていひけるは、「兼康日來は千萬の敵に向て軍するは、四方晴て覺るが、今度は小太郎を捨て行ばにや、一向先が暗うて見えぬぞ。縦兼康命生て、再平家の御方へ参たりとも、同隷ども『兼康今は六十にあまりたる者の、幾程の命を惜うで、唯獨ある子を捨て落けるやらん。』と言はむ事こそ慚かしけれ。」郎等申けるは、 「さ候へばこそ、御一所で如何にも成せ給へと申つるはこゝ候。かへさせ給へ。」と云ひければ、「さらば。」とて取て回す。小太郎は、足かばかり腫て伏り。「汝が得逐付かねば、一處で討死せうとて歸たるは如何に。」と云へば、小太郎涙をはらはらと流いて、「此身こそ無器量の者で候へば自害をも仕候べきに、我故御命をさへ失なひ參せん事、五逆罪にや候はんずらん。唯とう/\延させ給へ。」と申せども、「思ひ切たる上は。」とて、息む處に、今井四郎ま先懸て其勢五十騎ばかりをめいて追懸たり。瀬尾太郎矢七つ八つ射殘したるを、差詰引詰散々に射る。死生は知らず矢庭に敵五六騎射落す。其後打物拔て、先小太郎が首討落し、敵の中へ破て入り散々に戰ひ、敵あまた討取て、終に討死してけり。郎等も主にちとも劣ず戰ひけるが、大事の手あまた負ひ戰ひ疲れて、自害せんとしけるが、生捕にこそせられけれ。中一日有て死にけり。是等主從三人が首をば、備中國鷺が森にぞ懸たりける。木曾殿是を見給ひて「あはれ剛の者哉。是をこそ一人當千の兵とも云ふべけれ。あたら者共を扶けて見で。」とぞ宣ひける。 -------------------------------------------------------------------------------- 室山 さる程に木曾殿は備中國萬壽の庄にて勢汰へして、八島へ既に寄むとす。其間都の留守に置かれたる樋口次郎兼光、使者を立てて、「十郎藏人殿こそ殿のましまさぬ間に、院のきり人して、樣々に讒奏せられ候なれ。西國の軍をば暫指置せ給て、急ぎ上せ給へ。」と申ければ、 木曾「さらば」とて夜を日に繼で馳上る。十郎藏人あしかりなんとやおもひけむ。木曾にちがはむと丹波路に懸て播磨へ下る。木曾は攝津國を經て都へ入る。 平家は又木曾討むとて、大將軍には新中納言知盛卿、本三位中將重衡卿、侍大將には、越中次郎兵衞盛嗣、上總五郎兵衞忠光、惡七兵衞景清、伊賀平内左衞門家長、都合其勢二萬餘騎千餘艘の舟に乘り播磨の地へ押渡りて、室山に陣をとる。十郎藏人、平家と軍して木曾と中直せんとや思ひけむ。其勢五百餘騎で室山へこそ押寄せたれ。平家は陣を五つに張る。一陣越中次郎兵衞盛嗣二千餘騎、二陣、伊賀平内左衞門家長二千餘騎、三陣、上總五郎兵衞忠光、惡七兵衞景清、三千餘騎、四陣、本三位中將重衡卿三千餘騎、五陣、新中納言知盛卿一萬餘騎でかためらる。十郎藏人行家五百餘騎でをめいて懸く。一陣越中次郎兵衞盛嗣、暫く會釋う樣に持成いて、中を颯と開けて通す。二陣伊賀平内左衞門家長、同じう明けて通しけり。三陣上總五郎兵衞、惡七兵衞共に明けて通しけり。四陣本三位中將重衡卿是も明て入れられけり。一陣より五陣迄、兼て約束したりければ、敵を中に取籠て、一度に鬨をどとぞ作りける。十郎藏人今は逃るべき方も無りければ、たばかられぬと思ひて、面も振ず、命も惜まず、爰を最後と攻戰ふ。平家の侍共、「源氏の大將に組めや。」とて我先に進めども、さすが十郎藏人に押並べて組む武者一騎も無りけり。新中納言の宗と憑まれたりける紀七左衞門、紀八衞門、紀九郎など云ふ兵共、そこにて皆十郎藏人に討取らる。かくして十郎藏人五百餘騎が、僅に三十騎許に討成され、四方は皆敵也、御方は無勢也。如何にして逃べしとは覺ねど、思 ひ切て、雲霞の如くなる敵の中を破て通る。されども、我身は手も負はず、家子郎等廿餘騎大略手負うて、播磨國高砂より船に乘り、おしいだいて和泉國吹飯の浦にぞ著にける。其より河内へ打越えて、長野城に引籠る。平家は室山、水島二箇度の軍に勝てこそ、彌勢は附にけれ。 -------------------------------------------------------------------------------- 皷判官 凡京中には源氏の勢滿々て、在々所々に入取多し。賀茂、八幡の御領とも言はず、青田を刈て馬草にす。人の倉を打開て物を取り、持て通る物を奪取り、衣裳を剥取る。「平家の都におはせし時は、六波羅殿とて、唯おほかた怖しかりし計也。衣裳をはぐ迄はなかりし者を、平家に源氏替へ劣りしたり。」とぞ人申ける。木曾左馬頭の許へ法皇より御使在り。「狼藉靜めよ。」と仰せ下さる。御使は壹岐守知親が子に、壹岐判官知康と云ふ者也。天下に勝れたる鼓の上手で有ければ、時の人鼓判官とぞ申ける。木曾對面して、先づ御返事をば申さで、「抑和殿を鼓判官と云ふは、萬の人に打たれたうか、はられたうか。」とぞ問うたりける。知康返事に及ばず、院の御所に歸り參て、「義仲嗚呼の者で候 [2]唯今朝敵に成候なんず。急ぎ追討せさせ給へ。」と申ければ、法皇軈て思召立せ給ひけり。さらば然るべき武士にも仰附られずして、山の座主寺の長吏に仰られて、山三井寺の惡僧共を召されけり。公卿殿上人の召されける勢と申は、向へ礫、印地、云甲斐なき辻冠者原、乞食法師どもなりけり。 木曾左馬頭院の御氣色惡うなると聞えしかば、始は木曾に隨うたりける五畿内の者共、皆背いて、院方へ參る。信濃源氏村上の三郎判官代是も木曾を背いて法皇へ參りけり。今井四郎申けるは、「是こそ以の外の御大事で候へ。さればとて十善帝王に向ひ參せて、如何でか御合戰候べき。甲を脱ぎ弓の弦を弛て、降人に參せ給へ。」と申せば、木曾大に怒て、「我信濃を出し時、小見、合田の戰より始めて、北國には、砥浪山、黒坂、鹽坂、篠原、西國には、福龍寺繩手、篠の迫、板倉が城を攻しかども、未だ敵に後を見せず。縱十善帝王にてましますとも、甲を脱ぎ弓の弦を弛いて降人にはえこそ參るまじけれ。譬へば都の守護して有ん者が、馬一疋づゝ飼て乘らざるべきか。幾らも有る田共刈せ馬草にせんを、強に法皇の咎め給ふべき樣や有る。兵粮米もなければ、冠者原共が、片邊に附て、時々入取せんは、何か強僻事ならん。大臣家や宮々の御所へも參らばこそ僻事ならめ。是は鼓判官が凶害と覺ゆるぞ。其鼓め打破て捨よ。今度は義仲が最後の軍にて有んずるぞ。頼朝がかへり聞んずる所も有り。軍ようせよ、者共。」とて打立けり。北國の勢ども皆落下て、僅に六七千騎ぞ有ける。我軍の吉例なればとて、七手に造る。先樋口次郎兼光二千餘騎で、新熊野の方へ搦手に差遣す。殘り六手は、各が居たらんずる條里小路より河原へ出で、七條河原にて一つになれと、相圖を定て出立けり。 軍は十一月十九日の朝也。院御所法住寺殿にも、軍兵二萬餘人參籠たる由聞えけり。御方の笠効には松の葉をぞ著たりける。木曾法住寺殿の西門に押寄せて見れば、鼓判官知康、軍の 行事承て、赤地の錦の直垂に、鎧は態ど著ざりけり、甲計ぞ著たりける。甲には四天を書て押たりけり。御所の西の築垣の上に登て立たりけるが、片手には鉾を持ち、片手には金剛鈴を以て打振々々、時々は舞折も有けり。若き公卿殿上人「風情なし。知康には天狗ついたり。」とぞ笑はれける。知康大音聲を揚て、「昔は宣旨を向て讀ければ、枯たる草木も花咲き實生り惡鬼惡神も從ひけり。末代ならんからに、如何が十善の帝王に向ひ參せて、弓をば引くべき。汝等が放ん矢は、却て身にあたるべし。拔む太刀は、身を切べし。」などのゝしりければ、木曾「さな謂せそ。」とて、鬨をどと作る。 さる程に搦手に差し遣はしたる樋口次郎兼光新熊野の方より、鬨の聲をぞ合せたる。鏑の中に火を入て、法住寺殿の御所に射立てたりければ、折節風は烈しゝ、猛火天に燃上て、 焔は虚空に隙もなし。軍の行事知康は、人より先に落にけり。行事が落つる上は、二萬餘人の官軍共、我先にとぞ落ゆきける。餘りに遽噪いで、弓取る者は矢を知らず、矢取る者は弓を知らず。或は長刀倒について、我足つきつらぬく者も有り、或は弓の弭物にかけて、えはづさで捨て迯る者も有り。七條が末は攝津國の源氏の固たりけるが、七條を西へ落て行く。兼て軍以前より「落人の在んずるをば用意して打殺せ。」と御所より披露せられたりければ、在洛の者共、屋根ゐに楯をつき、おそへの石を取聚て、待懸たる處に、攝津國源氏の落けるを、「あはや落人よ。」とて、石を拾かけ、散々に打ければ、「是は院方ぞ、過仕るな。」と云へども、「さな云せそ。院宣であるに、唯打殺せ/\。」とて打つ間、或は馬を捨て、はふ/\逃ぐる 者もあり。或は打殺るゝ者もありけり。八條が末は山僧固めたりけるが、恥有る者は討死し、強顏者は落ぞ行く。 主水正親成、薄青の狩衣の下に、萠黄威の腹卷を著て白葦毛なる馬に乘り、河原を上りに落てゆく。今井四郎兼平追懸て、しや頸の骨を射落す。清大外記頼業が子なりけり。「明經道の博士、甲冑を鎧ふ事然るべからず。」とぞ人申ける。木曾を背て、院方へ參たる信濃源氏、村上三郎判官代も討れけり。これを始めて院方には近江中將爲清、越前守信行も射殺されて頸取られぬ。伯耆守光長、子息判官光經父子共に討たれぬ。按察大納言資方卿の孫、播磨少將雅方も、鎧に立烏帽子で軍の陣へ出られたりけるが、樋口次郎に生捕にせられ給ぬ。天台座主明雲大僧正、寺の長吏圓慶法親王も、御所に參り籠らせ給たりけるが、黒煙既におしかけければ、御馬にめして、急ぎ河原へ出させ給ふ。武士共散々に射奉る。明雲大僧正、圓慶法親王も、御馬より射落されて、御頸取られさせ給ひけり。豐後國司刑部卿三位頼資卿も、御所に參り籠られたりけるが、火は既におしかけたり、急ぎ河原へ迯出給。武士の下部どもに衣裳皆剥取れて、眞裸で立れたり。十一月十九日の朝なれば、河原の風さこそすさまじかりけめ。三位こしうとに越前法橋性意といふ僧在り。其中間法師軍見んとて河原へ出たりけるが、三位の裸で立れたるに見合うて、「あな淺まし。」とて、走り寄る。此法師は白小袖二つに衣著たりけるが、さらば小袖をも脱で著せ奉れかし。さはなくて、衣を脱で投かけたり。短き衣空穗にほうかぶて、帶もせず。後さこそ見苦かりけめ。白衣なる法師供に具しておは しけるが、さらば急ぎも歩み給はで、あそこ爰に立留まり、「あれは誰が家ぞ。是は何者が宿所ぞ。爰は何くぞ。」と道すがら問はれければ、見る人皆手を叩て笑ひあへり。 法皇は御輿に召て他所へ御幸なる。武士ども散々に射奉る。豐後少將宗長木蘭地の直垂に折烏帽子で供奉せられたりけるが、「是は法皇の御幸ぞ。過ち仕るな。」と宣へば、兵ども皆馬より下て畏まる。「何者ぞ。」と御尋ありければ、信濃國の住人八島四郎行綱と名乘申。軈て御輿に手かけ參せ、五條内裡に押籠め奉り緊しう守護したてまつる。 主上は、池に舟を浮て召されけり。武士ども頻に矢を參せければ、七條侍從信清、紀伊守教光、御船に候はれけるが、「是は内の渡せ給ぞ。過仕るな。」と宣へば兵ども皆馬より下て畏る。閑院殿へ行幸なし奉る。行幸の儀式のあさましさ、申も中々愚なり。 -------------------------------------------------------------------------------- 法住寺合戰 院方に候ける近江守源藏人仲兼、其勢五十騎ばかりで法住寺殿の西の門を固めて防ぐ處に、近江源氏山本冠者義高、馳來たり、「如何に各今は誰をかばはんとて軍をばし給ふぞ。御幸も行幸も、他所へ成ぬとこそ承はれ。」と申せば、仲兼「さらば」とて敵の大勢の中へをめいて懸入り、散々に戰ひ破てぞ通りける。主從八騎に討なさる。八騎が中に、河内の草香黨、加賀房と云ふ法師武者有けり。白葦毛なる馬のきはめて口強きにぞ乘たりける。「此馬が餘ひあひで、乘たまるべしとも覺えず。」と申ければ、藏人、「いでさらば我馬に乘りかへよ。」とて、 栗毛なる馬の下尾白いに乘かへて、根井小彌太が二百騎ばかりでひかへたる河原坂の勢の中へをめいて懸入り、そこにて八騎が五騎はうたれぬ。只主從三騎にぞ成にける。加賀房は我馬のひあひなりとて主の馬に乘替たれ共、そこにて終に討れにけり。源藏人の家の子に信濃次郎藏人仲頼といふ者有り。敵に押隔てられて、藏人の行へを知らず。栗毛なる馬の下尾白いが走りいでたるを見て、下人を呼び、「こゝなる馬は源藏人の馬とこそ見れ。早討たれ給ひけるにこそ。死なば一所で死なんとこそ契しに、所所で討れん事こそ悲しけれ。どの勢の中へか入ると見つる。」「河原坂の勢の中へこそ懸入せ給ひ候つるなれ。やがてあの勢の中より御馬も出來て候。」と申ければ、「さらば汝はとう/\是より歸れ。」とて、最後の在樣故郷へいひつかはし、只一騎、敵の中へ懸いり、大音聲あげて、名乘りけるは、「敦躬親王より九代の後胤、信濃守仲重が次男、信濃次郎藏人仲頼、生年廿七歳。我と思はん人々は寄り合へや、見參せん。」とて、縱樣横樣蜘蛛手十文字に懸破り懸廻り戰ひけるが、敵あまた討取て、終に討死してけり。藏人是をば夢にも知らず、兄の河内守郎等一騎打具して、主從三騎南を指して落行く程に、攝政殿の都をば軍に怖れて、宇治へ御出なりけるに、木幡山にて追附奉つる。木曾が餘黨かと思食めし、御車を停めて、「何者ぞ。」と御尋あれば「仲兼仲信」と名乘り申す。「こは如何に、北國の凶徒かなど思しめしたれば神妙に參りたり。近う候て守護つかまつれ。」と仰ければ、畏て承り、宇治の富家殿迄送り參らせて、軈て此人々は、河内國へぞ落ゆきける。 明る廿日、木曾左馬頭六條河原に打立て、昨日切る所の頸ども、懸竝べて記いたりければ、六百三十餘人也。其中に天台座主明雲大僧正、寺の長吏圓慶法親王の御首もかゝらせ給ひたり。是を見る人涙を流さずと云ふ事なし、木曾其勢七千餘騎、馬の鼻を東へむけ、天も響き大地もゆるぐ程に、鬨をぞ三箇度作りける。京中又噪ぎあへり。但し是は悦の鬨とぞ聞えし。 故少納言入道信西の子息宰相長教、法皇の渡せ給ふ五條内裏にまゐて、「是は君に奏すべき事があるぞ。あけて通せ。」と宣へども、武士共許し奉らず。力及ばで、ある小屋に立ち入り、俄に髪剃下し、法師に成り墨染の衣袴著て、「此上は何か苦しかるべき、入よ。」と宣へば、其時許し奉る。御前へ參て、今度討れ給へる宗との人々の事共、具さに奏聞しければ、法皇、御涙をはら/\と流させ給ひて、「明雲は非業の死にすべき者とは露も思召しよらざりつる物を。今度はたゞ吾が如何にも成べかりける御命にかはりけるにこそ。」とて、御涙塞あへさせ給はず。 同二十一日木曾、家子郎等召集めて、評定す。「抑義仲一天の君に向ひ奉て、軍には勝ぬ。主上にや成まし。法皇にや成まし。主上に成らうと思へ共、童にならむも然るべからず。法皇に成らうと思へども、法師に成んもをしかるべし。よし/\さらば關白にならう。」と申せば、手書に具せられたる大夫房覺明申けるは、「關白は大織冠の御末、藤原氏こそ成せ給へ。殿は源氏で渡せ給に、其こそ叶ひ候まじけれ。」「其上は力及ばず。」とて院の御厩別當におし成 て、丹波國をぞ知行しける。院の御出家有ば法皇と申し、主上の未御元服もなき程は、御童形に渡らせ給ふを、知ざりけるこそうたてけれ。 前關白松殿の姫君取奉て、松殿の聟に押成る。同十一月二十三日、三條中納言朝方卿を始として、卿相雲客四十九人が官職を停めて、押籠め奉る。平家の時は四十三人をこそ停めたりしに是は四十九人なれば、平家の惡行には超過せり。 さる程に木曾が狼藉靜んとて鎌倉前兵衞佐頼朝、舎弟蒲冠者範頼、九郎冠者義經を差上せられけるが、既に法住寺殿燒拂ひ、院うち捕奉て、天下暗やみに成たる由聞えしかば、「左右なう上て軍すべき樣もなし。是より關東へ子細を申さん。」とて、尾張國熱田の大宮司が許におはしけるに、此事訴へんとて北面に候ける宮内判官公朝、藤内左衞門時成、尾張國に馳下り、此由一一次第に訴へければ、九郎御曹司、「是は宮内判官の關東へ下らるべきにて候ぞ。仔細知ぬ使は、返し問るる時、不審の殘るに。」とぞ宣へば、公朝、鎌倉へ馳下る。軍に怖れて下人ども皆落失たれば、嫡子の宮内ところ公茂が十五に成るをぞ具したりける。關東へ參て此由申ければ、兵衞佐大に驚き、「先づ鼓判官知康が不思議の事を申出して、御所をも燒せまゐらせ、高僧貴僧をも滅ぼし奉るこそ奇怪なれ。知康に於ては、既に違勅の者なり。召使せ給はゞ、重て御大事出き候なむず。」と都へ早馬を以て申されければ、鼓判官陳ぜんとて、夜を日に續で馳下る。兵衞佐「しやつに目な見せそ、會釋なせそ。」と宣へども、日毎に兵衞佐の館へ向ふ。終に面目なくして、都へ歸り上りけり。後には稻荷の邊なる所に命ばかり生て過 しけるとぞ聞えし。 木曾左馬頭、平家の方へ使者を奉て、「都へ御上り候へ、一つに成て東國せめむ。」と申たれば、大臣殿は悦ばれけれ共、平大納言、新中納言「さこそ世末に成て候とも、義仲に語らはれて、都へ歸り入らせ給はん事然るべうも候はず。十善の帝王三種神器を帶して渡せ給へば、甲を脱ぎ弓の弦を弛いて、降人に是へ參れとは仰候べし。」と申されければ、此樣を御返事ありしか共、木曾もちゐ奉らず。松殿入道殿の許へ木曾を召して、清盛公さばかり惡行人たりしかども、希代の善根をせしかば、世をも穩しう二十年餘保たりしなり。惡行ばかりで世を保つ事はなき者を、させる故なくて留めたる人々の官途ども、皆許すべき由仰せられければ、ひたすらの荒夷の樣なれ共、隨ひ奉て解官したる人々の官どもゆるし奉る。松殿の御子師家の殿の、其時は未だ中納言中將にてましましけるを、木曾がはからひにて、大臣攝政に成奉る。折節大臣あかざりければ、徳大寺左大將實定公の其比内大臣でおはしけるをかり奉て、内大臣に成奉る。何しか人の口なれば、新攝政殿をばかるの大臣とぞ申ける。 同十二月十日法皇は五條内裏を出させ給ひて、大膳大夫成忠が宿所、六條西洞院へ御幸なる。同十三日歳末の御修法在けり。其次に叙位除目行はれて、木曾がはからひに、人々の官ども、思樣に成おきけり。平家は西國に、兵衞佐は東國に、木曾は都に張行ふ。前漢後漢の間、王莽が世を討取て、十八年治たりしが如し。四方の關々皆閉たれば、公の御貢物をもたてまつらず、秋の年貢ものぼらねば、京中の上下の諸人只少水の魚にことならず。あぶなながら歳 暮て、壽永も三年になりにけり。 [1] Nihon Koten Bungaku Taikei (Tokyo: Iwanami Shoten, 1957, vol. 33; hereafter cited as NKBT) reads 仰ければ. [2] NKBT has 。at this point. -------------------------------------------------------------------------------- 平家物語卷第九 生食之沙汰 壽永三年正月一日、院の御所は大膳大夫成忠が宿所、六條西洞院なれば、御所の體しかるべからずとて、禮儀行はるべきにあらねば拜禮もなし。院の拜禮無りければ、内裏の小朝拜もおこなはれず。平家は讃岐國八島の磯におくり迎へて、年のはじめなれども元旦元三の儀式事宜からず、主上わたらせ給へども、節會も行はれず、四方拜もなし。 はらか魚も奏せず。吉野のくずも參らず。「世亂れたりしかども都にてはさすがかくは無りし者を。」とぞ、各宣ひあはれける。青陽の春も來り、浦吹く風も やはらかに、日影も長閑に成行けど、唯平家の人々は、いつも氷に閉籠られたる心地して、寒苦鳥に異ならず。東岸西岸の柳遲速を交へ、南枝北枝の梅開落已に異にして、花の朝月の夜、詩歌管絃、鞠、小弓、扇合、繪合、草盡、蟲盡、樣々興有し事ども思出で語りつゞけて、永き日を暮しかね給ふぞ哀なる。 同正月十一日、木曾左馬頭義仲院參して、平家追討の爲に、西國へ發向すべき由奏聞す。同十三日既に門出と聞えし程に、東國より前兵衞佐頼朝、木曾が狼藉鎭んとて、數萬騎の軍兵を差上せられける。既に美濃國伊勢國に著と聞えしかば、木曾大に驚き、宇治勢田の橋を引 いて、軍兵どもを分ち遣す。折節勢も無りけり。勢田の橋は、大手なればとて、今井四郎兼平、八百餘騎で差遣す。宇治橋へは、仁科、高梨、山田次郎、五百餘騎でつかはす。芋洗へは、伯父の志太三郎先生義教、三百餘騎で向けり。東國より攻上る大手の大將軍は、蒲の御曹司範頼、搦手の大將軍は、九郎御曹司義經、むねとの大名三十餘人、都合其勢六萬餘騎とぞ聞えし。其比鎌倉殿にいけずき摺墨といふ名馬あり。いけずきをば梶原源太景頻に望み申けれども、鎌倉殿「自然の事あらん時、物具して頼朝がのるべき馬なり。する墨も劣ぬ名馬ぞ。」とて、梶原にはする墨をこそ給だりけれ。 佐々木四郎高綱が暇申に參たりけるに、鎌倉殿如何思食されけん、「所望の者はいくらもあれども、存知せよ。」とて、いけずきをば佐々木に給ぶ。佐々木畏て申けるは「高綱此御馬で、宇治川の眞先渡し候べし。宇治河で死で候ときこしめし候はゞ、人に先をせられてけりと思食し候へ。未だ生て候と聞食され候はゞ、定めて先陣はしつらんものをと思食され候へ。」とて、御前を罷り立つ。參會したる大名小名皆「荒凉の申樣哉。」と ささやきあへり。 各鎌倉を立て、足柄を歴て行もあり、箱根にかゝる人もあり、思ひ/\に上る程に、駿河國浮島原にて梶原源太景季、高き所に打上り、暫しひかへて、多の馬共を見ければ、思ひ/\の鞍置て、いろ/\の鞦かけ、或は乘り口に引かせ、或はもろ口に引かせ、幾千萬といふ數を知らず、引き通し/\しける中にも、景季が給はたるするすみに、勝る馬こそ無かりけれと、嬉しう思ひて見る處に、いけずきとおぼしき馬こそ出來たれ。 金覆輪の鞍置て、小總の鞦懸け、白沫かませ、舎人あまた附たりけれども、猶引もためず躍らせて出きたり。梶原源太打寄て、「其れは誰が御馬ぞ。」「佐々木殿の御馬候。」其時梶原「安からぬ者なり。おなじやうにめしつかはるゝ景季を佐々木におぼしめしかへられけるこそ遺恨なれ。都へ上て木曾殿の御内に四天王と聞ゆる、今井、樋口、楯、根井に組んで死ぬるか、然らずば西國へ向うて、一人當千と聞る平家の侍共と軍して死なんとこそ思つれども、此御氣色では、それも詮なし。爰で佐々木に引組み刺違へ、好い侍二人死で兵衞佐殿に損とらせ奉らん。」とつぶやいてこそ待懸たれ。佐々木四郎は何心もなく歩せて出來たり。梶原押竝べてやくむ、向うざまにやあて落すと思ひけるが、先詞を懸けり。「いかに佐々木殿、いけずき給はらせ給てさうな。」と言ひければ、佐々木「あはれ此仁も内々所望すると聞し物を。」ときと思ひ出して、「さ候へばこそ此御大事にのぼり候が、定て宇治勢田の橋をばひいて候らん。乘て河渡すべき馬はなし。いけずきを申さばやとは思へども、梶原殿の申されけるにも御許れないと承はる間、まして高綱が申すにもよも給らじと思つゝ後日には如何なる御勘當も有ばあれと存じて、曉立んとての夜、舎人に心をあはせて、さしも御秘藏候いけずきを盗みすまいて上りさうはいかに。」と言ひければ、梶原此詞に腹がゐて、「ねたい、さらば景季も竊むべかりける者を。」とて、どと笑て退にけり。 -------------------------------------------------------------------------------- 宇治川先陣 佐々木四郎が給はたる御馬は、黒栗毛なる馬の、究めて太う逞いが、馬をも人をも傍をはらて食ければ、生食と附られたり。八寸の馬とぞ聞えし。梶原が給たる摺墨も、究めて太う逞きが、誠に黒かりければ、するすみとは附けられたり。何れも劣らぬ名馬なり。 尾張國より大手搦手二手にわかてせめ上る。大手の大將軍、蒲御曹司範頼、相伴ふ人々、武田太郎、加賀見次郎、一條次郎、板垣三郎、稻毛三郎、榛谷四郎、熊谷次郎、猪俣小平六を先として、都合其勢三萬五千餘騎、近江國、野路、篠原にぞつきにける。搦手の大將軍は、九郎御曹司義經同く伴ふ人々、安田三郎、大内太郎、畠山庄司次郎、梶原源太、佐々木四郎、糟屋藤太、澁谷右馬允、平山武者所を始として、都合其勢二萬五千餘騎、伊賀國を經て、宇治橋のつめにぞ押寄せたる。宇治も勢田も橋を引き、水の底には亂杭打て大綱張り、逆茂木つないで流し懸たり。比は睦月廿日餘の事なれば、比良の高峯、志賀の山、昔ながらの雪も消え、谷々の氷打解て、水は折節増りたり。白浪おびたゞしう漲り落ち、瀬枕大きに瀧鳴て、逆卷く水も疾かりけり。夜は既にほの%\と明行けど、河霧深く立籠て、馬の毛も、鎧の毛もさだかならず。爰に大將軍九郎御曹司、河の端に進み出で、水の面を見渡して、人々の心を見んとや思はれけん、「如何せん淀芋洗へや回るべき、水の落足をや待べき。」と宣へば、畠山は其比はいまだ生年廿一に成けるが、進出でて申けるは、「鎌倉にて能々此河の御沙汰は候ひしぞかし。知召さぬ海河の俄に出來ても候はばこそ。此河は近江の水海の末なれば、待とも/\水ひまじ。橋をば又誰か渡いて參らすべき。治承の合戰に、足利又太郎忠綱は、鬼神 でわたしけるか。重忠瀬蹈仕らん。」とて、丹の黨を宗として、五百餘騎ひし/\と轡を竝ぶる處に、平等院の丑寅、橘の小島が崎より、武者二騎引かけ引かけ出來たり。一騎は梶原源太景季、一騎は佐々木四郎高綱也。人目には何とも見えざりけれども、内々先に心をかけたりければ、梶原は佐々木に一段許ぞ進だる。佐々木四郎、「此河は西國一の大河ぞや。腹帶の延て見えさうぞ。しめ給へ。」と言はれて梶原さもあるらんとや思ひけん、左右の鎧を踏すかし、手綱を馬のゆがみに捨て、腹帶を解てぞ縮めたりける。その間に佐々木は、つと馳ぬいて、河へさとぞ打入たる。梶原謀れぬとや思ひけん、やがて續て打入たり。「いかに佐々木殿、高名せうとて不覺し給ふな。水の底には大綱あるらん。」といひければ、佐々木、太刀を拔き、馬の足に懸りける大綱共をふつ/\と打切打切、いけずきといふ世一の馬には乘たりけり、宇治川はやしといへども一文字にさと渡いて、向への岸に打上る。梶原が乘たりける摺墨は、河中よりのだめ形に押流されて遙の下より打上げたり。佐々木鐙蹈張立上り、大音聲を揚て名乘りけるは、「宇多天皇より九代の後胤、佐々木三郎秀義が四男、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣ぞや。吾と思はん人々は高綱に組めや。」とておめいてかく。畠山五百餘騎で軈て渡す。向への岸より、山田次郎が放つ矢に、畠山馬の額を篦ぶかに射させて弱れば、河中より弓杖を突て下立たり。岩浪甲の手先へ颯と押上けれども事ともせず。水の底を潜て、向の岸へぞ著にける。上らむとすれば後に物こそむずと引へたれ。「誰そ。」と問へば、「重親。」と答ふ。「いかに大串か。」「さ候。」大串の次郎は、畠山には烏帽子子にてぞありける。「餘に水が疾うて、 馬は押流され候ぬ。力及ばで著參らせて候。」と言ひければ、「いつも和殿原は、重忠が樣なる者にこそ助られむずれ。」と云ふまゝに、大串を提て岸の上へぞ投上たる。投上られて、たゝ直て、「武藏國の住人大串次郎重親、宇治河の先陣ぞや。」とぞ名乘たる。敵も御方も是を聞いて一度にどとぞ笑ける。其後畠山乘替に乘て打上る。魚綾の直垂に緋威の鎧著て、連錢葦毛なる馬に、金覆輪の鞍置て乘たる、敵の眞先にぞ進だるを「爰にかくるは如何なる人ぞ。名乘れや。」と言ひければ、「木曾殿の家の子に、長瀬判官代重綱。」と名乘る。畠山今日の軍神祝はんとて、押竝てむずと捕て引落し、頸ねぢ切て、本田次郎が鞍のとつけにこそ附させけれ。是を始て、木曾殿の方より宇治橋固たる勢も、暫さゝへてふせぎけれども、東國の大勢渡いて攻ければ、散散に懸成され、木幡山、伏見を指いてぞ落行ける。勢田をば稻毛三郎重成が計らひにて、田上供御瀬をこそ渡しけれ。 -------------------------------------------------------------------------------- 河原合戰 軍破れにければ、鎌倉殿へ飛脚をもて、合戰の次第を記し申されけるに、鎌倉殿先づ御使に、「佐々木は如何に。」と御尋有ければ、「宇治川の眞先候。」と申す。日記を披いて御覽ずれば、「宇治川の先陣、佐々木四郎高綱、二陣梶原源太景季。」とこそ書れたれ。 宇治勢田破れぬと聞えしかば、木曾左馬頭最後の暇申さんとて、院の御所六條殿へ馳參る。御所には法皇を始め參せて公卿殿上人「世は只今失せなんず。如何せん。」とて手を握り立て ぬ願もましまさず。木曾門前まで參たれども、東國の勢、既に河原迄責入たる由聞えしかば、さいて奏する旨もなくて、取てかへす。六條高倉なる所に始めて見そめたる女房のおはしければ、其へ打いり、最後の名殘惜まんとて、とみに出もやらざりけり。今參したりける越後中太家光と云ふ者有り、「如何にかうは打解て渡せ給候ぞ。御敵既に河原まで攻入て候に、犬死せさせ給なんず。」と申けれども、猶出でもやらざりければ、「さ候はば、先づ先き立參せて、死出の山でこそ待參せ候はめ。」とて、腹掻切てぞ死にける。木曾殿「我をすゝむる自害にこそ。」とて、やがて打立けり。上野國の住人那波太郎廣純を先として、其勢百騎ばかりには過ざりけり。六條河原に打出で見れば、東國の勢と覺くて、先三十騎計出來たり。其中に武者二騎進んだり。一騎は鹽屋五郎惟廣、一騎は勅使河原五三郎有直也。鹽屋が申けるは、「後陣の勢をや待つべき。」勅使河原が申けるは、「一陣破ぬれば殘黨全からず、唯懸よ。」とて、をめいてかく。木曾は今日を限りと戰かへば、東國の勢は、我討取んとぞ進ける。 大將軍九郎義經、軍兵共に軍をばせさせ、院御所の覺束なきに、守護し奉らんとて、先づ我身共に直甲五六騎、六條殿へ馳參る。御所には、大膳大夫成忠、御所の東築垣の上に上て、わなゝくわなゝく見まはせば、白旗さと差上、武士ども五六騎のけ甲に戰成て、射向の袖吹靡させ、黒煙蹴立て馳參る。成忠「又木曾が參り候、あなあさまし。」と申ければ、「今度ぞ世の失はて。」とて君も臣も噪がせ給ふ。成忠重て申けるは、「只今馳參る武士ども、笠驗のかはて候、今日始て都へ入る東國の勢と覺候。」と申も果ねば、九郎義經門前へ馳參て馬より下 り、門を扣かせ、大音聲を揚て、「東國より前兵衞佐頼朝が舎弟九郎義經こそ參て候へ。明させ給へ。」と申ければ、成忠餘りの嬉しさに、築垣より急ぎ跳りおるゝとて、腰をつき損じたりけれども、痛さは嬉さに紛て覺えず、這々參て、此由奏聞してければ、法皇大に御感在てやがて門を開かせて入られけり。九郎義經其日の裝束には、赤地の錦の直垂に、紫裳濃の鎧著て、鍬形打たる甲の緒しめ、金作の太刀を帶き、切斑の矢負ひ、滋籐の弓の鳥打を紙を廣さ一寸許に切て、左卷にぞ卷たりける。今日の大將軍の驗とぞ見えし。法皇は中門の櫺子より叡覽有て、「ゆゝしげなる者どもかな、皆名乘せよ。」と仰ければ、先づ大將軍九郎義經、次に安田三郎義定、畠山庄司次郎重忠、梶原源太景季、佐々木四郎高綱、澁谷右馬允重資とこそ名乘たれ。義經具して武士は六人鎧は色々也けれども、頬魂事柄何れも劣らず。大膳太夫成忠仰せを承て、九郎義經を大床の際へ召て、合戰の次第を委く御尋あれば、義經畏て申けるは、「義仲が謀叛の事、頼朝大に驚き、範頼義經を始めとして、むねとの兵三十餘人其勢六萬餘騎を參せ候。範頼は勢田より參り候が未參り候はず。義經は宇治の手を責め落いて、先づ此御所守護の爲に馳參じて候。義仲は河原を上りに落候つるを、兵共に追せ候つれば、今は定めて討取候ぬらん。」と、いと事もなげにぞ申されたる。法皇大に御感有て、「神妙也。木曾が餘黨など參て、狼藉もぞ仕る。汝等此御所能々守護せよ。」と仰ければ義經畏り承はて、四方の門を固めて待程に、兵共馳集て、程なく一萬騎許に成にけり。 木曾は若しの事あらば、法皇を取參らせて、西國へ落下り、平家と一つに成らんとて、力者 廿人汰へて持たりけれども、御所には九郎義經馳參て、守護し奉る由聞えしかば、「さらば」とて、數萬騎の大勢の中へをめいて懸入る。既に討れんとする事度々に及ぶといへども、懸け破り懸け破り通りけり。木曾涙を流て、「かかるべしとだに知たらば、今井を勢田へは遣ざらまし。幼少竹馬の昔より、死ならば一所で死なんとこそ契しに、所々で討れん事こそ悲しけれ。今井が行末を聞かばや。」とて、河原を上りに懸る程に、六條河原と三條河原との間に敵襲て懸れば、取て返し取て返し、僅なる小勢にて、雲霞の如くなる敵の大勢を、五六度までぞ追返す。鴨河さと打渡し粟田口松坂にぞ懸ける。去年信濃を出しには、五萬餘騎と聞えしに今日四宮河原を過るには、主從七騎に成にけり。まして中有の旅の空、思ひやられて哀なり。 -------------------------------------------------------------------------------- 木曾最後 木曾殿は信濃より、巴、山吹とて、二人の便女を具せられたり。山吹は痛はり有て、都に留りぬ。中にも巴は色白く髮長く、容顏誠に勝れたり。ありがたき強弓、精兵、馬の上、歩立、打物持ては鬼にも神にも逢うと云ふ一人當千の兵也。究竟の荒馬乘り、惡所落し、軍と云へば、實より鎧著せ、大太刀強弓持せて、先づ一方の大將には向けられけり。度々の高名肩を竝ぶる者なし。されば今度も多くの者ども落行討れける中に、七騎が中まで、巴は討れざりけり。 木曾は長坂を經て、丹波路へ趣くとも聞えけり。又龍華越に懸て、北國へとも聞えけり。かかりしかとも、「今井が行へを聞ばや。」とて、勢田の方へ落行程に、今井四郎兼平も、八百餘騎で勢田を固めたりけるが僅に五十騎許に打なされ、旗をば卷せて主の覺束なきに、都へとて歸す程に、大津の打出濱にて、木曾殿に行合奉る。互に中一町許より、其と見知て、主從駒を疾めて寄り合たり。木曾殿今井が手を取て宣けるは、「義仲六條河原で如何にも成べかりつれ共、汝が行末の戀しさに、多くの敵の中を懸け破て、是迄は逃たる也。」今井四郎、「御諚誠に忝なう候 [1]兼平も勢田で討死仕るべう候つれ共、御行末の覺束なさに、是迄參て候。」とぞ申ける。木曾殿「契は未だ朽せざりけり。義仲が勢は敵に押隔てられ林に馳散て、此邊にもあるらんぞ。汝が卷せて持せたる旗上させよ。」と宣へば、今井が旗を差し上たり。京より落る勢ともなく、勢田より落る者ともなく、今井が旗を見附けて、三百餘騎ぞ馳集る。木曾殿大に悦で「此勢あらば、などか最後の軍せざるべき。爰にしぐらうて見ゆるは、誰が手やらん。」「甲斐の一條次郎殿とこそ承候へ。」「勢は幾等程有やらん」「六千餘騎とこそ聞え候ヘ。」「さらばよい敵ごさんなれ。同う死なば、よからう敵に懸合て大勢の中でこそ討死をもせめ。」とて眞先にこそ進みけれ。 木曾左馬頭其日の裝束には、赤地の錦の直垂に、唐綾威の鎧著て、鍬形打たる甲の緒しめ、いか物作の大太刀帶き、石打の矢の、其日の軍に射て、少々殘たるを、首高に負なし、滋籐の弓持て、聞る木曾の鬼葦毛と云ふ馬の究て太う逞に金覆輪の鞍置て乘たりける。鐙蹈張 立上り、大音聲を揚て名乘けるは、「日比は聞けん物を、木曾冠者。今は見るらん、左馬頭兼伊豫守朝日將軍源義仲ぞや。甲斐の一條次郎とこそきけ。互に好い敵ぞ。義仲討て兵衞佐に見せよや。」とて喚いて懸く。一條次郎、「唯今名乘は、大將軍ぞ。餘すな、洩すな、若黨、討や。」とて大勢の中に取籠て、我討取んとぞ進ける。木曾三百餘騎、六千餘騎が中を堅ざま横ざま蜘蛛手十文字に懸破て、後へつと出たれば、五十騎許に成にけり。そこを破て行く程に、土肥次郎實平、二千餘騎で支たり。そこをも破て行く程に、あそこでは四五百騎、こゝでは二三百騎、百四五十騎、百騎ばかりが中を、懸け破り々々行く程に、主從五騎にぞ成にける。五騎が中迄、巴は討れざりけり。木曾殿「おのれは、とう/\、女なれば、何地へも落ゆけ。義仲は討死せんと思ふ也。若し人手に懸らば、自害をせんずれば、木曾殿の最後の軍に、女を具せられたりけりなど言れん事も、然るべからず。」と宣ひけれども、猶落も行ざりけるが、餘りに言はれ奉て、「あはれ好らう敵がな。最後の軍して見せ奉らん。」とて、引へたる處に武藏國に聞えたる大力、御田八郎師重、三十騎許で出來たり。巴其中へ懸入、御田八郎に押ならべ、むずと取て引き落し、我が乘たる鞍の前輪に押つけて、ちとも働かさず頸ねぢ切て捨てけり。其後物具脱棄て、東國の方へ落ぞ行く。手塚太郎討死す。手塚の別當落にけり。 今井四郎、木曾殿、主從二騎に成て宣けるは、「日來は何とも覺えぬ鎧が、今日は重う成たるぞや。」今井四郎申けるは、「御身も未疲れさせ給はず、御馬も弱り候はず。何に依てか一領の 御著背長を重うは思食候べき。其は御方に御勢が候はねば、臆病でこそ、さは思召候へ。兼平一人候とも、餘の武者千騎と思召せ。矢七八候へば、暫く防ぎ矢仕らん。あれに見え候は、粟津の松原と申。あの松の中で、御自害候へ。」とて、打て行く程に、又荒手の武者五十騎許出來たり。「君はあの松原へ入せ給へ。兼平は此敵防ぎ候はん。」と申ければ、木曾殿のたまひけるは「義仲都にて如何にも成べかりつるが、是迄逃れ來るは汝と一所で死なんと思ふ爲也。所々で討れんより一所でこそ討死をもせめ。」とて、馬の鼻を竝て、懸んとし給へば、今井四郎馬より飛下、主の馬の口に取附て申けるは「弓矢取りは、年比日比如何なる高名候へども、最後の時不覺しつれば、永き瑕にて候也。御身は疲させ給ひて候。續く勢は候はず。敵に押隔てられ、いふかひなき人の郎等に組落されさせ給て討れさせ給なば、さばかり日本國に聞えさせ給ひつる木曾殿をば、何某が郎等の討奉たるなど申さん事こそ口惜う候へ。唯あの松原へ入せ給へ。」と申ければ、木曾「さらば」とて、粟津の松原へぞ駈け給ふ。 今井四郎唯一騎、五十騎許が中へかけ入り、鐙蹈張立上り、大音聲揚て、名乘けるは、「日比は音にも聞きつらん、今は目にも見給へ。木曾殿の乳母子今井の四郎兼平、生年三十三に罷成る。さる者ありとは、鎌倉殿までも知召されたるらんぞ。兼平討て、見參に入よ。」とて、射殘たる八筋の矢を、指つめ引詰散々に射る。死生は知らず、矢庭に敵八騎射落す。其後打物ぬいであれに馳あひ、是に馳合ひ、切て回るに、面を合する者ぞなき。分捕餘たしたりけり。「唯射取や。」とて、中に取籠め雨の降樣に射けれども、鎧好れば裏かゝず、明間を射ねば手 も負はず。 木曾殿は唯一騎、粟津の松原へ駈給ふが、正月廿一日、入相許の事なるに、薄氷は張たりけり。深田有とも知らずして、馬を颯とうち入たれば、馬のかしらも見えざりけり。あふれども/\、打ども/\動かず。今井が行末の覺束なさに、振あふぎ給へる内甲を、三浦の石田次郎爲久追懸て、よ引てひやうと射る。痛手なれば、まかふを馬の首に當て俯し給へる處に、石田が郎等二人落合て、終に木曾殿の頸をとてけり。太刀の鋒に貫ぬき、高く指上げ、大音聲を揚て、「此日比日本國に聞えさせ給ひつる木曾殿をば、三浦石田次郎爲久が討奉たるぞや。」と名のりければ、今井四郎軍しけるが、是を聞き、「今は誰をかばはむとて軍をもすべき。是を見給へ、東國の殿原、日本一の剛の者の自害する手本。」とて、太刀の鋒を口に含み、馬より倒に飛落ち、貫かてぞ失にける。去てこそ粟津の軍は無りけれ。 [1] Nihon Koten Bungaku Taikei (Tokyo: Iwanami Shoten, 1957, vol. 33; hereafter cited as NKBT) has 。 at this point. -------------------------------------------------------------------------------- 樋口誅罰 今井が兄樋口次郎兼光は、十郎藏人討んとて、河内國長野城へ越たりけるが、其にては討漏しぬ。紀伊國名草に有りと聞えしかば、やがて續いて越たりけるが、都に軍有りと聞て、馳上る。淀の大渡の橋で、今井が下人行合たり。「あな心憂、是は何地へとて渡せ給ひ候ぞ。君は討れさせ給ぬ。今井殿は自害。」と申ければ、樋口次郎涙をはら/\と流いて、「是聞給へ、殿原、君に御志思ひ參せ給はん人人は、是より何地へも落行き、出家入道して、乞食頭陀の 行をも立て、後世をも弔參せ給へ。兼光は都へ上り討死して、冥途にて君の見參に入、今井四郎を今一度見んと思ふぞ。」と云ければ、五百餘騎の勢あそこに引へ、こゝに引へ、落ゆく程に、鳥羽の南の門を出けるには、其勢僅に廿餘騎にぞ成にける。樋口次郎今日既に都へ入と聞えしかば、黨も高家も、七條、朱雀、四塚さまへ馳向ふ。樋口が手に、茅野太郎と云ふ者有り。四塚に幾も馳向うたる敵の中へ馳入り、大音聲を揚て、「此御中に甲斐の一條次郎殿の御手の人やまします。」と問ければ、「強一條次郎殿の手で、軍をばするか、誰にも合へかし。」とて、どと笑ふ。笑はれて名のりけるは、「かう申す者は信濃國諏訪上宮の住人、茅野大夫光家が子に、茅野太郎光廣、必ず一條の次郎殿の御手を尋るには非ず、弟の茅野七郎それにあり。光廣が子共二人信濃國に候が、あはれ我父は、好てや死にたるらん。惡てや死にたるらんと歎かん處に、弟の七郎が前で討死して、子共にたしかに聞せんと思ふ爲也。敵をば嫌まじ。」とて、あれに馳合ひ、これに馳合ひ、敵三騎きて落し、四人に當る敵に押雙べ引組でどうと落ち刺違てぞ死にける。 樋口次郎は兒玉黨に結ほれたりければ、兒玉の人ども寄合て、「弓矢取習ひ我も人も廣い中へ入らんとするは、自然の事の在ん時の一まとの息をも休め、暫しの命をも續んと思ふ爲也。されば樋口次郎が我等にむすぼほれけんも、さこそは思ひけめ。今度の我等が勳功には樋口が命を申請ん。」とて使者を立てゝ、「日比は木曾殿の御内に、今井、樋口とて聞え給しかども、今は木曾殿討れさせ給ひぬ。何か苦かるべき、我等が中へ降人に成給へ。勳功の賞に申かへ て命ばかり助奉らん。出家入道をもして後世を弔ひ參せ給へ。」と云ければ、樋口次郎聞ゆる兵なれども、運や盡にけん、兒玉黨の中へ降人にこそ成にけれ。是を九郎御曹司に申す。御所へ奏聞して宥められたりしを傍の公卿殿上人、局の女房達、「木曾が法住寺殿へ寄せて、鬨を作り君をも惱し參らせ、火をかけて、多の人々を滅し失ひしには、あそこにもこゝにも、今井樋口といふ聲のみこそ有しか。これらを宥められんは口惜かるべし。」と、面々に申されければ、又死罪に定めらる。 同二十二日、新攝政殿とどめられ給ひ、本の攝政還著し給ふ。僅六十日の内に替られ給へば、未だ見果ぬ夢の如し。昔粟田の關白は、悦申の後唯七箇日だにこそおはせしか。是は六十日とは云へども、其間に節會も除目も行はれしかば、思出なきにもあらず。 同廿四日、木曾左馬頭、幵餘黨五人が頸、大路を渡さる。樋口次郎は降人なりしが、頻に頸の伴せんと申ければ、藍摺の水干立烏帽子で渡されけり。同廿五日、樋口次郎終に斬られぬ。範頼義經樣々に申されけれども、「今井、樋口、楯、根井とて、木曾が四天王の其一つ也。是等を宥められんは、養虎の愁有るべし。」と、殊に沙汰有て斬られけるとぞ聞えし。傳に聞く、虎狼の國衰て諸侯蜂の如く起し時、 はい公先に咸陽宮へ入と云へども、項羽が後に來らん事を恐て、妻は美人をも犯かさず、金銀珠玉をも掠めず、徒に凾谷の關を守て、漸漸に敵を滅して天下を治する事を得たりき。されば木曾左馬頭、先都へ入といふとも、頼朝朝臣の命に從がはましかば、彼 はい公が謀には劣らざらまし。 平家は去年の冬の比より、讃岐國八島磯を出て、攝津國難波潟へ押渡り、福原の舊都に居住して、西は一谷を城郭に構へ、東は生田森を大手の木戸口とぞ定めける。其内、福原、兵庫、板宿、須磨に籠る勢、是は山陽道八箇國、南海道六箇國、都合十四箇國を打隨へて、召るゝ所の軍兵也。十萬餘騎とぞ聞えし。一谷は北は山、南は海、口は狹くて奧廣し。岸高くして屏風を立たるに異ならず。北の山際より、南の海の遠淺迄、大石を重上げ、大木を伐て逆茂木にひき、深き所には大船どもを そばだてて掻楯にかき、城の面の高櫓には、一人當千と聞ゆる四國鎭西の兵ども甲冑弓箭を帶して、雲霞の如くになみ居たり。やぐらの下には、鞍置馬共、十重廿重に引立てたり。常に大皷を打て亂聲を爲す。一張の弓の勢は、半月胸の前に懸り、三尺の劍の光は、秋の霜腰の間に横へたり。高き所には赤旗多く打立たれば、春風に吹れて天に翻るは、火 焔の燃上るに異ならず。 -------------------------------------------------------------------------------- 六箇度軍 平家福原へ渡給ひて後は、四國の兵ども隨ひ奉らず。中にも阿波讃岐の在廳ども、平家を背いて、源氏に付むとしけるが、「抑我等は昨日今日まで、平家に隨うたるものの、今日始めて源氏の方へ参りたりとも、よも用ゐられじ。いざや平家に矢一つ射懸て、其を面にして參らん。」とて、門脇中納言、子息越前三位、能登守父子三人、備前國下津井にましますと聞えしかば討たてまつらんとて、兵船十餘艘で寄せたりける。能登守是を聞き、「惡い奴原かな。昨 日今日迄、我等が馬の草切たる奴原が、既に契りを變ずるにこそ有なれ。其儀ならば、一人も洩さず討てや。」とて、小船共に取乘て、「餘すな、漏すな。」とて攻め給へば、四國の兵共、人目ばかりに矢一つ射て、退んとこそ思ひけるに、手痛う攻られ奉て、叶はじとや思ひけん、遠負にして引退き、都の方へ逃上るが、淡路國福良の泊に著にけり。其國に源氏二人有り、故六條判官爲義が末子、賀茂冠者義嗣、淡路冠者義久と聞えしを、西國の兵共大將に憑んで、城廓を構へて待處に、能登殿やがて押寄攻給へば、一日戰ひ賀茂冠者討死す。淡路冠者は痛手負て、自害してけり。能登殿、防ぎ矢射ける兵ども、百三十餘人が頸切て、討手の交名記いて、福原へ參らせらる。 門脇中納言其より福原へ上り給ふ。子息達は伊豫の河野四郎召せども參らぬを責んとて、四國へぞ渡られける。先づ兄の越前三位通盛卿、阿波國花園城に著給ふ。弟能登守、讃岐の八島へ渡り給ふと聞えしかば、河野四郎通信は、安藝國の住人沼田次郎は母方の伯父 [2]なりけりば、一つに成んとて、安藝國へ推渡る。能登守是を聞き、やがて讃岐の八島を出でて追はれけるが、既に備後國蓑島に懸て、次の日沼田城へ寄せ給ふ。沼田次郎、河野四郎一つに成て、防ぎ戰ふ。能登殿やがて押寄て攻給へば、一日一夜ふせぎ戰ひ沼田次郎叶はじとや思ひけん、甲を脱いで、降人に參る。河野四郎は猶從ひ奉らず、其勢五百餘騎有けるが、僅に五十騎許に討成れ、城を出て行く程に、能登殿の侍、平八兵衞爲員二百騎許が中に取籠られて主從七騎に討成れ、助け船に乘んと、細道に懸て渚の方へ落行程に、平八兵衞が子息、讃岐七郎義 範、究竟の弓の上手ではあり、追懸て七騎を矢庭に五騎射落す。河野四郎只主從二騎になりにけり。河野が身に替へて思ひける郎等を讃岐七郎押竝べて組で落ち、取て押て頸を掻んとする所に、河野四郎取て返し、郎等が上なる讃岐七郎が頸掻切て深田へ投入、大音聲を揚て、「河野四郎越智通信、生年廿一、かうこそ軍をばすれ。我と思はん人々は留よや。」とて、郎等を肩に引懸け、そこをつと迯て小舟に乘り、伊豫國へぞ渡りける。能登殿河野をも打漏されたれども、沼田次郎が降人たるを召具して、福原へぞ參られける。 又淡路國の住人安摩六郎忠景、平家を背いて、源氏に心を通しけるが、大船二艘に兵粮米物具、積で都の方へ上る程に、能登殿福原にて、これをきゝ、小舟十艘計おし浮べて追はれけり。安摩六郎、西宮の沖にて返し合せて防戰ふ。手痛う責められ奉て、叶はじとや思ひけん、引退て和泉國吹飯浦に著にけり。紀伊國の住人園邊兵衞忠康、これも平家を背いて源氏につかんとしけるが、安摩六郎が能登殿に攻られ奉て、吹飯に有と聞えしかば、其勢百騎計で馳來て一つになる。能登殿やがて續いて攻給へば、一日一夜防ぎ戰ひ、安摩六郎、園邊兵衞、叶はじとや思ひけん、家子郎等に防矢射させ、身がらは迯て京へ上る。能登殿防矢射ける兵ども、二百餘人が頸切りかけて、福原へこそ參られけれ。又伊豫國の住人河野四郎通信、豐後國の住人臼杵次郎惟高、緒方三郎惟義、同心して都合其勢二千餘人、備前國へ押渡り、今木城にぞ籠ける。能登守是を聞き、福原より三千餘騎で馳下り、今木城を攻め給ふ。能登殿「彼奴原はこはい御敵で候。重て勢を給はらん。」と申されければ、福原より數萬騎の大勢を 向らるゝ由聞えし程に、城の内の兵ども、手のきは戰ひ、分捕高名し究て、「平家は大勢でまします也。我等は無勢也。如何にも叶まじ。こゝをば落て、暫く息を續がん。」とて、臼杵次郎、緒方三郎舟に取り乘り、鎭西へ押し渡る。河野は伊豫へぞ渡りける。能登殿「今は討つべき敵なし。」とて、福原へこそ參られけれ。大臣殿を始め奉て平家一門の公卿殿上人寄合ひて、能登殿毎度の高名をぞ一同に感じ合れける。 [2] NKBT reads なりければ. -------------------------------------------------------------------------------- 三草勢揃 正月廿九日、範頼義經院參して、平家追討の爲に西國へ發向すべき由奏聞しけるに、「本朝には神代より傳れる三の御寶あり。内侍所、神璽、寶劍是也。相構て事故なく都へ歸入れ奉れ。」と仰下さる。兩人畏り承て罷出でぬ。 同二月四日、福原には故入道相國の忌日とて、佛事形の如く行はる。朝夕の軍立に過行く月日は知らね共、去年は今年に回り來て、憂かりし春にも成にけり。世の世にて有ましかば、如何なる起立塔婆の企、供佛施僧の營みも有べかりしかども、唯男女の君達指し聚ひて、泣より外の事ぞなき。 此次でに叙位除目行はれて、僧も俗も皆司なされけり。門脇中納言、正二位大納言に成給ふべき由、大臣殿よりの給ひければ、教盛卿、 けふまでも有ばあるかの我身かは、夢の中にも夢をみるかな。 と御返事申させ給ひて、遂に大納言にもなり給はず、大外記中原師直が子、周防介師純大外記になる。兵部少輔正明、五位藏人になされて、藏人少輔とぞ云はれける。昔將門が東八箇國を討從へて、下總相馬郡に都を立て、我身を平親王と稱して百官をなしたりしには、歴博士ぞ無りける。是は其には似るべからず。舊都をこそ落給ふと云へども、主上三種神器を帶して、萬乘の位に備り給へり。叙位除目行れんも僻事にはあらず。 平氏既に福原迄攻上て都へ歸り入べき由聞えしかば、故郷に殘とゞまる人々、勇み悦ぶ事斜ならず。二位僧都專親は、梶井宮の年來の御同宿也ければ、風の便には申されけり。宮よりも又常は音信在けり。「旅の空の在樣、思召遣るこそ心苦しけれ。都も靜まらず。」などもあそばいて、奧には一首の歌ぞありける。 人しれず其方をしのぶ心をば、傾く月にたぐへてぞやる。 僧都是を顏に推當て、悲の涙塞あへず。 さる程に小松三位中將維盛卿は、年隔り日重るに隨ひて、故郷に留め置給ひし北の方少き人々の事をのみ歎き悲み給ひけり。商人の便に、おのづから文などの通ふにも、北方の都の御在樣、心苦う聞給ふに、さらば迎へとて、一所でいかにも成らばやとは思へども、我身こそあらめ、人の爲痛くてなど、思召し忍びて、明し暮し給ふにこそ、責ての志の深さの程も露れけれ。 さる程に源氏は四日寄べかりしが、故入道相國の忌日と聞て、佛事を遂させんが爲に寄ず。 五日は西塞り、六日は道虚日、七日の卯刻一谷の東西の木戸口にて、源平矢合とこそ定めけれ。さりながらも四日は吉日なればとて、大手搦手の大將軍、軍兵二手に分て都を立つ。大手の大將軍には、蒲御曹司範頼、相伴ふ人々、武田太郎信義、加賀美次郎遠光、同小次郎長清、山名次郎教義、同三郎義行、侍大將には、梶原平三景時、嫡子源太景季、次男平次景高、同三郎景家、稻毛三郎重成、榛谷四郎重朝、同五郎行重、小山小四郎朝政、同中沼五郎宗政、結城七郎朝光、佐貫四郎大夫廣綱、小野寺前司太郎道綱、曾我太郎資信、中村太郎時經、江戸四郎重春、玉井四郎資景、大河津太郎廣行、庄三郎忠家、同四郎高家、勝大八郎行平、久下次郎重光、河原太郎高直、同次郎盛直、藤田三郎大夫行泰を先として、都合其勢五萬餘騎二月四日の辰の一點に都を立て、其日の申酉の刻に、攝津國昆陽野に陣を取る。搦手の大將軍は、九郎御曹司義經、同く伴ふ人々、安田三郎義貞、大内太郎惟義、村上判官代康國、田代冠者信綱、侍大將には土肥次郎實平、子息彌太郎遠平、三浦介義澄、子息平六義村、畠山庄司次郎重忠、同長野三郎重清、佐原十郎義連、 [3]和田小太郎義盛同次郎義茂同三郎宗實、佐々木四郎高綱、同五郎義清、熊谷次郎直實、子息小次郎直家、平山武者所季重、天野次郎直經、小河次郎資能、原三郎清益、金子十郎家忠、同與一親範、渡柳彌五郎清忠、別府小太郎清重、多々羅五郎義春、其子太郎光義、片岡太郎經春、源八廣綱、伊勢三郎義盛、奧州佐藤三郎嗣信、同四郎忠信、江田源三、熊井太郎、武藏坊辨慶を先として、都合其勢一萬餘騎、同日の同時に都を立て、丹波路に懸り、二日路を一日に打て、播磨と丹波と 境なる三草の山の東の山口、小野原にこそ著にけれ。 [3] NKBT reads 和田小太郎義盛。同次郎義茂。同三郎宗實、. -------------------------------------------------------------------------------- 三草合戰 平家の方には大將軍小松新三位中將資盛、同少將有盛、丹後侍從忠房、備中守師盛、侍大將には平内兵衞清家、海老次郎盛方を初として、都合其勢三千餘騎、小野原より三里隔てゝ三草山の西の山口に陣をとる。其夜の戌の刻ばかり、九郎御曹司、土肥次郎を召て、「平家は是より三里隔てて、三草山の西の山口に、大勢で引へたんなるは今夜夜討によすべきか、明日の軍か」と宣へば、田代冠者進み出でて申けるは、「明日の軍と延られなば、平家勢附候なんず。平家は三千餘騎、御方の御勢は一萬餘騎、遙の利に候。夜討好んぬと覺候。」と申ければ、土肥次郎、「いしうも申させ給ふ田代殿哉。さらば軈て寄せさせ給へ。」とて打立けり。兵共「暗さは暗し、如何せんずる。」と口々に申ければ、九郎御曹司「例の大たいまつは如何に。」と宣まへば、土肥次郎「さる事候。」とて、小野原の在家に火をぞ懸たりける。是を始て、野にも山にも草にも木にも火を付たれば、晝にはちとも劣らずして、三里の山をこえゆきけり。 此田代冠者と申は、父は伊豆國の先の國司、中納言爲綱の末葉也。母は狩野介茂光が娘を思うて設たりしを、母方の祖父に預けて、弓矢取にはしたてたりけり。俗姓を尋ぬれば、後三條院の第三の王子、資仁親王より五代の孫也。俗姓も好き上、弓矢を取ても好りけり。 平家の方には、其夜、夜討にせんずるをば知らずして、「軍は定めて明日の軍でぞ有んずら ん。軍にも睡たいは大事の事ぞ。好う寢て軍せよ。」とて先陣は自用心するもありけれども、後陣の者ども、或は甲を枕にし、或は鎧の袖箙などを枕にして、先後も知らずぞ臥たりける。夜半ばかりに、源氏一萬騎、おしよせて、鬨をどと作る。平家の方には、餘りに遽噪いで、弓取る者は矢を知らず、矢取る者は弓を知らず、馬に當られじと中を明てぞ通しける。源氏は落行く敵をあそこに追懸け、こゝに追詰め攻ければ、平家の軍兵矢庭に五百餘騎討れぬ。手負者ども多かりけり。大將軍小松新三位中將、同少將、丹後侍從、面目なうや思はれけん、播磨國高砂より舟に乘て、讃岐の八島へ渡給ひぬ。備中守は平内兵衞海老次郎を召具して、一谷へぞ參られける。 -------------------------------------------------------------------------------- 老馬 大臣殿は安藝右馬助能行を使者で、平家の君達の方々へ、「九郎義經こそ三草の手を責落いて、既に亂入候なれ。山の手は大事に候。各向はれ候へ。」と宣ひければ、皆辭し申されけり。能登殿の許へ、「度々の事で候へども、御邊向はれ候なんや。」と、宣ひ遣されたりければ、能登殿の返事には「軍をば我身一つの大事ぞと思うてこそ好う候へ。獵漁などの樣に、足立ちの好らう方へは向はん、惡からん方へは向はじなど候はんには、軍に勝つ事よも候はじ。幾度でも候へ、強からん方へは教經承はて、向ひ候はん。一方ばかりは打破り候べし。御心安う思召され候へ。」と憑し氣にぞ申されける。大臣殿斜ならず悦で、越中前司盛俊を先とし て、能登殿に一萬餘騎をぞ附られける。兄の越前三位通盛卿相具して、山の手をぞ固め給ふ。山の手と申は、鵯越の麓也。通盛卿は能登殿の假屋に、北方迎へ奉て、最後の名殘惜まれけり。能登殿大に怒て、「此手は強い方とて、教經を向けられて候也。誠に強う候べし。唯今も上の山より源氏さと落し候なば、取る物も取あへ候はじ。縱弓を持たりとも、矢を番ずば叶ひがたし。縱矢を番たりとも、引ずば猶惡かるべし。ましてさ樣に打解させ給ては、何の用にか立せ給ふべき。」と諫められて、げにもと思はれけん、急ぎ物具して、人をば歸し給ひけり。五日の暮方に、源氏昆陽野を立て、漸々生田森に攻近づく。雀松原、御影の松、昆陽野の方を見渡せば、源氏手々に陣を取て、遠火を燒く。深行まゝに眺むれば山の端出る月の如し。平家も「遠火燒や。」とて、生田森にも形の如くぞ燒たりける。明行まゝに見渡せば晴たる空の星の如し。是や昔河邊の螢と詠じ給ひけんも、今こそ思ひ知れけれ。源氏は、あそこに陣取て馬休め、こゝに陣取て馬飼などしける程に急がず。平家の方には「今や寄する、今や寄する。」と安い心も無りけり。 六日の明ぼのに、九郎御曹司、一萬餘騎を二手に分け、先づ土肥次郎實平をば七千餘騎で一谷の西の手へ差遣はす。我身は三千餘騎で、一谷のうしろ鵯越を落さんと、丹波路より搦手にこそまはられけれ。兵共「是は聞ゆる惡所で有なり。同う死ぬるとも敵に逢うてこそ死たけれ惡所に落ては死たからず。あはれ此山の案内者やあるらん。」と面々に申ければ、武藏國の住人平山武者所進み出でて、申けるは、「季重こそ案内は知て候へ。」御曹司、「和殿は東 國生立の者の、今日始めて見る西國の山の案内者、大に實しからず。」と宣へば、平山重ねて申けるは、「御諚とも覺候はぬ者哉。吉野泊瀬の花をば歌人が知り、敵の籠たる城の後の案内をば剛の者が知候。」と申ければ、是又傍若無人にぞ聞えける。 又武藏國の住人別府小太郎清重とて、生年十八歳に成る小冠者進出て申けるは、「父で候し義重法師が教候しは、『敵にも襲はれよ、又山越の狩をもせよ、深山に迷ひたらん時は、老馬に手綱を打懸て、先に追立て行け、必道へ出うずるぞ。』とこそ教候しか。」御曹司、「優うも申たる者哉。雪は野原を埋めども、老たる馬ぞ道は知ると云ふ樣有り。」とて、白葦毛なる老馬に鏡鞍置き、白轡はげ、手綱結で打懸け、先に追立て、未知ぬ深山へこそ入給へ。比は二月初の事なれば、峯の雪村消て、花かと見ゆる所も有り。谷の鶯音信て、霞に迷ふ所も有り。上れば白雪皓々として聳え、下れば青山峨々として岸高し。松の雪だに消やらで、苔の細道幽なり。嵐にたぐふ折々は、梅花とも又疑はれ、東西に鞭を上、駒をはやめて行く程に、山路に日暮ぬれば、皆下居て陣をとる。武藏坊辨慶、老翁を一人具して參りたり。御曹司、「あれは何者ぞ。」と問たまへば、「此山の獵師で候。」と申。「さて案内は知たるらん。在の儘に申せ。」とこそ宣ひけれ。「爭か存知仕らで候べき。」「是より平家の城廓一谷へ落さんと思ふは如何に。」「努々叶ひ候まじ。三十丈の谷十五丈の岩崎など申處は人の通べき樣候はず。まして御馬などは思ひも寄り候はず。其うへ城のうちにはおとしあなをもほり、ひしをもうゑて待まゐらせ候らんと申。」「さてさ樣の所は鹿は通ふか。」「鹿は通ひ候。世間だにも暖に成候へば、 草の深いに臥うとて、播磨の鹿は丹波へ越え、世間だにも寒う成り候へば、雪の淺きに食んとて、丹波の鹿は播磨の印南野へかよひ候。」と申。御曹司「さては馬場ごさんなれ。鹿の通はう所を、馬の通はぬ樣や有る。軈て汝案内者つかまつれ。」とぞ宣ひける。此身は年老て叶うまじい由を申す。「汝は子は無か。」「候」とて、熊王と云童の生年十八歳になるをたてまつる。やがて髻取あげ父をば鷲尾庄司武久と云ふ間、是をば鷲尾三郎義久と名乘せ、先打せさせて、案内者にこそ具せられけれ。平家追討の後、鎌倉殿に中違うて、奧州で討れ給ひし時鷲尾三郎義久とて、一所で死ける兵也。 -------------------------------------------------------------------------------- 一二之懸 六日の夜半ばかりまでは、熊谷平山搦手にぞ候ける。熊谷次郎、子息の小次郎を喚で云けるは、「此手は惡所を落さんずる時に、誰先といふ事も有まじ。いざうれ是より土肥が承はて向うたる播磨路へ向うて、一谷の眞先懸う。」と云ひければ、小次郎、「然べう候。直家もかうこそ申たう候つれ。さらばやがて寄せさせ給へ。」と申す。熊谷、「誠や平山も此手にあるぞかし、打込の軍好まぬ者也。平山が樣見て參れ。」とて、下人を遣はす。案の如く平山は、熊谷より先に出立て、「人をば知らず、季重に於ては一引も引まじい者を。」と、獨り言をぞし居たりける。下人が馬を飼ふとて、「憎い馬の長食哉。」とて、打ければ、「かうなせそ、其馬の名殘も、今夜ばかりぞ。」とて打立けり。下人走歸て、急ぎ此由告たりければ、「さればこそ。」とて、や がて是も打出けり。熊谷は、かちの直垂に、赤革威の鎧著て、紅の母衣を懸け、ごんだ栗毛と云ふ聞ゆる名馬にぞ乘たりける。小次郎は、澤潟を一しほすたる直垂に、節繩目の鎧著て、西樓と云ふ白月毛なる馬に乘たりけり。旗差はきぢんの直垂に、小櫻を黄にかへいたる鎧著て、黄河原毛なる馬にぞ乘たりける。落さんずる谷をば弓手になし、馬手へ歩ませゆく程に、年比人も通はぬ田井の畑と云ふ古道を經て、一谷の波打際へぞ出たりける。一谷の近く鹽屋と云ふ處に未だ夜深かりければ、土肥次郎實平、七千餘騎で引へたり。熊谷は波打際より夜に紛て、そこをつと打通り、一谷の西の木戸口にぞ押寄たる。其時は未だ夜ふかゝりければ敵の方にも靜返て音もせず。御方一騎もつゞかず。熊谷次郎子息の小次郎を喚で云ひけるは、「我も/\と先に心を懸たる人々は多かるらん。心狹う直實計とは思ふべからず。既に寄せたれども、未だ夜の明るを相待て、此邊にも引へたるらん。いざ名乘う。」とて、掻楯の際に歩ませ寄り、大音聲を揚て、「武藏國の住人熊谷次郎直實、子息の小次郎直家、一谷の先陣ぞや。」とぞ名乘たる。平家の方には、「よし/\音なせそ。敵に馬の足を疲かせよ。矢種をば射盡させよ。」とて、會釋ふ者も無りけり。 さる程に又後に武者こそ一騎續いたれ。「誰そ。」と問へば「季重」と答ふ。「問は誰そ。」「直實ぞかし。」「如何に熊谷殿はいつよりぞ。」「直實は宵よりよ。」とぞ答へける。「季重もやがて續て寄べかりけるを、成田五郎に謀れて、今迄遲々したる也。成田が死ば一所で死なうと契る間、『去らば。』とて打連寄る間『痛う平山殿、先懸早りなし給ひそ。先きを蒐ると云は、御方の勢 を後に置て、蒐たればこそ、高名不覺も人に知るれ。唯一騎大勢の中にかけ入て討れたらんは、何の詮か在んずるぞ。』と制する間、げにもと思ひ、小坂の有るを先に打上せ、馬の首を下樣に引立て、御方の勢をまつ處に、成田も續て出來たり、打竝て軍の樣をも言合せんずるかと思ひたれば、さはなくて、季重をばすげなげに打見て、やがてつと馳拔通る間、あはれ此者は謀て、先懸けうとしけるよと思ひ、五六段ばかり先立たるを、あれが馬は我馬よりは弱げなる者をと目をかけ、一 もみもうで追著て、『正なうも季重程の者をば謀り給ふ者哉。』と言ひかけ、打捨て寄つれば、遙に下りぬらん、よも後影をも見たらじ。」とぞ云ひける。 さる程にしのゝめ漸明行けば、熊谷平山彼是五騎でぞ控たる。熊谷は先に名乘たれとも、平山が聞くに名乘んとや思ひけん、又掻楯の際に歩ませ寄り、大音聲を揚て、「以前に名乘つる武藏國の住人、熊谷次郎直實、子息の小次郎直家、一谷の先陣ぞや。我と思はん平家の侍共、直家に落合へや落合へ。」とぞのゝしたる。是を聞て、「いざや通夜名乘る熊谷親子をひさげて來ん。」とて、進む平家の侍誰々ぞ。越中次郎兵衞盛嗣、上總五郎兵衞忠光、惡七兵衞景清、後藤内定經、是を始めてむねとの兵廿餘騎、木戸を開いて懸出たり。こゝに平山滋目結の直垂に、緋威の鎧著て、二つ引兩の母衣をかけ、目糟毛と云ふ聞る名馬にぞ乘たりける。旗差は黒革縅の鎧に、甲猪頸に著ないて、さび月毛なる馬にぞ乘たりける。「保元平治兩度の合戰に先がけたりし武藏國の住人、平山武者所季重。」と名乘て、旗差と二騎馬の鼻をならべてをめいてかく。熊谷蒐れば、平山續き、平山蒐れば熊谷續く。互にわれ劣じと、入替々々、 もみ に もうで、火出る程ぞ攻たりける。平家の侍共、手痛うかけられて、叶はじとや思ひけん、城の内へさと引き、敵を外樣に成てぞ塞ぎける。熊谷は馬の太腹射させて、はぬれば、足をこえて下立たり。子息小次郎直家も、生年十六歳と名乘て掻楯の際に馬のはなを突する程責寄て戰ひけるが、弓手の肘を射させて、馬より飛び下、父と竝でぞ立たりける。「如何に小次郎手負たか。」「さ候。」「常に鎧つきせよ、裏掻すな、錣を傾よ、内甲射さすな。」とぞ教へける。熊谷鎧に立たる矢どもかなぐり捨て、城の内を睨まへ、大音聲を揚て、「去年の冬の比鎌倉を出しより、命をば兵衞佐殿に奉り、屍をば一谷で曝さんと思切たる直實ぞや。室山水島二箇度の合戰に高名したりと名乘る越中次郎兵衞はないか。上總五郎兵衞、惡七兵衞はないか。能登殿はましまさぬか。高名も敵に依てこそすれ。人毎に逢てはえせじ物を。直實に落合や落合へ。」とぞのゝしたる。是を聞いて、越中次郎兵衞、好む裝束なれば、紺村濃の直垂に、赤威の鎧著て、白葦毛なる馬に乘り、熊谷父子に目を懸て、歩ませ寄る。熊谷父子は中を破れじと、立竝んで、太刀を額に當て、後へは一引も引かず、彌前へぞ進みける。越中次郎兵衞叶はじとや思ひけん、取て返す。熊谷、是を見て、「如何に、あれは、越中次郎兵衞とこそ見れ。敵にはどこを嫌はうぞ。直實に押竝べて組や組め。」と云ひけれども、「さもさうず。」とて引返す。惡七兵衞是を見て、「きたない殿原の振舞やう哉。」とて、既に組んとかけ出けるを鎧の袖を引へて。「君の御大事是に限るまじ。有べうもなし。」と制せられて、組ざりけり。其後熊谷は乘替に乘て、喚いてかく。平山も熊谷父子が戰ふ紛れに、馬の息を休めて是も亦 續いたり。平家の方には馬に乘たる武者はすくなし、やぐらの上に兵ども矢先を汰へて雨の降樣に射けれども、敵はすくなし、御方は多し、勢にまぎれて矢にも當らず。「唯押竝べて組や組め。」と下知しけれども、平家の馬は、乘る事は繁く、飼事は稀なり、舟には久しう立たり、彫きたる樣なりけり。熊谷平山が馬は飼に飼たる大の馬どもなり、一當當ては皆蹴倒れぬべき間、押竝べて組む武者一騎も無りけり。平山は身に替て思ひける旗差を射させて敵の中へ破て入り、やがて其敵の頸を取てぞ出たりける。熊谷も、分捕あまたしたりけり。熊谷先に寄せたれど、木戸を開ねば懸入らず。平山後に寄たれど、木戸を開たれば懸入ぬ。さてこそ熊谷平山が、一二懸をば爭けれ。 -------------------------------------------------------------------------------- 二度之懸 さる程に成田五郎も出來たり。土肥次郎眞先懸け、其勢七千餘騎色々の旗差上げ、をめき叫で攻戰ふ。大手生田森にも、源氏五萬餘騎で固たりけるが、其勢の中に、武藏國の住人、河原太郎、河原次郎といふ者有り。河原太郎弟の次郎を呼で云ひけるは、「大名は我と手を下さねども、家人の高名を以て名譽とす。我等は自手を下さずは叶ひがたし。敵を前に置ながら、矢一つだにも射ずして待居たるが、餘りに心もとなく覺ゆるに、高直は先づ城の中へ紛れ入て、一矢射んと思ふなり。されば千萬が一も生て歸らん事有がたし。わ殿は殘り留て、後の證人にたて。」と云ひければ、河原次郎涙をはら/\と流いて「口惜い事を宣ふ者哉。唯 兄弟二人有る者が兄を討せて、弟が一人殘り留またらば、幾程の榮花をか保つべき。所々で討れんよりも、一所でこそ如何にも成らめ。」とて、下人共呼寄せ、最後の有樣妻子の許へ、言遣はし、馬にも乘ず、げゞをはき、弓杖を突て、生田森の逆茂木を上こえ、城の中へぞ入たりける。星明りに鎧の毛もさだかならず。河原太郎大音聲を揚て、「武藏國の住人、河原太郎私市高直、同次郎盛直、源氏の大手生田森の先陣ぞや。」とぞ名乘たる。平家の方には是を聞いて、「東國の武士程怖しかりける者はなし。是程の大勢の中へ唯二人入たらば、何程の事をかし出すべき。好好暫し愛せよ。」とて、射んと云ふ者無りけり。是等兄弟は究竟の弓の上手なれば、指詰引詰散々に射る間、「愛しにくし、討や。」と云程こそ有けれ、西國に聞えたる強弓精兵、備中國の住人、眞名邊四郎、眞名邊五郎とて兄弟有り、四郎は一谷に置れたり、五郎は生田森に有けるが、是を見て能彎てひやうふつと射る。河原太郎が鎧の胸板後へつと射拔れて弓杖にすがりすくむ所を、弟の次郎走り寄て、兄を肩に引懸け、逆茂木を上り越えんとしけるが眞名邊が二の矢に、鎧の草摺の外を射させて、同枕に臥にけり。眞名邊が下人落合うて、河原兄弟が頸を取る。是を新中納言の見參に入たりければ、「あはれ剛の者哉。是等をこそ一人當千の兵とも云べけれ、可惜者共を助て見で。」とぞ宣ひける。 其時下人ども、「河原殿兄弟唯今城の内へ眞先懸て討れ給ひぬるぞや。」とよばはりければ、梶原是を聞き、「私の黨の殿原の不覺でこそ河原兄弟をば討せたれ。今は時能く成ぬ、寄よや。」とて閧をどと作る。やがて續いて五萬餘騎、一度にときをぞ作りける。足輕共に逆茂木とり 除けさせ、梶原五百餘騎喚いてかく。次男平次景高餘に先を懸んと進みければ、父の平三使者を立てて、「後陣の勢の續ざらんに、先懸たらん者は、勸賞有まじき由、大將軍の仰せぞ。」と云ひければ、平次暫引へて、 「武士のとりつたへたる梓弓、ひいては人のかへすものかは。 と申させ給へ。」とて喚いてかく。「平次討すな、續けや者共。景高討すな、續けや者共。」とて父の平三、兄の源太、同三郎續いたり。梶原五百餘騎大勢の中へかけ入り散々に戰ひ、僅に五十騎計に討成され、颯と引いてぞ出たりける。如何したりけん、其中に景季は見ざりけり。「如何に源太は、郎等共。」と問ければ、「深入して討れさせ給ひて候ごさめれ。」と申。梶原平三是を聞き、「世にあらんと思ふも、子共がため、源太討せて命生ても、何かはせん、回せや。」とて取て回す。梶原大音聲を揚て名乘けるは、「昔八幡殿の後三年の御戰に、出羽國千福金澤城を攻させ給ひける時、生年十六歳で、眞先かけて、弓手の眼を甲の鉢附の板に射附られ、當の矢を射て、其敵を射落し、後代に名を揚たりし鎌倉權五郎景正が末葉、梶原平三景時、一人當千の兵ぞや。我と思はん人々は景時討て見參に入れよや。」とて、喚いてかく。新中納言「梶原は東國に聞えたる兵ぞ。餘すな、漏すな、討や。」とて、大勢の中に取籠めて責給へば、梶原先づ我身の上をば知らずして、源太は何くに有やらんとて、數萬騎の中を縱さま横さま、蛛手、十文字に懸破りかけまはり尋ぬる程に、源太はのけ甲に戰ひなて、馬をも射させ徒立になり、二丈計有ける岸を後に當て、敵五人が中に取籠られ郎等二人左右にたてて、 面もふらず命も惜まず、爰を最後と防ぎ戰ふ。梶原是を見付けて、「未討たれざりけり。」と、急ぎ馬より飛で下り、「景時こゝに有り、如何に源太死ぬるとも、敵に後を見すな。」とて、親子して、五人の敵を三人討取り、二人に手負せ、「弓矢取は懸るも引くも折にこそよれ、いざうれ源太。」とて、かい具してぞ出きたりける。梶原が二度の懸とは是也。 -------------------------------------------------------------------------------- 坂落 是を初めて秩父、足利、三浦、鎌倉、黨には、猪俣、兒玉、野井與、横山、西黨、都筑黨、私黨の兵ども、惣して源平亂あひ、入替/\、名乘替/\、喚叫ぶ聲山を響かし、馬の馳違ふ音は雷の如し。射違る矢は雨の降にことならず。手負をば肩に懸け後へ引退くも在り。薄手負うて戰ふも有り。痛手負て討死するものもあり。或は押双べて組で落ち刺違て死ぬるも有り。或は取て押へて頸を掻もあり、掻かるゝもあり。何れ隙ありとも見えざりけり。かかりしかども、源氏大手ばかりでは叶ふべし共見えざりしに、九郎御曹司搦手に回て七日の日の明ぼのに、一谷の後、鵯越に打上り既に落さんとし給ふに、其勢にや驚たりけん、男鹿二つ妻鹿一つ、平家の城廓一谷へぞ落たりける。城の中の兵共是を見て、「里近からん鹿だにも、我等に恐ては山深うこそ入べきに、是程の大勢の中へ鹿の落合ふこそ怪しけれ。如何樣にも、上の山より源氏落すにこそ。」と騒ぐ處に、伊豫國の住人、武知の武者所清教、進み出で、「何んでまれ、敵の方より出來たらん者を、遁すべき樣なし。」とて、男鹿二つ射留 て、妻鹿をば射でぞ通ける。越中の前司、「詮ない殿原の鹿の射樣哉。唯今の矢一つでは、敵十人は防んずる物を、罪作りに、矢だうなに。」とぞ制しける。 御曹司、城廓遙に見渡いておはしけるが、「馬ども落いて見ん。」とて、鞍置馬を追落す。或は足を打折てころんで落つ。或は相違なく落て行もあり。鞍置馬三匹、越中前司が屋形の上に落著て身振してぞ立たりける。御曹司是を見て、「馬共は主々が心得て落さうには、損ずまじいぞ。くは落せ。義經を手本にせよ。」とて、先三十騎ばかり眞先懸て落されけり。大勢皆續いて落す。後陣に落す人人の鎧の鼻は先陣の鎧甲に當る程なり。小石の交りの砂なれば、流れ落しに、二町許さと落いて、壇なる所に引へたり。夫より下を見くだせば、大磐石の苔むしたるが、釣瓶落しに、十四五丈ぞ下たる。兵どもうしろへとてかへすべきやうもなし、又さきへおとすべしとも見えず。「爰ぞ最後。」と申て、あきれて引へたる所に、佐原十郎義連、進出て申けるは、「三浦の方で我等は鳥一つ立ても、朝夕か樣の所をこそは馳ありけ。三浦の方の馬場や。」とて、眞先懸て落しければ、兵者みな續いて落す。えい/\聲を忍びにして、馬に力を附て落す。餘りのいぶせさに目を塞いでぞ落しける。おほかた人の爲態とは見えず、唯鬼神の所爲とぞ見えたりける。落しも果ねば、閧をどと作る。三千餘騎が聲なれど、山彦に答へて、十萬餘騎とぞ聞えける。村上判官代康國が手より火を出し、平家の屋形假屋を皆燒拂ふ。折節風は烈しゝ、黒煙おしかくれば、平氏の軍兵共、餘に遽て噪いで「若や助かる。」と、前の海へぞ多く馳入りける。汀にはまうけ舟どもいくらも有けれども、「我れ先に乘 らう。」と船一艘には物具したる者共が、四五百人ばかりこみ乘らうになじかはよかるべき。汀より僅に三町ばかり推出いて、目の前に大船三艘沈みにけり。其後は、好き人をば乘すとも雜人共をばのすべからずとて、太刀長刀でながせけり。かくする事とは知ながら、乘じとする船には取付きつかみ附き、或はうで打切れ、或はひぢ打落されて一谷の汀に、朱になてぞ並臥たる。能登守教經は度々の軍に、一度も不覺せぬ人の、今度は如何思はれけん、薄墨と云馬に乘り、西を指てぞ落給ふ。播磨國明石浦より船にのて、讃岐の八島へ渡り給ひぬ。 -------------------------------------------------------------------------------- 越中前司最期 大手にも濱の手にも、武藏相摸の兵ども、命を惜まず攻戰ふ。新中納言は、東に向かて戰ひ給ふ處に、山のそばより寄ける兒玉黨使者を上て、「君は武藏國司でまし/\候し間、是は兒玉の者共が申候。御後をば御覽候ぬやらん。」と申。新中納言以下の人々、後を顧み給へば、黒煙推懸たり。「あはや西の手は破にけるは。」といふ程こそ有けれ、取る物も取敢ず、我先にとぞ落行ける。 越中前司盛俊は、山手の侍大將にて在けるが、今は落つとも叶はじとや思ひけん、引へて敵を待つ所に、猪俣の小平六則綱、好い敵と目を懸け、鞭鐙を合せて馳來り、押雙べてむずと組でどうと落つ。猪俣は八箇國に聞えたるしたゝか者也。鹿の角の一二の草かりをば、輒引裂けるとぞ聞えし。越中前司は二三十人が力態をする由人目には見えけれども内々は六七十 人して上下す船を、唯一人して推上おし下す程の大力也。されば猪俣を取て抑て働さず。猪俣下に伏ながら刀を拔うとすれども、指はだかて、刀の柄を握にも及ばず、物を言はうとすれども、餘に強う推へられて、聲も出でず。既に頸を掻れんとしけるが、力は劣たれども心は剛なりければ、猪俣すこしもさわがず、暫く息をやすめ、さらぬ體にもてなして申けるは、「抑名乘つるは聞給ひて候か。敵をうつと云ふは、我も名乘て聞せ、敵にも名乘せて、頸を捕たればこそ大功なれ。名も知ぬ頸取ては何にかはし給ふべき。」と云はれて、實もとや思ひけん、「是は本平家の一門たりしが、身不肖なるに依て、當時は侍に成たる越中前司盛俊と云ふ者也。和君は何者ぞ、なのれ聞う。」と云ひければ、「武藏國の住人猪俣小平六則綱」と名乘る。「倩此世中の在樣を見るに、源氏の御方は強く、平家の御方は負け色に見えさせ給たり。今は主の世にましまさばこそ、敵の頸取て參せて、勳功勸賞にも預り給め。理を枉て則綱扶け給へ。御邊の一門、何十人も坐せよ。則綱が勳功の賞に申替て、扶け奉らん。」と云ければ、越中前司大に怒て、「盛俊身こそ不肖なれども、さすが平家の一門也。源氏憑うとは思はず、源氏又盛俊に憑れうともよも思はじ。惡い君が申樣哉。」とて、やがて頸を掻んとしければ、猪俣「まさなや、降人の頸掻樣や候。」越中前司「さらば助けん。」とて引起す。前は畠の樣にひあがて、究て固かりけるが、後は水田のこみ深かりける畔の上に、二人の者腰打懸て、息續居たり。 暫しあて、黒革威の鎧著て、月毛なる馬に乘たる武者一騎、馳來る。越中前司怪氣に見けれ ば、「あれは則綱が親う候人見四郎と申者で候。則綱が候を見て、詣で來と覺え候。苦う候まじい。」といひながら、「あれが近附たらん時に、越中前司に組んだらば、さりとも、落合はんずらん。」と思ひて待處に一段ばかり近附たり。越中前司、始めは二人を一目づゝ見けるが、次第に近う成ければ馳來る敵をはたと守て、猪俣を見ぬ隙に、力足を蹈で衝立上り、えいと云ひて、もろ手を以て越中前司が鎧の胸板をばはと突て、後の水田へのけに突倒す。起上らんとする處に、猪俣上にむずと乘りかゝり、やがて越中前司が腰の刀を拔き鎧の草摺ひきあげて、柄も拳も透れ/\と、三刀刺て頸を取る。さる程に人見四郎落合たり。か樣の時は論ずる事も有と思ひ、太刀の先に貫き、高く指上げ、大音聲を揚て、「此日比鬼神と聞えつる平家の侍越中前司盛俊をば、猪俣小平六則綱が討たるぞや。」と名乘て、其日の高名の一の筆にぞ附にける。 -------------------------------------------------------------------------------- 忠度最期 薩摩守忠度は、一谷の西手の大將軍にて坐けるが、紺地の錦の直垂に、黒絲威の鎧著て黒き馬の太う逞きに、沃懸地の鞍置て乘り給へり。其勢百騎ばかりが中に打圍れて、いと噪がず引へ引へ落給ふを、猪俣黨に岡部六彌太忠純、大將軍と目を懸け、鞭鐙を合せて追付奉り、「抑如何なる人でましまし候ぞ、名乘らせ給へ。」と申ければ、「是は御方ぞ。」とてふり仰ぎ給へる内甲より見入たれば、銕黒也。「あはれ御方には銕附たる人はない者を、平家の君達でお はするにこそ。」と思ひ、押竝てむずと組む。是を見て百騎ばかりある兵共、國々の假武者なれば一騎も落合はず、我先にとぞ落ゆきける。薩摩守「惡い奴かな。御方ぞと云はゞ云はせよかし。」とて熊野生立大力の疾態にておはしければ、やがて刀を拔き六彌太を馬の上で二刀、おちつく處で一刀、三刀迄ぞ突かれける。二刀は鎧の上なれば、透らず。一刀は、内甲へ突入られたれども、薄手なれば死なざりけるを、捕て押へ頸を掻んとし給ふ處を、六彌太が童、後馳に馳來て、討刀を拔き、薩摩守のかひなをひぢの本よりふと切り落す。今は角とや思はれけん、「暫退け、十念唱ん。」とて、六彌太を つかうで、弓長ばかり投除らる。其後西に向ひ高聲に十念唱へて、「光明遍照十方世界、念佛衆生攝取不捨。」と宣ひも果ねば、六彌太後よりよて、薩摩守の頸を討。好い大將討たりと思ひけれども、名をば誰とも知らざりけるに、箙に結び附られたる文を解て見れば、「旅宿花」といふ題にて一首の歌をぞ讀まれける。 ゆきくれて木の下陰を宿とせば、花やこよひの主ならまし。 忠度と書かれたりけるにこそ、薩摩守とは知てけれ。太刀の先に貫ぬき、高く差上げ、大音聲を揚て、「此日來平家の御方と聞えさせ給つる薩摩守殿をば、岡部の六彌太忠純討奉たるぞや。」と名乘ければ、敵も御方も是を聞いて、「あないとほし、武藝にも歌道にも達者にておはしつる人を。あたら大將軍を。」とて、涙を流し袖をぬらさぬは無りけり。 -------------------------------------------------------------------------------- 重衡生捕 本三位中將重衡卿は、生田森の副將軍におはしけるが、其勢皆落失せて、只主從二騎になり給ふ。三位中將、その日の裝束にはかちんに白う黄なる絲をもて、群千鳥繍たる直垂に、紫下濃の鎧著て、童子鹿毛といふ聞ゆる名馬に、乘り給へり。乳母子の後藤兵衞盛長は、滋目結の直垂に、緋威の鎧著て三位中將の秘藏せられたる夜目無月毛に乘せられたり。梶原源太景季、庄の四郎高家、大將軍と目を懸け、鞭鐙を合せて追懸奉る。汀には助け船幾等も在けれども、後より敵は追懸たり、のがるべき隙も無りければ、湊河、苅藻河をも打渡り、蓮の池をば馬手に見て、駒の林を弓手になし、板宿、須磨をも打過て、西を指てぞ落たまふ。究竟の名馬には乘給へり。もみふせたる馬共、逐著べしとも覺えず、只延に延ければ、梶原源太景季、鐙踏張り立上り、若しやと遠矢によひいて射たりけるに、三位中將の馬の三頭を箆深に射させて弱る處に、後藤兵衞盛長「吾馬召されなんず。」とや思ひけん、鞭を上てぞ落行ける。三位中將是を見て、「如何に盛長、年比日比さは契らざりし者を、我を捨て何くへ行ぞ。」と宣へども、空きかずして、鎧に附たる赤印かなぐり捨て、唯逃にこそ逃たりけれ。三位中將敵は近付く、馬は弱し、海へ打入れ給ひたりけれども、そこしも遠淺にて沈べき樣も無りければ、馬より下、鎧の上帶切り、高紐はづし物具脱ぎ棄、腹を切んとし給ふ處を梶原より先に、庄の四郎高家鞭鐙を合せて馳來り、急ぎ馬より飛下り、「正なう候。何く迄も御供仕らん。」とて、我馬に掻乘せ奉り、鞍の前輪にしめ附て、我身は乘替に乘てぞ歸りける。 後藤兵衞はいき長き究竟の馬には乘たりけり。其をばなく迯延て、後には熊野法師、尾中法 橋を憑で居たりけるが、法橋死て後、後家の尼公訴訟の爲に京へ上りたりけるに、盛長供して上りたりければ、三位中將の乳母子にて、上下には多く見知れたり。「あな無慚の盛長や。さしも不便にし給ひしに、一所で如何にも成ずして、思もかけぬ尼公の供したる憎さよ。」とて、爪彈をしければ、盛長もさすが慚し氣にて扇を顏にかざしけるとぞ聞えし。 -------------------------------------------------------------------------------- 敦盛最期 軍破れにければ、熊谷次郎直實、「平家の君達助け船に乘らんと、汀の方へぞ落ち給ふらん。哀れ好らう大將軍に組ばや。」とて、磯の方へ歩まする處に、練貫に鶴縫たる直垂に、萠黄匂の鎧著て、鍬形打たる甲の緒をしめ、金作の太刀を帶き、切斑の矢負ひ、滋籐の弓持て、連錢蘆毛なる馬に、黄覆輪の鞍置て乘たる武者一騎、沖なる船に目を懸て、海へさと打入れ、五六段計泳がせたるを熊谷、「あれは、大將軍とこそ見參せ候へ。正なうも敵に後を見せさせ給ふ者哉。返させ給へ。」と。扇を揚て招きければ、招かれて取て返す。汀に打上らんとする所に、押竝て、むずと組で、どうと落ち、取て押へて頸を掻んとて、甲を押仰けて見ければ、年十六七ばかりなるが、薄假粧して鐵醤黒也。我子の小次郎が齡程にて、容顏誠に美麗なりければ、何くに刀を立べしとも覺えず。「抑如何なる人にてましまし候ぞ。名乘せ給へ。扶け參せん。」と申せば、「汝は誰そ。」と問給ふ。「物其者では候はねども、武藏國の住人熊谷次郎直實。」と名乘申す。「さては汝に逢うては名乘まじいぞ。汝が爲には好い敵ぞ。名乘らずとも頸 を取て人にとへ、見知うずるぞ。」とぞ宣ひける「あはれ大將軍や、此人一人討奉たりとも、負くべき軍に勝べき樣もなし。又討たてまつらずとも、勝べき軍に負る事もよも有じ。小次郎が薄手負たるをだに直實は心苦しう思ふに、此殿の父、討れぬと聞いて、如何計か歎き給はんずらん。あはれ扶け奉らばや。」と思ひて、後をきと見ければ、土肥、梶原五十騎計で續いたり。熊谷涙を押て申けるは、「助け參せんとは存候へども、御方の軍兵雲霞の如く候。よも逃させ給はじ。人手にかけ參せんより、同くは、直實が手に懸參せて、後の御孝養をこそ仕候はめ。」と申ければ、「唯とう/\頸を取れ。」とぞ宣ひける。熊谷餘にいとほしくて、何に刀を立べしとも覺えず、目もくれ心も消果てゝ、前後不覺に思えけれども、さてしも有るべき事ならねば、泣々頸をぞ掻いてける。「あはれ弓矢取る身程口惜かりける者はなし。武藝の家に生れずば、何とてかゝる憂目をば見るべき。情なうも討奉る者哉」と掻口説き袖を顏に押當てゝ、さめ%\とぞ泣居たる。やゝ久うあて、さても在るべきならねば、鎧直垂を取て、頸を裹まんとしけるに、錦の袋に入たる笛をぞ腰に差されたる。「あないとほし、此曉城の内にて、管絃し給ひつるは、此人々にておはしけり。當時御方に東國の勢何萬騎か有らめども、軍の陣へ笛持つ人はよも有じ。上臈は猶も優しかりけり。」とて、九郎御曹司の見參に入たりければ、是を見る人涙を流さずといふ事なし。後に聞けば、修理大夫經盛の子息に太夫敦盛とて、生年十七にぞ成れける。其よりしてこそ、熊谷が發心の思ひはすゝみけれ。件の笛は、祖父忠盛、笛の上手にて、鳥羽院より給はられたりけるとぞ聞えし。經盛相傳せられ たりしを、敦盛器量たるに依て、持たれたりけるとかや。名をば小枝とぞ申ける。狂言綺語の理と云ながら、遂に讃佛乘の因となるこそ哀なれ。 -------------------------------------------------------------------------------- 知章最期 門脇中納言教盛卿の末子、藏人大夫成盛は、常陸國の住人土屋五郎重行に組で討たれ給ひぬ。修理大夫經盛の嫡子皇后宮亮經正は助け舟に乘らんと汀の方へ落給ひけるが、河越小太郎重房が手に取籠られて、討たれ給ひぬ。其弟、若狹守經俊、淡路守清房、尾張守清定、三騎つれて敵の中へ懸入、散々に戰ひ、分捕數多して、一所で討死してけり。 新中納言知盛卿は、生田森の大將軍にておはしけるが、其勢皆落失て、今は御子武藏守知明侍には監物太郎頼方、只主從三騎に成て助け舟に乘らんと、汀の方へ落給ふ。爰に兒玉黨と覺しくて、團扇の旗差いたる者ども、十騎計、をめいて追懸奉る。監物太郎は、究竟の弓の上手ではあり、眞先に進んだる旗差がしや頸の骨をひやうふつと射て、馬より倒に射落す。其中の大將と覺しき者、新中納言に組奉らんと馳竝べけるを、御子武藏守知明、中に隔たり、押竝べてむずと組で、どうとおち、取て抑へて頸を掻き、立上んとし給ふ處に、敵が童落合うて、武藏守の頸を討つ。監物太郎落重て、武藏守討奉たる敵が童をも討てけり。其後矢種の有る程射盡して、打物拔で戰ひけるが、敵餘た討とり、弓手の膝口を射させ、立も上らずゐながら討死してけり。此紛れに新中納言は、究竟の名馬には乘給へり、海の面廿餘町泳が せて、大臣殿の御船に著給ひぬ。御船には人多く籠乘て、馬立つべき樣も無りければ、逐返す。阿波民部重能、「御馬敵の者に成り候なんず。射殺候はん。」とて、片手矢はげて出けるを、新中納言、「何の物にも成ばなれ、我命を助けたらん者を。有べうもなし。」と宣へば、力及ばで射ざりけり。此馬主の別れを慕ひつゝ、暫しは船をも放れやらず、沖の方へ泳けるが、次第に遠く成ければ、空しき汀に泳歸る。足立つ程にも成しかば、猶船の方をかへり見て、二三度迄こそいなゝきけれ。其後陸に上て休みけるを、河越小太郎重房、取て院へ參らせたりければ、軈て院の御厩に立てられけり。本も院の御祕藏の御馬にて、一の御厩に立られたりしを、宗盛公内大臣に成て、悦申の時、給られたりけりとぞ聞えし。新中納言に預けられたりしを中納言餘に此馬を秘藏して、馬の祈の爲にとて、毎月朔日毎に、泰山府君をぞ祭られける。其故にや馬の命も延、主の命をも助けるこそ目出たけれ。此馬は信濃國井上だちにて有ければ、井上黒とぞ申ける。後には河越が取て參せたりければ、河越黒とも申けり。 新中納言、大臣殿の御前に參て、申されけるは、「武藏守に後れ候ぬ。監物太郎も討せ候ぬ。今は心細うこそ罷成て候へ。如何なる親なれば、子は有て親を扶けんと、敵に組を見ながら、いかなる親なれば、子の討るゝを扶けずして、か樣に逃れ參て候らん。人の上で候はば、いかばかり、もどかしう存候べきに、我身の上に成ぬれば、よう命は惜い者で候けりと、今こそ思知られて候へ。人々の思はれむ心の内どもこそ慚しう候へ。」とて、袖を顏に押當て、さめざめと泣き給へば、大臣殿是を聞給ひて、「武藏守の父の命に替はられけるこそありがたけれ。 手もきゝ心も剛に、好き大將軍にておはしつる人を、清宗と同年にて、今年は十六な。」とて、御子衞門督のおはしける方を御覽じて、涙ぐみ給へば、幾らも竝居たりける平家の侍ども、心有も心なきも、皆鎧の袖をぞぬらしける。 -------------------------------------------------------------------------------- 落足 小松殿の末の子備中守師盛は、主從七人小船に乘て落給ふ處に、新中納言の侍、清衞門公長と云ふ者、馳來て、「あれは、備中守殿の御船とこそ見參て候へ。參り候はん。」と申ければ、船を汀にさし寄せたり。大の男の鎧著ながら、馬より船へがばと飛乘らうに、なじかは好かるべき。船は小し、くるりと蹈返してけり。備中守浮ぬ沈ぬし給ひけるを、畠山が郎等、本田次郎、十四五騎で馳來り、熊手に懸て引上奉り、遂に頸をぞ掻てける。生年十四歳とぞ聞えし。 越前三位通盛卿は、山手の大將軍にておはしけるが、其日の裝束には、赤地の錦の直垂に唐綾威の鎧著て、黄河原毛なる馬に白覆輪の鞍置て乘り給へり。内甲を射させて敵に押隔てられ、弟能登殿には離れ給ひぬ。靜ならん處にて、自害せんとて、東に向て落給ふ程に、近江國の住人佐々木木村三郎成綱、武藏國の住人玉井四郎資景、彼是七騎が中に取籠られて終に討たれ給ひぬ。其時迄は、侍一人附奉たりけれども其も最後の時は落合はず。 凡東西の木戸口時を移す程也ければ、源平數を盡いて討れにけり。櫓の前逆茂木の下には、 人馬のしゝむら山の如し。一谷の小篠原、緑の色を引替へて、薄紅にぞ成にける。一谷、生田森、山の傍、海の汀にて射られ斬られて死ぬるはしらず、源氏の方に斬懸らるゝ頸ども、二千餘人也。今度討れ給へるむねとの人々には、越前三位通盛、弟藏人大夫成盛、薩摩守忠度、武藏盛知明、備中守師盛、尾張守清定、淡路守清房、修理大夫經盛の嫡子皇后宮亮經正、弟若狹守經俊、其弟大夫敦盛、以上十人とぞ聞えし。 軍破にければ、主上を始奉て、人々皆御船に召て、出給ふ心の中こそ悲しけれ、汐に引れ風に隨て、紀伊路へ趣く船も有り。葦屋の沖に漕出て、浪にゆらるゝ船も有り。或は須磨より明石の浦傳ひ、泊定めぬ梶枕、片敷袖もしをれつゝ、朧に霞む春の月、心を碎かぬ人ぞなき。或は淡路のせとを漕通り、繪島磯に漂へば、波路幽に鳴渡り、友迷はせる小夜千鳥、是も我身の類哉。行先未何くとも思ひ定ぬかと思しくて、一谷の沖にやすらふ船も有り。か樣に風に任せ、浪に隨ひて、浦々島々に漂よへば、互に死生も知難し。國を從ふる事も十四箇國、勢の附く事も十萬餘騎也。都へ近附く事も僅に一日の道なれば、今度はさりともと憑しう思はれけるに、一谷も攻落され、人々皆心細うぞなられける。 -------------------------------------------------------------------------------- 小宰相身投 越前三位通盛卿の侍に、見田瀧口時員と云ふ者有り。北方の御船に參て申けるは、「君は湊河の下にて、敵七騎が中に取籠られて、終に討れさせ給ぬ。其中に殊に手を下て討參らせ候つ るは、近江國の住人佐々木木村三郎成綱、武藏國の住人玉井四郎資景とこそ名乘申候つれ。時員も一所で如何にも成り、最後の御供つかまつるべう候しかども、兼てより仰せ候ひしは、『通盛如何に成とも、汝は命を捨べからず、如何にもして長らへて、御向後をたづね參せよ。』と仰せ候し間、かひなき命生て、つれなうこそ是迄逃れ參て候へ。」と申けれども、北方とかうの返事にも及びたまはず、引覆いてぞ伏し給ふ。一定討れぬと聞給へども、若僻事にてもや有らん、生て還らるゝ事もやと、二三日は白地に出たる人を待つ心地しておはしけるが、四五日も過しかば、若やの憑みも弱果てゝ、いとゞ心細うぞ成れける。唯一人附奉りたりける乳母の女房も、同枕に伏沈にけり。かくと聞こえし七日の日の暮方より、十三日の夜までは、起も上り給はず。明れば十四日、八島へ著んとての宵打過ぐるまで臥給ひたりけるが、ふけゆくまゝに舟の中もしづまりければ、北方乳母の女房に宣ひけるは、「このほどは、三位討れぬと聞つれども、誠とも思はで有つるが、此暮程より、さも有らんと思定めて有ぞとよ。人毎に湊河とかやのしもにて討れにしとはいへども、其後生てあひたりといふ者は一人もなし。明日打出んとての夜、白地なる所にて行逢たりしかば、何よりも心細げに打歎いて、『明日の軍には、一定討れなんずと覺ゆるはとよ。我如何にも成なん後、人は如何がし給ふべき。』なんど云ひしかども、軍はいつもの事なれば一定さるべしと思はざりける事の悔しさよ。其を限りとだに思はましかば、など後の世と契らざりけんと、思ふさへこそ悲けれ。身のたゞならず成たる事をも、日比はかくして言はざりしかども、心深う思はれじとて、言出したり しかば、斜ならず嬉げにて『通盛既に三十になる迄、子と云ふ者の無りつるに、あはれ男子にて在れかし。浮世の忘形見にも思おくばかり。さて幾月程に成やらん。心地は如何有やらん。いつとなき波の上、船の中の栖ひなれば、閑かに身々と成ん時も如何はせん。』など言ひしは、はかなかりける兼言哉。誠やらん、女はさ樣の時、十に九は必死るなれば、恥がましき目を見て、空しう成んも心憂し。閑に身々と成て後、少き者をも生立て、無き人の形見にも見ばやとは思へども、少者を見ん度毎には、昔の人のみ戀しくて、思ひの數は勝るとも、慰む事はよもあらじ。終には逃るまじき道也。若不思議に此世を忍過すとも、心に任せぬ世の習ひは、思ぬ外の不思議も有ぞとよ。これも思へば心憂し。まどろめば夢に見え、覺れば面影に立ぞかし。生て居てとにかくに人を戀しと思はんより、只水の底へ入ばやと思定めて有ぞとよ。そこに一人留まて、歎かんずる事こそ心苦しけれども、わらはが裝束の有をば取て、如何ならん僧にもとらせ、無き人の御菩提をも弔ひ、わらはが後世をも助け給へ。書置たる文をば都へ傳てたべ。」など、細々と宣へば、乳人の女房涙をはら/\とながして、「幼き子をも振捨、老たる親をも留置き、はる%\是まで附參せて候ふ志をば、いか計とか思召れ候ふらむ。そのうへ今度一の谷にて討たれさせ給ひし人々の北方の御おもひども何れかおろかにわたらせ給ひ候ふべき。されば御身ひとつのことゝおぼしめすべからず。靜に身々と成せ給ひて後、少き人を生立參せ、如何ならん岩木の狹間にても、御樣を替へ、佛の御名をも唱てなき人の御菩提を弔ひ參させ給へかし。必一蓮へと思召すとも、生替らせ給ひなん後、 六道四生の間にて、何の道へか趣せ給はんずらん。行合せ給はん事も不定なれば、御身を投ても由なき事なり。其上都の事なんどをば、誰見續ぎ參せよとてか樣には仰せ候やらん。恨しうも承るものかな。」とて、さめざめと掻口説ければ、北の方此事惡うも聞れぬとや思はれけん、「それは心にかはりても推量給ふべし。人の別の悲さには大方の世の恨めしさにも身を投んなどいふは、常の習ひなり。されども左樣の事は、有難きためし也。げにも思立ならば、そこにしらせずしては有まじきぞ。夜も深ぬ。いざや寢ん。」と宣へば、めのとの女房此四五日は湯水をだに、はか%\しう御覽じ入給はぬ人の、か樣に仰せらるゝは、誠に思ひ立給へるにこそと悲くて、「大形は都の御事もさる御事にて候へ共、左樣に思召立せさせ給はば、千尋の底迄も引こそ具せさせ給はめ。おくれまゐらせて後片時もながらふべしともおぼえず。」なんど申して、御傍に在ながら、ちと、目睡たりける隙に、北方やはら舟端へ起出でて、漫漫たる海上なれば、いづちを西とは知ね共、月の入さの山の端を、そなたの空とや思はれけん、閑に念佛し給へば、沖の白洲に鳴く千鳥、天戸渡る楫の音、折から哀や勝けん、忍び聲に念佛百返計唱へ給ひて、「南無西方極樂世界教主、彌陀如來、本願誤たず、淨土へ導びき給ひつゝあかで別れし妹脊のなからひ、必一蓮に迎へ給へ。」と、泣々遙に掻口説き南無と唱る聲共に、海にぞ沈み給ける。 一谷より八島へ推渡る夜半ばかりの事なれば、舟の中靖て、人是をしらざりけり。其中に梶取の一人寢ざりけるが見つけ奉て、「あれは如何に、あの御船より、よにうつくしうまします女 房の只今海へ入せ給ひぬるぞや。」と喚ければ、乳母の女房打驚き、傍を探れども、おはせざりければ、「あれよ、あれ。」とぞあきれける。人數多下て、取上奉らんとしけれども、さらぬだに、春の夜の習ひに霞むものなるに、四方の村雲浮れ來て、かづけども/\、月朧にて見えざりけり。やゝあて上げ奉たりけれども、早此世になき人と成給ひぬ。練貫の二つ衣に白き袴著給へり。髮も袴もしほたれて、取上たれどもかひぞなき。乳母の女房手に手を取組み、顏に顏を押當てゝ、「などや是程に思召し立つならば、千尋の底までも引きは具せさせ給はぬぞ。恨しうも留め給ふ者哉。さるにても今一度もの一ことは仰られて、聞せさせ給へ。」とて、悶絶焦れけれども、 [4]一言の返事にも及はず、纔に通つる息も、はや絶果ぬ。 さる程に、春の夜の月も雲井に傾き、かすめる空も明行けば、名殘は盡せず思へども、さてしも有るべき事ならねば、うきもやあがりたまふと故三位殿の著背長の一領殘りたりけるに引纏ひ奉り、終に海にぞ沈ける。乳母の女房今度は後奉らじと、續いて入らんとしけるを、人人やう/\に取留めければ、力及ばず。せめての思ひの爲方なさにや、手づから髮をはさみ下し、故三位殿の御弟、中納言律師忠快に剃せ奉り、泣々戒持て、主の後世をぞ弔ひける。昔より男に後る類多と云へども、樣を替は常の習ひ、身を投迄は有難き樣也。忠臣は二君に仕へず、貞女は二夫に見えずとも、か樣の事をや申べき。 此北方と申は、頭刑部卿則方の女、上西門院の女房、宮中一の美人、名をば小宰相殿とぞ申ける。此女房十六と申し安元の春の比、女院法勝寺へ花見の御幸有しに、通盛卿其時は未だ 中宮の亮にて供奉せられたりけるが、此女房を只一目見て、哀れと思ひ初けるより、其面影のみ身にひしと立傍て、忘るゝ隙も無りければ、常は歌を詠み、文を盡して戀悲しみ給へど、玉章の數のみ積りて、取入給ふ事もなし。既に三年になりしかば、通盛卿今を限りの文を書て、小宰相殿の許へ遣す。をりふし取傳ける女房にも逢はずして、使空しく歸りける道にて小宰相殿は折ふし我里より御所へぞ參り給ひけるが、使道にて行會ひ奉り、空う歸り參らん事の本意なさに、御車のそばをつと走り通る樣にて、通盛の文を小宰相殿の乘給へる車の簾の内へぞ、投げ入ける。伴の者共に問ひ給へば、「知らず」と申す。さて此文を明て見給へば、通盛卿の文にてぞ有ける。車に置くべき樣もなし。大路に捨んもさすがにて、袴の腰に挾みつゝ、御所へぞ參給ひける。さて宮仕給ふ程に、所しもこそ多けれ、御前に文を落されけり。女院これを御覽じて、急ぎ取せおはしまし、御衣の御袂に引藏させ給ひて、「珍敷き物をこそ求めたれ。此主は誰なるらん。」と仰せければ、女房達、萬の神佛に懸て「知ず」とのみぞ申あはれける。其中に小宰相殿は顏打赤めて物も申されず。女院も通盛卿の申とはかねて知召れたりければ、さて此文を明けて御覽ずるに、妓爐の烟の匂ひ殊に馴しく、筆の立ども尋常ならず。あまりに人の心強きも中々今は嬉くてなんど、細々と書いて、奧には一首の歌ぞ有ける。 我戀は細谷川のまろきばし、ふみかへされて濕るゝ袖哉。 女院、「是は逢ぬを恨たる文や。餘りに人の心強きも中々怨と成るものを。」中比小野小町とて、 眉目容世に勝れ、情の道有難かりしかば、見る人聞く者、肝魂を痛ましめずといふ事なし。されども、心強き名をや取りたりけん、果てには人の思ひの積りとて、風を防ぐ便りもなく、雨を漏さぬ業もなし。宿にくもらぬ月星を、涙に浮べ、野邊の若菜、澤の根芹を摘てこそ、露の命を過しけれ。女院、「是は如何にも返しあるべきぞ。」とて、かたじけなくも御硯召寄せて自御返事あそばされけり。 只たのめ細谷川の丸木橋、ふみかへしてはおちざらめやは。 胸の中の思ひは富士の烟に露れ、袖の上の涙は清見が關の浪なれや。眉目は幸の花なれば、三位此女房を給て、互に志淺からず。されば西海の旅の空、浪の上、舟の中の住ひ迄も引具して、同じ道へぞ趣れける。門脇中納言は、嫡子越前三位、末子成盛にも後れ給ひぬ。今憑給へる人とては、能登守教經、僧には中納言律師忠快ばかり也。故三位殿の形見とも、此女房をこそ見給ひつるに、其さへか樣になられければ、いと心細ぞ成れける。 [4] NKBT reads 一言の返事にもおよばず. -------------------------------------------------------------------------------- 平家物語卷第十 首渡 壽永三年二月七日、攝津國一谷にて討れし平氏の頸共十二日に都へ入る。平家に結ぼほれたる人々は、我方樣に、如何なる憂目をか見んずらんと歎きあひ悲みあへり。中にも大覺寺に隱れ居給る小松三位中將維盛卿の北の方殊更覺束なく思はれける。今度一谷にて一門の人々殘り少ううたれ給ひ、三位中將と云ふ公卿一人生捕にせられて上るなりと聞給ひ、此人離れじ物をとて、引覆てぞ伏給ふ。或女房の出來て申けるは、「三位中將殿と申は、是の御事にて候はず。本三位中將殿の御事也。」と申ければ、「さては頸共の中にこそあるらめ。」とて、猶心安も思ひ給はず。同十三日、大夫判官仲頼、六條河原に出向て、頸共請取。東洞院の大路を北へ渡して、獄門の木に懸らるべき由、蒲冠者範頼九郎冠者義經奏聞す。法皇此條いかがあるべからむと思召し煩ひて、太政大臣、左右の大臣、内大臣、堀河大納言忠親卿に仰合せらる。五人の公卿申されけるは、「昔より卿相の位に上るものの頸、大路を渡さるゝ事先例なし。就中、此輩は先帝の御時戚里の臣として、久く朝家に事つる。範頼義經が申状、あながち御許容有べからず。」とおの/\一同に申されければ、渡さるまじきにて有けるを、範頼義經重 ねて奏聞しけるは、「保元の昔を思へば、祖父爲義が讐、平治の古を案ずれば、父義朝が敵也。君の御憤を息め奉り、父祖の恥を雪めんが爲に命を棄て、朝敵を滅す。今度平氏の頸共、大路を渡されずば、自今以後何のいさみ有てか、凶賊を退けんや。」と、兩人頻に訴へ申間、法皇力及ばせ給はで、遂に渡されけり。見る人幾等と云ふ數を知らず。帝闕に袖をつらねし古へは、恐怖るゝ輩多かりき。巷に首を渡さるゝ今は哀み悲しまずと云ふ事なし。 小松三位中將維盛卿の若君六代御前に附たてまつたる齋藤五、齋藤六、あまりの覺束なさに、樣を窶して見ければ、頸共は見知り奉たれども、三位中將殿の御頸は見え給はず。されども餘に悲しくて、つゝむに堪へぬ涙のみ滋かりければ、餘所の人目も怖しさに、急ぎ大覺寺へぞ參ける。北方、「さて如何にやいかに。」と問給へば、「小松殿の君達には備中守殿の御頸ばかりこそ見えさせ給ひ候つれ。其外はそんぢやう其頸其御頸。」と申ければ、「いづれも人の上とも覺えず。」とて、涙に咽び給けり。良有て、齋藤五涙を抑へて申けるは、「此一兩年は隱居候て、人にもいたく見知れ候はず。今暫も見參すべう候つれども、よにくはしう案内知り參せたる者の申候つるは、『小松殿の君達は今度の合戰には、播磨と丹波の境で候なる三草山を固めさせ給ひて候けるが、九郎義經に破られて、新三位中將殿、小松少將殿、丹波侍從殿は、播磨の高砂より御船に召して、讃岐の八島へ渡らせ給て候也。何として離れさせ給ひて候けるやらん。御兄弟の御中に備中守殿ばかり一谷にて討れさせ給ひて候。』と申者にこそ逢ひて候つれ。『さて三位中將殿の御事は如何に。』と問候つれば、『其は軍已前より大事の御痛とて、 八島に御渡候間、此度は向はせ給候はず。』と、細々とこそ申候つれ。」と申ければ、「其も我等が事をあまりに思嘆き給ふが、病と成たるにこそ。風の吹日は今日もや船に乘り給らんと肝を消し、軍といふ時は、唯今もや討たれ給らんと心を盡す。ましてさ樣の痛なんどをも、誰か心安うも扱ひ奉るべき。委しう聞ばや。」と宣へば、若君姫君「など何の御痛りとは問はざりけるぞ。」と宣ひけるこそあはれなれ。 三位中將も、通ふ心なれば、「都に如何に覺束なく思ふらん、頸共の中にはなくとも、水に溺ても死に、矢に當ても失ぬらん、此世に在者とは、よも思はじ。露の命のいまだながらへたると知らせ奉らばや。」とて、侍一人したてて都へのぼらせけり。三の文をぞ書かれける。先北方への御文には、「都には敵滿々て、御身一の置所だにあらじに、幼き者共引具して、如何にかなしう覺すらん。是へ迎奉て、一所でいかにもならばやとは思へども、我身こそあらめ、御爲こゝろぐるしくて。」など、細々と書續け、奧に一首の歌ぞありける。 いづくとも知らぬ逢せの藻鹽草、かきおくあとを形見とも見よ。 少き人々の御許へは、「つれ%\をば如何にしてか慰み給ふらん。急ぎ迎へ取らんずるぞ。」と、言の葉もかはらず書いて上せられけり。此御文共を給はて使都へ上り、北方に御文參せたりければ、今更又嘆き悲み給ひけり。使四五日候て暇申。北方泣々御返事かき給ふ。若君姫君筆をそめて、「さて父御前の御返事は何と申べきやらん。」と問給へば、「唯ともかうも和御前達の思はん樣に申べし。」とこそ宣ひけれ。「などや今まで迎へさせ給はぬぞ、あまりに戀しく 思ひ參せ候に、とくとく迎させ給へ。」と、同じ言葉にぞかゝれたる、此御文共を給はて、使八島に歸りまゐる。三位中將殿先少人々の御文を御覽じてこそ、彌詮方なげには見えられけれ。「抑是より穢土を厭ふに勇なし。閻浮愛執の綱つよければ、淨土を願ふも懶し。唯是より山傳ひに都へ上て戀き者共を今一度見もし見えて後、自害をせんにはしかじ。」とぞ、泣々語給ひける。 -------------------------------------------------------------------------------- 内裏女房 同十四日、生捕本三位中將重衡卿、六條を東へわたされけり。小八葉の車に前後の簾を上げ、左右の物見を開く。土肥次郎實平、木蘭地の直垂に小具足許して、隨兵三十餘騎、車の前後に打圍で守護し奉る。京中の貴賤是を見て、「あないとほし、如何なる罪の報ぞや。いくらも在ます君達の中に、かく成給ふ事よ。入道殿にも二位殿にも、おぼえの御子にてましまししかば、御一家の人々も重き事に思ひ奉り給ひしぞかし。院へも内へも參り給ひし時は、老たるも若きも、所をおきて持成奉り給ひしものを。是は南都を滅し給へる伽藍の罰にこそ。」と申あへり。河原迄渡されて、かへて、故中御門藤中納言家成卿の八條堀河の御堂に居奉て、土肥次郎守護し奉る。院御所より御使に藏人左衞門權佐定長、八條堀河へ向はれけり。赤衣に劍笏をぞ帶したる。三位中將は、紺村濃の直垂に、立烏帽子引立ておはします。日頃は何とも思れざりし定長を、今は冥途にて罪人共が、冥官に逢る心地ぞせられける。仰下さ れけるは、「八島へ歸りたくば、一門の中へ言送て、三種神器を都へ返し入れ奉れ。然らば八島へ返さるべきとの御氣色で候。」と申。三位中將申されけるは、「重衡千人萬人が命にも、三種の神器を替參せんとは内府己下一門の者共一人もよも申候はじ。もし女性にて候へば、母儀の二品なんどや、さも申候はんずらん。さは候へども居ながら院宣を返し參らせん事、其恐も候へば、申送てこそ見候はめ。」とぞ申されける。御使は、平三左衞門重國、御坪の召次花方とぞ聞えし。私の文は容れねば、人々の許へも詞にて言づけ給ふ。北方大納言佐殿へも、御詞にて申されけり。「旅の空にても、人は我に慰み、我は人に慰み奉りしに、引別れて後、如何に悲しうおぼすらん。契は朽せぬものと申せば、後の世には必生れあひ奉らん。」と、泣泣言づけ給へば、重國も、涙を抑へて立にけり。 三位中將の年比召仕はれける侍に木工右馬允知時といふ者あり。八條女院に候けるが、土肥次郎が許に行向て、「是は中將殿に先年召仕れ候し某と申す者にて候が、西國へも御供仕べき由存候しかども、八條の女院に兼參の者にて候間、力及ばで罷留て候が、今日大路で見參せ候へば、目も當られず、いとほしう思奉り候。然るべう候はゞ御許されを蒙て、近附參候て、今一度見參に入り、昔語をも申て、なぐさめ參せばやと存候。させる弓矢取る身で候はねば、軍合戰の御供を仕たる事も候はず、只朝夕祇候せしばかりで候き。さりながら猶覺束なう思食し候はば、腰の刀を召置れて、まげて御許されを蒙候はばや。」と申せば、土肥次郎情ある男士にて、「御一人ばかりは何事か候べき。さりながらも。」とて、腰の刀を乞取て入てけり。 右馬允斜ならず悦で、急ぎ參て見奉れば、誠に思ひ入れ給へると覺しくて、御姿もいたくしをれ返て居給へる御有樣を見奉るに、知時涙も更に抑へ難し。三位中將も是を御覽じて夢に夢見る心地して、とかうの事も宣まはず。只泣より外の事ぞなき。稍久しう有て、昔今の物語共し給ひて後、「さても汝して物言し人は、未だ内裏にとや聞く。」「さこそ承り候へ。」「西國へ下りし時、文をもやらず、いひおく事だに無りしを、世々の契は、皆僞にて有けりと思ふらんこそ慚かしけれ。文をやらばやと思ふは如何に、尋て行てんや。」と宣へば、「御文を給て參り候はん。」と申す。中將斜ならず悦て、やがて書てぞたうだりける。守護の武士共、「如何なる御文にて候やらん。出し參せじ。」と申。中將「見せよ。」と宣へば、見せてけり。「苦しう候まじ。」とて、取らせけり。知時持て、内裏へ參りたりけれども、晝は人目の繁ければ、其邊近き小屋に立入て、日を待暮し、局の下口邊にたゝずんで聞けば、此人の聲と覺しくて、「いくらもある人の中に三位中將しも生捕にせられて大路を渡さるゝ事よ。人は皆奈良を燒たる罪の報と言あへり。中將も、さぞ云し。『我心に起ては燒ねども、惡黨多かりしかば、手々に火を放て、おほくの常塔を燒拂ふ。末の露本の雫と成なれば、我一人が罪にこそならんずらめ。』といひしが、げにさと覺ゆる。」と掻口説きさめざめとぞ泣れける。右馬允、是にも思はれけるものをといとほしくおぼえて、「物申さう。」といへば、「いづくより。」と問給ふ。「三位中將殿より御文の候。」と申せば、年比は恥て見え給はぬ女房の、せめての思ひの餘にや「いづらやいづら。」とて走出でて、手づから文を取て見給へば、西國よりとられてありし有樣、 今日明日とも知らぬ身の行末など、細々と書續け、奧には一首の歌ぞ有ける。 涙川うき名をながす身なりとも、今一度のあふせともがな。 女房是を見給ひて、とかうの事をも宣はず、文を懷に引入て唯泣より外の事ぞなき。稍久しう有て、さても可有ならねば、御返事あり。心苦しういぶせくて、二年をおくりつる心の中を書き給ひて、 君ゆゑに我もうき名を流すとも、底のみくづとともに成なん。 知時持て、參りたり。守護の武士共、又「見參せ候はん。」と申せば、見せてけり。「苦しう候まじ。」とて奉る。三位中將是を見て、彌思や増り給ひけん、土肥次郎に宣ひけるは、「年比相具したりし女房に、今一度對面して、申たき事の有るは如何がすべき。」と宣へば、實平情ある士にて、「誠に女房などの御事にて渡らせ給ひ候はんはなじかは苦う候べき。」とて許し奉る。中將斜ならず悦て、人に車借て迎へに遣したりければ、女房取もあへず、是に乘てぞおはしける。縁に車をやり寄せてかくと申せば、中將車寄に出迎ひ給ひ、「武士共の見奉るに、下させ給べからず。」とて、車の簾を打かつぎ、手に手を取組み、顏に顏を推當てて、暫しは物も宣はず、唯泣より外の事ぞなき。稍久しう有て、中將宣ひけるは、「西國へ下し時も、今一度見參せたう候しかども、大形の世の騒さに申べき便もなくて、罷下り候ぬ。其後はいかにもして御文をも參らせ、御返り事をも承はりたう候しかども、心に任せぬ旅の習ひ、明暮の軍に隙なくて、空しく年月を送り候き。今又人知ぬ在樣を見候は再あひ奉るべきで候け り。」とて、袖を顏に推當てうつぶしにぞなられける。互の心の中、推量られてあはれ也。かくて小夜も半に成ければ、「此ごろは大路の狼藉に候に、疾々。」と返し奉る。車遣出せば、中將別れの涙を押へて泣々袖を引へつゝ、 あふ事も露の命も諸共に、今宵ばかりやかぎりなるらん。 女房涙を押つゝ、 かぎりとてたちわかるれば露の身の、君よりさきに消ぬべきかな。 さて女房は内裏へ參り給ひぬ。其後は守護の武士共ゆるさねば、力及ばず、時々御文計ぞ通ける。此女房と申は、民部卿入道親範の女也。眉目貌世に勝れ、情深き人也。中將南都へ渡されて、斬られ給ぬと聞えしかば、やがて樣を替へ、濃き墨染にやつれ果て、かの後世菩提を弔はれけるこそ哀れなれ。 -------------------------------------------------------------------------------- 八島院宣 去程に平三左衞門重國、御坪の召次花方、八島に參て、院宣をたてまつる。大臣殿以下一門の月卿雲客寄合ひ給ひて、院宣を開れけり。 一人聖體、北闕の宮禁を出で、諸州に幸し、三種の神器、南海四國に埋れて、數年を歴、尤朝家の歎き、亡國の基なり。抑かの重衡卿は、東大寺燒失の逆臣なり。すべからく頼朝の朝臣申請る旨に任せて、死罪に行るべしといへども、獨親族に別て、既に生捕とな る。籠鳥雲を戀る思ひ、遙に千里の南海に浮び、歸雁友を失ふ心、定めて九重の中途に通ぜん乎。然則三種の神器を返しいれ奉らんに於ては、彼卿を寛宥せらるべき也者、院宣此の如し。仍執達如件。壽永三年二月十四日   大膳大夫成忠が奉進上平大納言殿へ とぞ書かれたる。 -------------------------------------------------------------------------------- 請文 大臣殿、平大納言の許へは院宣の趣を申給ふ。二位殿へは御文細々と書いて進らせられたり。「今一度御覽ぜんと思めし候はゞ内侍所の御事を大臣殿によく/\申させおはしませ。さ候はでは此世にて見參に入べしとも覺え候はず。」などぞ書れたる。二位殿は是を見給ひてとかうの事も宣はず、文を懷に引入てうつぶしにぞなられける。誠に心の中さこそおはしけめと推量られて哀也。さる程に平大納言時忠卿をはじめとして平家一門の公卿殿上人寄合ひ給ひて御請文の趣僉議せらる。二位殿は中將の文を顏に推當てゝ、人々の並居給へる後の障子を引明て、大臣殿の御前に倒臥し、泣々宣ひけるは「あの中將が京より言おこしたる事の無慚さよ。げにも心の中にいかばかりの事をか思ひ居たるらん。唯我に思ひ許して内侍所を、都へ入奉れ。」と宣へば、大臣殿、「誠に宗盛もさこそは存候へども、さすが世の聞えもいふがひ なう候。且は頼朝が思はん事もはづかしう候へば、左右なう内侍所を返し入奉る事は叶ひ候まじ。其上帝王の世を保せ給ふ御事は、偏に内侍所の御故也。子の悲いも樣にこそ依候へ。且は中將一人に餘の子共親しい人々をば思食替させ給ふべきか。」と申されければ、二位殿、重て宣ひけるは、「故入道におくれて後は、かた時も命生て、在べしとも思はざりしかども、主上かやうにいつとなく、旅だゝせ給たる御事の御心苦しさ、又、君をも御代にあらせ參せばやと思ふ故にこそ今迄もながらへて在つれ。中將一谷で生捕にせられぬと聞し後は肝魂も身に副はず、如何にもして此世にて今一度あひ見るべきと思へども、夢にだに見えねば、いとどむねせきて、湯水も喉へ入れられず。今この文を見て後は、彌思ひ遣たる方もなし。中將世になき者と聞かば、我も同じ道に赴むかんと思ふ也。再び物を思はせぬ先に、唯我を失ひ給へ。」とて、喚き叫び給へば、誠にさこそは思ひ給らめとあはれに覺えて、人々泪を流しつゝ皆伏目にぞなられける。新中納言知盛の意見に申されけるは、「三種の神器を都へ返入奉たりとも、重衡を返し給らん事有がたし。唯憚なく其樣を、御請文に申さるべうや候らん。」と申されければ、大臣殿「此儀尤も然るべし。」とて、御請文申されけり。二位殿は泣々中將の御返事かき給ひけるが、涙にくれて、筆の立所も覺ねども、志をしるべにて御文細々と書て重國にたびにけり。北方大納言佐殿は、唯泣より外の事なくて、つや/\御返事もし給はず。誠に御心の中さこそは思ひ給らめと推量られてあはれ也。重國も狩衣の袖を絞りつゝ泣泣御前を罷り立つ。平大納言時忠は御坪召次花方を召て、「汝は花方か。」「さん候。」「法皇の 御使に、多くの浪路を凌いで、是迄參りたるに一期が間の思出一つあるべし。」とて花方が面に、浪方と云ふ燒驗をぞせられける。都へ上りければ、法皇是を御覽じて、「好々力およばず、浪方とも召せかし。」とてわらはせおはします。 今月十四日の院宣、同二十八日、讃岐國八島の磯に到來、謹以承る所如件。但し是に就て彼を案ずるに、通盛卿以下、當家數輩攝州一谷にして、既に誅せられ畢。何ぞ重衡一人が寛宥を悦べきや。夫我君は、故高倉院の御讓を請させ給ひて、御在位既に四箇年、堯舜の古風を訪處に、東夷北狄黨を結び、群をなして入洛の間、且は幼帝母后の御歎尤深く、且は外戚近臣の憤淺からざるに依て、暫く九國に幸す。還幸なからんにおいては、三種の神器、爭か玉體を放ち奉るべきや。それ臣は君を以て心とし、君は臣を以て體とす。君安ければ則ち臣安く、臣安ければ即ち國安し。君上に愁れば、臣下に樂まず。心中に愁れば、體外に悦なし。曩祖平將軍貞盛、相馬小次郎將門を追討せしより以降、東八箇國を鎭めて、子々孫々に傳へ、朝敵の謀臣を誅罰して代々世々に至るまで、朝家の聖運を守り奉る。然則亡父故太政大臣、保元平治兩度の合戰の時、勅命を重して私の命を輕す。偏に君の爲にして、身のためにせず。就中、彼頼朝は、去平治元年十二月、父左馬頭義朝が謀反に依て、頻に誅伐せらるべき由仰下さるといへども故入道相國慈悲のあまり、申宥められし處也。然に、昔の洪恩を忘れ芳意を存ぜず、忽に狼羸の身を以て猥に蜂起の亂をなす、至愚の甚しき事申も餘あり。早く神明の天罰を招き、竊に敗績の損滅を期する者歟。 夫日月は、一物のために其明なる事を暗せず。明王は、一人が爲に其法を枉ず。一惡をもて其善をすてず、少瑕をもて其功をおほふことなかれ。且は當家數代の奉公、且は亡父數度の忠節、思食忘れずば君忝なくも四國の御幸有るべき歟。時に臣等院宣を承はり、再舊都に歸て、會稽の耻を雪ん。若然らずば、鬼界、高麗、天竺、震旦にいたるべし。悲哉。人王八十一代の御宇に當て、我朝神代の靈寶、遂に空しく異國の寶となさんか。宜く是等の趣を以て、然るべき樣に洩し奏聞せしめ給へ。宗盛誠恐頓首謹言。壽永三年二月二十八日   從一位平朝臣宗盛が請文 とこそ書かれたれ。 -------------------------------------------------------------------------------- 戒文 三位中將是を聞て、「さこそは有むずれ。如何に一門の人々惡く思ひけん。」と、後悔すれどもかひぞなき。げにも重衡卿一人を惜みて、さしもの我朝の重寶三種の神器を、返し入れ奉るべしとも覺えねば、此御請文の趣は、兼てより思ひ設られたりしかども、未左右を申されざりつる程は、何となういぶせく思はれけるに、請文既に到來して、關東へ下向せらるべきに定まりしかば、何の憑も弱り果て萬心細う都の名殘も今更惜思はれける。三位中將土肥次郎を召て、「出家をせばやと思ふは如何あるべき。」と宣へば、實平此由を九郎御曹司に申す。院御所へ奏聞せられたりければ、「頼朝に見せて後こそ、ともかうも計らはめ。唯今は爭か許す べき。」と仰ければ、此由を申す。「さらば年來契りたりし聖に、今一度對面して、後世の事を申談ぜばやと思ふはいかゞすべき。」と宣へば、「聖をば誰と申候やらん。」「黒谷の法然房と申人也。」「さては苦しう候まじ。」とて許し奉る。中將斜ならず悦て、聖を請じ奉て、泣々申されけるは、「今度生ながら捕れて候けるは、再上人の見參に罷入べきで候けり。さても重衡が後生いかゞし候べき。身の身にて候し程は、出仕に紛れ、政務にほだされ、 驕慢の心のみ深して却て當來の昇沈を顧ず。況や運盡き世亂てより以來は、こゝに戰ひ、かしこに爭ひ、人を滅し身を助らんと思ふ惡心のみ遮て、善心はかつて起らず。就中に南都炎上の事は、王命といひ武命といひ、君に仕へ世に隨ふ法遁かたくして、衆徒の惡行を靜めんが爲に罷向て候し程に、不慮に伽藍の滅亡に及候し事、力及ばぬ次第にて候へども、時の大將軍にて候ひし上は、責め一人に歸すとかや申候なれば、重衡一人が罪業にこそなり候ぬらめと覺え候へ。且はか樣に人しれずかれこれ恥をさらし候もしかしながら其報とのみこそ思知れて候へ。今は首を剃り戒を持なんどして偏に佛道修行したう候へども、かゝる身に罷成て候へば、心に心をもまかせ候はず。今日明日とも知らぬ身の行末にて候へば、如何なる行を修しても、一業助かるべしとも覺えぬこそ口惜う候へ。倩一生の化行を思ふに、罪業は須彌よりも高く、善業は微塵ばかりも蓄へなし。かくて空く命終なば、火血刀の苦果、敢て疑なし。願くは上人慈悲を發し、憐を垂れて、かゝる惡人の助りぬべき方法候はば、示給へ。」其時上人涙に咽て、暫は物も宣はず。良久しう有て、「誠に受難き人身を受ながら、空しう三途に歸り給は ん事、悲しんでも猶餘あり。然るを今穢土を厭ひ、淨土を願はんに、惡心を捨てゝ善心を發しましまさん事、三世の諸佛も定て隨喜し給ふらん。それについて出離の道まち/\なりといへども末法濁亂の機には、稱名を以て勝れたりとす。志を九品に分ち、行を六字に縮めて、如何なる愚癡闇鈍の者も唱るに便あり。罪深ければとて、卑下したまふべからず。十惡五逆囘心すれば往生を遂ぐ。功徳少ければとて、望を絶べからず。一念十念の心を致せば、來迎す。專稱名號至西方と釋して、專名號を稱すれば、西方に至る。念々稱名常懺悔と演て、念々に彌陀を唱れば、懺悔する也と教へたり。利劔即是彌陀號を憑めば、魔縁近づかず。一聲稱念罪皆除と念ずれば、罪皆除けりと見えたり。淨土宗の至極、各略を存して、大略是を肝心とす。但往生の得否は、信心の有無に依べし。唯深く信じて努々疑をなし給ふべからず。もし此教を深く信じて行往座臥時處諸縁を嫌はず三業四威儀に於て、心念口稱を忘れ給はずば、畢命を期として、此苦域の界を出で、彼不退の土に往生し給はん事、何の疑かあらむや。」と教化し給ひければ、中將斜ならず悦て、「此次に戒を持ばやと存候は、出家仕らでは叶候まじや。」と申されければ、「出家せぬ人も、戒を持つ事は世の常の習ひ也。」とて、額に剃刀をあてゝそるまねをして、十戒を授けられければ、中將隨喜の涙を流いて、是を受保ち給ふ。上人も萬物哀に覺えて、掻暗す心地して、泣々戒をぞ説れける。御布施と覺しくて、年比常におはして遊れける侍の許に預置れける御硯を、知時して召寄て、上人に上り、「是をば人にたび候はで、常に御目のかゝり候はん所に置れ候て、某が物ぞかしと、御覽ぜられ候は ん度ごとに思食なずらへて御念佛候べし。御隙には經をも一卷、御廻向候はゞ然るべう候べし。」など泣々申されければ、上人とかうの返事にも及ばず、是を取て懷に入れ、墨染の袖を絞りつゝ泣々歸り給ひけり。此の硯は、親父入道相國砂金を多く宋朝の御門へ奉り給ひたりければ返報と覺しくて、日本和田の平大相國の許へとて、送られたりけるとかや。名をば松蔭とぞ申ける。 -------------------------------------------------------------------------------- 海道下 さる程に、本三位中將をば、鎌倉前兵衞佐頼朝、頻に申されければ、さらば下さるべしとて、土肥次郎實平が手より、先九郎御曹司の宿所へ渡し奉る。同三月十日、梶原平三景時に具せられて、鎌倉へこそ下られけれ。西國より生捕にせられ、都へ返るだに口惜きに、今又關の東へ趣かれけん心の中、推量られて哀也。四宮河原に成ぬれば、爰は昔延喜第四の王子、蝉丸の、關の嵐に心を清し、琵琶をひき給ひしに、博雅の三位といひし人、風の吹日も吹ぬ日も、雨の降る夜も降ぬ夜も三年が間歩を運び、立聞て、彼の三曲を傳へけん藁屋の床の古へも、思遣られて哀也。逢坂山を打越えて、勢多の唐橋駒もとゞろに蹈ならし、雲雀あがれる野路の里、志賀の浦浪春かけて霞に曇る鏡山、比良の高峯をも北にして、伊吹の嵩も近附ぬ。心をとむとしなけれども、荒て中中優しきは、不破の關屋の板びさし、如何に鳴海の鹽干潟、涙に袖はしをれつゝ、彼在原のなにがしの、唐ころもきつゝなれにしとながめけん參河國 八橋にも成ぬれば、蛛手に物をと哀也。濱名の橋を渡り給へば、松の梢に風亮て、入江に噪ぐ浪の音、さらでも旅は物憂きに、心を盡す夕間暮、池田の宿にも著給ひぬ。彼宿の長者の湯屋が娘、侍從が許に、其夜は宿せられけり。侍從、三位中將を見奉て、「昔は傳にだに思召寄らざりしに、今日はかゝる所にいらせ給ふ不思議さよ。」とて、一首の歌をたてまつる。 旅の空埴生の小屋のいぶせさに、故郷いかに戀しかるらん。 三位中將返事には、 故郷もこひしくもなし旅の空、都もつひのすみかならねば。 中將「やさしうもつかまつたるものかな。此歌の主は如何なる者やらん。」と御尋在ければ、景時畏て申けるは、「君はいまに知召され候はずや。あれこそ八島の大臣殿の當國の守で渡らせ給候し時、めされ參せて、御最愛にて候しが、老母を是に留置、頻に暇を申せども、給はらざりければ、比は三月の始めなりけるに、 如何にせん都の春もをしけれど、馴しあづまの花や散らん。 と仕て、暇を給て下りて候ひし、海道一の名人にて候へ。」とぞ申ける。 都を出て日數歴れば、彌生も半過ぎ、春も既に暮なんとす。遠山の花は殘の雪かと見えて、浦々島々かすみ渡り、こし方行末の事共思續け給ふに、「されば是は如何なる宿業のうたてさぞ。」と宣ひて、唯盡せぬものは涙也。御子の一人もおはせぬ事を、母の二位殿も歎き、北の方大納言佐殿も本意なき事にして、萬の神佛に祈申されけれども、其驗なし。「賢うぞ無りけ る。子だに有ましかば、如何に心苦しかるらん。」と宣ひけるこそ責ての事なれ。佐夜中山にかかり給ふにも、又越べしとも覺えねば、いとゞ哀れの數添て、袂ぞいたく濕まさる。宇都の山邊の蔦の道、心細くも打越えて、手越を過て行けば、北に遠去て、雪白き山あり。問へば甲斐の白根といふ。其時三位中將、落る涙を押てかうぞ思ひ續け給ふ。 惜からぬ命なれども今日までに、強顏かひの白根をも見つ。 清見が關打過ぎて、富士のすそ野に成ぬれば、北には青山峨々として、松吹く風索々たり。南には蒼海漫々として、岸うつ浪も茫々たり。戀せばやせぬべし、こひせずとも有けりと、明神の歌はしめ給ひける足柄の山をも打越て、こゆるぎの森、鞠子河、小磯、大磯の浦、やつまと、砥上が原、御輿が崎をも打過て、急がぬ旅と思へども、日數やう/\重なれば、鎌倉へこそ入給へ。 -------------------------------------------------------------------------------- 千手前 兵衞佐急ぎ見參して申されけるは、「抑君の御憤を息め奉り、父の恥を雪めんと思ひたちし上は、平家を滅さん事は案の内に候へども、正しく見參に入るべしとは存ぜず候き。此のぢやうでは、八島の大臣殿の見參にも入ぬと覺え候。抑も南都を滅し給ける事は、故太政入道殿の仰にて候しか。又時に取て御計にて候けるか。以外の罪業にこそ候なれ。」と申されければ、三位中將宣ひけるは、「先づ南都炎上の事、故入道の成敗にも非ず、重衡が愚意の發起に もあらず。衆徒の惡行をしづめんが爲に罷向て候し程に、不慮に伽藍滅亡に及候し事、力及ばぬ次第也。昔は源平左右にあらそひて、朝家の御かためなりしかども、近比源氏の運傾きたりし事は事新しう初めて申べきにあらず。當家は保元平治より以來度々の朝敵を平げ、勸賞身に餘り、辱く一天の君の御外戚として、一族の昇進六十餘人、廿餘年の以來は樂み榮え申ばかりなし。今又運盡ぬれば、重衡捕らはれて是まで下候ぬ。それについて帝王の御敵を討たる者は、七代まで朝恩つきせずと申事は、究たる僻事にて候けり。目のあたり故入道殿は、君の御爲に既に命を失はんとする事度々に及ぶ。されども僅に其身一代の幸にて、子孫か樣に罷成るべしや。されば運盡きて都を出し後は、尸を山野にさらし、名を西海の波に流すべしとこそ存ぜしが、是迄下べしとは、かけても思はざりき。唯先世の宿業こそ口惜候へ。但殷湯は夏臺にとらはれ文王は いう里にとらはると云ふ文あり。上古猶かくの如し。況や末代においてをや。弓矢をとる習ひ敵の手にかゝて命を失ふ事、またく恥にて恥ならず。唯芳恩には、疾々かうべをはねらるべし。」とて、其後は物も宣はず。景時是を承て、「あはれ大將軍や。」とて涙を流す。其座に並居たる人々皆袖をぞぬらしける。兵衞佐も、「平家を別して私の敵と思ひ奉る事努々候はず。唯帝王の仰こそ重う候へ。」とぞのたまひける。「南都を亡たる大伽藍の敵なれば、大衆定て申旨在らんずらん。」とて、伊豆國の住人狩野介宗茂に預けらる。其體、冥土にて娑婆世界の罪人を、七日々々に十王の手へ渡さるらんも、かくやと覺て哀也。 されども狩野介、情なる者にて、痛く緊しうも當り奉らず、やう/\に痛り湯殿しつらひなどして、御湯引せ奉る。道すがらの汗いぶせかりつれば、身を清めて失はんずるにこそと思はれけるに、齡二十計なる女房の、色白う清げにて、誠に優に美しきが、目結の帷に、染附の湯卷して、湯殿の戸を推開て參りたり。又暫有て十四五許なる女の童の小村濃の帷きて髮は袙長なるが、楾盥に櫛入て持て參りたる。此女房介錯にて、良久湯あみ髮洗などしてあがり給ひぬ。さて彼女房暇申て歸りけるが、「男などはこちなうもぞ思召す。中々女は苦からじとて、參せられて候ふ。『何事でも思召さん御事をば、承はて申せ。』とこそ兵衞佐殿は仰られ候つれ。」中將、「今は是程の身になて、何事をか申候べき。唯思ふ事とては、出家ぞしたき。」と宣ひければ、歸參て、此由を申す。兵衞佐「其れ思ひも寄らず。頼朝が私の敵ならばこそ。朝敵として預り奉たる人也。努々有るべうもなし。」とぞ宣ひける。三位中將守護の武士に宣ひけるは、「さても唯今の女房は優なりつる者哉。名をば何といふやらん。」と問はれければ、「あれは手越の長者が娘で候を、眉目形、心樣優にわりなき者で候とて、此二三年召仕はれ候が、名をば千手前と申候。」とぞ申ける。 其夕雨少降て、萬物蕭しかりけるに、件の女房琵琶琴もたせて參たり。狩野介酒をすゝめて奉る。我身も家子郎等十餘人引具して參り、御前近う候けり。千手前酌をとる。中將少しうけて、最興なげにておはしけるを、狩野介申けるは、「且聞思されてもや候らん。鎌倉殿の『相構て能々慰參せよ。懈怠して頼朝恨むな。』と仰られ候 [1]宗茂は、伊豆國の者にて候間、鎌倉 では旅にて候へども、心の及ばん程は奉公仕候べし。何事でも申てすゝめ參させ給ヘ。」と申ければ、千手酌を差置て、「羅綺の重衣たる情ない事を機婦にねたむ。」と云ふ朗詠を一兩返したりければ、三位中將宣ひけるは、「此朗詠せん人をば、北野天神一日に三度翔て守らんと誓はせ給ふ也。されども重衡は此世では捨られ奉ぬ。助音しても何かせん。罪障輕みぬべき事ならば、隨べし。」とぞ宣ひければ、千手前軈て「十惡と云へ共引攝す。」と云ふ朗詠をして、「極樂願はん人は、皆彌陀の名號唱べし。」と云今樣を四五返うたひすましたりければ、其時盃を傾けらる。千手前給はて狩野介にさす。宗茂がのむ時に、琴をぞ引すましたりける。三位中將宣けるは「此樂をば普通には五常樂といへども、重衡が爲には、後生樂とこそ觀ずべけれ。やがて往生の急を引むと戯れて琵琶を取り、てんじゆをねぢて、皇 じやう急をぞ引れける。夜やう/\深て、萬づ心のすむ儘に、「あら思はずや、吾妻にも是程優なる人の有けるよ。何事にても今一聲。」と宣へば千手前又、「一樹の陰に宿り合ひ、同じ流を掬ぶも、皆是前世の契。」と云ふ白拍子を、誠に面白くかぞへすましたりければ、中將も、「燈暗しては數行虞氏の涙。」と云ふ朗詠をぞせられける。譬へば此朗詠の心は、昔唐土に、漢高祖と楚項羽と位を爭ひて、合戰する事七十二度、戰毎に項羽勝にけり。されども終には、項羽戰負て亡ける時、騅と云ふ馬の一日に千里を飛に乘て、虞氏と云ふ后と共に逃さらんとしけるに、馬如何思ひけん、足をとゝのへて動かず。項羽涙を流いて、「我が威勢既に廢れたり。今は逃るべき方なし。敵の襲ふは事の數ならず、此后に別なん事のかなしさよ。」とて終夜歎き悲み給ひけり。 燈暗成ければ心細うて虞氏涙を流す。夜深くる儘に、軍兵四面に閧を作る。此心を橘相公の賦に作るを、三位中將思ひ出されたりしにや、最優うぞ聞えける。 さる程に夜も明ければ、武士ども暇申て罷出づ。千手前も歸にけり。其朝兵衞佐殿折節、持佛堂に法華經讀でおはしける處へ、千手前參りたり。兵衞佐殿うちゑみ給ひて、「千手に中人をば面白もしたるもの哉。」と宣へば、齋院次官親義、折節御前に物かいて候けるが、「何事で候けるやらん。」と申。「あの平家の人々は甲冑弓箭の外は他事なしとこそ日比は思ひたれば、此三位中將の琵琶の撥音、口ずさみ、終夜立聞て候に、優にわりなき人にておはしけり。」親義申けるは、「誰も夜部承はるべう候しが、折節痛はる事候て、承らず候。このゝちは常に立聞候べし。平家は本より代々の歌人才人達で候也。先年此人々を花に譬へ候しに、此三位中將殿をば、牡丹の花に譬て候しぞかし。」と申されければ、「誠に優なる人にてありけり。」とて「琵琶の撥音朗詠のやう、後までも有難き事ぞ。」と宣ひける。千手前は中々に物思ひの種とや成にけん。されば中將南都へ渡されて斬れ給ひぬ、と聞えしかば、やがて樣をかへ、濃墨染にやつれ果て、信濃國善光寺に行すまして、彼後世菩提を弔ひ、我身も往生の素懷を遂けるとぞ聞えし。 [1] Nihon Koten Bungaku Taikei (Tokyo: Iwanami Shoten, 1957, vol. 33; hereafter cited as NKBT) has 。at this point. -------------------------------------------------------------------------------- 横笛 さる程に、小松三位中將維盛卿は、身がらは八島にありながら、心は都へ通れけり。故郷に 留置給し北方少き人々の面影のみ、身に立そひて、忘るゝ隙も無りければ、「有にかひなき我身かな。」とて、壽永三年三月十五日の曉、忍びつゝ八島の館を紛れ出で、與三兵衞重景、石童丸と云ふ童、船に心得たればとて武里と申舍人、是等三人を召具して、阿波國結城の浦より小舟に乘り、鳴門の浦を漕通り、紀伊路へおもむき給けり。和歌、吹上、衣通姫の神と顯はれ給へる玉津島の明神、日前國懸の御前を過て、紀伊の湊にこそ著給へ。是より山傳ひに都へ上て、戀しき人々を、今一度見もし見えばやとは思へ共、「本三位中將の生捕にせられて大路を渡され、京鎌倉恥をさらすだに口惜きに、此身さへ囚れて、父の尸に血をあやさん事も心うし。」とて、千度心は進め共、心に心をからかひて、高野の御山に參られけり。 高野は年比知給へる聖在り。三條の齋藤左衞門茂頼が子に、齋藤瀧口時頼と云ひし者也。本は小松殿の侍なり。十三の年本所へ參りたりけるが、建禮門院の雜仕横笛と云ふ女あり。瀧口是を最愛す。父是を傳聞いて、「世に有ん者の婿子になして出仕なんどをも、心安うせさせんとすれば、世になき者を思ひ初めて。」と強に諫めければ、瀧口申けるは、「西王母と聞えし人、昔は有て今は無し。東方朔と云し者も、名をのみ聞て目には見ず。老少不定の世の中、石火の光に異ならず、縱人長命といへども、七十八十をば過ず、其中に身の榮んなる事は、僅に廿餘年也。夢幻の世の中に、醜きものを、片時も見て何かせん。思はしき者を見んとすれば、父の命を背くに似たり。是善知識也。しかじ、浮世を厭ひ、實の道に入なん。」とて、十九の年髻切て、嵯峨の往生院に行なひすましてぞ居たりける。横笛是を傳聞いて、「我をこ そ捨め、樣をさへ替けん事の恨めしさよ。縱ひ世をば背くとも、などかかくと知せざらむ。人こそ心つよくとも尋ねて恨みむ。」と思ひつゝ、或暮方に都を出で、嵯峨の方へぞあくがれ行く。比はきさらぎ十日餘の事なれば、梅津の里の春風に、餘所の匂もなつかしく、大井河の月影も、霞にこめて朧也。一方ならぬ哀さも、誰故とこそ思ひけめ。往生院とは聞たれども、さだかに何れの坊ともしらざれば、こゝにやすらひ、かしこにたゝずみ、 [2]尋ねぬるぞ無慚なる。住荒したる僧房に念誦の聲しけり。瀧口入道が聲と聞なして、「わらはこそ是まで尋ね參りたれ。樣の替りておはすらんをも今一度見奉らばや。」と具したりける女を以て言せければ、瀧口入道、胸打噪ぎ、障子の隙より覗いて見れば、誠に尋かねたる氣色痛敷う覺えて如何なる道心者も、心弱くなりぬべし。やがて人を出して、「全く是にさる人なし。門違でぞあるらむ。」とて終に逢でぞかへしける。横笛情なう恨めしけれども、力なく、涙を押へて歸けり。瀧口入道、同宿の僧に逢て申けるは、「是も世に靜にて、念佛の障碍は候はねども、飽で別し女に、此住ひを見えて候へば、譬ひ一度は心強共、又も慕ふ事あらば、心も動き候べし。暇申て。」とて嵯峨をば出て高野へ上り、清淨心院にぞ居たりける。横笛も樣を替たる由聞えしかば、瀧口入道一首の歌を送けり。 そるまではうらみしかども梓弓、眞の道にいるぞうれしき。 横笛返ごとに そるとてもなにか恨みん梓弓、ひきとゞむべき心ならねば。 横笛は、其思ひの積にや奈良の法華寺に有けるが、幾程もなくて、遂にはかなく成にけり。瀧口入道か樣の事を傳へ聞、彌深う行澄して居たりければ、父も不孝を許けり。親しき者ども皆用て、高野の聖とぞ申ける。 三位中將是に尋あひて見給へば、都に候し時は、布衣に立烏帽子、衣文を引繕ひ、鬢を撫で、花やかなりし男士也。出家の後は、今日初て見給ふに、未だ三十にもならぬが、老僧姿に痩衰へ、濃墨染に同じ袈裟、思入れたる道心者、羨敷や思はれけん。晉の七賢、漢の四晧が栖けん商山竹林の有樣も、是には過じとぞ見えし。 [2] NKBT reads たづねかぬるぞ. -------------------------------------------------------------------------------- 高野之卷 瀧口入道、三位中將を見奉り、「こは現共覺え候はぬ者哉。八島より是迄は何として逃させ給て候やらん。」と申ければ、三位中將宣ひけるは、「さればとよ、人なみ/\に、都を出て、西國へ落下りたりしかども、故郷に留置し少者共の戀しさ、いつ忘るべしとも覺えねば、其物思ふ氣色の言ぬにしるくや見えけん、大臣殿も、二位殿も、此人は池大納言の樣に、二心有りなどとて思ひ隔て給ひしかば、有にかひなき吾身哉と、いとゞ心も留まらであくがれ出てこれまではのがれたるなり。如何にもして山傳ひに都へ上て戀しき者共を今一度見もし見えばやとは思へども、本三位中將の事口惜ければ其も叶はず。同くは是にて出家して、火の中水の底へも入ばやと思ふ也。但熊野へ參らんと思ふ宿願あり。」と宣へば、「夢幻の世の中は、 とてもかくても候なん。長き世の闇こそ心うかるべう候へ。」とぞ申ける。やがて瀧口入道先達にて、堂塔巡禮して、奧院へ參り給ふ。 高野山は帝城を去て二百里、京里を離て無人聲、晴嵐梢を鳴して、夕日の影靜也。八葉の峰、八の谷、誠に心も澄ぬべし。花の色は林霧の底に綻び、鈴の音は尾上の雲に響けり。瓦に松生ひ、墻に苔むして、星霜久く覺えたり。抑延喜帝の御時、御夢想の御告有て、檜皮色の御衣を參らせられしに、勅使中納言資澄卿、般若寺僧正觀賢を相具して、此御山に參り、御廟の扉を開いて、御衣を著せ奉らんとしけるに、霧厚く隔たて、大師拜まれさせ給はず。こゝに觀賢深く愁涙して、「我悲母の胎内を出て、師匠の室に入しより以來いまだ禁戒を犯せず。さればなどか拜奉らざらん。」とて五體を地に投げ、發露啼泣し給ひしかば、漸霧晴て、月の出が如くして、大師拜まれ給けり。時に觀賢隨喜の涙を流いて、御衣を著せ奉る。御ぐしの長く生させ給ひたりしかば、剃奉るこそめでたけれ。勅使と僧正とは拜み奉給へども、僧正の弟子石山の内供淳祐、其時は未童形にて供奉せられたりけるが、大師を拜み奉らずして、嘆き沈で御座けるが、僧正手をとて、大師の御膝に押當られたりければ、其手一期が間、香しかりけるとかや。其移り香は、石山の聖教に移て今に有とぞ承る。大師御門の御返事に申させ給ひけるは、「我昔薩 たに逢て、まの當り悉印明を傳ふ。無比の誓願を發して、邊地の異域に侍り。晝夜に萬民を哀んで、普賢の悲願に住す。肉身に三昧を證して、慈氏の下生を待つ。」とぞ申させ給ひける。彼摩訶迦葉の 鶏足の洞に籠て、翅頭の春の風を期し給ふらんも、かく やとぞ覺えける。御入定は承和二年三月二十一日寅の一點の事なれば、過にし方も三百餘歳、行末も猶五十六億七千萬歳の後、慈尊出世三會の曉を待せ給ふらんこそ久しけれ。 -------------------------------------------------------------------------------- 維盛出家 「維盛が身の何となく、雪山の鳥の啼らんやうに、今日よ明日よと思ふものを。」とて、涙ぐみ給ぞ哀なる。鹽風に黒み、盡せぬ物思に痩衰て、其人とは見え給はねども、猶世の人には勝れ給へり。其夜は瀧口入道が庵室に歸て終夜、昔今の物語をぞし給ひける。聖が行儀を見給へば、至極甚深の床の上には、眞理の玉を磨くらむと見えて、後夜晨朝の鐘の聲には、生死の眠をさますらむとも覺えたり。のがれぬべくはかくてもあらまほしうや思はれけん。明ぬれば、東禪院の智覺上人と申ける聖を請じ奉て、出家せんとし給ひけるが、與三兵衞、石童丸を召て宣ひけるは、「維盛こそ人しれぬ思ひを身に副ながら、道狹う遁れ難き身なれば、空しうなるとも、此比は世に有る人こそ多けれ。汝等は如何なる有樣をしてもなどかすぎざるべき。我如何にもならぬ樣を見果て急ぎ都へ上り、各が身をも助け、且は妻子をも育み、且は又維盛が後生をも弔らへかし。」と宣へば、二人の者共、さめ%\と泣いて、暫は御返事にも及ばず、稍有て與三兵衞涙を押へて申けるは、「重景が父與三左衞門景康は、平治の逆亂の時、故殿の御供に候けるが、二條堀河の邊にて、鎌田兵衞に組んで、惡源太に討たれ候ぬ。重景もなじかは劣り候べき。其時は未二歳に罷成候ければ、少も覺え候はず。母には七歳で 後れ候ぬ。あはれをかくべき親しい者、一人も候はざりしかども、故大臣殿、『あれは我命にかはりたりし者の子なれば。』とて、御前にてそだてられ參せ、生年九と申し時、君の御元服候し夜、首を取上られまゐらせて、辱く『盛の字は家の字なれば五代につく。重の字をば松王に。』と仰候て、重景とは付られ參せて候也。其上童名を松王と申ける事も生れて忌五十日と申し時父がいだいてまゐりたれば此家を小松といへば祝うてつくるなりと仰候て松王とはつけられまゐらせ候也。父のようて死候けるも、我身の冥加と覺え候。隨分同隷共にも芳心せられてこそ罷過候しか。されば御臨終の御時も、此世の事をば思召捨て、一事も仰候はざりしかども、重景を御前近う召されて、『あな無慚や、汝は重盛を父が形見と思ひ、重盛は汝を景康が形見と思ひてこそ過しつれ。今度の除目に靱負尉になして、己が父景康を呼し樣に召ばやとこそ思つるに、空しうなるこそ悲しけれ、相構て、少將殿の心に違ふな。』とこそ仰せ候しか。されば日比はいかなる御事も候はむには見捨參せて落べき者と思召し候けるか。御心の中こそ慚しう候へ。『此比は世に有る人こそ多けれ。』と仰蒙り候は、當時の如くは、皆源氏の郎等共こそ候なれ。君の神にも佛にも成らせ給ひ候なむ後樂み榮え候とも、千年の齡を歴べきか。縱萬年を保つとも終には終りの無るべきか。是に過たる善知識何事か候べき。」とて、手づから髻切て、泣々瀧口入道に剃らせけり。石童丸も是を見て、髻際より髮をきる。是も八つより附奉て、重景にも劣ず、不便にし給ければ、同瀧口入道に剃らせけり。是等がか樣に先立てなるを見給ふにつけても、いとど心細うぞ思食す。さても有るべきならねば、 流轉三界中、恩愛不能斷、棄恩入無爲、眞實報恩者。」と三反唱給ひて、終に剃下し給てけり。「あはれ替ぬ姿を戀しき者共に今一度見えもし見えて後、かくもならば思ふ事あらじ。」と宣ひけるこそ罪ふかけれ。三位中將も與三兵衞も同年にて今年は廿七歳也。石童丸は十八にぞ成ける。 良有て、舍人武里を召て、「おのれはとう/\是より八島へ歸れ。都へは上るべからず。其故は、終には隱れあるまじけれ共、正しう此有樣を聞ては、やがて樣をも替んずらんと覺ゆるぞ。八島へ參て、人々に申さんずるやうはよな、『かつ御覽候し樣に、大方の世間も懶き樣に罷り成候き。萬づ無道さも數添て見え候しかば、各々にも知られ參せ候はでかく成候ぬ。西國で左中將失候ぬ。一谷で備中守うたれ候ぬ。我さへかく成候ぬれば、如何に各の便なう思召され候はんずらむと、それのみこそ心苦しう思ひまゐらせ候へ。抑唐皮と云ふ鎧、小烏と云ふ太刀は、平將軍貞盛より、當家に傳へて、維盛迄は嫡々九代に相當る。若不思議にて世も立なほらば六代に給ぶべし。』と申せ。」とこそ宣ひけれ。武里「君の如何にもならせおはしまさん樣を見參せて後こそ、八島へも參り候はめ。」と申ければ、「さらば。」とて召具せらる。瀧口入道をも善知識の爲に具せられけり。山伏修業者の樣にて高野をば出て、同國の内山東へこそ出られけれ。藤代の王子を始めとして、王子王子伏拜み參り給ふ程に、千里の濱の北、岩代王子の御前にて、狩裝束なる者七八騎が程行逢奉る。既に搦捕れなむずと思ひて、各腰の刀に手をかけて腹を切らむとし給けるが、近附けれども、過つべき氣色も無て急ぎ馬より 下深う畏て通りければ、「見知たる者にこそ、誰なるらん。」と怪くて、いとゞ足早にさし給ふ程に、是は當國の住人、湯淺權守宗重が子に湯淺七郎兵衞宗光といふ者也。郎等共「是は如何なる人にて候やらむ。」と申ければ、七郎兵衞涙をはらはらと流いて「あら事も辱なや、あれこそ小松大臣殿の御嫡子三位中將殿よ。八島より是までは何として逃させ給ひたりけるぞや。はや御樣を替させ給てけり。與三兵衞、石童丸も同く出家して、御供申たり。近う參て、見參にも入たかりつれども、憚もぞ思召すとて通りぬ。あなあはれの御有樣や。」とて、袖を顏に押あてて、さめ%\と泣ければ、郎等共も皆涙をぞながしける。 -------------------------------------------------------------------------------- 熊野參詣 漸さし給ふ程に日數歴れば岩田河にも懸り給ひけり。此川の流を一度も渡る者は、惡業煩惱無始の罪障消なるものをと、憑敷うぞおぼしける。本宮に參りつき證誠殿の御前につい居給ひつゝ暫く法施參せて、御山の體を拜み給に、心も詞も及ばれず。大悲擁護の霞は、熊野山に たなびき、靈驗無雙の神明は、音無河に跡を垂る。一乘修行の岸には、感應の月曇もなく、六根懺悔の庭には、妄想の露も結ばず。何れも/\憑からずといふ事なし。夜深け人靜て、啓白し給ふに、父の大臣の、此御前にて、命を召して後世を扶け給へと、申されける事までも、思召出て哀也。「本地阿彌陀如來にてまします。攝取不捨の本願誤たず、淨土へ導給へ。」と申されける中にも、「故郷に留置し妻子安穩に。」と祈られけるこそ悲しけれ。浮世を 厭ひ眞の道に入給へども、妄執は猶盡ずと覺えて、哀なりし事共也。 明ぬれば、本宮より舟に乘り、新宮へぞ參られける。神藏を拜み給に、巖松高く聳えて嵐妄想の夢を破り、流水清く流て、浪塵埃の垢をすゝぐらんとも覺たり。明日の社伏拜み、佐野の松原さし過て、那智の御山に參給ふ。三重に漲り落る瀧の水、數千丈まで打上り、觀音の靈像は岩の上に顯れて、補陀落山とも謂つべし。霞のそこには法華讀誦の聲聞ゆ、靈鷲山とも申つべし。抑權現當山に跡を垂させまし/\てより以來、我朝の貴賤上下歩を運び首を傾け掌を合せて利生に關らずといふことなし。僧侶されば甍を竝、道俗袖を連ぬ。寛和の夏の比、花山法皇、十善の帝位を逃させ給ひて、九品の淨刹を行はせ給ひけん御庵室の舊跡には、昔を忍ぶと覺しくて、老木の櫻ぞ開にける。 那智籠の僧共の中に、此三位中將を能々見知奉たると覺くて、同行に語りけるは、「こゝなる修業者を如何なる人やらむと思ひたれば、小松大臣殿の御嫡子、三位中將殿にておはしけるぞや。あの殿の未だ四位少將と聞え給ひし安元の春の比、法住寺殿にて五十の御賀のありしに、父小松殿は内大臣の左大將にてまします。伯父宗盛卿は中納言右大將にて、階下に著座せられたり。其外三位中將知盛、頭中將重衡以下、一門の人々今日を晴と時めき給ひて、垣代に立給ひし中より、此三位中將殿櫻の花をかざして、青海波を舞ていでられたりしかば、露に媚たる花の御姿、風に飜る舞の袖、地を照し天も耀くばかり也。女院より關白殿を御使にて、御衣をかけられしかば、父の大臣座をたち是を給はて、右の肩にかけ、院を拜し奉り 給ふ。面目類少うぞ見えし。かたへの殿上人も、如何許羨敷う思はれけむ。内裏の女房達の中には、深山木の中の楊梅とこそ覺ゆれなど言れ給ひし人ぞかし。唯今大臣の大將待かけ給へる人とこそ見奉りしに、今日はかくやつれ果給へる御有樣、兼ては思寄ざりしをや。移れば替る世の習ひとは云ひながら、哀なる御事哉。」とて、袖を顏に推當て、さめ%\と泣ければ、幾等も並居たる那智籠りの僧共も、みなうち衣の袖をぞぬらしける。 -------------------------------------------------------------------------------- 維盛入水 三の御山の參詣事故なく遂給ひしかば、濱宮と申王子の御前より、一葉の船に棹さして、萬里の蒼海に浮び給ふ。遙の沖に山成の島と云ふ所あり。それに船を漕寄せさせ、岸に上り、大なる松の木を削て、中將銘跡を書附けらる。「祖父太政大臣平朝臣清盛公法名淨海、親父内大臣左大將重盛公法名淨蓮、其子三位中將維盛法名淨圓、生年二十七歳、壽永三年三月廿八日、那智の奧にて入水す。」と書附けて、又舟に乘り、奧へぞ漕出給。思きりたる道なれども、今はの時に成ぬれば、心細う悲しからずといふ事なし。比は三月廿八日の事なれば、海路遙に霞渡り、哀を催す類也。唯大方の春だにも、暮行空は懶きに、況や今日を限の事なれば、さこそは心細かりけめ。沖の釣船の浪に消入る樣に覺ゆるが、さすが沈も果ぬを見給ふにも、御身の上とやおぼしけん。己が一行引連て、今はと歸る雁がねの、越路を差て啼行も、故郷へ言づけせまほしく、蘇武が胡國の恨まで、思ひ殘せるくまもなし。「さればこは何事ぞ。 猶妄執の盡ぬにこそ。」と思食返して西に向ひ手を合せ、念佛し給ふ心の中にも、「既に只今を限りとは都には爭か知べきなれば、風の便の音信も、今や/\とこそ待んずらめ。終には隱有まじければ、此世に無き者と聞いて如何ばかりかなげかんずらん。」など思ひ續け給へば、念佛を留めて、合掌を亂り、聖に向て宣ひけるは、「哀人の身に、妻子と云ふ物をば持まじかりける者哉。此世にて物を思はするのみならず、後生菩提の妨と成ける口惜さよ。唯今も思出るぞや。か樣の事を心中に殘せば、罪深からむ間、懺悔するなり。」とぞ宣ひける。聖も哀に覺えけれども、我さへ心弱くては [3]叶はじ。と思ひ、涙を押拭ひ、さらぬ體にもてなして申けるは「誠にさこそは思食され候らめ。高来も賤きも、恩愛の道は力及ばぬ事也。中にも、夫妻は一夜の枕をならぶるも、五百生の宿縁と申候へば、先世の契淺からず。生者必滅、會者定離は、浮世の習にて候也。末の露本の雫のためしあれば、縱遲速の不同はありとも、後れ先だつ御別れ、終に無てしもや候べき。彼驪山宮の秋の夕の契も、終には心を摧く端となり、甘泉殿の生前の恩も、終なきにしも非ず。松子梅生生涯恨あり。等覺十地猶生死の掟に隨ふ。縱君長生の樂みに誇り給ふ共、此御嘆は逃させ給ふべからず。縱百年の齡を保ち給ふ共、此御恨は唯同事と思召さるべし。第六天の魔王と云ふ外道は、欲界の六天を我物と領して、中にも此界の衆生の生死を離るゝ事ををしみ、或は妻となり、或は夫と成て、是を妨るに、三世の諸佛は、一切衆生を一子の如くに思召て、極樂淨土の不退の土に勸入とし給ふに、妻子と云者が無始曠劫より以來、生死に流轉するきづななるが故に、佛は重う戒しめ給ふ也。 さればとて、御心弱う思召べからず。源氏の先祖、伊豫入道頼義は、勅命に依て、奧州の夷安倍貞任宗任を責んとて十二年が間に人の頸を斬る事、一萬六千餘人。其外山野の獸、江河の鱗、其命を絶つ事、幾千萬と云ふ數を知らず。され共終焉の時、一念の菩提心を發ししに依て、往生の素懷を遂たりとこそ承れ。就中に出家の功徳莫大なれば、先世の罪障皆滅び給ひぬらむ。縱ひ人あて七寶の塔を立てん事、高さ三十三天に至る共、一日の出家の功徳には及ぶべからず。縱ひ又百千歳の間百羅漢を供養したらん功徳も一日の出家の功徳には及ぶべからずと説れたり。罪深かりし頼義も心の猛き故に、往生を遂ぐ。申さんや。君はさせる御罪業もましまさざるらんに、などか淨土へ參り給はざるべき。其上當山權現は、本地阿彌陀如來にて在ます。始め無三惡趣の願より、終り得三法忍の願に至る迄、一々の誓願衆生化度の願ならずと云ふ事なし。中にも、第十八の願には『説我得佛、十方衆生、至心信樂、欲生我國、乃至十念、若不生者、不取正覺』と説れたれば、一念十念の憑有り。唯深く信じて、努努疑をなし給ふべからず。無二の懇念を致して、若は一反、若は十反も唱へ給ふ物ならば、彌陀如來、六十萬億那由多恒河沙の御身を縮め、丈六八尺の御形にて觀音勢至、無數の聖衆、化佛菩薩、百重千重に圍繞し、伎樂歌詠して、唯今極樂の東門を出て來迎し給はむずれば、御身こそ蒼海の底に沈むと思召るゝとも、紫雲の上にのぼり給ふべし。成佛得脱して、悟を開き給なば、娑婆の故郷に立歸て、妻子を引導き給はん事『還來穢國度人天』少しも疑あるべからず。」とて、金打鳴して念佛を勸奉る。中將然るべき知識かなと思召し、忽に妄念を 翻して西に向ひ手を合せ、高聲に念佛百返計唱へつゝ、「南無」と唱る聲共に、海へぞ入給ひける。與三兵衞入道も石童丸も、同く御名を唱へつゝ、續いて海へぞ入りにける。 [3] NKBT reads かなはじとおもひ、. -------------------------------------------------------------------------------- 三日平氏 舍人武里も、同く續て入らんとしけるを、聖取留めければ力及ばず。「如何にうたてくも、御遺言をば違へ奉らんとするぞ。下臈こそ猶もうたてけれ。今は唯後世を弔ひ奉れ。」と泣々教訓しけれ共、後たてまつる悲しさに、後の御孝養の事も覺えず、船底に伏しまろび、をめき叫ける有樣は、昔悉達太子の檀特山に入せ給し時、舍匿舍人がこんでい駒を給はて、王宮に還りし悲も、是には過じとぞ見えし。暫は船を推廻して浮もや上給と、見けれども、三人共に深く沈んで見え給はず。いつしか經讀み念佛して、「過去聖靈一佛淨土へ。」と囘向しけるこそ哀なれ。 さる程に、夕陽西に傾むき、海上も闇く成りければ、名殘は盡せず思へども、空しき船を漕歸る。とわたる船の櫂の滴、聖が袖より傳ふ涙、わきて何れも見えざりけり。聖は高野へ歸り上る。武里は泣々八島へ參けり。御弟新三位中將殿に御文取出して參せたりければ、「あな心憂や、我たのみ奉る程は人は思ひ給はざりける口惜さよ。池大納言の樣に頼朝に心を通して、都へこそおはしたらめとて、大臣殿も二位殿も我等にも心を置給ひつるに、さては那智の沖にて、御身を投てましますごさんなれ。さらば引具して一處にも沈み給はで處々に伏さ む事こそかなしけれ。御詞にて仰られし事はなかりしか。」と問給へば「申せと候ひしは西國にて左中將殿失させ給ひ候ぬ。一谷で備中守殿討たれさせ給候ぬ。我さへかくなり候ぬれば、いかに便なう思召され候はんずらんと、其のみこそ心苦しう思參せ候へ。」唐皮小烏の事迄も細々と申たりければ、「今は我とてもながらふべしとも覺えず。」とて、袖を顏に推當て、さめざめと泣給ふぞ誠に理と覺えてあはれなる。故三位中將殿にゆゝしく似給たりければ、見る人涙を流しけり。侍共さしつどひて唯泣より外の事ぞなき。大臣殿も二位殿も、「此人は池大納言の樣に、頼朝に心を通して、都へとこそ思ひたれば、さは坐ざりけるものを。」とて、今更又嘆き悲み給ひけり。 四月一日、鎌倉の前兵衞佐頼朝正下の四位し給ふ。本は從下の五位にてありしに、忽に五階を越え給ふこそ優々しけれ。是は木曾左馬頭義仲追討の賞とぞ聞えし。 同三日、崇徳院を神と崇め奉るべしとて、昔御合戰ありし大炊御門が末に、社を立て宮遷あり。是は院の御沙汰にて、内裏には知召れずとぞ聞えし。 五月四日、池大納言頼盛關東へ下向、兵衞佐殿使者を奉て、「御方をば全く愚に思參らせ候はず。只故池殿の渡せ給ふとこそ存候へ。故尼御前の御恩をば大納言殿に報じ奉らん。」と、度々誓状を以て申されければ、一門をも引別れて落留り給ひたりけるが、「兵衞佐ばかりこそかうは思はれけれ共、自餘の源氏共は、如何あらんずらん。」と肝魂をけすより外の事なくておはしけるが、鎌倉より、「故尼御前を見奉ると存じて、疾々見參に入候はん。」と申されたりけれ ば、大納言下り給けり。 彌平兵衞宗清と云ふ侍あり。相傳專一の者なりけるが、相具してもくだらず。「如何に。」と問ひ給へば、「今度の御供はつかまつらじと存候。其故は、君こそかくて渡らせ給へども、御一門の君達の西海の波の上に漂せ給ふ御事の、心苦しう覺えて、いまだ安堵しても存候ねば、心少し落すゑて、追樣に參り候べし。」とぞ申ける。大納言にがにがしう慙かしう思ひ給て、「誠に一門を引き別れて殘留りし事をば、我身ながらいみじとは思はねども、さすが身も捨難う、命も惜ければ憖に留りにき。其上は又下らざるべきにも非ず。遙の旅に赴くに、爭か見おくらであるべき。うけず思はゞ、落留まし時はなどさはいはざりしぞ。大小事一向汝にこそ言ひ合せしか。」と宣へば、宗清居直り畏て申けるは、「高きも賤きも、人の身に命程惜き物や候。又世をば捨つれども身をば捨てずと申候めり。御留を惡とには候はず、兵衞佐も、かひなき命を助けられ參せて候へばこそ、今日はかゝる幸にもあひ候へ。流罪せられ候し時は故尼御前の仰にて、篠原の宿まで打送て候ひし事などいまに忘ずと承り候へば、定て御供に罷下りて候はば、引出物饗應などもし候はんずらむ。其に附けても心憂かるべう候。西國に渡らせ給ふ君達、もしは侍共の還聞かん事返々慚しう候へば、まげて今度計は罷留るべう候。君は落留せ給て、かくてわたらせ給ふ程ではなどか御下りなうて候べき。遙の旅に趣かせ給ふ事は、誠に覺束なう思參せ候へども、敵をも攻に御下り候はゞ、先一陣にこそ候べけれども、是はまゐらずとも、更に御事闕候まじ。兵衞佐尋申され候はば、相勞る事あてと仰候べ し。」と申ければ心ある侍共は、是を聞いて皆涙をぞ流しける。大納言もさすが慚しうは思はれけれども、されば留るべきにもあらねば軈て立ち給ひぬ。 同十六日、鎌倉へ下つき給。兵衞佐急ぎ見參して先づ「宗清は御供して候か。」と申されければ、「折節勞る事候て下り候はず。」と宣へば、「如何に、何を勞候けるやらん。意趣を存候にこそ。昔宗清が許に候ひしに、事に觸て有がたうわたり候し事今に忘れ候はねば、定めて御供に罷下候はむずらん。疾く見參せばやなど戀しう存て候に、恨めしうも下候はぬ者哉。」とて、下文あまた成設け、馬鞍物具以下樣々の物ども給ばんとせられければ、然るべき大名ども、我も我もと引出物ども用意したりけるに、下らざりければ、上下本意なき事に思ひてぞ有ける。 六月九日、池大納言關東より上洛し給ふ。兵衞佐「暫くかくておはしませかし。」と申されけれども「都に覺束なく思ふらん。」とて、急ぎ上り給へば、庄園私領、一所も相違有べからず、竝に大納言に成し返さるべき由、法皇へ申されけり。鞍置馬三十疋、裸馬三十疋、長持三十枝に、羽、金、染物、卷絹風情の物を入て奉り給ふ。兵衞佐か樣に持成給へば、大名小名我も/\と引出物を奉る。馬だにも三百疋に及べり。命生給ふのみならず、徳付てぞ歸上られける。 同十八日、肥後守定能が伯父、平田入道定次を大將として、伊賀伊勢兩國の住人等、近江國へ打出たりければ、源氏末葉等發向して、合戰を致す。兩國の住人等、一人も殘らず打落さ る。平家重代相傳の家人にて、昔のよしみを忘ぬ事は哀なれども、思たつこそおほけなけれ。三日平氏とは是也。 さる程に、小松三位中將維盛卿の北方は、風のたよりの事つても、斷て久しく成ければ、「何と成ぬる事やらむ。」と心苦しうぞ思はれける。「月に一度などは必音信るゝ物を。」と待給へども、春過ぎ夏もたけぬ。「三位中將今は八島にもおはせぬものを。」と申す人ありと聞き給ひて、餘りの覺束なさに、とかくして八島へ人を奉り給ひたりければ、いそぎも立歸らず、夏過秋にもなりぬ。七月の末に彼使歸り來れり。北方、「さて如何にや/\。」と問給へば、「過にし三月十五日の曉八島を御出候て、高野へ參せ給ひて候けるが、高野にて御ぐしおろし、それより熊野へ參らせおはします。後世の事をよく/\申させ候ひ、那智の奧にて、御身を投させ給ひて候とこそ、御供申たりける舍人武里は語り申つれ。」と申ければ、北方、「さればこそ怪しと思ひつるものを。」とて引かついでぞ伏給。若君姫君も、聲々に泣き悲み給ひけり。若君の御乳母の女房、泣々申けるは、「是は今更驚かせ給ふべからず。日來より思食し設けたる御事也。本三位中將殿の樣に、生捕にせられて、都へかへらせ給ひたらば、如何ばかり心憂かるべきに、高野にて御ぐしおろし熊野へ參らせ給ひ、後世の事よく/\申させおはしまし、臨終正念にて失せさせ給ひける御事、歎の中の御悦也。されば御心安き事にこそ思しめすべけれ。いまは如何なる岩木の間にても少なき人々を生し立まゐらせんと思食せ。」とやう/\になぐさめ申けれども、思召しのびてながらふべしとも見え給はず。軈て樣を替へ、かたの 如くの佛事をいとなみ後世をぞ弔ひける。 -------------------------------------------------------------------------------- 藤戸 是を鎌倉兵衞佐返り聞給ひて、「あはれ隔なう打向ておはしたらば、命ばかりは助奉てまし。小松内府の事は愚に思ひ奉らず。其故は、故池の禪尼の使として、頼朝を流罪に申宥られしは、偏に彼内府の芳恩也。其恩爭か忘るべきなれば、子息達は疎に思はず。まして出家などせられなん上は仔細にや及べき。」とぞ宣ひける。 さる程に、平家は讃岐の八島へ歸り給ひて後、「東國より荒手の軍兵數萬騎都に著て、攻下。」とも聞ゆ。「鎭西より、臼杵、戸次、松浦黨、同心して押渡る。」とも申あへり。彼を聞き、是を聞くにも、唯耳を驚し、肝魂を消より外の事ぞなき。今度一谷にて、一門の人々のこりすくなく討たれ給ひ、むねとの侍共半過ぎて滅ぬ。今は力盡果てて、阿波民部大夫重能が兄弟、四國の者共語ひて、「さりとも。」と申けるをぞ、高き山深き海とも頼み給ひける。女房達はさしつどひて只泣より外の事ぞなき。かくて七月二十五日にも成ぬ。「去年の今日は都を出しぞかし、程なく廻り來にけり。」とて淺ましうあわたゞしかりし事共宣ひ出して泣ぬ笑ひぬぞし給ひける。 同二十八日、新帝の御即位あり。内侍所神璽寶劔もなくして、御即位の例、神武天皇より以降八十二代、是始とぞ承る。八月六日、除目おこなはれて蒲冠者範頼、參河守に成る。九郎 冠者義經、左衞門尉に成さる。則使の宣旨を蒙て、九郎判官とぞ申ける。 去程に荻の上風もやう/\身にしみ、萩の下露もいよ/\滋く、恨る蟲の聲々に稻葉打そよぎ、木葉かつ散る氣色物思はざらむだにも深行く秋の旅の空は悲かるべし。まして平家の人々の心の中さこそはおはしけめと推量れてあはれ也。昔は九重の上にて、春の花を玩び、今は八島の浦にして、秋の月に悲む。凡さやけき月を詠じても、都の今夜如何なるらむと想像り、心を澄し涙を流してぞ明し暮し給ひける。左馬頭行盛かうぞ思ひつゞけ給ふ。 君すめばこれも雲井の月なれど、猶こひしきは都なりけり。 同九月十二日、參河守範頼、平家追討の爲にとて、西國へ發向す。相伴ふ人々、足利藏人義兼、加賀美小次郎長清、北條小四郎義時、齋院次官親義、侍大將には、土肥次郎實平、子息彌太郎遠平、三浦介義澄、子息平六義村、畠山庄司次郎重忠、同長野三郎重清、稻毛三郎重成、榛谷四郎重朝、同五郎行重、小山小四郎朝政、同長沼五郎宗政、土屋三郎宗遠、佐々木三郎盛綱、八田四郎武者朝家、安西三郎秋益、大胡三郎實秀、天野藤内遠景、比氣藤内朝宗、同藤四郎義員、中條藤次家長、一品房章玄、土佐坊正俊、此等を初として、都合其勢三萬餘騎、都を立て播磨の室にぞ著にける。 平家の方には大將軍小松新三位中將資盛、同少將有盛、丹後侍從忠房、侍大將には飛騨三郎左衞門景經、越中次郎兵衞盛次、上總五郎兵衞忠光、惡七兵衞景清を先として、五百餘艘の兵船に取乘て、備前の小島に著と聞えしかば、源氏室を立て、是も備前國、西河尻、藤戸に 陣をぞ取たりける。 源平の陣の交ひ、海の面五町計を隔たり。舟無くしては輙う渡すべき樣無かりければ、源氏の大勢向の山に宿していたづらに日數を送る。平家の方よりはやりをの若者共小舟に乘て漕ぎいださせ、扇を上て、「こゝ渡せ。」とぞ招きける。源氏「安からぬ事也。如何せん。」と云ふ處に、同廿五日の夜に入て佐々木三郎盛綱浦の男を一人語て、白い小袖、大口、白鞘卷など取せ、すかしおほせて、「此海に馬にて渡しぬべき所やある。」と問ひければ、男申けるは、「浦の者共多う候へども、案内知たるは稀に候。此男こそよく存知して候へ。譬へば川の瀬の樣なる所の候が、月頭には東に候、月尻には西に候。兩方の瀬の交、海の面、十町計は候らん。此瀬は御馬にては、輙う渡させ給ふべし。」と申ければ、佐々木斜ならず悦で我が家子郎等にも知せず、彼男と只二人紛れ出て、裸になり、件の瀬の樣なる所を渡て見るに、げにも痛く深うはなかりけり。ひざ腰肩にたつ所も有り、鬢の濡る所も有り。深き所は游いで、淺き所に游ぎつく。男申けるは、「是より南は、北より遙に淺う候。敵矢先を汰へて、待ところに、裸にては叶はせ給ふまじ。是より歸らせ給へ。」と申ければ、佐々木「げにも。」とて歸りけるが、「下臈は、どこともなき者なれば、又人に語はれて、案内をも教へむずらん、我計こそ知らめ。」と思ひて、彼男を刺殺し、首掻切て棄てけり。 同二十六日の辰刻ばかり、平家又小船に乘て漕出させ扇を上て「源氏爰を渡せ。」とぞ招きける。佐々木案内はかねて知たり。滋目結の直垂に黒絲威の鎧著て、白蘆毛なる馬に乘り、家 子郎等七騎颯と打入て渡しけり。大將軍參河守、「あれ制せよ、留めよ。」と宣へば、土肥次郎實平、鞭鐙を合せて追付て、「如何に佐々木殿、物の著て狂ひ給ふか。大將軍の許されもなきに、狼藉也留まり給へ。」といひけれども、耳にも聞入れず、渡しければ、土肥次郎も制しかねて、やがて連てぞ渡しける。馬のくさわき胸懸づくし、太腹につく所も有り、鞍壺越す所も有り、深き所は游がせ淺き所に打あがる。大將軍參河守是を見て、「佐々木に謀られにけり。あさかりけるぞや。渡せや、渡せ。」と下知せられければ、三萬餘騎の大勢皆打入て渡しけり。平家の方には「あはや。」とて、船共押浮べ矢先を汰て、指詰引詰散々に射る。源氏の兵共、是を事共せず、甲のしころを傾け、平家の舟に乘移り/\をめき叫んで責戰ふ。源平亂れ合ひ、或は舟踏みしづめて死ぬる者もあり。或は引返されて遽ふためく者もあり。一日戰暮して夜に入ければ、平家の舟は沖に浮ぶ。源氏は小島に打上て、人馬の息をぞ休めける。あけければ平家は八島へ漕退く。源氏は心は猛う思へども、舟なければ、追て責め戰はず。「昔より今にいたるまで馬にて河を渡す兵はありといへども、馬にて海を渡す事、天竺震旦は知らず我朝には稀代のためし也。」とて、備前の小島をぞ佐々木に給はりける鎌倉殿の御教書にも載られたり。 -------------------------------------------------------------------------------- 大嘗會沙汰 同二十七日、都には九郎判官義經、檢非違使五位尉になされて、九郎大夫判官とぞ申ける。 さる程に十月にも成ぬ。八島には浦吹く風も烈しく、磯打つ波も高かりければ、兵も攻來らず、商客の行通ふも稀なれば、都の傳も聞まほしく、何しか空かき曇り、霰打散り、いとゞ消入る心地ぞし給ひける。都には大嘗會あるべしとて御禊の行幸有けり。内辨は徳大寺左大將實定公、其比内大臣にておはしけるが勤められけり。おとゝし先帝の御禊の行幸には、平家の内大臣宗盛公、節下にておはせしが節下の幄屋につき、前に龍の旗立て居給ひたりし景氣、冠際、袖のかゝり、表袴のすそ迄も、殊に勝れて見え給へり。其外一門の人々三位中將知盛、頭中將重衡以下近衞司、御綱に候はれしには、又立竝ぶ人も無しぞかし。今日は九郎判官義經、先陣に供奉す。木曾などには似ず、京慣てはありしか共、平家の中のえりくづよりも猶劣れり。 同十一月十八日大嘗會遂行はる。去ぬる治承養和の比より、諸國七道の人民百姓等、源氏の爲に惱され平家の爲に亡され、家かまどを棄て山林にまじはり、春は東作の思を忘れ、秋は西收の營にも及ばず。如何にしてか樣の大禮も行はるべきなれ共、さてしもあるべき事ならねば、形の如くぞ遂られける。 參河守範頼、やがて續いて責給はゞ、平家は亡べかりしに、室、高砂に休居て、遊君遊女共召聚め、遊び戯れてのみ月日を送られけり。東國の大名小名多しといへども、大將軍の下知に從ふ事なれば力及ばず。唯國の費え民の煩のみ有て、今年も既に暮にけり。 -------------------------------------------------------------------------------- 平家物語卷第十一 逆櫓 元歴二年正月十日、九郎大夫判官義經院御所へ參て、大藏卿泰經朝臣を以て奏聞せられけるは、「平家は神明にも放たれ奉り、君にもすてられ參せて、帝都を出で波の上に漂ふ落人となれり。然るを此三箇年が間、責落さずして多くの國々を塞げらるゝ事口惜候へば、今度義經に於ては鬼界、高麗、天竺、震旦までも平家を責落ざらん限りは王城へ歸るべからず。」と憑し氣に申されければ、法皇大きに御感有て、「相構へて夜を日に繼いで、勝負を決すべし。」と仰下さる。判官宿所に歸て東國の軍兵どもに宣ひけるは、「義經鎌倉殿の御代官として院宣を承はて、平家を追討すべし。陸は駒の足の及ばむを限り、海は櫓櫂の屆がん程責行べし。少しもふた心あらむ人々は、とう/\これより歸らるべし。」とぞ宣ける。 さる程に八島には、隙ゆく駒の足疾くして、正月も立ち二月にも成りぬ。春の草暮て、秋の風に驚き、秋の風やんで、春の草になれり。送り迎へて、既に三年に成にけり。「都には東國より荒手の軍兵、數萬騎著て責下る。」とも聞ゆ。「鎭西より、臼杵、戸次、松浦黨同心して、押渡る。」とも申あへり。彼れを聞き是れをきくにも、唯耳を驚し、肝魂を消より外の事ぞ なき。女房達は女院、二位殿をはじめまゐらせて差つどひて、「又如何なる浮目をか見んずらん。如何なる憂事をか聞かんずらん。」と歎きあひ悲みあへり。新中納言知盛卿宣ひけるは、「東國北國の者共も隨分重恩を蒙たりしかども、恩を忘れ、契を變じて、頼朝、義仲等に隨ひき。まして西國とてもさこそはあらむずらめと思ひしかば、都にて、いかんにもならんと思ひし者を。我身一つの事ならねば、心弱うあくがれ出でて、今日はかゝるうき目を見る口惜さよ。」とぞ宣ひける。誠に理と覺て哀なり。 同二月三日九郎大夫判官義經、都を立て、攝津國渡邊より舟ぞろへして、八島へ既に寄んとす。參河守範頼も同日に都を立て、攝津國神崎より兵船を汰へて、山陽道へ趣かんとす。 同十三日伊勢大神宮、石清水、賀茂、春日へ官幣使を立らる。「主上竝に三種の神器事故なう返入れさせ給へ。」と神祇官の官人、諸々の社司、本宮本社にて祈誓申すべき由仰下さる。 同十六日渡邊、神崎、兩所にて此日ごろ汰ける船ども、纜既に解んとす。折節北風木を折て烈う吹ければ、大浪に船共散々に打損ぜられて、出すに及ばず。修理の爲に、其日は留る。渡邊には大名小名寄合ひて、「抑船軍の樣は未調練せず、如何あるべき。」と評定す。梶原申けるは、「今度の合戰には船に逆櫓を立候はばや。」判官、「逆櫓とはなんぞ。」梶原、「馬は駈んと思へば、弓手へも馬手へも廻し易し。船はきと推もどすが大事候、艫舳に櫓を立違へ、わい楫を入て、どなたへも安う推す樣にし候ばや。」と申ければ、判官宣ひけるは、「軍と云者は一引も引じと思ふだにもあはひ惡ければ、引は常の習なり。本より逃まうけしてはなんのよかる べきぞ。先づ門出の惡さよ。逆櫓を立うとも返樣櫓を立うとも、殿原の舟には百丁千丁も立給へ。義經は本の櫓で候はん。」と宣へば、梶原申けるは、「好き大將軍と申は、駈べき所をかけ、引くべき所を引いて、身を全し敵を亡すを以て、よき大將軍とはする候。片趣なるをば、猪武者とて、好きにはせず。」と申せば、判官、「猪鹿は知らず、軍は唯平攻に攻て、勝たるぞ心ちはよき。」と宣へば、侍共梶原に恐れて高くは笑はねども、目引き鼻引きさゞめきあへり。判官と梶原と、已にどし軍あるべしとさざめきあへり。 漸々日暮れ夜に入ければ、判官宣ひけるは、「船の修理して新しうなたるに、各一種一瓶して祝給へ殿原。」とて、營む樣で船に物具いれ兵粮米積、馬共立させて、「疾々仕れ。」と宣ひければ、水主梶取申けるは、「此風は追手にて候へども、普通に過たる風で候。沖はさぞ吹候らん。爭か仕候べき。」と申せば、判官大に怒て宣ひけるは、「野山の末にてし、海河のそこにおぼれてうするも皆これせんぜの宿業也。海上にいで浮うだる時風強きとていかゞする。向ひ風に渡らんと言ばこそ、僻事ならめ。順風なるが、少し過たればとて、是程の御大事に、爭か渡らじとは申ぞ。船仕らずば一々にしやつ原射殺せ。」と下知せらる。奧州の佐藤三郎兵衞嗣信、伊勢三郎義盛、片手矢はげ進み出で、「何條子細を申ぞ。御定であるに、とく/\つかまつれ。舟仕つらずば一々に射殺さんずるぞ。」といひければ、水主梶取是を聞て、「射殺れんも同事、風強くば、只馳死に死ねや者共。」とて、二百餘艘の舟の中に、唯五艘出てぞ走りける。殘の船は風に恐るるか梶原に怖かして、皆留まりぬ。判官宣ひけるは、「人の出ねばとて留ま るべきにあらず、唯の時は敵も用心すらむ。かゝる大風大波に思も寄らぬ時におしよせてこそ思ふ敵を討ずれ。」とぞ宣ひける。五艘の船と申すは、先づ判官の船、田代の冠者、後藤兵衞父子、金子兄弟、淀江内忠俊とて、船奉行の乘たる船なり。判官宣ひけるは、「各の船に篝な燃そ。義經が船を本船として、艫舳の篝を守れや。火數多く見えば、敵も恐れて用心してんず。」とて終夜走る程に、三日に渡る所を、唯三時計に渡りけり。二月十六日の丑刻に、渡邊福島を出て、明る卯の時に、阿波の地へこそ吹著たれ。 -------------------------------------------------------------------------------- 付大坂越">勝浦付大坂越 夜既に明ければ、なぎさに赤旗少々閃いたり。判官、是を見て、「あはや我等が祝設けはしたりけるは。舟平付につけ、踏傾けて馬下さんとせば、敵の的に成て射られなんず。なぎさにつかぬ先に馬ども追下/\船に引つけ/\游せよ。馬の足立、鞍爪ひたるほどに成ばひたひたと乘て、駈よ者共。」とぞ下知せられける。五艘の船に、物具入、兵粮米積んだりければ、馬唯五十餘疋ぞ立たりける。なぎさ近くなりしかば、ひた/\と打乘て、喚てかくれば、渚に百騎許有ける者共、暫もこらへず、二町計颯と引てぞのきにける。判官汀に打立て、馬の息休めておはしけるが、伊勢三郎義盛をめして、「あの勢の中に、然るべい者やある。一人召て參れ。尋ぬべき事あり。」と宣へば、義盛畏て承り、唯一騎かたきの中へ馳入り何とかいひたりけん、年四十計なる男の、黒皮威の鎧著たるを、甲を脱せ、弓の弦弛せて、具して參 りたり。判官、「何者ぞ。」と宣へば、「當國の住人坂西の近藤六親家」と申す。「何家にてもあらばあれ、物具な脱せそ。やがて八島の案内者に具せんずるぞ。其男に目放つな。迯て行かば射殺せ、者共。」とぞ下知せられける。「爰をば何くといふぞ。」と問はれければ「かつ浦と申候。」判官笑て、「色代な。」と宣へば、「一定かつ浦候。下臈の申やすいに付て、かつらとは申候へども、文字には勝浦と書て候。」と申す。判官、「是聞給へ、殿原。軍しに向ふ義經が、勝浦に著く目出度さよ。此邊に、平家の後矢射つべい者はないか。」「阿波民部重能が弟、櫻間介能遠とて候。」「いざさらば蹴散して通らん。」とて、近藤六が勢百騎許が中より、三十騎許すぐり出いて我勢にぞ具せられける。能遠が城に押寄て見れば、三方は沼、一方は堀。堀の方より押寄て、閧をどと作る。城の中の兵共、矢先をそろへて指つめ引つめ散々に射る。源氏の兵是を事ともせず。甲の錣を傾けをめきさけんで責入りければ、櫻間介叶はじとや思ひけむ。家子郎等に防矢射させ、我身は究竟の馬を持たりければ、打乘て稀有にして落にけり。判官防矢射ける兵共二十餘人が頸切懸て軍神に祭り、悦の鬨を作り、「門出よし。」とぞ宣ひける。判官近藤六親家を召て、「八島には平家の勢如何程有ぞ。」「千騎にはよも過候はじ。」「など少いぞ。」「かくのごとく四國の浦々島々に五十騎百騎づつ指置れて候。其上阿波民部重能が嫡子、田内左衞門教能は、河野四郎が、召せども參ぬを責めんとて、三千餘騎で伊豫へ越えて候。」「さてはよい隙ごさんなれ。是より八島へはいか程の道ぞ。」「二日路で候。」「さらば敵の聞ぬ先に寄よや。」とてかけ足に成つゝ、歩せつ、馳つ、引へつ、阿波と讃岐との境なる大坂越と いふ山を終夜こそ越られけれ。 夜半許に、立文持たる男に行連て物語し給。此男夜の事ではあり、敵とは夢にも知らず。御方の兵共の八島へ參ると思ひけるやらん。打解て細々と物語をぞしける。「其文はいづくぞ。」「八島の大臣殿へ參り候。」「誰かまゐらせらるゝぞ。」「京より女房の參らせられ候。」「何事なるらん。」と宣へば、「別の事はよも候はじ。源氏既に淀河尻に出向うて候へば、それをこそ告げ申され候らめ。」「げにさぞ有らん。是も八島へ參るが、いまだ案内を知らぬに、じんじよせよ。」と宣へば、「是は度々參て候間、案内は存知して候。御供つかまつらん。」と申せば判官、「其文取れ。」とて、文ばいとらせ「しやつからめよ。罪作に頸なきそ。」とて、山中の木に縛附てぞ通られける。さて文を明て見給へば、げにも女房の文とおぼしくて、「九郎はすゝどき男士にて侍ふなれば、大風大波をも嫌はず寄せ侍らんと覺えさぶらふ。御勢ども散さで用心せさせ給へ。」とぞ書かれたる。判官、「是は義經に天の與へ給ふ文也。鎌倉殿に見せ申さん。」とて深う納て置れけり。 明る十八日の寅刻に、讃岐國ひけ田と云ふ所に打下りて、人馬の息をぞ休めける。其より丹生屋、白鳥、打過/\、八島の城へ寄給ふ。又近藤六親家を召て、「八島の館の樣は、如何に。」と問ひ給へば、「知召されねばこそ候へ、無下に淺間に候。潮の干て候時は、陸と島との間は、馬の腹もつかり候はず。」と申せば、「さらばやがて寄よや。」とて、高松の在所に火を懸、八島の城へ寄せ給ふ。 八島には、阿波民部重能が嫡子、田内左衞門教能、河野四郎が、召せども參らぬを責んとて、三千餘騎で伊豫へ越えたりけるが河野をば討漏して家子郎等百五十餘人が首きて、八島の内裏へ參せたり。「内裏にて賊首の實檢せられん事然るべからず。」とて、大臣殿の宿所にて實檢せらる。百五十六人が首也。頸ども實檢しける處に、者共、「高松の方に火出來たり。」とてひしめきあへり。「晝で候へば手過ではよも候はじ。敵の寄せて火を懸たると覺候。定めて大勢でぞ候らん。取籠られては叶ふまじ。とく/\召され候へ。」とて、惣門の前のなぎさに船共つけならべたりければ、我も/\と乘給ふ。御所の御船には、女院北政所二位殿以下の女房達召されけり。大臣殿父子は、一つ船に乘給ふ。其外の人々思ひ/\に取乘て、或は一町許、或は七八段、五六段など漕出したる處に、源氏の兵共、直甲七八十騎、惣門の前のなぎさにつと出來たり。潮干がたの折節潮干る盛なれば、馬の烏頭、太腹に立つ所もあり。其より淺き所も有り。け上る潮の霞と共にしぐらうたる中より、白旗さと差上たれば、平家は運盡て、大勢とこそ見てんげれ。判官敵に小勢と見せじとて、五六騎七八騎十騎許、打群/\出來たり。 -------------------------------------------------------------------------------- 嗣信 最期 九郎大夫判官其日の裝束には、赤地の錦の直垂に、紫裾濃の鎧著て、金作の太刀を帶き、切斑の矢負ひ、滋籐の弓の眞中取て、船の方を睨へ、大音聲を上て、「一院の御使、檢非違使五 位尉源義經」と名乘る。其次に伊豆國住人田代冠者信綱、武藏國住人金子十郎家忠、同與一親範、伊勢三郎義盛とぞ名乘たる。續いて名乘るは、後藤兵衞實基、子息新兵衞基清、奧州佐藤三郎兵衞嗣信、同四郎兵衞忠信、江田源三、熊井太郎、武藏坊辨慶と聲々に名乘てはせ來る。平家の方には、「あれ射取れや。」とて、或は遠矢に射る船も有り、或は差矢に射船も有り。源氏の兵共、弓手になしては射て通り、馬手になしては射て通り、上げ置いたる船の陰を、馬休め所にして、 [1]をめき叫んて責戰ふ。 後藤兵衞實基は、古兵にて有ければ、軍をばせず、先内裏に亂入、手々に火を放て、片時の煙と燒拂ふ。大臣殿、侍どもを召て、「抑源氏が勢如何程あるぞ。」「當時僅に七八十騎こそ候らめ。」と申。「あな心憂や。髮の筋を一筋づゝ分けて取るとも、此勢には足まじかりけるものを。中に取籠討ずして、あわてゝ船に乘て、内裏を燒せつる事こそ安からね。能登殿はおはせぬか、陸へ上て一軍し給へ。」と宣へば、「承て候ぬ。」とて、越中次郎兵衞盛次を相具して小船に取乘て燒拂ひたる惣門のなぎさに陣を取る。判官八十餘騎、矢比に寄て引へたり。越中次郎兵衞盛次舟の面に立出で大音聲を揚て申けるは、「名乘れつるとは聞つれども、海上遙に隔たて其假名實名分明ならず。今日の源氏の大將軍は誰人でおはしますぞ。」伊勢三郎義盛歩ませ出て申けるは、「事も愚かや、清和天皇十代の御末、鎌倉殿の御弟九郎大夫判官殿ぞかし。」盛次、「さる事あり。一年平治の合戰に、父討れて孤にて有しが、鞍馬の兒にて、後には金商人の所從になり、粮料背負て奧州へ落惑ひし小冠者が事か。」とぞ申したる。義盛、「舌の やはらかなる儘に、君の御事な申そ。さいふわ人どもは、砥浪山の軍に追落されて辛き命生て、北陸道にさまよひ、乞食して泣/\京へ上りたりし者か。」とぞ申ける。盛次重て申けるは、「君の御恩に飽滿て、何んの不足にてか、乞食をばすべき。さ言ふわどのこそ、伊勢の鈴鹿山にて山だちして、妻子をも養ひ、我身も過けるとは聞しか。」といひければ、金子十郎家忠「無益の殿原の雜言かな。我も人も虚言いひつけて雜言せんには誰か劣るべき。去年の春、一谷にて、武藏相模の若殿原の手なみの程は見てん物を。」と申所に弟の與一傍に有けるが、言せも果ず、十二束二ぶせよひいてひやうと放つ。盛次が鎧の胸板に、裏掻く程にぞ立たりける。其後は互に詞戰はとまりにけり。 能登守教經「船軍はやうある物ぞ。」とて鎧直垂は著給はず、唐卷染の小袖に、唐綾威の鎧著て、いか物作の大太刀帶き、二十四差たるたかうすべうの矢負ひ、滋籐の弓を持給へり。王城一の強弓精兵にておはせしかば、矢先に廻る者、射透さずと云ふ事なし。中にも九郎大夫判官を射倒さむとねらはれけれども、源氏の方にも心得て、奧州の佐藤三郎兵衞嗣信、同四郎兵衞忠信、伊勢三郎義盛、源八廣綱、江田源三、熊井太郎、武藏坊辨慶など云ふ一人當千の兵共、吾も吾もと馬の首を立竝て大將軍の矢面に塞りければ、力及び給はず。「矢面の雜人原そこのき給へ。」とて、差詰引詰散々に射給へば、矢場に鎧武者十餘騎計射落さる。中にも眞先に進んだる奧州の佐藤三郎兵衞が弓手の肩を馬手の脇へつと射拔れて、暫もたまらず、馬より、倒にどうと落つ。能登殿の童に、菊王と云ふ大力の剛の者あり、萌黄威の腹卷に、 三枚甲の緒をしめて、白柄の長刀の鞘を外し、三郎兵衞が首を取らんと、走りかゝる。佐藤四郎兵衞兄が頸を取せじと、よ引てひやうと射る。童が腹卷の引合せをあなたへつと射ぬかれて、犬居に倒れぬ。能登守是を見て、急て舟より飛んで下り、左の手に弓を持ながら、右の手で菊王丸を提て、船へからりと投られたれば、敵に頸は取られねども、痛手なれば死にけり。是は、本は越前の三位の童なりしが、三位討たれて後、弟の能登守に仕はれけり。生年十八歳にぞなりける。此童を討せて、餘に哀に思はれければ、其後は軍もし給はず。 判官は佐藤三郎兵衞を陣の後へ舁入れさせ、馬より下り、手をとらへて、「三郎兵衞如何覺ゆる。」と宣へば、息の下に申けるは、「今はかうと存じ候。」「思置事はなきか。」と宣へば、「何事をか思置候べき。君の御世に渡らせ給はんを見參せで、死に候はん事こそ口惜う覺候へ。さ候はでは、弓箭取ものの、敵の矢にあたり死なん事、本より期する所で候也。就中に源平の御合戰に、奧州の佐藤三郎兵衞嗣信と云ける者、讃岐國八島の磯にて、主の御命に替り奉て討れけりと、末代の物語に申さん事こそ弓矢取る身は今生の面目、冥途の思出にて候へ。」と申もあへず、唯弱りに弱りにければ、判官涙をはら/\と流し、「此邊に貴き僧やある。」とて、尋出し、「手負の唯今落入に、一日經書て弔へ。」とて、黒き馬の太う逞いに、金覆輪の鞍置て、彼僧に給にけり。判官五位尉になられし時、五位になして、大夫黒と呼れし馬也。一谷の鵯越をも此馬にてぞ落れたりける。弟の四郎兵衞を始として、是を見る兵共、皆涙をながし、「此君の御爲に命を失はん事、全く露塵程も、惜からず。」とぞ申ける。 [1] Nihon Koten Bungaku Taikei (Tokyo: Iwanami Shoten, 1957, vol. 33; hereafter cited as NKBT) reads をめきさけんでせめたゝかふ。. -------------------------------------------------------------------------------- 那須與一 さる程に、阿波讃岐に平家を背て、源氏を待ける者共、あそこの嶺、こゝの洞より、十四五騎廿騎、うちつれ/\參りければ、判官程なく三百餘騎にぞ成にける。「今日は日暮ぬ、勝負を決すべからず。」とて、引退く處に、沖の方より尋常に飾たる小船一艘、汀へ向ひて漕よせけり。磯へ七八段ばかりに成しかば、船を横樣になす。あれは如何にと見る程に、船の中より、年の齡十八九ばかりなる女房の誠に優に美しきが、柳の五衣に、紅の袴著て皆紅の扇の日出したるを、船のせがひに挾み立て、陸へ向てぞ招いたる。判官後藤兵衞實基を召て、「あれは如何に。」と宣へば、「射よとにこそ候めれ。但し大將軍の矢面に進んで、傾城を御覽ぜば手だれにねらうて、射落せとの計ごとと覺え候。左も候へ。扇をば射させらるべうや候らん。」と申。「射つべき仁は御方に誰かある。」と宣へば、「上手ども幾等も候中に、下野國の十人、那須太郎資高が子に與一宗高こそ、小兵で候へども、手ききて候へ。」「證據はいかに。」と宣へば、「かけ鳥などを爭うて、三に二は必射落す者で候。」「さらば召せ。」とて召されたり。與一其比は二十許の男士也。かちに赤地の錦を以て、おほくびはた袖色へたる直垂に、萌黄威の鎧著て、足白の太刀を帶き、切斑の矢の其日の軍に射て少々殘たりけるを首高に負ひ成し薄切斑に鷹の羽作交たるぬた目の鏑をぞ指副たる。滋籐の弓脇に挾み、甲をば脱ぎ高紐に懸け、判官の前に畏る。「如何に宗高、あの扇の眞中射て平家に見物せさせよかし。」與一畏て申ける は、「射おほせ候はん事不定に候。射損じ候なば、ながき御方の御瑕にて候べし。一定仕らんずる仁に仰附らるべうや候らん。」と申。判官大に怒て、「鎌倉を立て、西國へ趣かん殿原は、義經が命を背べからず。少も仔細を存ぜん人は、とう/\是より歸るべし」とぞ宣ひける。與一重て辭せば惡かりなんとや思ひけん、「外づれんは知候はず、御諚で候へば仕てこそ見候はめ。」とて、御前を罷立、黒き馬の太う逞に、小房の鞦かけ、まろほや摺たる鞍置てぞ乘たりける。弓取直し、手綱かいくり、汀へ向いて歩ませければ、御方の兵共後を遙に見送て、「此若者一定仕り候ぬと覺候。」と申ければ、判官も憑し氣にぞ見給ひける。矢比少し遠かりければ、海へ一段ばかり打入たれども、猶扇の交ひ、七段ばかりは有るらんとこそ見えたりけれ。比は二月十八日の酉の刻ばかりの事なるに、折節北風烈くて、磯打浪も高かりけり。船はゆりあげゆり居ゑたゞよへば、扇も串に定らずひらめいたり。沖には平家船を一面に竝べて見物す。陸には源氏轡を竝べて、是を見る。何れも/\晴ならずと云ふ事ぞなき。與一目を塞いで、「南無八幡大菩薩、別しては我國の神明、日光權現宇都宮、那須湯泉大明神、願は、あの扇の眞中射させて給せ給へ。是を射損ずる物ならば、弓伐折自害して、人に二度面を向ふべからず。今一度本國へむかへんと思召さば、此矢はづさせ給ふな。」と、心の中に祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹弱り、扇もいよげにぞ成たりける。與一鏑を取て番ひ、よ引いてひやうと放つ。小兵と云ふぢやう十二束三伏、弓は強し、浦響く程長鳴して、あやまたず扇の要際一寸許置いて、ひふつとぞ射切たる。鏑は海へ入ければ、扇は空へぞ擧 りける。暫は虚空に閃めきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさとぞ散たりける。夕日の輝いたるに皆紅の扇の日出したるが白波の上に漂ひ、浮ぬ沈ぬゆられければ、沖には平家ふなばたを扣て感じたり。陸には源氏箙を扣てどよめきけり。 -------------------------------------------------------------------------------- 弓流 餘りの面白さに、感に堪ざるにやと覺しくて船の中より、年五十許なる男の、黒革威の鎧著て白柄の長刀持たるが、扇立たりける所に立てまひすましたり。伊勢三郎義盛、與一が後へ歩せ寄て、「御諚ぞ、仕れ。」と云ひければ、今度は中差取て打くはせ、よ引いてしや頸の骨をひやうふつと射て船底へまさかさまに射倒す。平家の方には音もせず、源氏の方には又箙を扣いて、どよめきけり。「あ射たり。」といふ人も有り、又「情なし。」と云ふ者もあり。平家是を本意なしとや思ひけん、楯ついて一人、弓持て一人、長刀持て一人、武者三人なぎさにあがり、楯を衝て「敵寄せよ。」とぞ招いたる。判官、「あれ、馬強ならん若黨共、馳寄せて蹴散せ。」と宣へば、武藏國の住人、三穗屋四郎、同藤七、同十郎、上野國の住人、丹生の四郎、信濃國の住人、木曾の中次、五騎つれて、をめいて駈く。楯の影より、塗箆に、黒ほろ作だる大の矢をもて、眞先に進だる三穗屋の十郎が馬の左の 胸懸づくしを、ひやうづばと射て筈の隱る程ぞ、射籠だる。屏風を返す樣に、馬はどうと倒るれば、主は馬手の足をこえ弓手の方へ下立て、軈て太刀をぞ拔だりける。楯の陰より、大長刀打振て懸りければ、三穗屋の十郎、 小太刀大長刀に叶はじとや思けむ、かいふいて迯ければ、軈て續て追懸たり。長刀でながんずるかと見る處に、さはなくして、長刀をば左の脇にかい挾み、右の手を差延て、三穗屋十郎が甲のしころをつかまむとす。つかまれじとはしる。三度つかみはづいて、四度の度むずとつかむ。暫したまて見えし。鉢附の板より、ふつと引切てぞ迯たりける。殘四騎は、馬を惜うでかけず、見物してこそ居たりけれ。三穗屋十郎は、御方の馬の陰に逃入て、息續居たり。敵は追ても來で長刀杖につき、甲のしころを指上げ、大音聲を上て、「日比は音にも聞つらん。今は目にも見給へ。是こそ京童部の喚なる上總惡七兵衞景清よ。」と名乘棄てぞ歸りける。 平家是に心地なほして、「惡七兵衞討すな。續けや者共。」とて又二百餘人なぎさに上り、楯を雌羽につき竝べて「敵寄よ。」とぞ招いたる。判官是を見て「安からぬ事なり。」とて、後藤兵衞父子、金子兄弟を先に立て、奧州の佐藤四郎兵衞、伊勢三郎を弓手馬手に立、田代冠者を後に立てゝ、八十餘騎をめいてかけ給へば、平家の兵ども、馬には乘らず、大略歩武者にてありければ、馬に當られじと引退いて、皆船へぞ乘りにける。楯は算を散したる樣に、散散に蹴散さる。源氏の兵共勝に乘て、馬の太腹ひたる程に、打入々々責戰ふ。判官深入して戰ふ程に船の中より熊手を持て、判官の甲の錣に、からり/\と二三度迄打懸けるを、御方の兵共、太刀長刀で打のけ/\しける程に、如何したりけん、判官弓をかけ落されぬ。うつぶして鞭をもて掻寄て、取う/\とし給へば、兵共、「唯捨させ給へ。」と申けれども、終に取 て、笑うてぞ歸られける。おとな共、爪彈をして、「口惜き御事候かな。縱千疋萬疋に替させ給べき御寶なりとも、爭か御命に替させ給ふべき。」と申せば、判官、「弓の惜さに取らばこそ。義經が弓といはゞ、二人しても張り、若は三人しても張り、伯父の爲朝が弓の樣ならば、態も落して取すべし。 わう弱たる弓を、敵取持て、『是こそ源氏の大將九郎義經が弓よ。』とて嘲哢せんずるが口惜ければ、命に代て取るぞや。」と宣へば、皆人是をぞ感じける。 さる程に日暮ければ、平家の船は沖に浮めば源氏は陸に引退いて、むれ高松の中なる野山に、陣をぞ取たりける。源氏の兵共、此三日が間は臥ざりけり。一昨日渡邊福島を出づるとて、其夜大浪にゆられて目睡まず、昨日阿波國勝浦にて軍して終夜中山越え、今日又一日戰くらしたりければ、皆疲果てゝ或は甲を枕にし、或は鎧の袖、箙など枕にして、前後も知らず臥たりけり。其中に、判官と伊勢三郎は寢ざりけり。判官は高き所に登上て、敵や寄ると遠見し給へば、伊勢三郎はくぼき所に隱れ居て、敵寄せば、先づ馬の太腹射んとて待懸たり。平家の方には、能登守を大將にて、其勢五百餘騎夜討にせんと支度しけれども、越中次郎兵衞盛次と、海老次郎守方と先陣を爭ふ程に、其夜も空しくあけにけり。夜討にだにもしたらば源氏なじかはたまるべき。寄せざりけるこそ、責ての運の究めなれ。 -------------------------------------------------------------------------------- 志度合戰 明ければ、平家舟に取乘て當國志度浦へ漕退く。判官三百餘騎が中より馬や人をすぐて八十 餘騎、追てぞかゝりける。平家是を見て、「敵は小勢なり。中に取籠て討や。」とて、又千餘人なぎさに上りをめき叫で責戰ふ。さる程に、八島に殘留たる二百餘騎の兵共、後馳に馳來る。平家是を見て、「すはや源氏の大勢の續くは。何十萬騎か有るらん。取籠られては叶ふまじ。」とて又船に取乘て潮に引かれ風に隨て、何くを指共なく、落行ぬ。四國は皆大夫判官に追落されぬ、九國へは入られず、唯中有の衆生とぞ見えし。 判官志度浦に下居て、頸共實檢しておはしけるが、伊勢三郎義盛をめして、宣ひけるは、「阿波民部重能が嫡子、田内左衞門教能は河野四郎通信が、召せども參らぬを責んとて、三千餘騎にて、伊豫へ越えたりけるが、河野をば打泄して家子郎等百五十人が頸斬て昨日八島の内裏へ參せたりけるが、今日是へ著ときく。汝行向て、ともかくもこしらへて具して參れかし。」と宣へば、畏て承り、旗一流給はてさす儘に、其勢僅に十六騎、皆白裝束にて馳向ふ。義盛教能に行合たり。白旗赤旗、二町許を隔てゝゆらへたり。伊勢三郎義盛使者を立て申けるは「是は源氏の大將軍九郎大夫判官殿の御内に、伊勢三郎義盛と申者で候が、大將に申べき事有て、是まで罷向て候。軍合戰の料でも候はねば、物具もし候はず、弓矢ももたせ候はず、あけて入させ給へ。」と申ければ、三千餘騎の兵共、中を開てぞ通しける。義盛教能に打雙て、「且聞給ても有るらん、鎌倉殿の御弟九郎大夫判官殿院宣を承て、平家追討の爲に、西國へ向はせ給て候が、一昨日阿波國勝浦にて、御邊の伯父櫻間介殿討たれ給ぬ。昨日八島に寄せて御所内裏皆燒拂ひ、大臣殿父子生捕にし奉り能登殿は自害し給ひぬ。その外の君達或は討 死に或は海に入り給ひぬ。餘黨の僅に有つるは志度の浦にて、皆討たれぬ。御邊の父阿波民部殿は、降人に參せ給ひて候を、義盛が預り奉て候が、あはれ田内左衞門が是をば夢にも知らで、明日は軍して討れ參らせんずる無慚さよと、通夜歎き給ふが、餘に最愛て此事知らせ奉らんとて是まで罷向て候。其上は軍して討死せんとも降人に參て父を今一度見奉らんともともかうも御邊が計ぞ。」といひければ、田内左衞門、聞ゆる兵なれども運や盡にけん。「且聞く事に少も違ず。」とて、甲を脱弓の弦を弛いて、郎等にもたす。大將がか樣になる上は、三千餘騎の兵ども皆此の如し。僅に十六騎に具せられ、おめおめと降人にこそ參りけれ。「義盛が策誠にゆゝしかりけり。」と判官も感じ給ひけり。やがて田内左衞門をば物具めされて、伊勢三郎に預けらる。「さてあの勢共は如何に。」と宣へば、遠國の者共は、「誰を誰とか思ひ參せ候べき。唯世の亂れをしづめて國を知し召さんを君とせん。」と申ければ、尤然るべしとて、三千餘騎を、皆我勢にぞ具せられける。 同廿二日辰の刻ばかり渡邊に殘り留たる二百餘艘の船共、梶原を先として、八島の磯にぞ著にける。「四國は皆九郎大夫判官に攻め落されぬ。今は何の用にか逢べき。會に逢ぬ華、六日の菖蒲、いさかひ果てのちぎり哉。」とぞ笑ひける。 判官都を立給ひて後住吉の神主長盛、院の御所へ參て、大藏卿泰經朝臣を以て奏聞しけるは「去十六日の丑刻に當社第三の神殿より、鏑矢の聲出でて、西を指て罷候ぬ。」と申ければ、法皇大に御感有て、御劍已下種々の神寶を長盛して大明神へまゐらせらる。昔神功皇后、新 羅を責給ひし時、伊勢大神宮より、二神のあらみさきを差副させ給ひけり。二神御船の艫舳に立て、新羅を安く被責落ぬ。歸朝の後、一神は攝津國住吉の郡に留り給ふ。住吉大明神の御事也。今一神は信濃國諏訪の郡に跡を垂る。諏訪大明神是也。昔の征罰の事を、思食忘ず今も朝の怨敵を滅し給ふべきにやと、君も臣も憑もしうぞ思食されける。 -------------------------------------------------------------------------------- 鷄合 壇浦合戰 さる程に、九郎大夫判官義經周防の地に押渡て、兄の參河守と一に成る。平家は長門國ひく島にぞつきにける。源氏阿波國勝浦に著て八島の軍に打勝ぬ。平家引島に著と聞えしかば、源氏は同國の内、追津に著こそ不思議なれ。 熊野別當湛増は、平家重恩の身なりしが、忽に其恩を忘れて「平家へや參るべき、源氏へや參るべき。」とて、田邊の新熊野にて御神樂奏して、權現に祈誓し奉る。「唯白旗につけ。」と御託宣有けるを、猶疑なして白い鷄七、赤き鷄七、是を以て權現の御前にて勝負をせさす。赤き鷄一つも勝たず皆負てけり。さてこそ源氏へ參らんと思定めけれ。一門の者共相催し、都合其勢二千餘人、二百餘艘の船に乘り連て、若王子の御正體を船に乘參せ、旗の横上には、金剛童子を書奉て、壇浦へ寄するを見て、源氏も平家も共にをがむ。されども源氏の方へ附ければ、平家興覺てぞ思はれける。又伊豫國の住人、河野四郎通信、百五十艘の兵船に乘連て漕來り、源氏と一つに成にけり。判官旁憑しう力ついてぞ思はれける。源氏の船は三千 艘、平家の船は千餘艘、唐船少々相交れり。源氏の勢は重れば、平家の勢は落ぞ行く。 元歴二年三月廿四日卯刻に、豐前の國の門司赤間關にて、源平矢合とぞ定めける。其日判官と梶原と既に同志軍せんとする事あり。梶原、判官に申けるは「今日の先陣をば、景時にたび候へ。」判官、「義經がなくばこそ。」と宣へば、「大將軍にてこそ在々候へ。」と申ければ、判官、「思ひも寄らず、鎌倉殿こそ大將軍よ。義經は奉行を承たる身なれば、唯殿原と同事ぞ。」と宣へば。梶原、先陣を所望しかねて、「天性此殿は侍の主には成り難し。」とぞつぶやきける。判官、是を聞き「日本一の嗚呼の者哉。」とて、太刀の柄に手をかけ給ふ。梶原「鎌倉殿より外に主を持ぬ者を。」とて、是も太刀の柄に手を懸けり。さる程に嫡子の源太景季、次男平次景高、同三郎景家、父と一所に寄合うたり。判官の氣色を見て、奧州佐藤四郎兵衞忠信、伊勢三郎義盛、源八廣綱、江田源三、熊井太郎、武藏坊辨慶など云ふ一人當千の兵共、梶原を中に取籠て、我討とらんとぞ進ける。されども判官には三浦介取附き奉り、梶原には土肥次郎つかみつき、兩人手を摺て申けるは、「是程の大事を前にかゝへながら、同士軍候はゞ平家力附候なんず。就中、鎌倉殿の還り聞せ給はん處こそ穩便ならず候へ。」と申せば、判官靜まり給ひぬ。梶原進に及ばず。其よりして、梶原、判官を憎みそめて終に讒言して失ひけるとぞ、後には聞えし。 さる程に源平兩陣の交ひ海の面卅餘町をぞ隔たる。門司、赤間、壇の浦は、たぎりて落る潮なれば、源氏の船は潮に向うて心ならず押落さる。平家の船は潮に追てぞ出來たる。沖は潮 の早ければ、汀に附て、梶原敵の船の行違處に、熊手を打懸て、親子主從十四五人、乘り移り、打物拔で艫舳に散々にないでまはり、分捕數多して、其日の高名の一の筆にぞ附にける。既に、源平兩方陣を合て閧を作る。上は梵天迄も聞え、下は海龍神も驚らんとぞ覺ける。新中納言知盛卿、船の屋形に立出で、大音聲を上て、宣ひけるは「軍は今日ぞ限る。者共少もしりぞく心あるべからず。天竺震旦にも、日本吾朝にも、雙なき名將勇士と云へども、運命盡ぬれば力及ばず。されども名こそ惜けれ。東國の者共に弱氣見ゆな。いつの爲に命をば惜むべき。唯是のみぞ思ふ事。」と宣へば、飛騨三郎左衞門景經御前に候けるが、「是承れ、侍共。」とぞ下知しける。上總惡七兵衞進出て申けるは、「坂東武者は、馬の上でこそ口はきゝ候とも、船軍にはいつ調練し候べき。縱ば魚の木に上たるでこそ候はんずれ。一々に取て海につけ候はん。」とぞ申たる。越中の次郎兵衞申けるは、「同くは大將軍の源九郎に組給へ。九郎は色白うせい小きが、向齒の殊に差出てしるかんなるぞ。但し直垂と鎧を常に著替なれば、きと見分難かん也。」とぞ申ける。上總惡七兵衞申けるは「心こそ猛とも其小冠者何程の事かあるべき。片脇に挾さんで、海へ入れなん物を。」とぞ申たる。新中納言はか樣に下知し給ひ、大臣殿の御まへに參て、「今日は侍共景色よう見え候。但阿波民部重能は、心變したると覺え候。首をはね候はばや。」と申されければ、大臣殿、見えたる事もなうて如何頸をば切るべき。指しも奉公の者であるものを。」「重能參れ。」とて召しければ木蘭地の直垂に、洗革の鎧著て、御前に畏て候。「如何に重能は心替したるか。今日こそ惡う見ゆるぞ。四國の者共に、軍好うせ よと下知せよかし。臆したるな。」と宣へば、「なじかは臆し候ふべき。」とて御前を罷立つ。新中納言「あはれきやつが頸を打落さばや。」と思食し、太刀のつかも碎よと握て大臣殿の御方を頻に見給ひけれども、御許され無れば、力及ばず。 平家は千餘艘を三手に作る。山賀の兵藤次秀遠五百餘艘で先陣に漕向ふ。松浦黨三百餘艘で二陣に續く。平家の君達二百餘艘にて三陣に續き給ふ。兵藤次秀遠は、九國一番の精兵にて有けるが我程こそなけれ共、普通ざまの精兵共五百人をすぐて、舟々の艫舳に立て、肩を一面に比て、五百の矢を一度に放つ。源氏は三千餘艘の船なれば勢の數、さこそ多かりけめども、處々より射ければ何くに精兵有とも見えず。大將軍九郎大夫判官眞先に進で戰ふ。楯も鎧もこらへずして、散散に射しらまさる。平家御方勝ぬとて、頻に攻皷打て悦の鬨をぞ作りける。 -------------------------------------------------------------------------------- 遠矢 源氏の方にも和田小太郎義盛、船には乘らず、馬に打乘てなぎさに引へ、甲をば脱いで人にもたせ、鐙の鼻蹈そらし、よ引て射ければ、三町が内との物は外さずつよう射けり。其中に殊に遠う射たると覺しきを、「其矢給はらん。」とぞ招いたる。新中納言是を召寄せて見給へば、白篦に鶴の本白、こうの羽を破合せて作だる矢の十三束二伏有に、沓卷より一束計おいて、和田小太郎平義盛と、漆にてぞ書附たる。平家の方に精兵多しといへども、さすが遠矢射る 者は少かりけるやらん、稍久しう有て、伊豫國の住人仁井紀四郎親清召出され、此矢を給はて射返す。是も沖よりなぎさへ三町餘をつと射渡して、和田小太郎が、後一段餘に引へたる三浦の石田左近太郎が弓手のかひなにしたたかにこそ立たりけれ。三浦の人共是を見て、「和田小太郎が、我に過て遠矢射る者なしと思ひて恥かいたるをかしさよ。あれを見よ。」とぞ笑ひける。和田小太郎是を聞き、「やすからぬ事也。」とて小舟に乘て漕出させ、平家の勢の中を差詰め引詰め散々にいければ多の者共射殺れ手負にけり。又判官の乘給る船に、沖より白篦の大矢を一つ射立てゝ、和田が樣に「こまたへ給はらん。」とぞ招いたる。判官此を拔せて見給へば、白篦に山鳥の尾を以て作だりける矢の、十四束三伏あるに、伊豫國の住人仁井紀四郎親清とぞ書附たる。判官後藤兵衞實基を召て、「此矢射つべき者の御方に誰かある。」と宣へば「甲斐源氏に安佐里與一殿こそ、精兵にてましまし候へ。」「さらば呼べ。」とて呼れければ、安佐里の與一出來たり。判官宣ひけるは、「沖より此矢を射て候が、射返せと招き候。御邊あそばし候なんや。」「給はて見候はん。」とて、爪よて、「これは篦が少し弱う候。矢束もちと短う候。同じうは義成が具足にて仕り候はん。」とて、塗籠籐の弓の九尺計あるに、塗篦に黒ほろはいだる矢の、我大手に押握て十五束有けるをうちくはせ、よ引てひやうと放つ。四町餘をつと射渡して、大船の舳に立たる仁井紀四郎親清が眞正中をひやうづばと射て、船底へ逆樣に射倒す。死生をばしらず。安佐里與一は、本より精兵の手きゝ也。二町に走る鹿をば、外さず射けるとぞ聞えし。其後源平、戰に命を惜まずをめき叫んで攻戰ふ。何れ劣れりとも見 えず。されども、平家の方には、十善帝王三種の神器を帶して渡らせ給へば、源氏如何あらんずらんとあぶなう思ひけるに、暫は白雲かと覺しくて、虚空に漂ひけるが、雲にては無りけり、主もなき白旗一流舞下て、源氏の船の舳に、竿附の緒のさはる程にぞ見えたりける。判官、「是は八幡大菩薩の現じ給へるにこそ。」と悦で、手水鵜飼をして、是を拜し奉る。兵共皆此のごとし。又源氏の方より江豚といふ魚、一二千這うて、平家の方へぞ向ひける。大臣殿是を御覽じて小博士晴信を召て、「江豚は常に多けれども、未だか樣の事なし。いかゞあるべきと勘へ申せ。」と仰られければ「此江豚見かへり候はば、源氏滅び候べし。はうて通候はば、御方の御軍危う候。」と申も果ねば、平家の船の下を、直にはうて通りけり。「世の中は今はかう。」とぞ申たる。 阿波民部重能は、此三箇年が間、平家に能々忠を盡し、度々の合戰に命を惜まず防ぎ戰ひけるが、子息田内左衞門を生捕にせられて、いかにも叶はじとや思ひけん、忽に心替りして、源氏に同心してんげり。平家の方にははかりごとに、好き人をば兵船に乘せ、雜人共を唐船に乘せて、源氏心にくさに唐船を攻めば、中に取籠て討んと支度せられたりけれども、阿波民部が囘忠の上は、唐船には目も懸けず、大將軍のやつし乘給へる兵船をぞ攻たりける。新中納言「やすからぬ、重能めを切て棄べかりつるものを。」と千たび後悔せられけれども叶はず。さる程に四國鎭西の兵共、皆平家を背いて、源氏に附く。今まで從ひ著たりし者共も君に向て弓を引き、主に對して太刀を拔く。彼岸につかんとすれば、波高して叶ひ難し。此の汀に 寄らんとすれば、敵箭鋒を汰て待懸たり。源平の國爭、今日を限とぞ見えたりける。 -------------------------------------------------------------------------------- 先帝身投 源氏の兵共既に平家の船に乘移りければ、水主梶取共、射殺され、切殺されて船を直すに及ばず、船底に倒伏しにけり。新中納言知盛卿、小船に乘て、御所の御船に參り、「世の中はいまはかうと見えて候。見苦しからん物共皆海へ入させ給へ。」とて艫舳に走り廻り、掃いたり拭うたり、塵拾ひ、手づから掃除せられけり。女房達、「中納言殿、軍は如何に。」と口々に問ひ給へば、「めづらしき東男をこそ御覽ぜられ候はんずらめ。」とて、から/\と笑ひ給へば、「何條の只今の戲れぞや。」とて、聲々にをめき叫給ひけり。二位殿は此有樣を御覽じて日比思食設けたる事なれば、にぶ色の二衣打覆き、練袴の傍高く挾み、伸璽を脇に挾み、寶劔を腰にさし、主上を抱奉て、「我身は女なりとも、敵の手にはかゝるまじ。君の御供に參る也。御志思ひ參せ給はん人々は、急ぎ續き給へ。」とて舟端へ歩み出られけり。主上は今年は八歳に成せ給へども御年の程より遙にねびさせ給ひて、御容美しくあたりも照り輝くばかり也。御ぐし黒う優々として御せなかすぎさせ給へり。あきれたる御樣にて、「尼ぜ、我をばいづちへ具してゆかんとするぞ。」と仰ければ、幼き君に向奉り涙を押へて申されけるは、「君は未知し召れさぶらはずや。先世の十善戒行の御力に依て、今萬乘の主と生させ給へども、惡縁に引かれて、御運既に盡させ給ひぬ。先づ東に向はせ給ひて、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、 其後西方淨土の來迎に預らむと思食し、西に向はせ給ひて御念佛候ふべし。此國は粟散邊地とて、心憂き境にてさぶらへば、極樂淨土とてめでたき處へ具し參せさぶらふぞ。」と泣々申させ給へば、山鳩色の御衣にびんづら結せ給ひて、御涙におぼれ、小さく美しき御手を合せて先東を伏し拜み、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、其後西に向はせ給ひて、御念佛有しかば、二位殿やがて抱き奉り、「浪のしたにも、都のさぶらふぞ。」と慰奉て千尋の底へぞ入給ふ。悲き哉、無常の春の風、忽に華の御容を散し、無情哉、分段の荒き浪、玉體を沈め奉る。殿をば長生と名附けて長き棲かと定め、門をば不老と號して、老せぬとざしとかきたれども、未だ十歳の内にして、底の水くづとならせ給ふ。十善帝位の御果報、申すも中々愚なり。雲上の龍降て、海底の魚となり給ふ。大梵高臺の閣の上、釋提喜見の宮の内、古は槐門棘路の間に九族を靡かし、今は舟の中波の下に、御命を一時に亡し給ふこそ悲しけれ。 -------------------------------------------------------------------------------- 能登殿最期 女院は此御有樣を御覽じて、御燒石、御硯左右の御懷に入て、海へ入せ給ひたりけるを、渡邊黨に源五馬允眤誰とは知り奉らねども、御髮を熊手に懸て、引上奉る。女房達、「あな淺まし、あれは女院にて渡らせ給ぞ。」と聲々口々に申されければ、判官に申て急ぎ御所の御舟へわたし奉る。大納言佐殿は、内侍所の御唐櫃をもて、海へ入らんとし給ひけるが、袴の裾を舟端にいつけられ、蹴纒ひて倒れ給たりけるを、兵ども取留め奉る。さて武士共内侍所の 御唐櫃の鎖を ねぢ切て、既に御蓋を開かんとすれば忽に目くれ鼻血垂る。平大納言、生捕にせられておはしけるが、「あれは内侍所の渡らせ給ふぞ。凡夫は見奉らぬ事ぞ。」と宣へば、兵共みなのきにけり。其後判官平大納言に申合せて、本の如く緘げ納め奉る。 さる程に門脇平中納言教盛卿、修理大夫經盛、兄弟鎧の上に碇を負ひ、手に手を取組んで海へぞ入給ひける。小松の新三位中將資盛、同少將有盛、從弟左馬頭行盛、手に手を取組んで一所に沈み給ひけり。人々はか樣にし給へども、大臣殿父子は海に入んずる氣色もおはせず、舟端に立出でて四方見回し、あきれたる樣にておはしけるを、侍共あまりの心憂さに、そばを通る樣にて、大臣殿を海へつき入奉る。右衞門督是を見てやがて飛入給けり。皆人は、重き鎧の上に重き物を負うたり抱いたりして入ればこそ沈め。此人親子はさもし給はぬ上憖に究竟の水練にておはしければ、 しづみもやり給はず。大臣殿は、「右衞門督沈まば我も沈まむ、助かり給はゞ我も助らむ。」と思ひ給ふ。右衞門督も「父 しづみ給はゞ吾も しづまむ、助かり給はば我もたすからむ。」と思ひて、互に目を見かはし游ぎありき給ふ程に、伊勢三郎義盛、小船をつと漕寄せ、先づ右衞門督を、熊手に懸て引上げ奉る。大臣殿、是を見ていよ/\沈みもやり給はねば同う取奉てけり。 大臣殿の御乳母飛騨三郎左衞門景經、小船に乘て、義盛が船に乘移り、「吾君取奉るは何者ぞ。」とて太刀を拔で走りかゝる。義盛既にあぶなう見えけるを、義盛が童、主を討せじと中に隔たり、景經に打てかゝる。景經が打つ太刀に、義盛が童、甲の眞甲打破れて、二の太刀 に頸打落されぬ。義盛猶あぶなう見えけるを、並の船より、堀彌太郎親經、よ引いて兵と射る。景經内甲を射させてひるむ處を、堀彌太郎、義盛が船に乘移て、三郎左衞門に組で伏す。堀が郎等主に續いて乘移り、景經が鎧の草摺引上て、二刀刺す。飛騨三郎左衞門景經聞ゆる大力の剛の者なれども運や盡にけん。痛手は負つ、敵はあまたあり、そこにて終に討たれにけり。大臣殿は生ながら取りあげられ目の前で乳子がうたるるを見給ふに、いかなる心ちかせられけん。 凡そ能登守教經の矢先に廻る者こそ無りけれ。矢種の有る程射盡して今日を最後とや思はれけん、赤地の錦の直垂に、唐綾威の鎧著て、いか物作りの大太刀拔、白柄の大長刀の鞘をはづし、左右に持て、なぎ廻り給ふに面を合する者ぞなき、多の者ども討たれにけり。新中納言使者を立てゝ、「能登殿、痛う罪な作り給ひそ。さりとて好き敵か。」と宣ひければ、「さては大將軍に組めごさんなれ。」と心得て、打物莖短に取て、源氏の船に乘り移り、をめき叫んで責戰ふ。されども判官を見知給はねば、物具の好き武者をば「判官か」と目を懸て、馳囘り給ふ。判官も先に心得て面に立つ樣にしけれども、兎かく違ひて、能登殿には組れず。されども如何したりけん。判官の船に乘當て「あはや」と目を懸て飛でかゝるに、判官叶はじとや思はれけん、長刀脇にかい挾み、御方の船の二丈ばかりのいたりけるに、ゆらりと飛乘り給ひぬ。能登殿は疾態や劣られけん。やがて續いても飛び給はず。今はかうと思はれければ太刀長刀海へ投入れ、甲も脱で棄られけり。鎧の草摺かなぐり棄て、胴ばかり著て、大童にな り、大手を廣げて立たれたり。凡當を撥てぞ見えたりける。怖しなども愚也。能登殿大音聲を上て、「我と思はん者共は寄て教經に組で生捕にせよ。鎌倉へ下て頼朝に逢て物一言云はんと思ふぞ。よれやよれ。」と宣へども寄る者一人も無りけり。こゝに土佐國の住人、安藝の郷を知行しける安藝大領實康が子に、安藝太郎實光とて、三十人が力持たる大力の剛の者あり。我にちとも劣らぬ郎等一人、弟の次郎も、普通にはすぐれたるしたゝか者也。安藝太郎能登殿を見奉て申けるは、「如何に心猛くましますとも我等三人取付たらんに縱長十丈の鬼なりとも、などか從へざるべき。」とて主從三人小船に乘て、能登殿の船に押竝べ、えいといひて乘移り甲のしころを傾け太刀を拔て一面に打て懸る。能登殿ちとも噪ぎ給はず、眞先に進だる安藝太郎が郎等をすそを合せて、海へどうと蹴入給ふ。續いてよる安藝太郎を、弓手の脇に取て挾み、弟の次郎をば、馬手の脇にかい挾み、一しめしめて、「いざうれ、さらば己等死出の山の供せよ。」とて、生年廿六にて、海へつとぞ入給ふ。 -------------------------------------------------------------------------------- 内侍所都入 新中納言、「見べき程の事は見つ、今は自害せん。」とて、乳人子の伊賀平内左衞門家長を召て「いかに日比の約束は違まじきか。」と宣へば、「子細にや及候。」と申。中納言に、鎧二領著せ奉り、我身も鎧二領著て、手を取組で海へぞ入にける。是を見て侍共廿餘人後たてまつらじと手に手を取組で一所に沈みけり。其中に、越中次郎兵衞、上總五郎兵衞、惡七兵衞、飛騨 四郎兵衞は、何としてか逃れたりけん、そこをも又落にけり。海上には赤旗赤幟共、投捨かなぐり捨たりければ、龍田川の紅葉葉を、嵐の吹散したるがごとし。汀に寄る白浪も、薄紅にぞ成にける。主もなき虚しき船は、潮に引かれ風に從て、いづくを指ともなくゆられゆくこそ悲しけれ。生捕には、前内大臣宗盛公、平大納言時忠、右衞門督清宗、内藏頭信基、讃岐中將時實、兵部少輔雅明、大臣殿の八歳になり給ふ若公、僧には二位僧都專親、法勝寺執行能圓、中納言律師仲快、經誦坊阿闍梨融圓、侍には源大夫判官季貞、攝津判官盛澄、橘内左衞門季康、藤内左衞門信康、阿波民部重能父子、以上三十八人也。菊池次郎高直、原田大夫種直は、軍以前より郎等共相具して降人に參る。女房達には、女院、北の政所、廊御方、大納言佐殿、帥佐殿、治部卿局以下、四十三人とぞ聞えし [2]元歴二年の春の暮、如何なる年月にて一人海底に沈み、百官波上に浮らん。國母官女は、東夷西戎の手に從ひ、臣下卿相は數萬の軍旅にとらはれて、舊里に歸り給ひしに、或は朱買臣が錦をきざる事を歎き、或は王昭君が胡國に赴きし恨も、かくやとぞ悲み給ひける。 同四月三日、九郎大夫判官義經、源八廣綱を以て、院の御所へ奏聞せられけるは、去三月二十四日、豐前國田浦門司關、長門國壇浦赤間關にて、平家を責め落し三種神器事故なう返し入れ奉るの由、申されたりければ、院中の上下騒動す。廣綱を御坪の内へ召し、合戰の次第を委しう御尋ありて、御感のあまり左兵衞尉に成されけり。「一定内侍所返り入らせ給ふか、見て參れ。」とて、五日、北面に候ける藤判官信盛を西國へ差遣はさる。宿所へも歸らず、や がて院の御馬を給はて鞭を擧げ、西をさしてぞ馳下る。 同十四日、九郎大夫判官義經、平氏男女の生捕共相具して上りけるが、播磨國明石浦にぞ著にける。名を得たる浦なれば、深行くまゝに月すみ上り、秋の空にもおとらず。女房達差つどひて、「一年是を通りしには、かゝるべしとは思はざりき。」などいひて、忍音に泣合れけり。帥佐殿つくづく月を詠め給ひ、いと思ひ殘す事もおはせざりければ、涙に床も浮くばかりにて、かうぞ思ひ續け給ふ。 ながむればぬるゝ袂にやどりけり、月よ雲井の物語せよ。 治部卿局 雲のうへに見しにかはらぬ月影の、すみにつけても物ぞかなしき。 大納言佐局 我身こそ明石浦に旅寢せめ、同じ浪にもやどる月哉。 「さこそ物悲しう昔戀しうもおはしけめ。」と判官猛き武士なれども、情ある男士なれば、身に染て哀にぞ思はれける。 同二十五日、内侍所、璽の御箱、鳥羽に著せ給ふと聞えしかば、内裏より御迎に參らせ給ふ人々、勘解由小路中納言經房卿、高倉宰相中將泰通、權右中辨兼忠、左衞門權佐親雅、榎並中將公時、但馬少將教能、武士には伊豆藏人大夫頼兼、石河判官代能兼、左衞門尉有綱とぞ聞えし。其夜の子刻に、内侍所、璽の御箱、太政官の廳に入せ給。寶劔は失にけり。神璽は 海上に浮びたりけるを、片岡太郎經春が、取上奉たりけるとぞきこえし。 [2] NKBT has 。 at this point. -------------------------------------------------------------------------------- 劍 吾朝には神代より傳はれる靈劍三あり。十握劍、天の早切劍、草薙劍是也。十握劍は大和國磯上布留社に納めらる。天早切の劍は尾張國熱田宮にありとかや。草薙劍は内裏にあり。今の寶劍是也。此劍の由來を申せば、昔、素盞烏尊出雲國曾我里に宮造りし給ひしに其處に八色の雲常に立ちければ、尊是を御覽じてかくぞ詠じ給ひける。 八雲たつ出雲やへがきつまごめに、やへ垣つくる其のやへ垣を。 是を三十一文字の始とす。國を出雲と名付る事も即ちこの故とぞ承る。 昔、尊、出雲國ひの河上に下り給ひし時國津の神に足なつち、手なつちとて夫神婦神おはします。其子に端正の娘あり。稻田姫と號す。親子三人泣居たり。尊「如何に」と問ひ給へば答へ申ていはく、「我に娘八人ありき。皆大蛇の爲にのまれぬ。今一人殘るところの少女又呑れんとす。件の大蛇、尾首共に八つあり。各八の峯八の谷に這はびこれり。靈樹異草背に生ひたり。幾千年を歴たりといふ事を知らず。眼は日月の光の如し。年々に人を呑む。親呑まるるものは子悲み、子呑まるゝものは親悲み、村南村北に哭する聲絶えずとぞ申ける。尊哀に思食し、此少女をゆつのつまぐしに取なし、御ぐしに差藏させ給ひ、八の舟に酒を入れ、美女の姿を造て高き岡に立つ。其影酒にうつれり。大蛇人と思ひて其影を飽まで飮で醉臥たりけ るを尊帶給へる十握の劍をぬいて大蛇をづた/\に切り給ふ。其中に一の尾の至て切れず。尊恠しと思食し、堅樣に破て御覽ずれば一の靈劍あり。是を取て天照大神に奉り給ふ。「是は昔高間の原にてわがおとしたりし劍也。」とぞ宣ひける。大蛇の尾のなかに在ける時は村雲常に掩ければ天の村雲劍とぞ申ける。大神是をえて、天の御門の御寶とし給ふ。其後豐葦原中津國の主として天孫を下し奉り給ひし時、此劍をも御鏡に副てたてまつらせ給ひけり。第九代の帝開化天皇の御時までは一殿におはしましけるを、第十代の帝崇神天皇の御宇に及で、靈威に怖れて天照大神を大和國笠縫里磯垣の廣きに移し奉り給ひし時、此劍をも天照大神の社壇に籠め奉らせ給ひけり。その時劍を造りかへて御守とし給ふ。靈威本の劍に相劣らず。 天の村雲劍は崇神天皇より景行天皇まで三代は天照大神の社壇に崇め置かれたりけるを、景行天皇の御宇四十年六月に東夷反逆の間、御子日本武尊、御心も剛に御力も人に勝れておはしければ、清撰に當てあづまへ下り給ひし時、天照大神へ詣て御暇申させ給ひけるに、御妹いつきの尊を以て謹而怠事なかれとて靈劍を尊にさづけ申給ふ。さて駿河國に下り給ひたりしかば、其處の賊徒等「この國には鹿多う候。狩して遊ばせ給へ。」とてたばかり出し奉り、野に火をはなて既に燒き殺し奉らんとしけるに、尊はき給へる靈劍を拔て草を薙ぎ給へば、はむけ一里が中は草皆薙れぬ。尊又火を出されたりければ、風たちまちに異賊の方へ吹掩ひ、凶徒悉く燒け死にぬ。其よりしてこそ天の村雲の劍をば草薙劍とも名付られけれ。尊、猶奧 へせめ入て、三箇年が間處々の賊徒を討平らげ、國々の凶黨をせめしたがへて上らせ給ひけるが、道より御惱著せ給ひて、御歳三十と申七月に尾張國熱田の邊にて終に隱れさせ給ひぬ。その魂は白き鳥と成て、天に上けるこそ不思議なれ。生捕の夷共をば御子武彦尊を以て御門へたてまつらせ給ふ。草薙劍をば熱田の社に納めらる。あめの御門の御宇七年に新羅の沙門道行此劍を竊で吾國の寶とせんと思て、竊に舟に藏して行程に波風震動して忽に海底に沈まんとす。即靈劍のたゝりなりと知て、罪を謝して先途を遂ず。元の如く返し納め奉る。然るを天武天皇朱鳥元年に是を召て内裏に置かる。今の寶劍是也。御靈威いちはやうまします。陽成院狂病にをかされましまして靈劍を拔せ給ひければ、夜るのおとど閃々として電光にことならず。恐怖の餘に投棄させ給ひければ、自はたと鳴て鞘に差されにけり。上古にはかうこそ目出かりしか。縱ひ二位殿脇に差て海に沈み給ふともたやすううすべからずとて、勝れたる海士人共を召てかづきもとめられける上、靈佛靈社に貴き僧を籠め種々の神寶を捧げて祈り申されけれども、終に失せにけり。其時の有職の人々申合はれけるは「昔天照大神百王を守らんと御誓ひ有ける其誓未だ改らずして石清水の御流れ未だ盡せざるゆゑ、日輪の光未地に落させ給はず、末代澆季なりとも帝運の究まる程の事はあらじかし。」と申されければ、其中に、ある博士の勘へ申けるは「昔出雲國ひの河上にて素盞烏尊に切り殺され奉し大蛇、靈劍を惜む志深くして八の首八の尾を表事として人王八十代の後、八歳の帝と成て靈劍を取り返して海底に沈み給ふにこそ。」と申す。千尋の海の底、神龍の寶と成りしかば 二度人間に返らざるも理とこそ覺えけれ。 -------------------------------------------------------------------------------- 一門大路渡 さる程に、二の宮歸り入らせ給ふとて法皇より御迎へに御車を參らせらる。御心ならず、平家に取られさせ給て、西海の波の上に漂はせ給ひ三年を過させ給ひしかば、御母儀も御乳母持明院の宰相も、御心苦しき事に思はれけるに、別の御事なく返り上らせ給ひたりしかば、差つどひて皆悦泣どもせられたる。 同廿六日、平氏の生捕共京へ入る。皆小八葉の車にてぞ有ける。前後の簾を上げ、左右の物見を開く。大臣殿は淨衣を著給へり。右衞門督は、白き直垂にて、父の車の後にぞ乘られたる。平大納言時忠卿の車も、同くやり續く。子息讃岐中將時實も同車にて渡さるべかりしが現所勞とて渡れず。内藏頭信基は、疵を蒙たりしかば閑道より入にけり。大臣殿さしも花やかに清氣におはせし人のあらぬ樣に痩衰へ給へり。されども四方見廻して最思ひ沈める氣色もおはせず、右衞門督はうつぶして目も見上給はず、思ひ入たる氣色也。土肥次郎實平木蘭地の直垂に小具足計して隨兵三十餘騎車の先後に打圍で守護し奉る。見る人都の中にも限らず、凡遠國近國山々寺々よりも、老たるも若きも、來り集れり。鳥羽の南の門、作道、四塚迄、ひしと續いて、幾千萬と云ふ數を知らず。人は顧る事を得ず、車は輪を廻す事能はず。治承養和の飢饉、東國西國の軍に、人種ほろびうせたりといへども、猶殘りは多かりけりと ぞ見えし。都を出て中一年、無下に間近き程なれば、めでたかりし事も忘れず。さしも恐をのゝきし人の今日の有樣、夢現とも分かねたり。心なき怪の賤男賤女に至るまで、涙を流し、袖を絞らぬは無りけり。増て馴れ近附ける人々のいかばかりの事をか思ひけん。年比恩を蒙り、父祖の時より祗候したりし輩の有繋身のすてがたさに、多くは源氏についたりしかども、昔の好み忽にわするべきにもあらねば、さこそ悲しう思ひけめ。されば袖を顏に押あてゝ、目を見上げぬ者も多かりけり。 大臣殿の御牛飼は、木曾が院參の時、車遣損じて切られにける次郎丸が弟、三郎丸也。西國にては、かり男に成たりしが、いま一度大臣殿の御車をつかまつらんと思ふ志ふかゝりければ、鳥羽にて判官に申けるは、「舎人牛飼など申者は、いふかひなき下臈の果にて候へば、心有るべきでは候はねども年來めしつかはれまゐらせて候御志淺からず。然るべう候はゞ御ゆるされを蒙て、大臣殿の最後の御車を仕り候はばや。」とあながちに申ければ、判官「仔細あるまじ、とう/\。」とてゆるされけり。斜ならず悦で、尋常にしやうぞき、懷より遣繩取出しつけかへ、涙に暮て行先も見えねども、袖を顏に押あてゝ牛の行に任せつゝ、泣々遣てぞ罷りける。法皇は六條東洞院に御車を立て叡覽あり。公卿殿上人の車ども同じう立竝べたり。さしも御身近う召仕はれしかば、法皇もさすが御心弱う、哀にぞ思食されける。供奉の人人は只夢とのみこそ思はれけれ。「日比は如何にもして、あの人々に目をもかけられ、詞の末にも懸らばやとこそ思ひしかば、かゝるべしとは誰か思ひし。」とて、上下涙を流しけり。一年宗盛 公内大臣に成て、悦び申し給ひし時は公卿には花山院大納言を始として、十二人扈從して遣り續け給へり。殿上人には藏人頭親宗以下十六人前驅す。公卿も殿上人も、今日を晴ときらめいてこそ有しか、中納言四人、三位中將も三人迄おはしき。軈て此平大納言もその時は左衞門督にておはしき。御前へ召され參せて御引出物給はて持成され給ひし有樣目出たかりし儀式ぞかし。今日は月卿雲客一人もしたがはず、同じく壇浦にて生捕にせられたりし侍共廿餘人白き直垂著て、馬の上にしめつけてぞ渡されける。六條を東へ河原までわたされて、歸て、大臣殿父子は九郎判官の宿所、六條堀河にぞおはしける。御物参らせたりしかども 胸せき塞て、御箸をだにも立てられず。互に物は宣はねども目を見合せて隙なく涙をぞ流されける。夜になれども、裝束もくつろげ給はず、袖を片敷て臥給ひたりけるが、御子右衞門督に、御袖を打著せ給ふを、まぼり奉る源八兵衞、江田源三、熊井太郎是を見て、「哀高も賤きも恩愛の道程悲しかりける事はなし。御袖を著せ奉りたらばいく程の事か有るべきぞ。せめての御志の深さかな。」とて、武きものゝふども皆涙をぞ流しける。 -------------------------------------------------------------------------------- 鏡 同二十八日鎌倉の前兵衞佐頼朝朝臣從二位し給ふ。越階とて二階をするこそ有がたき朝恩なるに是は既に三階なり。三位をこそし給ふべかりしかども、平家のし給ひたりしを忌うて也。其夜の子刻に内侍所太政官の廳より温明殿へ入らせ給ふ。主上行幸成て三箇夜臨時の御神 樂あり。右近將監小家能方別勅を承はて家に傳れる弓立宮人といふ神樂の秘曲を仕て勸賞蒙りけるこそ目出たけれ。此歌は、祖父八條判官資忠と云し伶人の外は知れる者なし。餘り秘して子の親方には教へずして堀川天皇御在位の時傳へ參て死去したりしを、君親方に教へさせ給ひけり。道を失はじと思食す御志感涙抑へがたし。 抑内侍所と申は、昔、天照大神天の岩戸に閉籠らんとせさせ給ひし時、如何にもして我容をうつし置きて御子孫に見て奉らんとて御鏡を鑄給へり。是猶御心に合はずとて又鑄替させ給ひけり。先の御鏡は紀伊國日前國懸の社是也。後の御鏡は御子あまの忍ほみみの尊に授け參せさせ給ひて、殿を同うして住み給へ。」とぞ仰ける。さて天照大神天の岩戸に閉ぢ籠らせ給ひて天下暗やみと成たりしに、八百萬の神達神集に集て岩戸の口にて御神樂を奏し給ひければ、天照大神感に堪させ給はず、岩戸を細目に開き見給ふに、互に顏の白く見えけるより面白といふ詞は始まりけるとぞ承はる。其時こやねたぢからをといふ大力の神よてえいといひてあけ給ひしよりしてたてられずといへり。さて内侍所は第九代の御門開化天皇の御時までは一つ殿におはしましけるを、第十代の帝崇神天皇の御宇に及て靈威に怖れて別の殿へ移し奉らせ給ふ。近き比は温明殿におはします。遷都遷幸の後、百六十年を經て、村上天皇の御宇天徳四年九月廿三日の子刻に内裡なかのへに始めて燒亡ありき。火は左衞門の陣より出きたりければ内侍所のおはします温明殿も程近し。如法夜半の事なれば内侍も女官も參り合はせずして、かしこ所を出し奉るにも及ばず。小野宮殿急ぎ參らせ給て内侍所既に燒させ 給ひぬ。世はいまはかうごさんなれとて御涙を流させ給ふほどに、内侍所は自炎の中を飛び出でさせ給ひ、南殿の櫻の梢に懸らせおはしまし光明赫奕として朝の日の山の端を出るに異ならず。其時小野宮殿世は末失せざりけりと思食すに悦の御涙せきあへさせ給はず。右の御膝をつき左の御袖を廣げてなく/\申させ給ひけるは「昔天照大神百王を守らんと御誓有ける其御誓いまだ改らずんば神鏡實頼が袖に宿らせ給へ。」と申させ給ふ御詞の未をはらざる先に飛移らせ給ひけり。即御袖に裹で太政官の朝所へ渡し奉らせ給ふ。近頃は温明殿におはします。此世には請取奉らんと思ひ寄る人も誰かはあるべき。神鏡も又宿らせ給べからず。上代こそ猶目出かりけれ。 -------------------------------------------------------------------------------- 文之沙汰 平大納言時忠卿父子も、九郎判官の宿所近うぞおはしける。世の中かくなりぬる上は、とてもかうてもとこそ思はるべきに、大納言猶命惜うや思はれけん、子息讃岐中將を招いて、「散すまじき文を一合判官に取られてあるぞとよ。是を鎌倉の源二位に見えなば、人も多く損じ我身も命生らるまじ、如何せんずる。」と宣へば、中將申されけるは、「判官は大かたも情ある者にて候なる上女房などの打たへ歎く事をば、如何なる大事をももてはなれぬと承り候。何か苦しう候べき。姫君達數多ましまし候へば、一人見せさせ給ひ、親うならせおはしまして後、仰らるべうや候らん。」大納言涙をはら/\と流いて、「我世にありし時は、娘共をば女御 后とこそ思ひしか。なみ/\の人に見せんとはかけても思はざりしものを。」とて泣かれければ、中將、「今はその事努々思食寄せ給ふべからず。當腹の姫君の十八に成り給ふを。」と申されけれども、大納言それをば猶悲しき事に覺して、先の腹の姫君の十八に成り給ふを。」と申されけれども、大納言それをば猶悲しき事に覺して、先の腹の姫君の二十三になり給ふをぞ、判官には見られける。是も年こそすこし長しうおはしけれど眉目容美しう、心ざま優におはしければ、判官ありがたう思ひ奉て、もとの上河越太郎重頼が娘も有しかども、是をば別の方に尋常にしつらうてもてなしけり。さて女房件の文の事を宣ひ出されたりければ、判官剩へ封をも解かず、急ぎ時忠卿の許へ送られけり。大納言斜ならず悦で、やがて燒ぞ棄てられける。如何なる文共にてありけん、覺束なうぞ聞えし。 平家滅びて、いつしか國々靜まり、人のかよふも煩なし。都も穩しかりければ、「唯九郎判官程の人はなし。鎌倉の源二位は何事をか爲出したる。世は一向判官の儘にてあらばや。」などいふ事を源二位漏聞いて、「こは如何に、頼朝がよく計ひて、兵を指上すればこそ平家はたやすう滅びたれ。九郎ばかりしては、爭か世をばしづむべき。人のかくいふに奢て何しか世を我儘にしたるにこそ。人こそ多けれ、平大納言の聟になて、大納言を扱ふなるも受けられず。又世にもはゞからず、大納言の聟取いはれなし。是へ下ても定て過分の振舞せんずらん。」とぞ宣ひける。 -------------------------------------------------------------------------------- 副將被斬 同五月七日、九郎大夫判官平氏の生捕共相具して關東へ下向と聞えしかば、大臣殿判官の許へ使者を立てゝ、「明日關東へ下向と承候。恩愛の道は思切られぬ事にて候也。生捕の中に、八歳の童と附られて候ひしものは、未だ此世に候やらん。今一度見候ばや。」と宣ひ遣されたりければ、判官の返事には、「誰も恩愛の道は思切られぬ事にて候へば、誠にさこそ思食され候らめ。」とて、河越小太郎重房がもとに預り奉たりけるを大臣殿の許へわか君入れ奉るべき由、宣ひければ、人に車借て、乘せ奉り、女房二人著奉たりしも一つ車に乘り具して大臣殿へぞ參られける。若君は遙に父を見奉り給て、世に嬉氣におぼしたり。大臣殿、「如何に是へ。」と宣へば、やがて御膝の上に參り給ふ。大臣殿若君の御ぐしを掻撫で、涙をはら/\と流いて、守護の武士共に宣ひけるは、「是は、各聞き給へ、母も無き者にてあるぞとよ。此子が母は、是を産とて、産をば平かにしたりしかども、やがてうちふして惱みしが、終に空く成ぞとよ。『此後如何なる人の腹に公達を設け給ふとも、思ひかへずして、生立て我形見に御覽ぜよ。さしはなて乳母などの許へ遣すな。』と云ひし事の不便さに、『あの右衞門督をば朝敵を平げん時は、大將軍をせさせ、是をば副將軍をせさせんずれば。』とて、名を副將と附たりしかば、斜ならず嬉氣に思ひて既に限りの時迄も、名を呼などして愛せしが、七日といふに、墓なく成りて有ぞとよ。此子を見る度ごとには、其事が忘れがたくおぼゆる也。」とて涙もせきあへ給はねば守護の武士共も、皆袖をぞ絞りける。右衞門督も [3]なき給へは乳母も袖を絞けり。やゝ久しく有て大臣殿、「さらば副將、とく歸れ。嬉しう見つる。」と宣へども、若君歸り給は ず。右衞門督是を見て涙を押へて宣ひけるは、「やゝ副將御前、今夜は疾々歸れ。唯今客人のこうずるぞ。朝は急ぎ參れ。」と宣へども、父の御淨衣の袖にひしと取附て、「いなや歸じ。」とこそ泣給へ。かくて遙に程歴れば、日も漸暮れにけり。さてしもあるべき事ならねば、乳母の女房抱取て、御車に乘せ奉り、二人の女房共も袖を顏に推當てゝ、泣々暇申つゝ共に乘てぞ出にける。大臣殿は後を遙に御覽じ送て、日來の戀しさは事の數ならずとぞ悲み給ふ。「此子は母の遺言が無慚なれば。」とて乳母の許へも遣さず、朝夕御前にてそだて給ふ。三歳にて始冠して、義宗とぞ名乘せける。やう/\生立給ふまゝに、みめ容美しく、心樣優におはしければ、大臣殿もかなしういとほしき事におぼして、西海の旅の空、浪の上、船の中の住にも片時も離れ給はず。然るを軍破れて後は、今日ぞ互に見給ひける。 河越小太郎判官の御前に參ていひけるは「さて若君の御事をば何と御計ひ候やらん。」と申ければ、鎌倉まで具し奉るに及ばず。汝ともかうも是であひはからへ。」とぞ宣ひける。河越小太郎宿所に歸て、二人の女房共に申けるは、「大臣殿は鎌倉へ御下り候が、若君は京に御留あるべきにて候。重房も罷り下候間、緒方三郎惟義が手へ渡し奉るべきにて候。とう/\召され候へ。」とて、御車寄せたりければ、若君何心もなう乘り給ひぬ。「又昨日の樣に父御前の御許へか。」とて悦ばれけるこそはかなけれ。六條を東へやて行く。此の女房共「あはやあやしき物哉。」と、肝魂を消して思ひける程に、少し引下て兵五六十騎が程河原へ打出たり。やがて車を遣とゞめて、敷皮しき、「下させ給へ。」と申ければ若君車よりおり給ひぬ。世にあやし げにおぼして、「我をばいづちへ具してゆかむとするぞ。」と問ひ給へば、二人の女房共、とかうの御返事にも及ばず。重房が郎等、太刀をひきそばめて、左の方より御後に立囘り、既に斬奉らんとしけるを、若君見つけ給ひて、幾程遁るべき事の樣に、急ぎ乳母の懷の中へぞ逃入給ふ。さすが心強う取出し奉るにも及ばねば、若君をかゝへ奉り人の聞くをも憚らず、天に仰ぎ地に伏してをめき叫みける心の中推量られて哀也。かくて時刻遙に推し移りければ河越小太郎重房涙をおさへて、「今はいかに思食され候とも叶はせ給ひ候まじ。とう/\。」と申ければ其時乳母の懷の中より、引出し奉り、腰の刀にて押伏て終に頸をぞ掻いてける。猛き武士共もさすが岩木ならねば、皆涙を流しけり。頸をば「判官の見參にいれん。」とて取て行く。乳母の女房、徒跣にて追著て、「何かくるしう候べき。御頸ばかりをば給はて後世を弔ひまゐらせん。」と申せば、判官も世に哀氣に思ひ涙をはら/\と流いて「誠にさこそは思ひ給らめ。最もさあるべし。とう/\。」とてたびにけり。是を取て懷に入れて泣々京の方へ歸るとぞ見えし。其後五六日して、桂川に女房二人身をなげたる事ありけり。一人少なき人の頸をふところに入沈みたりけるは、此若君の乳母の女房にてぞ有ける。今一人屍を抱いて有けるは、介錯の女房なり。乳母が思きるは、せめて如何せん、介錯の女房さへ、身を投けるこそ有がたけれ。 [3] NKBT reads 泣給へば. -------------------------------------------------------------------------------- 腰越 さる程に大臣殿父子は九郎大夫判官に具せられて七日の曉關東へ下給ふ。粟田口を過ぎ給へば、大内山も雲井の餘所に隔りぬ。逢阪にもなりしかば關の清水を見給ひて、大臣殿なくなくかうぞ詠じ給ける。 都をば今日を限りの關水に、又あふ坂の影やうつさむ。 道すがらも餘りに心細げにおはしければ、判官情ある人にて、樣々に慰め奉る。大臣殿、判官に向て「相構、今度親子の命を助けて給へ。」と宣ば、「遠き國、遙の島へも遷しぞ參せ候はんずらん。御命失ひ奉るまではよも候はじ。縱さ候とも、義經が勳功の賞に申かへて、御命計は助參せ候べし。御心安う思食され候へ。」と憑もしげに申されければ「たとひ夷が千島なりともかひなき命だにあらば。」と宣ひけるこそ口惜けれ。日數歴れば、同廿四日、鎌倉へ下り著き給ふ。 梶原判官に一日先立て鎌倉殿に申けるは、「日本國は今は殘る所なう隨ひ奉り候。但し御弟九郎大夫判官殿こそ、終の御敵とは見えさせ給候へ。その故は『一谷を上の山より義經が落さずば、東西の木戸口破れ難し。生捕も死捕も義經にこそ見すべきに、物の用にもあひ給はぬ蒲殿の方へ見參に入べき樣やある。本三位中將殿こなたへたばずば參て給はるべし。』とて既に軍出來候はんとし候しを、景時が土肥に心を合せて、三位中將殿を土肥次郎に預けて後こそ靜まり給て候しか。」と語り申ければ、鎌倉殿打頷いて、「今日九郎が鎌倉へ入なるに、各用意し給へ。」と仰られければ大名小名馳集て、程なく數千騎に成にけり。 金洗澤に關居ゑて、大臣殿父子請取奉て判官をば腰越へ追返さる。鎌倉殿は隨兵七重八重に居ゑ置いて我身は其中におはしながら「九郎はすゝどきをのこなれば此疊の下よりも這出んずる者也。但し頼朝はせらるまじ。」とぞ宣ひける。判官、思はれけるは「去年の正月木曾義仲を追討せしよりこのかた一谷壇浦に至るまで命を棄てゝ平家を責め落し、内侍所、璽の御箱事故なく返入奉り、大將軍父子生捕にして、具して是迄下りたらんには、縱如何なる不思議ありとも、一度はなどか對面なかるべき。凡は九國の惣追捕使にも成され、山陰山陽南海道、いづれにても預け、一方の固めともなされんずるとこそ思ひつるに、わづかに伊豫の國ばかりを知行すべき由仰せられて、あまさへ鎌倉へだにも入られぬこそ本意なけれ。さればこは何事ぞ。日本國を靜むる事、義仲義經が爲態にあらずや。譬へば同じ父が子で、先に生るるを兄とし、後に生るるを弟とする計なり。誰か天下を知らんに知らざるべき。剩今度見參をだにも遂げずして逐ひ上らるゝこそ遺恨の次第なれ。謝する所を知らず。」とつぶやかれけれども力なし。全く不忠なきよし度々起請文を以て申されけれども、景時が讒言によて鎌倉殿用ゐ給はねば、判官泣々一通の状を書て廣元の許へ遣す。其状に云く、 源義經恐ながら申上候意趣は、御代官の其一に選ばれ、勅宣の御使として朝敵を傾け、會稽の耻辱を雪ぐ。勳賞行はるべき處に思外虎口讒言によて莫大の勳功をもだせられ、義經をかし無うしてとがをかうむり、功あて誤なしと云へ共、御勘氣を蒙る間空く紅涙に沈む。讒者の實否をただされず、鎌倉中へ入られざる間、素意をのぶるにあたはず。徒に數日を 送る。此時にあたて永く恩顏を拜し奉らず。骨肉同胞の義既に絶え、宿運究めて虚しきにたるか。將又先世の業因の感ずる歟。悲哉。此條故亡父尊靈再誕し給はずば誰の人か愚意の悲歎を申開ん。何れの人か哀怜をたれられん哉。事新き申状、述懷に似たりといへども、義經身體髮膚を父母に受て、幾の時節をへず、故頭殿御他界之間孤と成り、母の懷の中に抱かれて、大和國宇多郡に趣しより以降、未だ一日片時安堵之思に住せず。甲斐なき命をば存すといへども、京都の經廻難治の間、身を在々所々に藏し、邊土遠國を栖として、土民百姓等に服仕せらる。然れども交契忽に純熟して、平家の一族追討の爲に上洛せしむる手合に、木曾義仲を誅戮の後、平氏をかたむけんが爲に、或時は峨々たる巖石に駿馬に鞭うち、敵の爲に命をほろぼさん事を顧みず、或時は漫々たる大海に風波の難を凌ぎ、海底に沈まん事を痛まずして、屍を鯨鯢の鰓にかく。しかのみならず甲冑を枕とし、弓箭を業とする本意、併亡魂の憤りを息め奉り、年來の宿望を遂んと欲する外他事なし。剩さへ義經五位の尉に補任之條、當家の重職何事かこれにしかん。然りといへども、愁深く歎切也。佛神の御助けにあらずより外は爭か愁訴を達ん。これによて、諸寺諸社の牛王寶印の裏をもて、野心を挿まざる旨、日本國中の大小の神祇冥道を請じ驚し奉て、數通の起請文を書進すといへども、猶以御宥免なし。夫吾國は神國なり、神は非禮を享給べからず。憑むところ他にあらず。偏に貴殿廣大の慈悲を仰ぐ。便宜を伺ひ高聞に達せしめ、秘計をめぐらし誤なき由をゆうせられ、赦免に預らば、積善の餘慶家門に及び、榮華を永 く子孫に傳へん。仍て年來の愁眉を開き、一期の安寧を得ん。書紙に盡さず。併令省略候畢ぬ。義經恐惶謹言。元歴二年六月五日   源義經進上因幡守殿へ とぞ書かれたる。 -------------------------------------------------------------------------------- 大臣殿被斬 さる程に、鎌倉殿大臣殿に對面有り。おはしける所に庭を一つ隔てゝ、向なる屋に居奉り、簾の中より見出し、比氣藤四郎義員を使者で申されけるは「平家の人々に別の意趣思奉る事努努候はず。其故は池殿尼御前如何に申給とも故入道殿の御許され候はずば、頼朝爭か扶り候べき。流罪に宥められし事偏に入道殿の御恩也。されば廿餘年迄、さてこそ罷過候しかども朝敵となり給て追討すべき由院宣を給はる間、さのみ王地に孕まれて、詔命を背くべきにもあらねば、力不及、加樣に見參に入給ぬるこそ、本意に候へ。」と申されければ義員此由申さんとて、御前に參りたりければ、居なほり畏り給ひけるこそうたてけれ。國々の大名小名竝居たる其中に、京の者共幾らも有り、皆爪彈をして申しけるは「居なほり畏り給ひたらば御命の助り給べきか。西國で如何にも成給べき人の、生ながらとらはれて、是までくだり給こそ理なれ。」とぞ申ける。或は涙を流す人もあり。其中に或人の申けるは、「猛虎深山に在る 時は百獸震ひ怖づ。檻穽の中に在るに及て尾を搖して食を求むとて、猛い虎の深い山に在る時は、百の獸恐怖ると云へ共檻の中に籠られぬる時は、尾を掉て人に向ふらんやうに、如何に猛き大將軍なれども、かやうに成て後は、心かはる事なれば、大臣殿も、かくおはするにこそ。」と申ける人も有りけるとかや。 去程に九郎大夫判官樣々に陳じ申されけれども、景時が讒言に依て、鎌倉殿更に分明の御返事もなし。「急ぎのぼらるべし。」と仰られければ、同六月九日、大臣殿父子具し奉て、都へぞ返り上られける。大臣殿は今少しも日數の延を嬉き事に思はれける。道すがらも、「こゝにてや/\」とおぼしけれども、國々宿々、打過々々通りぬ。尾張國内海と云ふ所あり。こゝは故左馬頭義朝 [4]か誅せられし所なれば、これにてぞ一定と思はれけれども、それをも過しかば、大臣殿少し憑もしき心出來て、「さては命のいきんずるやらん。」と宣ひけるこそはかなけれ。右衞門督は、「なじかは命をいくべき、か樣に熱き比 [5]なれは、頸の損せぬ樣にはからひて京近うなて切らんずるにこそ。」と思はれけれども、大臣殿のいたく心細氣におぼしたるが心苦しさにさは申されず。偏に念佛をのみぞ申給ふ。日數ふれば、都も近著て近江國篠原の宿に著給ひぬ。 判官情深き人なれば、三日路より人を先立てゝ、善知識の爲に、大原の本性房湛豪といふ聖請じ下されたり。昨日までは親子一所におはしけるを今朝より引放て、別の所に居奉りければ、「さては今日を最後にてあるやらん。」といとゞ心細うぞ思はれける。大臣殿涙をはら/\ と流いて、「抑右衞門督はいづくに候やらん。縱ひ頸は落とも、體は一つ席に臥さんとこそ思ひつるに、生ながら別ぬる事こそ悲けれ。十七年が間一日片時も離るゝ事なし。西國にて海底に沈までうき名を流すもあれ故なり。」とて泣れければ、聖哀れに思ひけれども、我さへ心弱くては不叶と思ひて、涙を拭ひ、さらぬ體にもてないて申けるは「今はとかく思食すべからず。最後の御有樣を御覽ぜむにつけても互の御心の中悲かるべし。生を受させ給てよりこのかた、樂み榮え昔も類ひ少し。御門の外戚にて、丞相の位に至らせ給へり。今生の御榮華一事も殘る所なし。今又かゝる御目にあはせ給ふも、先世の宿業なり。世をも人をも恨み思食すべからず。大梵王宮の深禪定の樂み思へば程なし。況や電光朝露の下界の命に於てをや。 たう利天の億千歳、唯夢の如し。三十九年を過させ給ひけむも、僅に一時の間なり。誰れか嘗たりし、不老不死の藥。誰か保たりし、東父西母が命。秦の始皇の奢を極めしも、遂には驪山の墓に埋もれ、漢の武帝の命を惜み給ひしも、空く杜陵の苔に朽にき。生ある者は必ず滅す、釋尊未だ栴檀の煙を免れ給はず。樂盡て悲來る、天人尚五衰の日に逢へりとこそ承はれ。されば佛は、『我心自空、罪福無主、觀心無心、法不住法』とて、善も惡も空なりと觀ずるが、正しく佛の御心に相叶事にて候也。如何なれば、彌陀如來は、五劫が間思惟して發しがたき願を發しましますに、如何なる我等なれば、億々萬劫が間、生死に輪廻して、寶の山に入て、手を空せん事、恨の中の恨み、愚なるが中の口惜い事に候はずや。努努餘年を思食すべからず。」とて、戒持せ奉り、念佛勸め申。大臣殿然るべき善知識哉と思食し、忽に妄念を飜へし て西に向ひ手を合せ、高聲に念佛し給ふ處に、橘右馬允公長、太刀を引 そばめて左の方より御後に立廻り、既に斬奉らんとしければ、大臣殿念佛を停めて、「右衞門督も既にか。」と宣ひけるこそ哀なれ。公長後へ囘るかと見えしかば、頸は前にぞ落にける。善知識の聖も、涙に咽び給ひけり。猛き武士も爭かあはれと思はざるべき。増て彼公長は、平家重代の家人新中納言の許に、朝夕祗候の侍也。さこそ世を諂ふならひといひながら、無下に情なかりける者かなとぞ、人皆慚愧しける。其後右衞門督をも、聖前の如くに戒持せ奉り、念佛勸め申。「大臣殿の最後如何おはしましつる。」と問はれけるこそ最愛けれ。「目出たうまし/\候つる也、御心安う思召れ候へ。」と申されければ、涙を流し悦で、「今は思ふ事なし。さらばとう。」とぞ宣ひける。今度は堀彌太郎斬てけり。頸をば判官持せて都へ入る。屍をば公長が沙汰として、親子一つ穴にぞ埋ける。さしも罪ふかく離れがたく宣ひければ、加樣にしてんげり。 同廿三日大臣殿父子の頭都へ入る。檢非違使ども三條河原にいで向て、是を請取り、大路を渡して、獄門の左の樗の木にぞ懸たりける。三位以上の人の頸、大路を渡して獄門に懸けらるゝ事異國には其例もやあるらん。我朝に於は未だ其先蹤を聞かず。されば平治に信頼は惡人たりしかば、頸をばはねられたりしかども獄門には懸けられず。平家にとてぞ懸られける。西國より上ては、生て六條を東へ渡され、東國より歸ては、死んで三條を西へ渡され給ふ。生ての恥、死での恥、何れも劣らざりけり。 [4] NKBT reads が. [5] NKBT reads なれば. -------------------------------------------------------------------------------- 重衡被斬 本三位中將重衡卿は、狩野介宗茂に預られて、去年より伊豆國におはしけるを、南都の大衆頻に申ければ、「さらば渡せ。」とて、源三位入道頼政の孫、伊豆藏人大夫頼兼に仰せて、終に奈良へぞ遣しける。都へは入られずして、大津より山科通りに、醍醐路を經て行けば、日野は近かりけり。此重衡卿の北方と申は鳥飼中納言惟實の女、五條大納言國綱の養子、先帝の御乳母、大納言佐殿とぞ申ける。三位中將一谷で生捕にせられ給ひし後も、先帝に附まゐらせておはせしが、壇浦にて海にいらせ給ひしかば、武士の荒氣なきにとらはれて、舊里に歸り姉の大夫三位に同宿して、日野と云所におはしけり。中將の露の命、草葉の末にかゝて、消やらぬときゝ給へば、夢ならずして今一度見もし見えもする事もやと思れけれども、其も叶はねば、泣より外の慰めなくて明し暮し給ひけり。三位中將、守護の武士に宣ひけるは、「此程事に觸て情ふかう芳心おはしつるこそ、あり難う嬉しけれ。同くは最後に今一度芳恩蒙りたき事あり。我は一人の子なければ、此世に思ひおく事なし。年頃相具したりし女房の、日野と云ふ所に有りと聞く。今一度對面して、後生の事をも申置ばやと思ふ也。」とて片時のいとまをこはれけり。武士共さすが岩木ならねば、各涙を流しつゝ、「何かは苦う候べき。」とて許し奉る。中將斜ならず悦で、「大納言佐殿の御局は是に渡せ給候やらん。本三位中將殿の唯今奈良へ御通り候が、立ながら見參に入らばやと仰候。」と、人を入て言はせけれ ば、北方聞もあへず、「いづらやいづら。」とて、走出て見給へば、藍摺の直垂に、折烏帽子著たる男の、痩黒みたるが、縁に依り居たるぞ、そなりける。北方御簾の際近くよて「如何に夢かや現か、是へ入せ給へ。」と宣ける御聲を聞き給ふに、いつしか、先立つ物は涙也。大納言佐殿は、目もくれ心も消果てしばしは物ものたまはず。三位中將、御簾打かついで、泣々宣ひけるは、「去年の春一谷で如何にも成べかりし身の、責ての罪の報いにや生ながら捕られて大路を渡され、京鎌倉に恥をさらすだに口惜きに、果は奈良の大衆の手に渡されて、斬るべしとて罷り候。如何にもして、今一度御姿を見奉らばやと思ひつるに、今は露ばかりも思置事なし。出家して形見に髮をもたてまつらばやと思へども、許されなければ力及ばず。」とて、額の髮を少し引きわけて口の及ぶ所をくひ切て、「是を形見に御覽ぜよ。」とてたてまつり給へば、北の方は日頃覺束なくおはしけるより今一入悲の色をぞ増し給ふ。「誠に別れ奉りし後は越前三位のうへの樣に、水の底にも沈むべかりしが、正しうこの世におはせぬ人とも聞ざりしかば、もし不思議にて今一度かはらぬ姿を見もし見えもやすると思ひてこそ、憂ながら今迄もながらへて在りつるに、今日を限りにておはせんずらん悲さよ。いまゝで延つるはもしやと思ふ憑みもありつる物を。」とて、昔今の事ども宣ひかはすにつけても、唯盡せぬ物は涙也。「餘りの御姿のしをれてさぶらふに、たてまつりかへよ。」とて袷の小袖に淨衣をそへて出されたりければ、三位中將是を著かへて、元著給へる物どもをば、「形見に御覽ぜよ。」とて置かれけり、北の方、「それもさる事にてさぶらへども、はかなき筆の跡こそ、永き世の 形見にてさぶらへ。」とて、御硯を出されたりければ中將泣々一首の歌をぞ書かれける。 せきかねて涙のかゝる唐衣、のちのかたみにぬぎぞ替ぬる。 北の方きゝもあへず。 ぬぎかふる衣も今は何かせん。けふを限りの形見と思へば。 「契あらば、後世にては必ず生あひ奉らん。一つ蓮にといのり給へ。日も闌ぬ。。奈良へも遠う候、武士の待つも心なし。」とて、出給へば、北方袖にすがりて、「如何にや如何に、暫し。」とて、引留め給ふに、中將「心のうちをば唯推量給ふべし。されども終には遁れ果べき身にもあらず。又來ん世にてこそ見奉らめ。」とて出で給へども、誠に此世にてあひ見ん事は、是ぞ限りと思はれければ、今一度立歸り度おぼしけれども、心弱くては叶はじと思ひきてぞ出られける。北方御簾の際ちかく伏まろびをめき叫給ふ御聲の、門の外まで遙に聞えければ、駒をば更に疾め給はず、涙にくれて行先も見えねば、中々なりける見參かなと、今は悔しうぞ思はれける。大納言佐殿やがてはしりついても、おはしぬべくはおぼしけれども、それもさすがなれば、引覆いてぞ臥給ふ。 さる程に三位中將をば南都の大衆、請取て、僉議す。「抑此重衡卿は、大犯の惡人たる上、三千五刑の中に洩れ、修因感果の道理極定せり。佛敵法敵の逆臣なれば、東大寺興福寺の大垣を廻して鋸にてや斬べき堀首にやすべき。」と僉議す。老僧どもの申されけるは、「それも僧徒の法に穩便ならず。唯守護の武士に給うで、木津の邊にて切らすべし。」とて、武士の手 へぞかへしける。武士是を請取て、木津河の端にて切らんとするに、數千人の大衆、見る人幾等と云數を知らず。三位中將の年比召仕はれける侍に、木工右馬允知時といふ者あり。八條女院に候けるが、最後を見奉らんとて、鞭を打てぞ馳たりける。既に只今斬奉らんとする處に馳著て、千萬立圍うだる人の中を掻き分け三位中將のおはしける御傍近う參りたり。「知時こそ唯今最後の御有樣見參せ候はんとて、是まで參りて候へ。」と泣々申ければ、中將「誠に志の程神妙なり。如何に知時佛を拜み奉て、きらればやと思ふは如何せんずる。あまりに罪深う覺ゆるに。」と宣へば、知時「安い御事候也。」とて、守護の武士に申あはせ、其邊におはしける佛を一體迎へ奉て出きたり。幸に阿彌陀にてぞまし/\ける。河原の沙の上に立參らせ、やがて知時が狩衣の袖のくゝりを解て、佛の御手にかけ、中將に引へさせ奉る。中將是を引へつゝ、佛に向ひ奉て申されけるは、「傳聞く、調達が三逆を作り、八萬藏の聖教を燒滅したりしも、終には天王如來の記 べつに預り、所作の罪業誠に深しといへども、聖教に値遇せし逆縁朽ずして却て得道の因となる。今重衡が逆罪を犯す事、全く愚意の發起に在らず、唯世に隨ふ理を存ずる計也。命をたもつ者誰か王命を蔑如する。生を受くる者誰か父の命を背かん。彼といひ是といひ、辭するに所なし。理非佛陀の照覽にあり。抑罪報たち所に報い、運命唯今を限りとす。後悔千萬悲しんでも餘りあり。但し三寶の境界は、慈悲を心として、濟度の良縁區也。唯縁樂意、逆即是順、此文肝に銘ず。一念彌陀佛、即滅無量罪、願くは逆縁を以て順縁とし、唯今最後の念佛に依て、九品託生を遂べし。」とて高聲 に十念唱へつつ頸を延てぞ切らせられける。日來の惡行はさる事なれども、唯今の有樣を見奉に、數千人の大衆も、守護の武士も、皆涙をぞ流しける。其頸般若寺の大鳥井の前に釘附にこそかけられけれ。治承の合戰の時、爰に打立て、伽藍を滅し給へる故也。 北方大納言佐殿首をはねられたりとも屍をば取寄せて孝養せんとて、輿を迎へに遣す。げにも棄置たりければ取て輿に入れ、日野へ舁てぞ歸ける。これをまちうけ見給ひける北方の心の中、推量られて哀也。昨日まではゆゝしげにおはせしかども、あつき比なれば、何しかあらぬ樣に成り給ひぬ。さても有るべきならねば、其邊に法界寺と云ふ處にてさるべき僧どもあまた語ひて孝養あり。頸をば大佛の聖俊乘房にとかく宣へば大衆に乞て日野へぞ遣しける。頸も屍も煙になし、骨をば高野へ送り、墓をば日野にぞせられける。北方も樣をかへ、後世菩提を弔らはれけるこそ哀なれ。 -------------------------------------------------------------------------------- 平家物語卷第十二 大地震 平家皆滅び果てゝ西國も靜まりぬ。國は國司に隨ひ、庄は領家のまゝなり。上下安堵して覺えし程に、同七月九日の午刻許に大地おびたゞしく動て良久し。赤縣の中白河の邊、六勝寺皆破れ壞る。九重の塔も上六重を震落す。得長壽院も三十三間の御堂を十七間まで振倒す。皇居を始めて、人々の家家惣て在々所々の神社佛閣、怪しの民屋、さながら破れ壞るゝ音は雷の如く、揚る塵は烟の如し。天暗うして、日の光も見えず、老少共に魂を銷し、鳥獸悉く心を盡す。又遠國近國もかくのごとし。大地裂て水湧き出で、磐石破て谷へまろぶ。山壞て河を埋み、海漂ひて濱をひたす。汀漕ぐ船は波にゆられ、陸行く駒は足の立處を失へり。洪水みなぎり來らば、岳にのぼてもなどか助ざらん。猛火燃來らば、川を隔ても暫も去ぬべし。唯悲かりけるは大地震也。鳥にあらざれば空をも翔り難く、龍にあらざれば雲にも又上がたし。白河六波羅京中に打埋れて死る者幾等といふ數をしらず。四大種の中に、水火風は常に害をなせども、大地に於ては異なる變をなさず。こは如何にしつる事ぞやとて上下遣戸障子を立て、天の鳴り地の動度毎には、唯今ぞ死ぬるとて聲々に念佛申、をめきさ けぶ事おびたゞし。七八十、九十の者も、世の滅するなど云事は、さすが今日明日とはおもはずとて大に噪ぎければ、をさなき者どもも聞て、泣悲しむ事限なし。法皇はその折しも新熊野へ御幸成て、人多く打殺され觸穢出來にければ、急ぎ六波羅へ還御なる。道すがら君も臣もいかばかり御心を碎せ給ひけん。主上は鳳輦に召て、池の汀へ行幸なる。法皇は南庭にあく屋を立てぞましましける。女院宮々は、御所共皆震り倒しければ或は御輿に召し、或は御車に召て、出させ給ふ。天文の博士共馳參て、夕さりの亥子の刻には必ず大地打返すべしと申せば、怖しなども愚也。昔文徳天皇の御宇齊衡三年三月八日の大地震には、東大寺の佛の御ぐしを震落したりけるとかや。又天慶二年四月五日の大地震には、主上御殿を去て、常寧殿の前に五丈のあく屋を立ててましましけるとぞ承る。其は上代の事なれば申におよばず。今度の事は是より後も類あるべしとも覺えず。十善帝王都を出させ給て、御身を海底に沈め、大臣公卿大路を渡して其頸を獄門に懸けらる。昔より今に至るまで怨靈は怖しき事なれば世も如何あらんずらんとて心ある人の歎き悲しまぬは無かりけり。 -------------------------------------------------------------------------------- 紺掻沙汰 同八月廿二日、鎌倉の源二位頼朝卿の父故左馬頭義朝のうるはしき頭とて、高雄の文覺上人頸にかけ、鎌田兵衞が頸をば、弟子が頸にかけさせて、鎌倉へぞ下られける。去治承四年の比取出して、たてまつりけるは實の左馬頭の首にはあらず。謀反をすゝめ奉らんためのはか りごとに、そぞろなるふるい頭をしろい布に包んでたてまつりけるに、謀反を起し、世を討取て、一向父の頭と信ぜられける處へ又尋出してくだりけり。是は年來義朝の不便にして召使はれける紺掻の男、年來獄門に懸られて後世弔ふ人も無りし事をかなしんで時の大理に逢ひ奉り申給はり取おろして、兵衞佐殿流人でおはすれども、末たのもしき人なり。もし世に出でて尋ねらるゝ事もこそあれとて東山圓覺寺といふ所に、深う納めて置きたりけるを、文覺聞出して、彼紺掻男共に、相具して下りけるとかや。今日既に鎌倉へ著くと聞えしかば、源二位片瀬河まで迎におはしけり。其より色の姿に成て、泣々鎌倉へ入給ふ。聖をば大床に立て、我身は庭に立て、父の頭を請取り給ふぞ哀なる。是を見る大名小名、皆涙を流さずと云事なし。せき巖の峻しきを伐掃て、新なる道場を造り、父の御爲と供養して、勝長壽院と號せらる。公家にもか樣の事を哀と思食て、故左馬頭義朝の墓へ、内大臣正二位を贈らる。勅使は左大辨兼忠とぞ聞えし。頼朝卿武勇の名譽長ぜるによて、身を立て家を興すのみならず、亡父聖靈、贈官贈位に及けるこそ目出たけれ。 -------------------------------------------------------------------------------- 平大納言被流 同九月二十三日、平家の餘黨の都にあるを、國々へ遣はさるべき由鎌倉殿より公家へ申されたりければ、平大納言時忠卿能登國、子息讃岐中將時實上總國、内藏頭信基安藝國、兵部少輔正明隱岐國、二位僧都專親阿波國、法勝寺執行能圓備後國、中納言律師忠快武藏國とぞ聞え し。或西海の波の上、或東關の雲の果て、先途何くを期せず、後會其期を知らず、別の涙を押て、面々に赴かれけん心の中推量れて哀なり。其中に平大納言は、建禮門院の吉田に渡らせ給ふ處に參て「時忠こそ責重うして、今日既に配所へ趣き候へ。同じ都の内に候て、御當りの御事共承はらまほしう候つるに、終に如何なる御有樣にて渡らせ給ひ候はんずらむと、思置參せ候にこそ、行空も覺ゆまじう候へ。」と、泣々申されければ、女院、「げにも昔の名殘とては、そこばかりこそおはしつれ。今はあはれをもかけ、吊ふ人も誰かは有るべき。」とて御涙せきあへさせ給はず。 此大納言と申は、出羽前司具信が孫、兵部權大輔贈左大臣時信が子也。故建春門院の御せうとにて高倉の上皇の御外戚なり。世の覺え時のきら目出たかりき。入道相國の北方、八條の二位殿も姉にておはせしかば、兼官兼職、思の如く心の如し。されば程なくあがて正二位の大納言に至れり。檢非違使別當にも三箇度までなり給ふ。此人の廳務の時は、竊盗強盗をば召捕て、樣もなく右のかひなをば腕中より打落し/\追捨らる。されば惡別當とぞ申ける。主上 併三種の神器都へ返し入奉るべき由西國へ院宣を下されたりけるに院宣の御使、花形がつらに、浪形と云燒驗をせられけるも、此大納言のしわざ也。法皇も故女院の御せうとなれば、御形見に御覽ぜまほしう思召しけれども、加樣の惡行によて御憤淺からず。九郎判官も親しうなられたりしかば、いかにもして申宥めばやと思はれけれども叶はず。子息侍從時家とて、十六になられけるが流罪にも漏れて、伯父の時光卿の許におはしけり。母上帥のす け殿の共に、大納言の袂にすがり、袖をひかへて今を限りの名殘をぞ惜みける。大納言、「終にすまじき別かは。」と心強は宣へどもさこそは悲しうも思はれけめ。年闌齡傾て後、さしも睦まじかりし妻子にも、別果て、住慣し都をも、雲井の餘所に顧みて、古へは名にのみ聞し越路の旅に趣き、遙々と下り給ふに、彼は志賀唐崎、是は眞野の入江、交田の浦と申ければ、大納言泣々詠じ給ひけり。 歸りこん事はかた田に引く網の、目にもたまらぬ我涙かな。 昨日は西海の波の上に漂ひて、怨憎會苦の恨を扁舟の内に積み、今日は北國の雪の下に埋れて、愛別離苦の悲みを故郷の雲に重ねたり。 -------------------------------------------------------------------------------- 土佐房被斬 さる程に九郎判官には鎌倉殿より大名十人つけられたりけれども、内々御不審を蒙り給ふ由聞えしかば、心を合せて一人づつ皆下り果にけり。兄弟なる上、殊に父子の契をして去年の正月木曾義仲を追討せしより以降度々平家を攻落し、今年の春滅し果てゝ一天を靜め、四海を澄す。勸賞行はるべき所に、如何なる仔細有て、かゝる聞えあるらんと、上一人を始め奉り下萬民に至るまで、不審をなす。此事は、去春攝津國渡邊より舟汰して八島へ渡り給ひし時、逆櫓立うたてじの論をして、大きに欺かれたりしを、梶原遺恨に思ひて常は讒言しけるに依て也。定て謀反の心もあるらん。大名共差上せば、宇治勢田の橋をも引き、京中の噪 ぎと成て、中々惡かりなんとて土佐房正俊を召て「和僧上て、物詣する樣にてたばかり討て。」と宣ひければ正俊畏て承り、宿所へも歸らず、御前を立て軈て京へぞ上りける。 同九月廿九日土佐房都へついたりけれ共、次の日迄判官殿へもまゐらず。土佐房がのぼりたる由聞給ひ、武藏房辨慶を以て召されければ、やがてつれて參りたり。判官宣ひけるは、「如何に鎌倉殿より御文はなきか。」「指たる御事候はぬ間、御文はまゐらせられず候。『御詞にて申せ。』と候ひしは『當時まで都に別の仔細無く候事、さて御渡候故と覺え候。相構てよく守護せさせ給へ。と申せ。』とこそ仰せられ候つれ。」判官、「よもさはあらじ、義經討に上る御使なり。大名ども差上せば、宇治勢田の橋をも引き都の噪ぎとも成て、中々惡かりなん。和僧上せて物詣する樣にて、たばかて討てとぞ仰附られたるらんな。」と宣へば、正俊大に驚て、「何に依てか、唯今さる事の候べき。聊宿願に依て熊野参詣の爲に罷上て候。」其時判官宣ひけるは、「景時が讒言に依て義經鎌倉へもいれられず、見參をだにし給はで追上せらるゝ事は如何に。」正俊「其事は如何候らん、身においては全く御後ぐらう候はず。起請文を書き進らすべき」由申せば。判官「とてもかうても、鎌倉殿によしと思はれ奉たらばこそ。」とて、以外氣色惡しげに成り給ふ。正俊一旦の害をのがれんがために居ながら七枚の起請文を書て或は燒て飮み、或は社に納などして、ゆりて歸り、大番衆に觸回して其夜やがて寄せんとす。判官は磯禪師といふ白拍子の娘しづかと云女を最愛せられけり。しづかも傍を立去る事なし。しづか申けるは、「大路は皆武者で候ふなる。是より催の無らんに、大番衆の者どもの是程噪 ぐべき樣やさぶらふ。あはれ是は晝の起請法師のしわざと覺え候。人を遣して見せさぶらはばや。」とて、六波羅の故入道相國の召使かはれける禿を三四人使はれけるを、二人遣したりけるが、程ふるまで歸らず。中々女は苦しからじとて半者を一人見せに遣す。程なく走り歸て申けるは、「禿と覺しきものは、二人ながら土佐房の門に切伏られて候。宿所には鞍おき馬ども、ひしと引立て、大幕の内には、矢負、弓張、者共皆具足して唯今寄んと出立候ふ。少も物詣の景色とは見え候はず。」と申ければ、判官是を聞いてやがて討立給ふ。靜著背長取て投懸奉る。高紐計して、太刀取て出給へば、中門の前に馬に鞍置て引立たり、是に打乘て「門を開よ。」とて門あけさせ、今や/\と待給ふ處に、暫有て直甲四五十騎門の前に推寄せて、閧をどとぞ作ける。判官鐙蹈張り立あがり、大音聲をあげて、「夜討にも晝戰にも、義經たやすう討つべき者は、日本國にはおぼえぬものを。」とて只一騎おめいて懸け給へば、五十騎ばかりの者共中をあけてぞ通しける。さる程に、江田源三、熊井太郎、武藏坊辨慶など云一人當千の兵共、やがて續いて責戰ふ。其後侍共御内に夜討入たりとて、あそこの屋形、爰の宿所より駈來る。程なく六七十騎集ければ、土佐房猛く寄たりけれども、戰に及ばず、散々に懸散されて扶かる者はすくなう、討るゝ者ぞ多かりける。正俊希有にしてそこをばのがれて鞍馬の奧ににげ籠りたりけるが、鞍馬は判官の故山なりければ、彼法師土佐房を搦めて、次日判官の許へ送りけり。僧正が谷と云所に隱れ居たりけるとかや。正俊を大庭に引居たり。かちの直垂にすちやう頭巾をぞしたりける。判官笑て宣ひけるは「いかに和僧、起請にはうてた るぞ。」土佐房少しも噪がず、居なほりあざ笑て申けるは。「ある事に書て候へば、うてて候ぞかし。」と申す。「主君の命を重んじて、私の命を輕んず、志の程最神妙也。和僧命惜くば、鎌倉へかへし遣さんはいかに。」土佐房、「正なうも御諚候者哉。惜しと申さば、殿は扶け給はんずるか。鎌倉殿の、法師なれども、己ぞねらはんずる者とて、仰蒙しより、命をば鎌倉殿に奉りぬ。なじかは取返奉るべき。只御恩には疾々頭を召され候へ。」と申ければ、「さらばきれ。」とて、六條河原に引出て切てげり。褒めぬ人こそ無りけれ。 -------------------------------------------------------------------------------- 判官都落 ここに足立新三郎といふ雜色は、「きやつは下臈なれども、以外さか/\しいやつで候。召使ひ給へ。」とて、判官に參せられたりけるが「内々九郎が振舞見て、我に知せよ。」とぞ宣ひける。正俊がきらるゝを見て、新三郎夜を日についではせ下り、鎌倉殿に此由申ければ、舍弟參河守範頼を、討手に上せ給ふべき由仰られけり。頻に辭申されけれども、重て仰られける間、力及ばで物具して、暇申に參られたり。「わ殿も九郎がまねし給ふなよ。」と仰られければ、此御詞に恐れて、物具脱置て京上はとどまり給ひぬ。全く不忠なき由一日に十枚づゝの起請を晝は書き、夜は御坪の内にて讀上讀あげ百日に千枚の起請を書て參らせられたりけれども、叶はずして終に討たれ給ひけり。其後北條四郎時政を大將として討手のぼると聞えしかば、判官殿鎭西の方へ落ばやと思ひ立ち給ふ處に緒方三郎維義は平家を九國の内へも入 奉らず、逐出す程の威勢の者なりければ、判官「我に憑まれよ。」と宣ひける。「さ候はば、御内に候菊池次郎高直は、年來の敵で候。給はて頸を切て憑まれ參らせん。」と申。左右なくたうだりければ、六條河原に引出して切てげり。其後維義かひ/\しう領状す。 同十一月二日、九郎大夫判官院御所へ參て、大藏卿泰經朝臣を以て、奏聞しけるは「義經君の御爲に奉公の忠を致す事、事あたらしう始て申上るに及候はず。しかるを頼朝、郎等共が讒言に依て、義經をうたんと仕候間暫く鎭西の方へ罷下らばやと存候。院の廳の御下文を一通下預候ばや。」 [1]と申されけれは、法皇「此條頼朝がかへり聞かん事いかゞあるべからん。」とて諸卿に仰合られければ、「義經都に候て關東の大勢亂入候はゞ京都の狼藉絶え候べからず。遠國へ下候なば暫く其恐あらず。」とおの/\一同に申されければ、緒方三郎をはじめて、臼杵、戸次、松浦黨、惣じて鎭西の者共義經を大將として其下知にしたがふべき由廳の御下文を給はてければ、其勢五百餘騎明る三日卯刻に京都に聊の煩も成さず、波風も立てずして下りにけり。攝津の國源氏、太田太郎頼基、「我門の前を通しながら矢一つ射懸で有るべきか。」とて、河原津と云ふ所に追著て責戰ふ。判官は五百餘騎、太田太郎は六十餘騎にて有ければ、中に取籠め「餘すな泄すな。」とて散々に攻給へば、太田太郎吾身も手負ひ、家子郎等多く討せ、馬の腹射させて引退く。判官頸共切り懸けて、軍神に祭り、「門出好し。」と悦で大物浦より船に乘て下られけるが、折節西の風烈しく吹き住吉の浦に打上られて、吉野の奧にぞ籠りける。吉野法師にせめられて、奈良へ落つ。奈良法師にせめられて、又都へ歸り入、北國に かゝて終に奧へぞ下られける。都より相具したりける女房達十餘人、住吉の浦に捨置きたれば、松の下、砂の上に袴蹈しだき、袖を片敷て泣臥したりけるを、住吉の神官共あはれんで、皆京へぞ送りける。凡判官の憑まれたりける伯父信太三郎先生義教、十郎藏人行家、緒方三郎維義が船共、浦々島々に打寄せられて、互に其行末をしらず。忽に西の風吹ける事も、平家の怨靈の故とぞおぼえける。同十一月七日鎌倉の源二位頼朝卿の代官として北條四郎時政、六萬餘騎を相具して都へ入。明る八日院參して伊豫守源義經、備前守同行家、信太三郎先生同義教、追討すべき由奏聞しければやがて院宣を下されけり。去二日は、義經が申請る旨に任せて、頼朝を背べき由廳の御下文成され、同八日は、頼朝卿の申状に依て、義經追討の院宣を下さる。朝にかはり夕に變ずる世間の不定こそ哀なれ。 さる程に、鎌倉殿日本國の惣追捕使を給はて、段別に兵粮米を宛行ふべき由、申されければ、「昔より朝の怨敵を亡したる者は半國を給はるといふ事、無量義經に見えたり。されども吾朝にはいまだ其例なし。是は頼朝が過分の申状なり。」と法皇仰なりけれども、公卿僉議あて、「頼朝卿の申さるる處道理半なり。」とて諸卿一同に申されければ、御許されありけるとかや。諸國に守護を置き、庄園に地頭を補せらる。一毛許も隱べき樣なかりけり。鎌倉殿か樣の事、公家にも人多しといへども吉田大納言經房卿をもて奏聞せられけり。此大納言は、うるはしい人と聞え給へり。平家に結ぼほれたりし人々も、源氏の世の強りし後は或文を下し、或使者を遣し、樣々諂ひ給ひしかども、此人はさもし給はず。されば平家の時も法皇を鳥羽殿に 押籠參せて後院の別當を置かれしにも、勘解由小路中納言、此經房卿二人をぞ後院の別當には成されたりける。權右中辨光房朝臣の子也。十二の年、父の朝臣失せ給ひしかば、孤にておはせしかども、次第に昇進滯らず、三事の顯要を兼帶して、夕郎の貫首を經、參議、大辨、太宰帥正二位大納言に至れり。人をば越給へ共、人には越られ給はず。されば人の善惡は、錐嚢をとほすとて遂に隱なし。有がたかりし人なり。 [1] Nihon Koten Bungaku Taikei (Tokyo: Iwanami Shoten, vol. 33, 1957; hereafter cited as NKBT) reads と申ければ. -------------------------------------------------------------------------------- 六代 北條四郎策に「平家の子孫といはん人、尋出したらん輩に於ては、所望請ふに依べし。」と披露せらる。京中の者共案内は知たり、「勸賞蒙らん。」とて、尋求るぞうたてき。かゝりければ、幾等も尋出したりけり。下臈の子なれども、色白う眉目好きをば召し出いて「是はなんの中將殿の若君、彼少將殿の君達。」と申せば、父母泣悲めども、「あれは介錯が申候、あれは乳母が申。」なんど云ふ間、無下にをさなきをば水に入、土に埋み、少し長しきをば押殺し、刺殺す。母の悲み乳母が歎き喩へん方ぞ無りける。北條も子孫さすが多ければ、是をいみじとは思はねど、世に隨ふ習なれば、力及ばず。 中にも小松三位中將殿若君、六代御前とておはす也、平家の嫡々なる上、年もおとなしうまします也。如何にもしてとり奉らんとて、手を分てもとめられけれども、求かねて下らんとせられける所に、或女房の六波羅に出て申けるは「是より西遍照寺の奧、大覺寺と申す山寺 の北の方、菖蒲谷と申す所にこそ、小松三位中將殿の北方、若君、姫君おはしませ。」と申せば、時政やがて人をつけて其邊を窺はせける程に、或坊に女房達少き人餘たゆゝしく忍びたる體にて住ひけり。まがきの隙よりのぞきければ、白い狗の走出たるを取らんとて、美氣なる若君の出給へば、乳母の女房と覺しくて、「あな淺まし、人もこそ見參らすれ。」とて、いそぎ引入奉る。「是ぞ一定そにておはしますらん。」と思ひ、急ぎ走り歸てかくと申せば、次の日北條かしこに打向ひ、四方を打圍み、人をいれていはせけるは、「平家小松三位中將殿の若君六代御前、是におはしますと承はて、鎌倉殿の御代官に北條四郎時政と申者が、御迎に參て候、はや/\出し參させ給へ。」と申されければ、母上之を聞給ふに、つや/\物も覺え給はず。齋藤五、齋藤六、走り廻て見けれども、武士ども四方を打圍み、いづかたより出し奉るべしともおぼえず。乳母の女房も、御前に倒臥し、聲も惜まずをめき叫ぶ。日比は物をだにも高く云はず、忍つゝ隱れ居たりつれども、今は家の中にありとあるもの聲をとゝのへて泣悲しむ。北條も是を聞て世に心くるしげに思ひ、涙拭ひつく%\とぞ待たれける。やゝ有て、重て申されけるは、「世もいまだしづまり候はねば、しどけなき事もぞ候とて御迎に參て候。別の御事は候まじ。はや/\出し參らさせ給へ。」と申されければ、若君母上に申させ給ひけるは、「終に逃るまじう候へばとく/\出させおはしませ。武士共うち入て、さがす物ならば、うたて氣なる御有樣共を見えさせ給ひなんず。たとひ罷出で候とも、暫しも候はゞ、暇乞て歸參り候はん。痛な歎かせ給ひそ。」と。慰め給ふこそいとほしけれ。 さても有るべきならねば、母上泣々御ぐし掻撫で物著せ奉り、既に出し奉らんとし給ひけるが、黒木の珠數のちいさう美しいを取出して、是にて如何にも成らんまで、念佛申て、極樂へ參れよ。」とて奉り給へば、わか君是を取て、「母御前には今日既に離れ參せなんず。今は如何にもして、父のおはしまさん所へぞ參りたき。」と宣ひけるこそ哀なれ。是を聞いて御妹の姫君の十に成り給ふが、「我も父御前の御許へまゐらん。」とて、走り出給ふを、乳母の女房とり留め奉る。六代御前、今年は僅に十二にこそ成り給へども尋常の十四五よりは長しく、みめかたち優におはしければ、「敵に弱げを見えじ。」とて、押ふる袖の隙よりも、餘て涙ぞこぼれける。さて御輿に乘り給ふ。武士共前後左右に打圍で出にけり。齋藤五、齋藤六、御輿の左右に附いてぞ參りける。北條乘替共下して、乘すれども乘らず、大覺寺より六波羅まで徒跣にてぞ走ける。母上乳母の女房、天に仰ぎ地に伏して悶え焦れ給ひけり。「此日來平家の子供取集めて、水に入るゝもあり、土に埋むもあり。押殺し、刺殺し、樣々にすと聞ゆれば、我子は、何としてか失はんずらん。少し長しければ、頸をこそ切んずらめ。人の子は乳母などの許に置きて、時々見る事も有り。それだにも恩愛の道は悲しき習ひぞかし。況や是は生落して後、一日片時も身をはなたず。人の持たぬ物を持ちたる樣に思ひて、朝夕二人の中にてそだてし者を、憑をかけし人にもあかで別し其後は、二人をうらうへにおきてこそ慰みつるに、一人はあれども一人はなし。今日より後は如何がせむ。此三年が間、夜晝肝心を消しつゝ思ひ設つる事なれども、さすが昨日今日とは思寄らず、年比長谷の觀音をこそ深う憑 み奉りつるに、終にとられぬる事の悲しさよ。唯今もや失ひつらん。」と掻口説泣より外の事ぞなき。さ夜深けれども胸せきあぐる心ちして露もまどろみ給はぬが、良有て乳母の女房に宣ひけるは、「只今ちと打目睡みたりつる夢に、此子が白い馬に乘りて來つるが、『あまりに戀しう思參せ候へば暫し暇乞うて參りて候。』とて、傍につい居て、何とやらん世に恨しげに思ひてさめ%\と泣きつるが、程なく打おどろかされて若やとかたはらを探れども人もなし。夢なりとも暫しもあらで、覺ぬる事の悲しさよ。」とぞ語り給ふ。乳母の女房も泣きけり。長き夜もいとど明しかねて涙に床も浮計なり。 限あれば、 鷄人曉を唱て夜もあけぬ。齋藤六歸り參りたり。「さて如何にやいかに。」と問ひ給へば「唯今までは別の御事も候はず。御文の候。」とて、取出いて奉る。あけて御覽ずれば「如何に御心苦しう思食され候らん。唯今までは別の事も候はず。いつしかたれ%\も御戀しうこそ候へ。」とよに長しやかに書き給へり。母上是を見給ひて、とかうの事ものたまはず。御文をふどころに引入てうつぶしにぞなられける。誠に心の中さこそはおはしけめと推量られて哀なり。 かくて遙に時刻推移りければ、齋藤六、「時の程も覺束なう候に、歸參らん。」と申せば、母上泣泣御返事書いて給でけり。齋藤六暇申て罷り出づ。乳母の女房責ても心のあられずさに、走り出でて何くを指ともなくその邊を足に任せて泣きありく程に、或人の申けるは、「此奧に高雄といふ山寺あり。その聖文覺坊と申人こそ、鎌倉殿にゆゝしき大事の人に思はれ參せてお はしますが、上臈の御子を御弟子にせんとて、ほしがらるなれ。」と申ければ、嬉しき事を聞きぬと思ひて母上にかくとも申さず、唯一人高雄に尋入り、聖に向ひ奉て、「ちの中よりおほしたて參せて、今年十二に成らせ給ひつる若君を、昨日武士にとられて候。御命乞請參せ給ひて、御弟子にせさせ給ひなんや。」とて、聖の前に倒伏し、聲をも惜まず泣き叫ぶ。誠にせんかたなげにぞ見えたりける。聖無慚におぼえければ、事の仔細をとひ給ふ。起あがて泣々申けるは、「平家小松三位の中將の北方の親しうまします人の御子を養ひ奉るを、若中將殿の公達とや、人の申候ひけん。昨日武士の取り參せて罷り候ひぬるなり。」と申。「さて武士をば誰といひつる。」「北條とこそ申候ひつれ。」聖、「いでさらば行向ひて尋ねん。」とて、つき出ぬ。此詞を憑むべきにはあらねども、聖のかくいへば、今少し人の心ち出來て急ぎ大覺寺へ歸り參り、母上にかくと申せば、「身を投に出ぬるやらんと思ひて、我も如何ならん淵河にも身を投んと思ひたれば。」とて、事の仔細を問給ふ。聖の申つる樣を有のまゝに語りければ、「あはれ乞請て、今一度見せよかし。」とて、手を合せてぞ泣かれける。 聖六波羅に行むかて事の仔細を問ひ給ふ。北條申されけるは、「鎌倉殿の仰には、平家の子孫京中に多く忍んでありと聞く。中にも小松三位中將の子息中御門の新大納言の娘の腹にありと聞く。平家の嫡々なる上年もおとなしかんなり。如何にも尋出して、失ふべしと、仰を蒙て候ひしが、此程末々のをさなき人をば少々取奉て候つれども、此若君は在所をしり奉らず、尋かねて既に空しう罷下らんとし候つるが、思はざる外、一昨日聞出して、昨日迎へ奉て候 へども、斜ならず美しうおはする間、あまりに最愛くて未ともかうもし奉らで置き參らせて候。」と申せば、聖、「いでさらば見奉らん。」とて、若君のおはしける處へ參て見參せ給へば、二重織物の直垂に、黒木の數珠手に貫入ておはします。髮のかゝり姿骨柄誠にあてに美しく此世の人とも見え給はず。今夜打とけて、寢給はぬと覺しくて、少し面痩給へるにつけていとゞ心苦しうらうたくぞ覺えける。聖を御覽じて、何とかおぼしけん。涙ぐみ給へば、聖も是を見奉てそゞろに墨染の袖をぞ絞りける。縱ひ末の世に如何なるあた敵になるとも、いかゞ是を失ひ奉るべきと悲しうおぼえければ、北條に宣ひけるは、「此若君を見奉るに、先世の事にや候らん、餘りに最愛う思ひ奉り候。廿日が命を延べて給べ。鎌倉殿へ參て申預り候はむ。聖鎌倉殿を世にあらせ奉らんとて我身も流人でありながら院宣伺ひ奉らんとて京へ上るに、案内も知らぬ富士川の尻に夜渡り懸て、既に押流されんとしたりし事、高市の山にてひはぎにあひ、手をすて命ばかり生、福原の籠の御所へ參り、前右兵衞督光能卿に付き奉て院宣申出て奉りし時の御約束には、如何なる大事をも申せ、聖が申さん事をば、頼朝が一期の間は叶へんとこそ宣ひしか。其後も度々の奉公かつは見給ひし事なれば、事新う始めて申べきにあらず、契を重うし命を輕うす。鎌倉殿に受領神つき給はずば、よも忘れ給はじ。」とて、其曉立にけり。齋藤五、齋藤六、是をきゝ聖を生身の佛の如く思ひて、手を合て涙を流す。急ぎ大覺寺へ參て、この由申ければ、是を聞き給ひける母上の心の中いかばかりかは嬉かりけん。されども鎌倉のはからひなれば、いかゞあらんずらむと覺束なけれども、當時聖の憑し 氣に申て下ぬる上、廿日の命の延給に、母上乳母の女房少し心も取延て、偏に觀音の御助なればと憑しうぞ思はれける。 かくてあかし暮し給ふ程に、廿日の過るは夢なれや。聖はいまだ見えざりけり、何と成ぬる事やらんとなか/\心苦うて、今更又悶え焦れ給ひけり。北條も、「文覺房の約束の日數もすぎぬ、さのみ在京して、年を暮すべきにもあらず。今は下らん。」とてひしめきければ、齋藤五、齋藤六、手を握り肝魂を碎けども、聖も未だ見え給はず、使者をだにも上せねば、思ふばかりぞ無りける。此等大覺寺へ歸り參て、「聖も未だ上り給はず、北條も曉下向仕候。」とて、左右の袖を顏に押當て涙をはらはらと流す。是を聞き給ひける母上の心の中如何ばかりかは悲しかりけむ。「哀長しやかならん者の聖の行逢ん所まで六代を具せよと言へかし。若乞請ても上らんに先に斬りたらん悲しさをば如何せむずる。さてとく失ひげなるか。」と宣へば、「やがて此曉の程とこそ見えさせ給候へ。其故は、此程御とのゐ仕候つる北條の家子郎等ども、よに名殘惜氣に思ひ參せて或は念佛申す者も候。或は涙を流す者も候。」「さて此子は何として有ぞ。」と宣へば、「人の見まゐらせ候時は、さらぬ樣にもてないて、御數珠をくらせおはしまし候が、人の候はぬ時は、御袖を御顏に押當て、涙に咽ばせ給ひ候。」と申。「さこそあるらめ。をさなけれども、心長しやかなる者なり。今夜限りの命と思て、いかに心細かるらん。暫しもあらば、いとま乞て參らんといひしかども、廿日にあまるに、あれへも行かず、是へも見えず。今日より後又何れの日何れの時相見るべしともおぼえず。さて 汝等は如何が計らふ」と宣へば、「是はいづくまでも御供仕り、むなしう成せ給ひて候はゞ御骨を取り奉り高野の御山に納奉り、出家入道して後世を弔ひまゐらせんとこそ思ひなて候へ。」と申。「さらば餘りに覺束なう覺ゆるに、とう歸れ。」と宣へば、二人の者泣々暇申て罷出づ。さる程に、同十二月十六日北條四郎若君具し奉て既に都を立にけり。齋藤五、齋藤六、涙にくれて行先も見えねども、最後の所までと思ひつゝ泣々御供に參りけり。北條、「馬に乘れ。」と云へども乘らず。「最後の供で候へば、苦しう候まじ。」とて、血の涙を流しつつ脚にまかせてぞ下ける。六代御前はさしも離れ難くおぼしける母上乳母の女房にも別果て、住馴し都をも雲井の餘所に顧みて、今日を限の東路におもむかれけん心の中、推量られて哀なり。駒を早むる武士あれば、我頸討んずるかと肝をけし、物言ひかはす人あれば、既に今やと心を盡す。四宮河原と思へ共、關山をも打越えて、大津の浦に成にけり。粟津が原かと窺へども今日もはや暮にけり。國々宿々打過々々行程に、駿河國にもつき給ひぬ。若君の露の御命、今日を限とぞ聞えける。 千本の松原に武士共皆下り居て御輿舁居させ、敷皮敷いて若君を居奉る。北條四郎若君の御前近う參て申されけるは、「是まで具し參せ候つるは別の事候はず。若道にて聖にもや行逢ひ候、と待ち過し參せ候つる也。御心ざしの程は見えまゐらせ候ぬ。山のあなたまでは、鎌倉殿の御心中をも知りがたう候へば、近江國にて失ひ參せて候由披露仕候べし。誰申候共、一業所感の御事なれば、よも叶はじ。」と泣々申ければ、若君ともかうも其返事をばし給はず。 齋藤五、齋藤六をちかう召て、「我如何にも成りなん後、汝等都に歸て、穴賢、道にてきられたりとは申すべからず。其故は、終には隱れあるまじけれども、正しう此有樣聞いて、餘に歎き給はゞ、草の影にても心苦しうおぼえて後世の障りともならんずるぞ。鎌倉まで送りつけて參て候と申べし。」と宣へば、二人の者共肝魂も銷果て暫しは御返事にも及ばず。稍有て齋藤五「君におくれまゐらせて後命生て安穩に都まで上りつくべしとも覺候はず。」と涙を抑てふしにけり。既に今はの時に成しかば、若君御ぐしの肩にかゝりたりけるを、よにうつくしき御手をもて前へ打越し給ひたりければ、守護の武士ども見まゐらせて「あないとほし。いまだ御心のましますよ。」とて皆袖をぞぬらしける。其後西にむかひ手を合て靜に念佛唱つゝ頸をのべてぞ待給ふ。狩野工藤三親俊切手にえらばれ、太刀を引側めて左の方より御後に立廻り、既に切り奉らんとしけるが、目も暮れ心も消果て、何くに太刀を打つくべしとも覺えず、前後不覺に成りしかば、「仕つとも覺候はず、他人に仰附られ候へ。」とて、太刀を捨て退にけり。「さらば、あれ切れ、これ切れ。」とて、切手を選ぶ處に、墨染の衣著て月毛なる馬に乘たる僧一人、鞭をあげてぞ馳たりける。「あないとほし、あの松原の中に、世にうつくしき若君を、北條殿の斬らせたまふぞや。」とて、者どもひし/\と走り集りければ、此僧「あな心う」とて、手をあがいてまねきけるが、猶おぼつかなさに、きたる笠をぬぎ、指上てぞ招ける。北條「仔細あり。」とて待處に此僧走ついて、急ぎ馬より飛おり、暫く息を休めて、「若君許されさせ給ひて候。鎌倉殿の御教書是に候。」とて取出して奉る。北條披て見給へば、誠や、 小松三位中將維盛卿子息尋出され候なる高雄の聖御房申請けんと候。疑をなさず預け奉るべし。 北條四郎殿へ    頼朝 とあそばして御判あり。二三遍推返し々々讀で後、「神妙々々」とて打置れければ、齋藤五、齋藤六はいふに及ばず、北條の家子郎等共も皆悦の涙をぞ流しける。 -------------------------------------------------------------------------------- 長谷六代 さる程に、文覺房もつと出きたり、若君乞請たりとて、氣色誠にゆゆしげなり。「『此若君の父三位中將殿は、初度の戰の大將軍也。誰申とも叶ふまじ。』と宣ひつれば『文覺が心を破ては、爭か冥加もおはすべき。』など惡口申つれども、猶『叶まじ。』とて、那須野の狩に下り給し間、剩文覺も狩場の供して、漸々に申てこひ請たり。いかに遲うおぼしつらん。」と申されければ、北條「廿日と仰せられ候ひし御約束の日數も過候ぬ。鎌倉殿の御宥れなきよと存じて、具し奉て下る程に、かしこうぞ、爰にて誤ち仕候らんに。」とて、鞍置て引せたる馬共に齋藤五、齋藤六を乘せて上せらる。我身も遙に打送り奉て、「暫く御供申たう候へども、鎌倉殿に指て申べき大事共候。暇申て。」とて打別れてぞ下られける。誠に情深かりけり。 聖若君を請とり奉て、夜を日についで馳上る程に、尾張國熱田の邊にて、今年も既に暮ぬ。明る正月五日の夜に入て、都へ上り著く。二條猪熊なる所に、文覺坊の宿房ありければ、其 に入奉て、暫く休奉り、夜半ばかり大覺寺へぞおはしける。門をたゝけども、人なければ音もせず。築地の壞より若君の飼ひ給ひける白い狗の走り出て、尾を振て向ひけるに、若君「母上はいづくに在ますぞ。」ととはれけるこそせめての事なれ。齋藤六、築地を越え、門を開て入奉る。近う人の住だる所とも見えず。若君「いかにもしてかひなき命をいかばやと思しも戀しき人を今一度見ばやと思ふ爲なり。こはされば何と成り給ひけるぞや。」とて夜もすがら泣悲み給ふぞ誠に理と覺えて哀なる。夜を待明して近里の者に尋給へば、「年の内は大佛參りとこそ承候ひしか。正月の程は、長谷寺に御籠と聞え候しが、其後は御宿所へ人の通ふとも見え給はず。」と申ければ、齋藤五急ぎ長谷へ參て尋あひ奉り、此由申ければ、母上、乳母の女房つや/\現とも覺え給はず、「是はされば夢かや夢か。」とぞ宣ひける。急ぎ大覺寺へ出させたまひ、若君を御覽じて嬉しさにも只先立つ物は涙なり。「疾々出家し給へ。」と仰られけれども、聖惜み奉て、出家もせさせ奉らず。やがて迎へとて高雄に置奉り、北の方の幽なる御有樣をも訪ひけるとこそ聞えし。觀音の大慈大悲は、罪有も罪無をも助給へば昔もかゝるためし多しといへども、ありがたかりし事共なり。 さる程に北條四郎六代御前具し奉て下りけるに、鎌倉殿御使鏡宿にて行合たりけるに、「如何に」と問へば、「十郎藏人殿、信太三郎先生殿、九郎判官殿に同心の由聞え候。討奉れとの御氣色で候。」と申。北條「吾身は大事の召人具したれば。」とて甥の北條平六時貞が送りに下りけるを、おいその森より「疾和殿は歸て此人人おはし處聞出して討て參せよ。」とてとゞめら る。平六都に歸て尋る程に十郎藏人殿の在所知たりといふ法師出來たり。彼僧に尋れば「我はくはしうはしらず、知りたりといふ僧こそあれ。」といひければ、押寄せて彼僧を搦捕る。「是はなんの故に搦るぞ」。「十郎藏人殿の在所知たなれば搦むる也。」「さらば教へよとこそいはめ。さうなうからむる事は如何に。天王寺にとこそ聞け。」「さらばじんじよせよ。」とて、平六が聟の小笠原十郎國久、殖原九郎、桑原次郎、服部平六を先として其勢三十餘騎、天王寺へ發向す。十郎藏人の宿は二所あり。谷の學頭伶人兼春秦六秦七と云者の許也。二手に作て押寄たり。十郎藏人は兼春が許におはしけるが、物具したる者共の打入を見て後より落にけり。學頭が娘二人あり。ともに藏人のおもひものなり。是等を捕へて藏人のゆくへを尋ぬれば姉は「妹に問へ。」といふ。妹は「姉に問へ。」といふ。俄に落ぬる事なれば、誰にもよも知らせじなれども、具して京へぞ上りける。 藏人は熊野の方へ落けるが、只一人ついたりける侍、足を疾ければ、和泉國八木郷といふ處に逗留してこそ居たりけれ。彼の主の男、藏人を見知て夜もすがら京へ馳上り、北條平六につげたりければ「天王寺の手の者はいまだのぼらず、誰をか遣るべき。」とて大源次宗春といふ郎等をようで「汝が宮立たりし山僧はいまだあるか。」「さ候。」「さらば呼べ。」とて、喚ばれければ、件の法師出來たり。「十郎藏人のまします。討て鎌倉殿に參せて御恩蒙り給へ。」と云ければ、「承り候ぬ。人を給び候へ。」と申。「軈て大源次下れ、人もなきに。」とて舍人雜色人數僅に十四五人相そへてつかはす。常陸房正明と云者也。和泉國に下つき彼家に走り入て見 れ共なし。板敷打破てさがし、塗ごめの内を見れ共なし。常陸房大路に立て見れば、百姓の妻とおぼしくて長敷き女の通りけるを捕へて、「此邊に恠しばうたる旅人のとどまたる處やある。いはずば切て捨ん。」と云へば、「只今さがされ候つる家にこそ夜邊まで世に尋常なる旅人の二人とどまて候つるが、今朝など出て候ふやらん。あれに見え候ふ大屋にこそ今は候ふなれ。」と云ひければ、常陸房黒革威の腹卷の袖著けたるに大太刀帶て彼家に走入てみれば、歳五十計なる男のかちの直垂に折烏帽子著て唐瓶子菓子などとりさばくり、銚子どももて酒勸めむとする處に、物具したる法師の打入を見て、かいふいて逃ければやがて續いて逐懸たり。藏人「あの僧。や、それは在ぬぞ。行家はこゝにあり。」と宣へば、走歸て見るに白い小袖に大口ばかり著て、左の手には金作りの小太刀をもち、右の手には野太刀の大なるを持たれたり。常陸房「太刀投させ給へ。」と申せば、藏人大に笑はれけり。常陸房走寄てむずと切る。丁と合せて跳り退く。又寄て切る。丁と合せてをどりのく。寄合寄逃き一時ばかりぞ戰うたる。藏人後なる塗籠の内へしざり入らんとし給へば、常陸房「まさなう候。な入せ給ひ候そ。」と申せば、「行家もさこそ思へ。」とて又跳り出て戰ふ。常陸房太刀を棄てむずと組んでどうと臥す。上に成り下に成り、ころび合ふ處に、大源次つと出きたり。餘に遽てゝ帶たる太刀をば拔で、石を握て藏人の額をはたと打て打破る。藏人大に笑て「己は下臈なれば。太刀長刀でこそ敵をばうて。礫にて敵打樣やある。」常陸房「足を結へ。」とぞ下知しける。常陸房は敵が足を結へとこそ申けるに、餘に遽てて四の足をぞ結たりける。其後藏人の頸に繩を懸て搦め 引起して押居たり。「水參せよ。」と宣へば干飯を洗て參せたり。水をばめして、干飯をばめさず差し置き給へば、常陸房取て食うてけり。「和僧は山法師か。」「山法師で候。」「誰といふぞ。」西塔の北谷法師常陸房正明と申者で候。」「さては行家に仕はれむといひし僧か。」「さ候。」「頼朝が使か。平六が使歟。」「鎌倉殿の御使候。誠に鎌倉殿をば討參せんと思めし候ひしか。」「是程の身に成て後思はざりしといはゞ如何に、思ひしといはば如何に。手次の程はいかゞ思程の身に成て後思はざりしといはゞ如何に、思ひしといはば如何に。手次の程はいかゞ思ひつる。」と宣へば、「山上にて多の事に逢て候に、未だ是程手剛き事に合候はず、よき敵三人に逢たる心地こそし候つれ。」と申す。「さて正明をばいかゞ思召され候つる。」と申せば、「それはとられなん上は。」とぞ宣ひける。「其太刀取寄せよ。」とて見給へば、藏人の太刀は一所も不切常陸房が太刀は四十二所切れたりけり。やがて傳馬立させ乘奉て上るほどに、其夜は江口の長者が許に泊て夜もすがら使を走らかす。明る日の午刻ばかり北條平六其勢百騎ばかり旗さゝせて下るほどに淀の赤井河原で行合たり。「都へはいれ奉るべからずといふ院宣で候。鎌倉殿の御氣色も其儀でこそ候へ。はや/\御頸を給はて鎌倉殿の見參にいれて御恩蒙り給へ。」といへば、さらばとて赤井河原で十郎藏人の頸を切る。 信太三郎先生義教は醍醐の山に籠たる由聞しかば、おし寄てさがせどもなし。伊賀の方へ落ぬと聞えしかば、服部平六を先として伊賀國へ發向す。千度の山寺にありと聞えし間、押寄てからめんとするに袷の小袖に大口ばかり著て金にて打くゝんだる腰の刀にて腹掻切てぞ伏たりける。頸をば服部平六とてけり。やがて持せて京へ上り、北條平六に見せたりければ 「やがて持せて下り、鎌倉殿の見參に入て御恩蒙給へ。」といひければ常陸房服部各頸共持せて鎌倉へ下り見參に入たりければ、「神妙なり。」とて常陸房は笠井へ流さる。「下りはては勸賞蒙らんとこそ思ひつるに、さこそ無らめ、剩流罪に處せらるゝ條存外の次第也。かかるべしと知りたらば、何しか身命を捨けん。」と後悔すれども甲斐ぞなき。されども中二年といふに召返され「大將軍討たる者は冥加のなければ一旦戒めつるぞ。」とて但馬國に多田庄、攝津國に葉室二箇所給はて歸り上る。服部平六平家の祗候の人たりしかば沒官せられたりける服部かへし給はてけり。 -------------------------------------------------------------------------------- 六代被斬 さる程に、六代御前はやう/\、十四五にも成給へば、みめ容いよ/\うつくしく、あたりも照り輝くばかりなり。母上是を御覽じて「哀れ世の世にてあらましかば、當時は近衞司にてあらんずるものを。」と、宣ひけるこそ餘りの事なれ。鎌倉殿常は覺束なげにおぼして高雄の聖の許へ便宜毎に、「さても維盛卿の子息、何と候やらむ。昔頼朝を相し給し樣に、朝の怨敵をも滅し會稽の恥をも雪むべき仁にて候か。」と尋ね申されければ、聖の御返事には、「是は底もなき不覺仁にて候ぞ。御心安う思しめし候へ。」と申されけれども、鎌倉殿猶も御心ゆかずげにて「謀反をだに起さば、やがて方人せうずる聖の御房也。但頼朝一期の程は誰か傾くべき、子孫の末ぞ知らぬ。」と宣ひけるこそ怖しけれ、母上是を聞き給ひて、「如何にも叶まじ。 はや/\出家し給へ。」と仰ければ、六代御前十六と申し文治五年の春の比、うつくしげなる髮を肩のまはりに鋏み落し柿の衣袴に笈など拵へ聖に暇乞うて修行に出でられけり。齋藤五、齋藤六も同じ樣に出立て、御供申けり。先づ高野へ參り父の善知識したりける瀧口入道に尋合ひ御出家の次第臨終の有樣、委敷う聞給ひて、且うは其御跡もゆかしとて、熊野へ參給ひけり。濱の宮の御前にて父の渡り給ひける山なりの島を見渡して、渡らまほしくおぼしけれ共、波風向うて叶はねば、力及ばで、詠めやり給ふにも我父は何くに沈み給ひけんと、沖より寄する白波にも、問まほしくぞ思はれける。汀の沙も父の御骨やらんとなつかしうおぼしければ、涙に袖はしをれつゝ鹽くむ海士の衣ならね共、乾く間なくぞ見え給ふ。渚に一夜逗留して念佛申經讀み指の先にて沙に佛の形をかき現して、明ければ貴き僧を請じて父の御爲と供養して、作善の功徳さながら聖靈に廻向して亡者に暇申つゝ泣々都へ上られけり。 小松殿の御子丹後侍從忠房は八島の軍より落て行末も知らずおはせしが、紀伊國の住人湯淺權守宗重を憑んで湯淺の城にぞ籠られける。是を聞いて平家に志思ひける越中次郎兵衞、上總五郎兵衞、惡七兵衞、飛騨四郎兵衞以下の兵共著き奉由聞えしかば、伊賀、伊勢兩國の住人等、我も我もと馳集る。究竟の者共數百騎たてこもたる由聞えしかば、熊野別當、鎌倉殿より仰を蒙て兩三月が間、八箇度寄せて責戰ふ。城の内の兵共命を惜まず、防ぎければ毎度に御方追散され、熊野法師數をつくいて討れにけり。熊野別當、鎌倉殿へ飛脚を奉て當國湯淺の合戰の事兩三ケ月が間に八箇度寄て責戰ふ。されども城の内の兵共命を惜まず、防ぐ間毎 度に味方おひ落されて、敵をしへたぐるに及ばず。近國二三ケ國をも給はて攻め落すべき由申たりければ、鎌倉殿「其條、國の費、人の煩なるべし。楯籠所の凶徒は定めて海山の盗人にてぞあらん。山賊海賊きびしう守護して城の口を固めて守るべし。」とぞ宣ひける。其定にしたりければ、げにも後には人一人もなかりけり。鎌倉殿謀に「小松殿の君達の一人も二人も生殘り給ひたらんをば扶け奉るべし。其故は池の禪尼の使として頼朝を流罪に申宥られしは偏に彼内府の芳恩也。」と宣ひければ、丹後侍從六波羅へ出てなのられけり。軈て關東へ下奉る。鎌倉殿對面して「都へ御上り候へ。片ほとりに思ひ當て參らする事候。」とてすかし上せ奉り追樣に人を上せて勢多の橋の邊にて切てけり。 小松殿の君達六人の外に土佐守宗實とておはしけり。三歳より大炊御門の左大臣經宗卿の養子にて異姓他人になり、武藝の道をば打棄てて文筆をのみ嗜て今年は十八に成り給ふを鎌倉殿より尋はなかりけれども、世に憚て追出されたりければ、先途を失ひ大佛の聖俊乘房のもとにおはして「我は是小松の内府の末の子に土佐守宗實と申者にて候。三歳より大炊御門左大臣經宗養子にして異姓他人になり、武藝のみちをうち捨て、文筆をのみたしなんで生年十八歳に罷成。鎌倉殿より尋らるる事は候はねども、世におそれておひ出されて候。聖の御房御弟子にせさせ給へ。」とて髻推切給ひぬ。「それも猶怖しう思食さば鎌倉へ申て、げにも罪深かるべくは何くへも遣せ。」と宣ひければ、聖最愛思ひ奉て出家せさせ奉り、東大寺の油倉と云所に暫く置奉て關東へ此由申されけり。「何樣にも見參してこそともかうもはからはめ。先 づ下し奉れ。」と宣ひければ、聖力及ばで關東へ下し奉る。此人奈良を立給ひし日よりして飮食の名字を絶て湯水をも喉へいれず、足柄越て關本と云所にて遂に失給ぬ。「如何にも叶まじき道なれば。」とて思切られけるこそ怖ろしけれ。 さる程に建久元年十一月七日鎌倉殿上洛して、同九日正二位大納言に成り給ふ。同十一日大納言の右大將を兼じ給へり。やがて兩職を辭て十二月四日關東へ下向。建久三年三月十三日法皇崩御なりにけり。御歳六十六。瑜珈振鈴の響は其夜を限り、一乘案誦の御聲は其曉に終ぬ。 同六年三月十三日大佛供養有るべしとて二月中に鎌倉殿又御上洛あり。同十二日大佛殿へ參せ給ひたりけるが、梶原を召て「手かいの門の南の方に大衆なん十人を隔てゝ怪しばうだる者の見えつる。召捕て參らせよ。」と宣ひければ、梶原承てやがて召具して參りたり。鬚をば剃て髻をば切らぬ男也。「何者ぞ。」ととひ給へば、「是程運命盡果て候ぬる上はとかう申すに及ばず。是は平家の侍薩摩中務家資と申者にて候。」「それは何と思ひてかくは成りたるぞ。」「もしやとねらひ申候つる也。」「志の程はゆゝしかりけり。」とて供養果てて都へ入せ給ひて、六條河原にて切られにけり。 平家の子孫は去文治元年冬の比一つ子二つ子をのこさず腹の内をあけて見ずと云ばかりに尋取て失ひてき。今は一人もあらじと思ひしに、新中納言の末の子に伊賀大夫知忠とておはしき。平家都を落し時三歳にて棄置かれたりしを乳母の紀伊次郎兵衞爲教養ひ奉てこゝかしこ に隱れありきけるが、備後國大田といふ所に忍びつゝ居たりけり。やうやう成人し給へば、郡郷の地頭守護恠しみける程に都へ上り法性寺の一の橋なる所に忍んでおはしけり。爰祖父入道相國自然の事のあらん時城廓にもせんとて堀を二重に堀て四方に竹を栽られたり。逆茂木引て晝は人音もせず、夜になれば尋常なる輩多く集て詩作り歌を讀み管絃などして遊びける程に何としてか漏れ聞えたりけん、其比人のおぢ怖れけるは一條の二位入道義泰といふ人也。其侍に後藤兵衞基清が子に新兵衞基綱「一の橋に違勅の者あり。」と聞出して、建久七年十月七日辰の一點に其勢百四五十騎一の橋へ馳せ向ひ、をめき叫んで攻め戰ふ。城の内にも三十餘人有ける者共大肩脱に袒いで竹の陰より差詰引詰さんざんに射れば、馬人多く射殺されて面を向ふべき樣もなし。「さる程に一の橋に違勅の者あり。」と聞傳へ在京の武士共我も我もと馳つどふ。程なく一二千騎に成りしかば、近邊の小家を壞ち寄せ堀を填めをめき叫んで攻入けり。城の内の兵共打物拔で走出で、或は討死する者もあり、或は痛手負て自害する者もあり。伊賀大夫知忠は生年十六歳に成られけるが、痛手負て自害し給ひたるを乳母の紀伊次郎兵衞入道膝の上に舁乘せ、涙をはら/\と流いて高聲に十念唱へつつ腹掻切てぞ死にける。其子の兵衞太郎、兵衞次郎共に討死してんげり。城の内に三十餘人有ける者共大略討死自害して館には火を懸けたりけるを武士共馳入て手々に討ける頸共太刀長刀の先に貫ぬき二位入道殿へ馳參る。一條の大路へ車遣出して頸共實檢せらる。紀伊次郎兵衞入道の頸をば見知たる者も少々在り。伊賀大夫の頸、人爭か見知り奉べき。此人の母上は治部卿局とて八 條女院に候はれけるを迎へ寄せ奉て見せ奉り給ふ。「三歳と申し時、故中納言に具せられて西國へ下りし後は生たり共死たりとも其行へを知らず、但故中納言の思出る所々のあるはさにこそ。」とて被泣けるにこそ伊賀大夫の頸とも人知てげれ。 平家の侍越中次郎兵衞盛嗣は但馬國へ落行て氣比四郎道弘が聟に成てぞ居たりける。道弘越中次郎兵衞とは知らざりけり。されども錐嚢にたまらぬ風情にて夜になれば、しうとが馬引出いて馳引したり。海の底十四五町二十町潜などしければ、地頭守護恠しみける程に何としてか漏聞えたりけん。鎌倉殿御教書を下されけり。「但馬國の住人朝倉太郎大夫高清、平家の侍越中次郎兵衞盛嗣當國に居住の由聞食す。めし進せよ。」と仰下さる。氣比四郎は朝倉の大夫が聟なりければ、呼び寄せて「いかゞして搦めんずる。」と議するに、湯屋にてからむべしとて湯に入れてしたゝかなる者五六人おろし合せてからめんとするに、取つけば投倒され、起上れば蹴倒さる。互に身は濕たり、取もためず。されども衆力に強力叶はぬ事なれば、二三十人はと寄て太刀のみね長刀の柄にて打惱して搦捕、やがて關東へ參せたりければ、御前に引居させて事の子細を召問はる。「如何に汝は同平家の侍と云ながら故親にてあんなるに、何とてしなざりけるぞ。」「其れはあまりに平家の脆く滅て在し候間、若やとねらひ參らせ候つるなり。太刀のみの好をも征矢の尻の鐡好をも鎌倉殿の御爲とこそ拵へ持て候つれども、是程に運命盡果候ぬる上はとかう申におよび候はず。」「志の程はゆゆしかりけり。頼朝を憑まば助けて仕はんはいかに。」と仰ければ、「勇士二主に仕へず。盛嗣程の者に御心許し給ひては 必ず御後悔候べし。只御恩には疾々頸を召され候へ。」と申ければ、「さらば切れ。」とて由井の濱に引出いて切てげり。ほめぬ者こそなかりけれ。 其比の主上は御遊をむねとせさせ給ひて、政道は一向卿の局のまゝなりければ、人の愁歎もやまず。呉王劔客を好んじかば、天下に疵を蒙る者たえず。楚王細腰を愛せしかば、宮中に飢て死する女多かりき。上の好に下は隨ふ間世の危き事を悲んで有心人々は歎きあへり。こゝに文覺本より怖き聖にて、いろふまじき事にいろひけり。二の宮は、御學問怠らせ給はず、正理を先とせさせ給ひしかば、如何にもして、此宮を位に即奉らんとはからひけれども、前右大將頼朝卿のおはせし程は叶はざりけるが、建久十年正月十三日、頼朝卿失せ給ひしかば、やがて謀反を起さんとしける程に忽に洩聞えて、二條猪熊の宿所に官人共つけられ召捕て八十に餘て後隱岐國へぞ流されける。文覺京を出るとて、「是程老の波に望て、今日明日とも知ぬ身を、縱勅勘なりとも都の片邊には置給はで隱岐國まで流さるる及丁冠者こそ安からね。終には文覺が流さるゝ國へ迎へ申さんずるものを。」と、申けるこそ怖しけれ。此君は餘に毬杖の玉を愛せさせ給ひければ文覺かやうに惡口申ける也。されば承久に御謀反起させ給ひて、國こそ多けれ、隱岐國へうつされ給ひけるこそ不思議なれ。彼國にても文覺が亡靈荒て、常は御物語申けるとぞ聞えし。 さる程に六代御前は、三位禪師とて、高雄に行ひすましておはしけるを、「さる人の子也。さる人の弟子なり。首をば剃たりとも、心をばよも剃じ。」とて、鎌倉殿より頻に申されければ、 安判官資兼に仰せて召捕て、關東へぞ下されける。駿河國の住人岡邊權守泰綱に仰せて、田越河にて、切れてけり。十二の歳より三十に餘まで保ちけるは、偏に長谷の觀音の御利生とぞ聞えし。それよりしてこそ平家の子孫は永く絶にけれ。 慶安三年十一月廿九日  佛子有阿書 -------------------------------------------------------------------------------- 平家物語灌頂 女院出家 建禮門院は、東山の麓、吉田の邊なる所にぞ、立入せ給ひける。中納言法印慶惠と申ける奈良法師の坊なりけり。住荒して年久しう成ければ庭には草深く、軒にはしのぶ茂れり。簾たえ閨露はにて、雨風たまるべうもなし。花は色々匂へども主と憑む人もなく、月は夜な/\さし入れども、詠めて明す主もなし。昔は玉の臺を磨き、錦の帳に纒れて、明し暮し給ひしが、今は有とし有人には、皆別果てて、あさましげなる朽坊に入らせ給ひける御心の中おしはかられて哀なり。魚の陸に上れるが如く、鳥の巣を離たるが如し。さるまゝには、憂りし波の上、船の中の御住ひも、今は戀しうぞ思召す。蒼波路遠し、思を西海千里の雲に寄せ、白屋苔深くして、涙東山一庭の月に落つ。悲しとも云ばかりなし。 かくて女院は文治元年五月一日、御ぐし下させ給けり。御戒の師には、長樂寺の阿證房の上人印誓とぞ聞えし。御布施には、先帝の御直衣なり。今はの時まで召されたりければ、其移り香もいまだうせず。御形見に御覽ぜんとて、西國より遙々と都迄持せ給ひたりければ、如何ならん世までも、御身をはなたじとこそ思召されけれども、御布施になりぬべき物のなき 上、且は彼御菩提の爲とて、泣々取出され給ひけり。上人是を給て、何と奏する旨もなくして、墨染の袖を絞りつつ泣々罷出でられけり。此御衣をば幡に縫て、長樂寺の佛前に懸られけるとぞ聞えし。 女院は十五にて女御の宣旨を下され、十六にて后妃の位にそなはり、君王の側に候はせ給ひて、朝には朝政を勸め、夜は夜を專にし給へり。二十二にて皇子御誕生有て、皇太子に立ち、位につかせ給しかば、院號蒙らせ給ひて、建禮門院とぞ申ける。入道相國の御娘なる上、天子の國母にてましましければ世の重し奉る事斜ならず。今年は二十九にぞならせ給ふ。桃李の御粧猶濃かに、芙蓉の御容未だ衰させ給はねども、翡翠の御かざしつけても何にかはせさせ給ふべきなれば、遂に御樣をかへさせ給ひ、浮世を厭ひ、實の道に入せ給へども、御歎きは更に盡せず。人人今はかくとて海に沈し有樣、先帝、二位殿の御面影、如何ならん世までも忘がたく思食すに露の御命何しに今までながらへて、かゝる憂目を見るらんと思食めし續けて御涙せきあへさせ給はず。五月の短夜なれども明しかねさせ給ひつゝ、自打睡ませ給はねば、昔の事は夢にだにも御覽ぜず。壁に背ける殘の燈の影幽に、夜もすがら 窓打暗き雨の音ぞさびしかりける。上陽人が上陽宮に閉られけん悲みも、是には過じとぞ見えし。昔を忍ぶ妻となれとてや、本の主の移し栽たりけん花橘の軒近く風なつかしう香りけるに、山郭公二聲三聲音信ければ、女院ふるき事なれ共、思召出でて、御硯の蓋にかうぞ遊ばされける。 郭公花橘の香をとめて、啼くは昔の人や戀しき。 女房達は、さのみたけく、二位殿、越前の三位の上の樣に、水の底にも沈み給ねば、武士の荒けなきにとらはれて、舊里に歸り、若きも老たるも樣をかへ、形をやつし、在にもあられぬ有樣にてぞ、思ひもかけぬ谷の底、岩の挾間に明し暮し給ひける。住し宿は皆烟と上りにしかば、空しき跡のみ殘りて、茂き野邊と成つゝ、見馴し人の問くるもなし。仙家より歸て、七世の孫に逢けんも、かくやと覺えて哀也。 さる程に七月九日の大地震に、築地も壞れ、荒たる御所も傾き破れて、いとゞ住せ給べき御便もなし、緑衣の監使宮門を守だにもなし。心の儘に荒たる籬は、茂き野邊よりも露けく、折知がほに、何しか蟲の聲々恨るも哀也。夜も漸々長く成れば、いとゞ御寢覺がちにて、明しかねさせ給ひけり。盡せぬ御物思ひに、秋の哀さへうち添て、しのびがたくぞ思食されける。何事も變り果ぬるうきよなれば、自なさけを懸奉るべき草のゆかりも枯果てて、誰はぐくみ奉るべしとも見え給はず。 -------------------------------------------------------------------------------- 大原入 されども冷泉大納言隆房卿の北方、七條修理大夫信隆卿の北方しのびつゝやう/\に訪ひ申させ給ひけり。「あの人共のはぐくみで有るべしとこそ昔は思はざりしか。」とて女院御涙を流させ給へば、附參せたる女房達も、皆袖をぞ絞られける。 此御すまひも猶都近く、玉鉾の道行人の人目も繁くて、露の御命の風を待ん程は、憂事きかぬ深き山の奧へも入なばやとはおぼしけれども、さるべき便もましまさず。或女房の參て申けるは、「大原山の奧寂光院と申處こそ、靜かに候へ。」と申ければ。「山里は、物のさびしき事こそあるなれども、世の憂よりは住よかんなるものを。」とて、思食し立せ給ひけり。御輿などは隆房卿の北方の御沙汰有けるとかや。文治元年長月の末に、かの寂光院へ入らせ給ふ。道すがら四方の梢の色々なるを、御覽じ過させ給ふ程に、山陰なればにや、日も既に暮かゝりぬ。野寺の鐘の入相の音すごく、分る草葉の露滋み、いとど御袖濕勝、嵐烈く木の葉亂りがはし。空かき曇り、いつしか打時雨つゝ、鹿の音幽に音信て、蟲の恨も絶々なり。とにかくに取集たる御心細さ、譬へ遣べき方もなし。浦傳ひ島傳ひせし時も、さすがかくは無かりしものをと思召こそ悲けれ。岩に苔むして、寂たる處なりければ、住まほしうぞ思しめす。露結ぶ庭の萩原霜枯れて、籬の菊のかれ/\に、移ろふ色を御覽じても、御身の上とや覺しけん。 佛の御前へ參せ給ひて、「天子聖靈、成等正覺、頓證菩提。」と祈り申させ給ふにつけても先帝の御面影、ひしと御身に傍ひて、如何ならん世にか思召忘れさせ給ふべき。さて寂光院の傍に、方丈なる御庵室を結んで、一間をば御寢所に定め、一間をば佛所に定め、晝夜朝夕の御勤、長時不斷の御念佛、怠る事なくて月日を送らせ給ひけり。 かくて神無月中の五日の暮方に、庭に散敷くならの葉を蹈鳴して聞えければ、女院、「世を厭 ふ處に、何者の問ひ來るやらん。あれ見よや。しのぶべき者ならば急ぎ忍ばん。」とてみせらるるに小鹿の通るにてぞ有ける。女院「如何に。」と御尋あれば大納言佐殿涙を押て、 岩根ふみたれかはとはんならの葉の、そよぐは鹿の渡るなりけり。 女院哀に思食し、窓の小障子に此歌を遊ばし留させ給ひけり。 かゝる御つれ%\の中に、思しめしなぞらふる事どもは、つらき中にも餘たあり。軒に竝べる樹をば、七重寶樹とかたどれり。岩間に積る水をば、八功徳水と思食す。無常は春の花、風に隨てちりやすく、有涯は秋の月、雲に伴て隱易し。昭陽殿に花を翫びし朝には、風來て匂を散し、長秋宮に月を詠ぜし夕には、雲掩て光を藏す。昔は玉樓金殿に錦の褥をしき、妙なりし御すまひなりしかども、今は柴引結ぶ草の庵、餘所の袂もしをれけり。 -------------------------------------------------------------------------------- 大原御幸 かゝりし程に、文治二年の春の比、法皇建禮門院大原の閑居の御住ひ御覽ぜまほしう思食されけれども、きさらぎ彌生の程は、嵐烈く餘寒も未だ盡せず。嶺の白雪消やらで、谷のつららも打解ず。春過ぎ夏來て、北祭も過しかば、法皇夜を籠めて、大原の奧へぞ御幸なる。忍びの御幸なりけれども、供奉の人々は、徳大寺、花山院、土御門以下、公卿六人、殿上人八人、北面少々候ひけり。鞍馬どほりの御幸なれば、彼清原深養父が補陀洛寺、小野の皇太后宮の舊跡を叡覽有て、其より御輿に召されけり。遠山に懸る白雲は、散にし花の形見なり。 青葉に見ゆる梢には、春の名殘ぞをしまるゝ。比は卯月廿日餘の事なれば、夏草の茂みが末を分入せ給に、始めたる御幸なれば、御覽じ馴たる方もなく、人跡絶たる程も思召しられて哀なり。 西の山の麓に、一宇の御堂有り、即寂光院是なり。古う作りなせる山水木立、由ある樣の所なり。「甍破れては霧不斷の香を燒き、とぼそ落ては月常住の燈を挑ぐ。」とも、か樣の處をや申すべき。庭の夏草茂り合ひ、青柳糸を亂りつゝ、池の浮草浪に漂ひ、錦をさらすかとあやまたる。中島の松に懸れる藤波の、うら紫に咲る色、青葉交りの晩櫻、初花よりも珍しく、岸の山吹咲き亂れ、八重立雲の絶間より、山郭公の一聲も、君の御幸を待がほなり。法皇是を叡覽有て、かうぞ思召しつゞけける。 池水にみぎはの櫻散りしきて、浪の花こそ盛なりけれ。 ふりにける岩の斷間より、落くる水の音さへ、ゆゑび由ある處なり。緑蘿の垣、翠黛の山、繪にかくとも筆も及びがたし。女院の御庵室を御覽ずれば、軒には蔦槿はひかゝり、しのぶ交りの萱草、瓢箪屡空し、草顏淵之巷にしげし、藜 でう深鎖せり、雨原憲之樞をうるほすとも謂つべし。杉の葺目もまばらにて、時雨も霜も置く露も、漏る月影に爭ひて、たまるべしとも見えざりけり。後は山、前は野邊、いさゝをざゝに風噪ぎ、世にたえぬ身の習ひとて、うきふし繁き竹柱、都の方の言傳は、間遠に結るませ垣や、僅に事問ふ物とては、嶺に木傳ふ猿の聲、賤士がつま木の斧の音、是等が音信ならでは、正木の葛青葛、來人稀なる所な り。 法皇「人や在る。」と召されけれども、御いらへ申者もなし。遙に有て、老衰へたる尼一人參りたり。「女院はいづくへ御幸成ぬるぞ。」と仰ければ、「此上の山へ花摘に入せ給ひて候。」と申。「左樣の事に仕へ奉るべき人も無きにや。さこそ世を捨る御身といひながら、御痛しうこそ。」と仰ければ、此尼申けるは、「五戒十善の御果報盡させ給ふに依て、今かゝる御目を御覽ずるにこそ候へ。捨身の行に、なじかは御身を惜ませ給ふべき。因果經には『欲知過去因、見其現在果、欲知未來果、見其現在因。』と説かれたり。過去未來の因果を、悟らせ給ひなば、つや/\御歎あるべからず。悉達太子は十九にて、伽耶城を出で、檀特山の麓にて、木葉を連ねては肌をかくし、嶺に上て薪を採り、谷に下て水を結ぶ。難行苦行の功に依て、遂に成等正覺し給ひき。」とぞ申ける。此尼の有樣を御覽ずれば、絹布のわきも見えぬ物を結び集めてぞ著たりける。「あの有樣にても、か樣の事申す不思議さよ。」と思食して「抑汝は如何なる者ぞ。」と仰ければ、さめ/\と泣いて、暫しは御返事にも及ばず。稍有て、涙を押て、申けるは、「申に付けても憚おぼえ候へ共、故少納言入道信西が娘、阿波の内侍と申し者にて候ふなり。母は紀伊の二位、さしも御いとほしみ深うこそ候ひしに、御覽じ忘させ給ふにつけて身の衰へぬる程も思ひしられて今更せんかたなうこそおぼえ候へ。」とて袖を顏に押當て、忍びあへぬ樣、目もあてられず。法皇も「されば汝は阿波内侍にこそあんなれ。今更御覽じ忘れける、唯夢とのみこそ思食せ。」とて御涙せきあへさせ給はず。供奉の公卿殿上人も、「不思 議の尼哉と思ひたれば、理にて有けるぞ。」とぞ各申あはれける。 あなたこなたを叡覽あれば、庭の千草露おもく、籬に倒れかゝりつゝ、そともの小田も水越えて、鴫立隙も見え分かず。御庵室に入せ給ひて、障子を引明て御覽ずれば、一間には來迎の三尊おはします。中尊の御手には、五色の絲をかけられたり。左には普賢の畫像、右には善導和尚、竝に先帝の御影を掛け、八軸の妙文、九帖の御書も置かれたり。蘭麝の匂に引かへて、香の煙ぞ立上る。彼淨名居士の方丈の室の中には、三萬二千の床を竝べ、十方の諸佛を請じ奉り給ひけんもかくやとぞおぼえける。障子には諸經の要文ども、色紙にかいて所々におされたり。其中に大江定基法師が、清凉山にして詠じたりけん、「笙歌遙に聞ゆ、孤雲の上、聖衆來迎す、落日の前。」とも書れたり。少し引のけて、女院の御製とおぼしくて、 思ひきや深山の奧にすまひして、雲井の月をよそに見んとは。 さて側を御覽ずれば御寢所とおぼしくて、竹の御竿に、麻の御衣、紙の御衾など懸られたり。さしも本朝漢土の妙なる類ひ數を盡して綾羅錦繍のよそほひも、さながら夢に成にけり。法皇御涙をを流させ給へば、供奉の公卿殿上人も各見參らせし事なれば、今の樣に覺えて、皆袖をぞしぼられける。 さる程に上の山より、濃墨染の衣著たる尼二人、岩のかけぢを傳ひつゝ、おり煩ひ給ひけり。法皇是を御覽じて「あれは何ものぞ。」と御尋あれば、老尼涙を押へて、申けるは「花がたみ肱にかけ、岩躑躅取具して持せ給ひたるは、女院にて渡らせ給ひ候也。爪木に蕨折具して候 ふは、鳥飼中納言維實の娘、五條大納言國綱の養子、先帝の御乳人、大納言佐。」と申もあへず泣けり。法皇も世に哀氣に思食して御涙せきあへさせ給はず。女院は「さこそ世を捨つる御身といひながら今かゝる御有樣を見え參せんずらん慚しさよ、消も失ばや。」と思しめせどもかひぞなき。宵々毎の閼伽の水、むすぶ袂もしをるるに、曉起の袖の上、山路の露も滋して、絞りやかねさせ給ひけん、山へも歸らせ給はず、御庵室へも入せ給はず、御涙に咽ばせ給ひ、あきれて立せまし/\たるところに、内侍の尼參りつゝ、花がたみをば給はりけり。 -------------------------------------------------------------------------------- 六道の沙汰 「世を厭ふ習ひ、何かは苦しう候ふべき。疾疾御對面候うて還御なし參らさせ給へ。」と申ければ、女院御庵室に入らせ給ふ。「一念の窓の前には、攝取の光明を期し、十念の柴のとぼそには、聖衆の來迎をこそ待つるに、思の外に御幸なりける不思議さよ。」とて、御見參有けり。法皇此御有樣を見參らせ給て「悲想之八萬劫、猶必滅の愁に逢ひ、欲界の六天、未だ五衰の悲をまぬかれず。善見城の勝妙の樂、中間禪の高臺の閣、又夢の裏の果報幻の間の樂、既に流轉無窮也。車輪の廻るが如し。天人の五衰の悲みは人間にも候ひける物かな。」とぞ仰ける。「さるにても、誰か事問ひ參せ候。何事に附ても、さこそ古思しめし出候らめ。」と仰ければ「何方よりも音信る事も候はず。隆房、信隆の北の方より、絶々申送る事こそさぶらへ。その昔、あの人どものはぐくみにて有るべしとは、露も思ひ寄候はず。」とて、御涙を流させ給 へば、附參せたる女房たちも、袖をぞぬらされける。女院御涙を押て申させ給ひけるは、「かかる身になる事は、一旦の歎き申すに及び候はねども、後生菩提の爲には、悦とおぼえさぶらふ也。忽に釋迦の遺弟に列なり、忝なく彌陀の本願に乘じて、五障三從の苦みを遁れ、三時に六根をきよめ、一筋に九品の淨刹を願ふ。專一門の菩提を祈り、常は三尊の來迎を期す。何の世にも忘がたきは先帝の御面影、忘れんとすれどもわすられず、しのばんとすれどもしのばれず。唯恩愛の道程、悲かりける事はなし。されば彼菩提の爲に、朝夕の勤め怠る事候はず。是も然べき善知識とこそ覺え候へ。」と申させ給ひければ、法皇仰せなりけるは、「此國は粟散邊土なりといへども、忝くも十善の餘薫に答へて萬乘の主となり、隨分一として心にかなはずといふ事なし。就中佛法流布の世に生て佛道修行の志あれば、後生善處疑あるべからず。人間のあだなる習は今更驚くべきにはあらねど、御有樣見奉るに、餘に爲方なうこそ候へ。」と仰ければ、女院重て申させ給ひけるは、「我平相國の娘として、天子の國母となりしかば、一天四海皆掌のまゝなりき。拜禮の春の始より、色々の衣がへ、佛名の年の暮、攝禄以下の大臣公卿にもてなされし有樣、六欲四禪の雲の上にて、八萬の諸天に圍繞せられ候ふらむ樣に、百官悉く仰ぬ者や候ひし。清凉紫宸の床の上、玉の簾の中にて持成され、春は南殿の櫻に心をとめて日を暮し、九夏三伏のあつき日は、泉をむすびて心を慰み、秋は雲の上の月を獨見ん事許されず、玄冬素雪の寒き夜は、つまを重ねて暖にす。長生不老の術を願ひ、蓬莱不死の藥を尋ねても、唯久しからん事をのみ思へり。明ても、暮れても、樂しみ榮 えし事、天上の果報も、是には過じとこそ覺え候ひしか。それに壽永の秋の初、木曾義仲とかやに恐れて、一門の人々住馴し都をば雲井の餘所に顧みて、故郷を燒野の原と打詠め、古は名のみ聞し須磨より明石の浦傳ひ、さすが哀れに覺えて、晝は漫々たる浪路を分て袖をぬらし、夜は洲崎の千鳥と共に泣明し、浦々島々由ある所を見しかども、故郷の事はわすられず。かくて寄る方無りしは、五衰必滅の悲とこそおぼえ候しか。人間の事は、愛別離苦、怨憎會苦、共に、吾身に知られて候ふ。四苦八苦一として殘る所候はず。さても筑前國太宰府と云處にて、維義とかやに九國の内をも追出され、山野廣といへども立寄休むべき處なし。同じ秋の末にもなりしかば、昔は九重の雲の上にて見し月を、今は八重の鹽路に詠めつゝ、明し暮し候ひし程に、神無月の比ほひ、清經の中將が、都のうちをば源氏が爲に責落され、鎭西をば維義が爲に追出さる。網にかゝれる魚の如く、何くへ行かば遁るべきかは。存へ果べき身にもあらずとて、海に沈み候ひしぞ心憂き事の始めにて候ひし。波の上にて日を暮し、船の中にて夜を明し、御つぎ物もなかりしかば、供御を具ふる人もなし。適供御は備へんとすれども水なければ參らず。大海に浮ぶといへども、潮なれば呑事もなし。是又餓鬼道の苦とこそおぼえ候ひしか。かくて室山水島所々の戰ひに勝しかば、人々、少色なほて見え候ひし程に一谷といふ處にて一門多く滅びし後は直衣束帶を引替て、鐵をのべて身に纒ひ、明ても暮ても、軍よばひの聲斷ざりし事修羅の鬪諍、帝釋の爭ひも、かくやとこそおぼえ候ひしか。一谷を攻落されて後、親は子におくれ、妻は夫に別れ、沖に釣する船をば、敵の船かと 肝を消し、遠き松に、群居鷺をば、源氏の旗かと心を盡す。さても門司赤間の關にて軍は今日を限と見えしかば、二位の尼申おく事候ひき。『男の生殘らん事は、千萬が一も有難し。縱又遠きゆかりは自生殘たりといふとも吾等が後世を弔はん事も有りがたし。昔より女は殺さぬ習ひなれば如何にもしてながらへて主上の後世をも弔ひまゐらせ、吾等が後世をも助け給へ。』と掻口説き申候ひしが、夢の心地しておぼえ候ひし程に風俄に吹き、浮雲厚くたなびいて、兵心を惑し、天運盡て、人の力に及びがたし。既に今はかうと見えしかば、二位の尼先帝を抱き奉て船端へ出し時、あきれたる御樣にて『尼ぜ我をばいづちへ具して行んとするぞ。』と仰さぶらひしに、幼き君に向ひ奉り涙を押へて申さぶらひしは、『君は未だ知し召され候はずや。先世の十善戒行の御力に依て、今萬乘の主とは生れさせ給へども、惡縁に引かれて御運既に盡給ひぬ。先づ東に向はせ給て、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、其後西方淨土の來迎に預らんと思食し、西に向はせ給ひて御念佛候ふべし。此國は粟散邊土とて心憂き堺にてさぶらへば、極樂淨土とて、めでたき所へ具し參せ候ふぞ。』と、泣々申候ひしかば、山鳩色の御衣に鬟結せ給ひて、御涙に溺れ、小う美くしい御手を合せ、先づ東を伏拜み、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、其後西に向はせ給ひて御念佛ありしかば、二位尼やがて抱き奉て海に沈みし御面影目もくれ、心も消果てて、忘んとすれ共忘られず、忍ばんとすれ共忍ばれず。殘留まる人々のをめき叫びし聲、叫喚大叫喚のほのほの底の罪人も、是れには過じとこそ覺候ひしか。さて武士共にとらはれて上り候ひし時に、播磨國明石の浦について、ちと打目睡 て候ひし夢に、昔の内裏には遙に勝りたる所に、先帝を始奉て一門の公卿殿上人、皆ゆゆしげなる禮儀にて候ひしを、都を出て後、かゝる所は未だ見ざりつるに『是はいづくぞ。』と問ひ候ひしかば、二位の尼と覺えて『龍宮城』と答へ候ひし時『目出度かりける所かな。是には苦は無きか。』と問候ひしかば、『龍畜經の中に見えて候ふ、能々後世を弔ひ給へ。』と申すと覺えて夢覺ぬ。其後はいよ/\經を讀念佛して、かの御菩提を弔奉る。是皆六道にたがはじとこそ覺え候へ。」と申させ給へば、法皇仰なりけるは、「異國の玄弉三藏は、悟りの前に六道を見、吾朝の日藏上人は、藏王權現の御力にて、六道を見たりとこそ承はれ。是程まのあたりに御覽ぜられける御事誠に有難うこそ候へ。」とて御涙に咽ばせ給へば、供奉の公卿殿上人も皆袖をぞ絞られける。女院も御涙を流させ給へば、つき參せたる女房達も又袖をぞぬらされける。 -------------------------------------------------------------------------------- 女院御往生 さる程に寂光院の鐘の聲、今日も暮ぬと打しられ、夕陽西に傾けば、御名殘惜うはおぼしけれども、御涙を押て還御ならせ給ひけり。女院は今更古を思食し出させ給ひて、忍あへぬ御涙に、袖の柵塞あへさせ給はず。遙に御覽じ送らせ給ひて、還御もやう/\延させ給ひければ、御本尊に向ひ奉り、「先帝聖靈、一門亡魂、成等正覺、頓證菩提。」と泣々祈らせ給ひけり。昔は東に向はせ給ひて「伊勢大神宮、正八幡大菩薩、天子寶算、千秋萬歳。」と申させ給ひしに、今は引かへて、西に向ひ手を合せ「過去聖靈、一佛淨土へ。」と祈らせ給ふこ そ悲しけれ。御寢所の障子にかうぞ遊されける。 このごろはいつ習ひてかわが心、大宮人の戀しかるらん。 いにしへも夢になりにし事なれば、柴の編戸もひさしからじな。 御幸の御供に候はれける徳大寺左大臣實定公、御庵室の柱に書附られけるとかや。 いにしへは月にたとへし君なれど、其の光なき深山邊の里。 こし方行末の事共覺しめし續けて、御涙に咽ばせ給ふ折しも、山郭公音信ければ、女院 いざさらば涙くらべん郭公、我も憂世にねをのみぞ泣く。 抑壇の浦にて生ながら捕られし人々は大路を渡して頭をはねられ、妻子に離れて遠流せらる。池大納言の外は一人も命を生けられず、都に置かれず。されども四十餘人の女房達の御事は、沙汰にも [1]及ばさりしかば、親類に從ひ縁に就いてぞおはしける。上は玉の簾の中までも、風靜なる家もなく、下は柴の とぼそのもとまでも塵收れる宿もなし。枕を雙べし妹背も、雲井の餘所にぞ成果る。養ひ立し親子も、行方知らず別れけり。忍ぶ思ひは盡せねども、嘆ながらもさてこそ過されけれ。是は只入道相國、一天四海を掌に握て上は一人をも恐れず、下は萬民をも顧みず、死罪流刑、思ふ樣に行ひ、世をも人をも憚かられざりしが致す所なり。父祖の罪業は子孫に報ふと云ふ事疑なしとぞ見えたりける。 かくて年月を過させ給ふ程に、女院御心地例ならず渡らせ給ひしかば、中尊の御手の五色の絲を引へつゝ、「南無西方極樂世界教主彌陀如來必ず引攝し給へ。」とて御念佛有しかば、大納 言佐局阿波内侍左右に候て、今を限りの悲しさに聲を惜まず泣き叫ぶ。御念佛の聲やうやうよわらせましましければ西に紫雲靉靆き、異香室にみち、音樂空に聞ゆ。限ある事なれば、建久二年きさらぎの中旬に一期遂に終らせ給ひぬ。きさいの宮の御位より片時も離れまゐらせずして候はれ給しかば、御臨終の御時、別路に迷ひしも遣方なくぞおぼえける。此女房達は、昔の草のゆかりも枯果て、よる方もなき身なれども、折々の御佛事營み給ふぞ哀なる。終に彼人々は、龍女が正覺の跡をおひ、韋提希夫人の如に、皆往生の素懷を遂けるとぞ聞えし。 [1] Nihon Koten Bungaku Taikei (Tokyo: Iwanami Shoten, 1957, vol. 33; hereafter cited as NKBT) reads をよばざりしかば. 小说下载尽在http://www.bookben.cn - 手机访问 m.bookben.cn---书本网【冷泉泓薇】整理 附:【本作品来自互联网,本人不做任何负责】内容版权归作者所有!